正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(86)河東関氏(関羽・関平・関興・関索・関統・関彝)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
河東関氏系図
河東関氏系図
※関平と関興の兄弟の順は不詳。
関索は『三国志演義』に登場する架空の人物。
この記事では河東関氏の人物、
についてまとめています。
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か(86)河東関氏
第1世代(関羽)
関羽・雲長
生没年 | ?〜220年 |
---|---|
出身地 | 司隷・河東郡・解県 |
所属勢力 | 劉備 |
司隷・河東郡・解県から亡命した先の幽州・涿郡で劉備・張飛と出会い、劉備に仕えて挙兵した。
曹操に捕らえられた際は、厚遇されても劉備への忠誠を忘れず、曹操の敵であった袁紹配下の猛将・顔良を討って、恩を返してから曹操のもとを去った。
劉備が蜀の地を得ると荊州を任されるが、傲慢で敵をあなどる性格が災いし、魏を攻めている最中、呉に背後を突かれて敗死した。
第2世代(関平・関興・関索)
関平
生年不詳〜建安24年(219年)没。司隷・河東郡・解県の人。父は関羽。兄弟に関興。『三国志演義』では関羽の養子として登場するが、正史『三国志』の中に「養子」の記述はない。
樊城の戦い
建安24年(219年)、関羽が初めて出陣して荊州・南陽郡・樊城の曹仁を包囲した時のこと。「猪が自分の足を噛んだ夢」をみた関羽は、子の関平に「吾はもう年老いたが、引き還すわけにはいかないっ!」と言った。
当初、関羽は曹操が救援に派遣した于禁を捕らえ、その威信をもって中原を震撼させたが、曹操が徐晃を救援に差し向けると勝利を得ることができず、軍を引いて撤退した。
逃走
ところがすでに荊州・南郡・江陵県は孫権軍の呂蒙に占拠されており、関羽は荊州・南郡・当陽県まで軍を還して、その西の麦城に立て籠もった。
孫権が使者を派遣して降伏を勧めると、関羽は降伏する振りをして城壁の上に旗指物を立て、人形を置いて城中に人がいるように見せかけておき、その隙に逃走したが、兵たちはみな四散して関羽に従う者は10余騎ばかりとなった。
前もって孫権に「関羽の逃走経路を断つ」よう命じられた朱然と潘璋は、荊州・南郡・臨沮国に進んで揚州・廬江郡の夾石に軍を留めた。
12月、関羽とその子・関平、都督の趙累らとその妻子は、章郷において潘璋の司馬・馬忠によってことごとくが捕らえられた。
関羽と関平の最期について
以上は、『蜀書』関羽伝、『呉書』呉主伝、『呉書』潘璋伝の内容をまとめていますが、関羽と関平の最期については、列伝によって差異があります。
『蜀書』関羽伝
孫権はすでに荊州・南郡・江陵県を占領しており、関羽の部下やその妻子たちをことごとく捕虜にしたので、関羽の軍は四散した。孫権は将軍を遣わして関羽を迎え撃ち、関羽と子の関平を荊州・南郡・臨沮国において斬り殺した。
『呉書』呉主伝
閏10月、孫権は関羽征伐の軍を発し、先に呂蒙を遣わして荊州・南郡・公安県を襲わせ、将軍の士仁(傅士仁)を捕虜にしたが、呂蒙が南郡まで進むと、南郡太守の糜芳は城を挙げて降伏した。呂蒙は荊州・南郡・江陵県に本営を置き、その地の老人や幼少者を慰撫して囚われていた于禁を釈放した。
