175年【漢:熹平4年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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175年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 | 人物 |
---|---|
天子(皇帝) | 劉宏(霊帝) |
皇太后 | 董太后(孝仁董皇后) |
皇后 | 宋皇后 |
朝廷
官職 | 人物 |
---|---|
司徒 | 袁隗 |
司空 | 許訓 |
太尉 | 陳耽 |
執金吾 | 宋酆 |
諫議大夫 | 劉猛 |
五官中郎将 | 董重 |
使匈奴中郎将 | 張奐 |
破羌将軍 | 段熲 |
地方官
官職 | 人物 |
---|---|
楊州刺史 | 臧旻 |
玄菟太守 | 公孫琙 |
丹陽太守 | 陳夤 |
鬱林太守 | 谷永 |
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175年の主な出来事
月 | 出来事 |
---|---|
3月 |
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4月 |
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5月 |
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6月 |
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10月 |
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175年の三国志群雄勢力図
熹平4年(175年)の三国志群雄勢力図
175年の情勢
175年の時点では、漢の領内にまだ独立勢力はありません。
特記事項
熹平石経
熹平石経残石(中国国家博物館蔵)/ wikipediaより引用
3月、霊帝は儒学者たちに命じて『詩経』『書経』『儀礼』『易経』『春秋』『公羊伝』『論語』の7書の誤りを正し、議郎の蔡邕が古文、篆書、隸書の3書体で書き記しました。
また、蔡邕の書は46枚の石碑に記されて洛陽・太学の門外に立てられました。これを熹平石経と言います。
三互法とは
「三互法」とは、桓帝の時代に定められた不正を防ぐための制度で、地方官(州刺史、郡太守、県令・県長・県丞・県尉)の任命について、次のように定められていました。
- 自分の出身の州・郡・県には任官できない。
- 異なる州・郡・県の家が婚姻を結んだら、お互いの州・郡・県には任官できない。
- 異なる州・郡・県の出身の二者が、同時期にお互いの州・郡・県には任官できない。
古来から地縁・血縁に基づくコネクションが強い中国では、近親間で互いに犯罪を隠匿することが多い事から、不正を防ぐためには非常に有効な制度だと言えます。
ですがこの頃、この「三互法」の弊害によって幽州と冀州では相応しい人材を見つけることができなくなり、両州の刺史が空席になっていました。
この状態を憂慮した蔡邕は、「三互法を緩和し、有能な人材を任用するべき」と進言しますが、朝廷はこの意見を受け入れませんでした。
漢代には「本籍回避」と「親族回避」の2つの「回避制」があり、「三互法」は「本籍回避」をより細分化した制度になります。
また、親属関係にある者が同一の官庁に任官できないとする「親族回避」のほうは、外戚や宦官の隆盛によって有名無実化していました。
劉佗を任城王に封じる
昨年亡くなった任城王・劉博には子がなかったため、河間王・劉建の孫・劉佗が任城王に封じられました。河間王・劉建は桓帝の弟に当たる人物です。
平準令を中準令に
平準令は、宮中の諸事を司る少府府に属し、物価や織物の染色を司る官職です。
10月、平準令を中準令とし、これより先、宮中に関わる官職は宦官が令(長官)と丞(副官)を務めることになりました。
175年【漢:熹平4年】は、珍しく中央の人事異動がありませんでした。
この年に作られ始めた熹平石経は経典の基準とされ、183年に完成すると、これを見るために毎日多くの人が太学周辺の道を埋め尽くしたと言われています。