169年【漢:建寧2年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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169年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 | 人物 |
---|---|
天子(皇帝) | 劉宏(霊帝) |
皇太后 | 竇太后(桓思竇皇后) |
皇后 | – |
朝廷
官職 | 人物 |
---|---|
太傅 | 胡広 |
司徒 | 劉寵 → 許訓 |
司空 | 許栩 → 劉囂 |
太尉 | 聞人襲 → 劉寵 → 郭禧 |
太常 | 許訓(〜6月) |
太僕 | 劉囂(〜6月) |
執金吾 | 董寵(3月〜) |
五官中郎将 | 董重(3月〜) |
使匈奴中郎将 | 張奐 |
度遼将軍 | 皇甫規 |
破羌将軍 | 段熲 |
地方官
官職 | 人物 |
---|---|
玄菟太守 | 公孫琙 |
丹陽太守 | 陳夤 |
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169年の主な出来事
月 | 出来事 |
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1月 |
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3月 |
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4月 |
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5月 |
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6月 |
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7月 |
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9月 |
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10月 |
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11月 |
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169年の三国志群雄勢力図
建寧2年(169年)の三国志群雄勢力図
169年の情勢
169年の時点では、漢の領内にまだ独立勢力はありません。
特記事項
張奐らが党人を擁護する
4月、天子の御坐に青蛇があらわれ、大風が吹き雹が降るなど怪異なことが起こったため、霊帝は詔を出して公卿たちに意見を求めました。
これに対し、張奐、劉猛、謝弼、楊賜らが上書します。
張奐と劉猛(りゅうもう)
大司農の張奐は、忠貞の臣であった竇武・陳蕃が誅殺され、その罪が許されていないことを原因に挙げ、
- 竇武・陳蕃の葬儀を行うこと
- 流刑された一族を呼び戻すこと
- 関係者の禁錮を解くこと
- 南宮に幽閉された竇太后の恩に報いること
を提案します。
霊帝は賛同しましたが、中常侍たちの反対によって実現できませんでした。
また、張奐と尚書・劉猛らが「王暢と李膺には三公の能力がある」と上書すると、大長秋・曹節は「張奐らは党人をかばった」と2人を弾劾しました。
2人は自ら出頭しましたが、数日で釈放され、3ヶ月分の俸禄を支払うことで許されました。
謝弼(しゃひつ)
郎中の謝弼は、青蛇があらわれたことについて、毒蛇は女性の象徴であり、竇太后の恩に報いるべきであると上書します。
また、太尉・聞人襲、太傅・胡広、司徒・劉寵、司空・許栩の四公の中で、善政を行っているのは司徒の劉寵だけであるとして、元司空・王暢、長楽少府・李膺らを重職に就けるように進言しました。
これを聞いた宦官たちは、謝弼を広陵府丞に左遷して朝廷から追いだすと、謝弼は官職を辞して故郷の東郡に帰ります。
ですが、東郡太守の曹紹は曹節の親族だったため、謝弼に罪を着せて獄中で殺してしまいました。
楊賜(ようし)
霊帝はまた、光禄勲の楊賜にも青蛇について意見を求めます。
楊賜は、
「吉兆や災害は、理由もなく訪れることはありません。毒蛇は女性の象徴とされることから、皇后一族の権力を抑え、美しい女性への寵愛を断つべきです」
と進言しました。
楊賜の進言は宦官たちに都合の良い内容だったので、罰せられませんでした。
第二次党錮の禁
10月、中常侍の侯覧が官吏を誘って、次のように上奏させます。
「鉤党の者、前司空・虞放、太僕・杜密、長楽少府・李膺、司隷校尉・朱㝢、潁川太守・巴粛、沛国相・荀昱、河内太守・魏朗、山陽太守・翟超らを捕らえよ」
ですが、14歳の霊帝には意味が分かりません。
霊帝は曹節に問います。
「鉤党とは何か?」
「鉤党とは党人のことです」と曹節が答えると、霊帝はさらに問います。
「党人はどんな悪事を働いたのか?」
曹節が「党人は徒党を組んで朝廷を倒そうとしています」と答えると、霊帝は党人の逮捕を認めてしまいました。
これによって、党人100人あまりが命を奪われ、その妻子は辺境に流刑となりました。
また、名声がある者や優秀な儒学者、宦官と対立した者もすべて党人とみなされて逮捕されました。これを「第二次党錮の禁」と言います。
「第二次党錮の禁」によって清流派の党人たちの多くは殺され、死を免れた者も故郷で終身禁固に処せられました。
以降、宦官の権力がますます増大し、政治の腐敗が進むことになります。
霊帝の死後、地方豪族が優秀な人材を集めることができたのも、この「第二次党錮の禁」のお陰と言えるかもしれません。