陸遜は別働隊として荊州・宜都郡を攻め落として秭帰県・枝江県・夷道県を獲ると、軍を還して夷陵県に駐屯し、峽口*1を守備して蜀からの侵攻に備えた。
関羽は荊州・南郡・当陽県まで軍を還すと、その西の麦城に立て籠もった。
孫権が使者を派遣して降伏を勧めると、関羽は降伏する振りをして、城壁の上に旗指物を立て人形を置いて城中に人がいるように見せかけておき、その隙に逃走したが、兵たちはみな四散して関羽に従う者は10余騎ばかりとなった。
孫権は前もって朱然と潘璋に命じ、関羽の逃走経路を遮断させておいた。
12月、潘璋の司馬・馬忠が、関羽とその子・関平、都督の趙累らを章郷で捕虜とした。
脚注
*1長江の蜀へ出る険阻な要所である西陵峡の河口。
『呉書』潘璋伝
孫権が関羽征伐の軍を動かすと、潘璋は朱然と共に関羽の退路を断つため荊州・南郡・臨沮国に進んで揚州・廬江郡の夾石に軍を留めた。
潘璋の部下である司馬の馬忠が、関羽と関羽の息子の関平、都督の趙累らを捕らえた。
「関平」の関連記事
関興・安国
生没年不詳。司隷・河東郡・解県の人。父は関羽。兄弟に関平。子に関統、関彝。
父・関羽の後を継いだ。幼い頃から評判が高く、蜀漢の丞相・諸葛亮は彼の才能を高く評価した。
弱冠(20歳)で侍中・中監軍となったが、数年後に亡くなった。
「関興」の関連記事
関索
生没年不詳。司隷・河東郡・解県の人。父は関羽。兄に関平、関興。
『三国志演義』に登場する架空の人物。第87回・第88回・第89回に登場する。
父・関羽が敗死して荊州を失った際、重傷を負って鮑家荘で養生していたが、建興3年(225年)の諸葛亮の南蛮征伐に前部先鋒として合流し、趙雲・魏延・馬岱・王平・馬忠・張嶷・張翼らと共に活躍した。
以下詳細
軍に復帰する
建興3年(225年)、益州・益州郡より急報が入った。
「蛮王(南蛮王)・孟獲が10万の兵をもって領内に侵入し、建寧太守・雍闓が孟獲に呼応して造反。牂牁太守・朱褒と越巂太守・高定は城を明け渡し、雍闓・朱褒・高定が郷導官(案内役)となって益州・永昌郡を攻撃しております。永昌太守・王伉は反乱に加担せず、功曹の呂凱と共に領民を集めて死守しておりますが、危急に迫られております」
これに蜀の丞相・諸葛亮は後主・劉禅に上奏し、自ら反乱を鎮圧するため50万の兵を動員した。
そこへ関羽の第3子・関索が孔明(諸葛亮)に目通りして言った。
「荊州を失って後、難を避けて鮑家荘で養生しておりました。常に先帝(劉備)にお目通りしてご無念を晴らしたいものと思い続けておりましたが、傷が癒えぬためついに叶いませんでした。近頃ようやく傷が癒えましたが、東呉の讐人はすでに誅戮されたと聞き、天子(劉禅)にお目通りしようと西川に向かっておりましたところ、南征の軍勢に出遭いましたので、急いで罷り越しました」
孔明(諸葛亮)はこれを聞いていたく感じ入り、この旨を朝廷に報告して関索を前部先鋒として南征の軍に同行させた。
董荼那と阿会喃を捕らえる
その後、孔明(諸葛亮)は離間の計をもって高定に雍闓と朱褒を討たせ、高定を益州太守として(益州郡・建寧郡・牂牁郡の)3郡を統括させた。
