正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(103)(顔回・顔闔)です。
スポンサーリンク
凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
スポンサーリンク
か(103)
顔(がん)
顔回・子淵(顔淵 , 顔子)
魯の昭公21年(紀元前521年)〜魯の哀公2年(紀元前493年)没。魯の人。孔子の弟子の1人。
孔子に「仁」について問う
孔子より30歳年少であった。
顔淵が「仁」について問うたところ、孔子は、
「己の欲に克ち自ら礼に立ち返ってこそ、天下の人々は『仁』に向かうだろう*1」
と答えた。
脚注
*1原文:克己復禮,天下歸仁焉。
孔子の顔回評
- 賢きかな、回(顔回)は!簞(竹で編んだ丸い弁当箱)1盛の飯、瓢(瓢簞)1杯の水で満足し、陋巷(貧しくむさ苦しい裏町)に安住している。普通の人なら憂悶に堪えないのに、回(顔回)はそれらを楽しんで改めようとしない。*2
- 回(顔回)は(1日中話していても私の意見に反論しない。これは一見、自分の意見のない)愚か者のように見えるかも知れないが、退出した後の回(顔回)の行動を観察すると、私の言葉の意味するところをよく理解していることが分かる。回(顔回)は決して愚か者ではない。*3
- 用いられれば全力を尽くし、用いられなければ隠者となる。このようなことができるのは、我と爾だけだっ!*4
脚注
*2原文:賢哉回也!一簞食,一瓢飲,在陋巷,人不堪其憂,回也不改其樂。
*3原文:回也如愚;退而省其私,亦足以發,回也不愚。
*4原文:用之則行,捨之則藏,唯我與爾有是夫!
顔回の死
顔回が29歳でみな白髪となって亡くなると、孔子は慟哭して「回(顔回)が入門してから、弟子たちの仲が良くなった…」と言った。
ある時 魯の哀公が孔子に「弟子の中では誰が学問を好むと言えるか?」と問うと孔子は、
「顔回という者がおりまして、学問を好み、他人に八つ当たりをせず、過ちを2度と繰り返さない男でしたが、不幸にも短命で死にました。今ではもう、他に学問を好むと言うほどの弟子はおりません」
と答えた。
「顔回」の関連記事
顔闔
生没年不詳。春秋時代・魯国の賢者。
顏闔鑿培*5・『呂氏春秋注』貴生
聖人たちは天下に深く考えを巡らせ、「生(生命)より貴いものはない」と考えていた。
魯君(魯の国君)は顔闔が「得道の人」であることを聞くと、(彼を相にしたいと思い、)人を遣ってまず幣(贈り物)を届けさせた。
この時 顔闔は、閭(門・家)を守り鹿布(粗い布)の服を着て自ら牛に餌をやっていたが、魯君の使者が来ると、顔闔は(召使いを雇っていないので)自ら応対した。
そして魯君の使者が「ここは顔闔の家であるか?」と尋ねると、顔闔は「ここは闔(顔闔)の家です」と答えた。
そこで魯君の使者が幣(贈り物)を渡そうとすると、顔闔は「聴き違いによって御使者が罪に問われることを恐れます。(本当に顔闔に賜ったものであるかを)お調べになられたほうがよろしいでしょう」と言った。
魯君の使者は還って調べ、再度やって来て面会を求めたが、(顔闔はすでに家の裏の垣根に穴を開けて逃亡していたので)会うことはできなかった。
顔闔のような人物は、単に富貴を悪んでいるのではなく、生(生命)を重んじるからこそ富貴を悪むのである。世の君主は,富貴であるために「得道の人」に対しても驕り高ぶっている。互いを知らないことは、なんと悲しいことではないか!