蛮王(南蛮王)・孟獲は、孔明(諸葛亮)が智謀をもって雍闓らを破ったことを聞き知ると、三洞の元帥・金環三結、董荼那(董荼奴)、阿会喃と軍議を開き、金環三結は中央、董荼那(董荼奴)は左、阿会喃は右に分かれ、それぞれ5万の蛮兵を率いて軍を進めた。
これに孔明(諸葛亮)は、王平と馬忠には右の董荼那(董荼奴)に、張嶷と張翼には中央の金環三結に当たらせ、趙雲と魏延は後詰めとした。
これを不満に思った趙雲と魏延は、精兵5千を選んで擒にした蛮人に案内させ、左右から中央の金環三結の本陣に斬り込むと、金環三結と出遭った趙雲はただ一槍で討ち取った。2人は兵を分け、魏延は董荼那(董荼奴)に、趙雲は阿会喃の陣に向かい、魏延は王平、趙雲は馬忠と共に大いに敵を撃ち破ったが、董荼那(董荼奴)と阿会喃は討ち漏らしてしまった。
戻って報告すると、孔明(諸葛亮)は大笑いして「その両名はすでに吾が捕らえた」と言った。
この時、永昌太守・王伉の功曹・呂凱が作成した詳細な南蛮の地図『平蛮指掌図』を献上されていた孔明(諸葛亮)は、董荼那(董荼奴)と阿会喃の逃走経路に張嶷と張翼の兵を伏せ、関索に命じて迎え撃たせてこの2人を擒にしたのである。
孟獲を捕らえる
孔明(諸葛亮)は董荼那(董荼奴)と阿会喃の縛めを解いてそれぞれの洞に帰らせると、「次は必ずや、孟獲自ら兵を率いて攻め寄せて来るに違いない。そうすれば、孟獲を擒にすることができる」と言い、趙雲と魏延、王平と関索に計略を授けた。
三洞の元帥の敗北を知った孟獲は大いに怒り、ついに自ら蛮兵を率いて軍を進めたところ、王平の軍と遭遇した。孟獲の軍から黄驃馬に跨がった截頭大刀の使い手・忙牙長が進み出て斬りかかると、数合も打ち合わないうちに王平は逃げ出した。
孟獲がこれを追って行くと関索が現れたが、関索もまたすぐに逃げ出し、20余里(約8.6km)も退いた。孟獲がなおもこれを追って行くと、突然鬨の声が湧き起こり、左に張嶷、右に張翼の2手の軍勢が孟獲の退路を遮った。そこへ王平と関索も兵を返して殺到し、前後から攻め立てたので、蛮人らは大敗した。
孟獲はやっとのことで錦帯山を目指して逃走したが、逃走経路に伏せていた趙雲の攻撃を受け、魏延に生け捕られて降伏した。
再度孟獲を捕らえる
孔明(諸葛亮)が孟獲に帰順を勧めると、孟獲は「もう1度戦って捕らえられたならば降伏する」と約束した。そこで孔明(諸葛亮)が許して帰らせると、孟獲は孔明(諸葛亮)との戦闘を避け、毒水が流れる瀘水の川岸一帯に土塁を築いて持久戦に備えた。
その後、孔明(諸葛亮)は軍を大きく進めたが、時は炎熱の5月、南方の地は特に暑さが酷く、軍馬も人も鎧兜を着けていられない程であった。孔明(諸葛亮)は自ら瀘水の岸辺に赴いて視察すると、瀘水から百里(約43km)の地に涼しい場所を探し当て、王平・張嶷・張翼・関索に陣を守らせ暑さを避けさせた。
そこへ蜀(成都)から馬岱が解暑薬(熱中症の薬)と兵糧米を届けに来たので、孔明(諸葛亮)は馬岱に「3千の兵を率いて瀘水を渡り、真っ直ぐ蛮洞に入って敵の糧道を断ち、董荼那(董荼奴)と阿会喃を内応させるように」と命じた。
「蜀軍が瀘水を渡った」ことを聞いた孟獲は忙牙長を差し向けたが、馬岱に一太刀に斬り殺された。次に董荼那(董荼奴)が挑んだが、馬岱の罵倒に気圧されて戦わずに兵を引いたので孟獲は大いに怒り、董荼那(董荼奴)を百叩きの刑とした。南蛮の酋長たちは、董荼那(董荼奴)に「孟獲を殺して孔明(諸葛亮)に降伏すること」を勧め、幔幕の中で酔いつぶれていた孟獲を捕らえて孔明(諸葛亮)に知らせた。
3度孟獲を捕らえる
董荼那(董荼奴)らに捕らえられた孟獲は「戦って負けた訳ではない」ことを理由に降伏を拒んだが、孔明(諸葛亮)が「蜀軍は兵糧・武器が充実しており、孟獲に勝つ見込みがない」ことを見せつけると、孟獲は「某1人が降伏しても意味がない。もし許して帰らせてくれるなら洞中の者たちを説得し、心を1つに合わせて降伏しよう」と言うので、孔明(諸葛亮)は再度孟獲を許して帰らせた。
すると孟獲は一計を案じ、弟の孟優に蛮兵百人を連れ、金・真珠・宝貝・象牙・犀の角などを積んで瀘水を渡らせた。「孟獲が弟の孟優を遣わして宝物を献上に来た」との報告を受けた孔明(諸葛亮)は、趙雲と魏延にそれぞれ耳打ちし、さらに王平・馬忠・関索を呼んで人知れず言い含めた。
各々計略を授かって退出した後、孔明(諸葛亮)は孟優と従者百人全員を幕中に呼び入れると、宴席を設けて諸将に酒を勧め、懇ろにもてなした。
しばらくして孟獲のところへやって来た孟優の使者が言うには「諸葛亮は進物を受け取っていたく喜び、従者を残らず幕中に招き入れ、牛や羊を料理し宴席を設けてもてなしております。二大王(孟優)は某に『今夜二更(21時〜23時)に内と外から示し合わせて大事を成そうと伝えよ』と言われました」とのこと。孟獲は大いに喜んで、すぐさま3万の蛮兵を揃えて3隊に分け、諸洞の酋長たちと共に瀘水を渡った。
孟獲は腹心の蛮将百余人を引き連れて護衛とし、孔明(諸葛亮)の本陣目指して進んだが、途中、1隊の敵兵にも出遭わなかった。本陣に突入したがそこには人影1つなく、幔幕の中は燈燭が明るく輝いていて、孟優と蛮兵たちがみな倒れていた。酒に薬が入れてあり、みな死んだように酔いつぶれていたのである。
計られたと気づいた孟獲が急いで孟優らを助け起こし、本隊へ引き返そうとしたところ、行く手に王平の軍勢が現れて攻めかかった。これに大いに驚いた孟獲が左の隊へ奔ろうとすると魏延が、慌てて右の隊へ奔ると趙雲が現れ、3方向から挟撃された孟獲は兵たちを置き去りにして瀘水へと落ち延びた。
折良く数十の蛮兵が小船を漕いでいるのを見つけた孟獲が、その小舟に乗り込んだ途端、一声の合図が響き渡ると、孟獲はたちまち縛り上げられた。孔明(諸葛亮)の計略によって馬岱の兵が蛮兵に扮して待ち構えていたのである。
こうして馬岱が孟獲を、趙雲が孟優を、魏延・王平・関索が諸洞の酋長たちを捕らえるに至った。
4度孟獲を捕らえる
3度捕らえられた孟獲はそれでも自分の負けを認めず、孔明(諸葛亮)はまた孟獲を許して帰らせると、蜀軍は瀘水を渡った。
孟獲は銀坑洞に戻るや、すぐさま腹心の者に金・真珠・宝貝を持たせて蛮人の諸部落に派遣し、牌(盾)と刀を使う獠人の壮丁(成人男子)数十万を借り受けた。勢揃いの日になると、各隊の人馬は雲の如く集まり、みな孟獲の指図に従った。
孔明(諸葛亮)は底なし沼状の西洱河に竹の浮橋を架けて渡ると、土を盛って城を築き、3つの大きな陣営を築いて蛮兵を待ち受けた。
一方、孟獲は数十万の蛮兵を率い、怒りに燃えて西洱河の間近まで来ると、散々に悪態をついて挑発したが、孔明(諸葛亮)は応戦することを許さなかった。蜀軍が守りを固めて数日が経った頃、蛮兵たちが怠け始めたのを見て取った孔明(諸葛亮)は、趙雲と魏延、王平と馬忠を呼んでそれぞれ計略を授けると、次に馬岱を呼んで次のように言いつけた。