脚注
*5顔闔鑿培。「培」は家の裏の垣根、「鑿」は穴を開けること。役人になることを望まず、隠遁生活を厭わない人物の比喩として使われる故事成語。
上記本文は『淮南子』斉俗訓の内容で補完しています。
蘧伯玉の戒め・『荘子』人間世篇
衛の霊公は顔闔を招いて太子の傅(教育係)にしようとした。
そこで顔闔はそのことを蘧伯玉に相談して言った。
「ここに生来残酷な人がいます。その人と共に無法なことをすれば吾国は危うくなり、共に正しく治めようとすれば吾身が危うくなります。またその人は、他人の過ちは分かりますが、自分の過ちやその原因は分からないのです。(このような人物を教育しなければならない)吾はどうすべきでしょうか?」
すると蘧伯玉は言った。
「良い質問ですっ!戒め慎み汝の身を正すことが大切です。
そのような場合、表面上は相手に従い、心も相手に合わせるべきですが、これには2つの注意すべき点があります。
表面上だけ相手に従い、調子を合わせていても、相手に認められてはいけません。まず、表面上だけ従っていてもやがてそれに染まってしまい、その身を破滅させることになります。また、心を相手に合わせてそれが認められると名声が上がり、妖しげな孽いを招くことになります。
彼が嬰児(赤子)のようであれば共に嬰児(赤子)のように振る舞い、彼に自制心がなければ共に自制心なく振る舞い、彼に際限がなければ共に際限なく振る舞い、相手に合わせて従いながら、欠点のない境地に導くのです。
汝は彼の「螳蜋(カマキリ)の話*6」をご存知ないのですか?
臂(鎌)を振り上げて車に立ち向かおうとする螳蜋(カマキリ)は、自分の力が及ばないことを知らず、自分の才能と力を過信しているのです。
このことを戒め慎むのですっ!才能を誇り相手に逆らうことは、自らの身を危険にさらすことになります。
汝は彼の「虎飼いの話」をご存知ないのですか?
虎には生きた動物を餌として与えてはいけません。なぜなら虎が生きた動物の餌を殺そうと熱り立つからです。また、虎に死んだ状態のまま与えてはいけません。なぜなら虎が餌を引き千切ろうと熱り立つからです。
虎飼いはこのようして、虎が飢えている時と空腹な時を見定め、虎の熱り立つ心を操っているのです。
虎は人とは異類の存在ですが、虎が飼い主に媚びるのは、虎飼いが虎の性質に順っているからであり、時に虎に食い殺されることがあるのは、虎の性質に逆らっているからなのです。
馬を愛でる者は、筐で糞を受け、蜄(大蛤の殻)で小便を受けてやり、蚊や虻が群がりついていても、不用意にそれらを叩き落としたりはしません。馬が驚いて銜を噛み千切り、暴れて(飼い主の)首や胷を打ち砕くことを知っているからです。
愛でる気持ちから行ったことでも逆効果になることもあります。何よりも慎むことが大切ですっ!」
脚注
*6『淮南子』人間訓・「蟷螂の斧」の故事。
斉の荘公が猟に出た時のこと。1匹の虫が足を挙げて今にも車輪に打ちかかろうとしていた。荘公が御者に「これは何という虫だ?」と問うと、御者は「これは『蟷螂(カマキリ)』と申します。この虫は進むことしか知らず、敵を見くびって却くことを知りません」と答えた。
すると荘公は「この虫が人であったなら、必ず天下の勇武となるに違いないっ!」と言い、車を避けさせた。
これを聞いた勇武の士は、死力を尽くして働くべき場所を知ったのである。
備考
延康元年(220年)10月、魏王・曹丕に禅譲の詔勅が下ると、まず尚書令・桓階らが2度、続いて侍中・劉廙、常侍・衞臻らが上奏して禅譲を受けることを願ったが、曹丕は布令を下してこれを辞退した。
次に提出された輔国将軍・清苑侯・劉若ら120人の上書に対する辞退の布令の中で「顔闔が魯の幣(贈り物)を辞退して跡を暗ませた」ことが例示されている。
「顔闔」の関連記事
スポンサーリンク