「吾は今から3つの陣を棄て北岸へ撤退する。吾軍が撤退したらすぐさま浮橋を解いて下流に移し、趙雲と魏延の軍勢を渡してその後詰めをせよ」
馬岱が退出すると、次に張翼を呼んで、
「吾軍が退去した後は、陣中に多くの燈火を設置せよ。孟獲がこれに気づけば必ずや追って来る。汝はその退路を断て」
と言いつけた。
張翼が退出すると、孔明(諸葛亮)は関索に車の護衛をさせて陣を引き揚げた。
これ以降、関索は登場しない。
次の日の明け方、孟獲が大軍を率いて押し寄せた時には、3つの陣屋とも人馬の姿は見えず、糧草や数百台もの車が打ち棄てられていた。孟獲はこれを「蜀の国内に緊急事態が起こったに違いない」と思い、自ら先鋒を率いて西洱河の畔に駆けつけた。
西洱河の北岸を眺め見れば、岸沿い一帯の土城には旗指物が整然と立ち並んでいる。孟獲は「これは諸葛亮が追い撃ちを恐れてしばらく踏み留まっているのだ。2日と待たずに逃げ出すに違いない」と言うと、竹を切り出して筏を作り、河を渡る準備を始めた。
この日、狂ったような大風が起こったかと思うと、四方より蜀の軍勢が攻め寄せ、蛮兵たちは同士討ちとなった。孟獲は大いに驚いて、急ぎ一族の洞丁(兵士)を率いて血路を開き、元の陣目指して逃げ戻ろうとしたが、趙雲・馬岱が次々に現れ、孟獲に従う者はわずか数十人となって谷間へ逃げ込もうとした。
ところが、南・北・西の3方には土煙と松明の光が見えたので、仕方なく東へ向かって山裾をまわった時、林の間から数十人の従者に護られて出て来た車上に、孔明(諸葛亮)が威儀を正して座っていた。孔明(諸葛亮)が呵呵と大きく笑って、
「蛮王・孟獲よ、天運尽きてまた負けたか。永らくここで待っておったぞっ!」
と言うと、孟獲は激怒し自ら蛮兵の先頭に立って林の手前まで突進したが、カタリと音がするや1人残らず落とし穴に落ち、林の中から現れた魏延の部隊に縛り上げられた。
その後孟獲は、合計7度、捕らえられては逃がされることを繰り返し、7度目にはついに孔明(諸葛亮)に心服した。いわゆる七縦七擒である。
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第3世代(関統・関彝)
関彝
生没年不詳。司隷・河東郡・解県の人。父は関興。兄に関統。
父・関興の後を継いだ関統には子がなかったので、関興の庶子(妾の子)の関彝が爵位を継いだ。
(関羽に処刑された)龐徳の子・龐会は、鍾会・鄧艾に従って蜀を討伐し、蜀が敗北すると関氏の血統をことごとく滅ぼした。
備考
上記の「龐会が関氏の血統をことごとく滅ぼした」というのは『蜀書』関羽伝が注に引く『蜀記』によるが、『新唐書』宰相世系5下には、
関氏の出自は商(殷)の大夫・関龍逢の後裔である。蜀の前将軍・漢寿亭侯・羽(関羽)は侍中・興(関興)を生み、その後裔は信都(冀州・安平国・信都県)に居住した。裔孫(遠い子孫)の播(関播)は(唐の)徳宗の相(宰相)となった。関氏の中で宰相となった者は、ただ一人・播(関播)のみである。
とあり、関氏の血統は残ったようである。
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