正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(86)河東かとう関氏かんし関羽かんう関平かんぺい関興かんこう関索かんさく関統かんとう関彝かんい)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

河東関氏系図

河東関氏系図

河東かとう関氏かんし系図

関平かんぺい関興かんこうの兄弟の順は不詳。
関索かんさく三国志演義さんごくしえんぎに登場する架空の人物。


この記事では河東かとう関氏かんしの人物、

についてまとめています。


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か(86)河東関氏

第1世代(関羽)


関羽かんう雲長うんちょう

関羽(かんう)

生没年 ?〜220年
出身地 司隷しれい河東郡かとうぐん解県かいけん
所属勢力 劉備りゅうび

司隷しれい河東郡かとうぐん解県かいけんから亡命した先の幽州ゆうしゅう涿郡たくぐん劉備りゅうび張飛ちょうひと出会い、劉備りゅうびに仕えて挙兵した。

曹操そうそうに捕らえられた際は、厚遇されても劉備りゅうびへの忠誠を忘れず、曹操そうそうの敵であった袁紹えんしょう配下の猛将・顔良がんりょうを討って、恩を返してから曹操そうそうのもとを去った。

劉備りゅうびしょくの地を得ると荊州けいしゅうを任されるが、傲慢ごうまんで敵をあなどる性格が災いし、を攻めている最中、に背後を突かれて敗死した。

第2世代(関平・関興・関索)

関平かんぺい

生年不詳〜建安けんあん24年(219年)没。司隷しれい河東郡かとうぐん解県かいけんの人。父は関羽かんう。兄弟に関興かんこう三国志演義さんごくしえんぎでは関羽かんうの養子として登場するが、正史せいし三国志さんごくしの中に「養子」の記述はない。

樊城の戦い

建安けんあん24年(219年)、関羽かんうが初めて出陣して荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん樊城はんじょう曹仁そうじんを包囲した時のこと。「いのししが自分の足をんだ夢」をみた関羽かんうは、子の関平かんぺいに「わしはもう年老いたが、引きかえすわけにはいかないっ!」と言った。

当初、関羽かんう曹操そうそうが救援に派遣した于禁うきんを捕らえ、その威信をもって中原ちゅうげん震撼しんかんさせたが、曹操そうそう徐晃じょこうを救援に差し向けると勝利を得ることができず、軍を引いて撤退した。

逃走

ところがすでに荊州けいしゅう南郡なんぐん江陵県こうりょうけん孫権そんけん軍の呂蒙りょもうに占拠されており、関羽かんう荊州けいしゅう南郡なんぐん当陽県とうようけんまで軍をかえして、その西の麦城ばくじょうに立てもった。

孫権そんけんが使者を派遣して降伏を勧めると、関羽かんうは降伏する振りをして城壁の上に旗指物を立て、人形を置いて城中に人がいるように見せかけておき、そのすきに逃走したが、兵たちはみな四散して関羽かんうに従う者は10余騎ばかりとなった。

前もって孫権そんけんに「関羽かんうの逃走経路をつ」よう命じられた朱然しゅぜん潘璋はんしょうは、荊州けいしゅう南郡なんぐん臨沮国りんしょこくに進んで揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐん夾石きょうせきに軍をとどめた。

12月、関羽かんうとその子・関平かんぺい都督ととく趙累ちょうるいらとその妻子は、章郷しょうきょうにおいて潘璋はんしょう司馬しば馬忠ばちゅうによってことごとくが捕らえられた。

関羽と関平の最期について

以上は、蜀書しょくしょ関羽伝かんうでん呉書ごしょ呉主伝ごしゅでん呉書ごしょ潘璋伝はんしょうでんの内容をまとめていますが、関羽かんう関平かんぺいの最期については、列伝によって差異があります。

蜀書しょくしょ関羽伝かんうでん

孫権そんけんはすでに荊州けいしゅう南郡なんぐん江陵県こうりょうけんを占領しており、関羽かんうの部下やその妻子たちをことごとく捕虜にしたので、関羽かんうの軍は四散した。孫権そんけん将軍しょうぐんつかわして関羽かんうを迎え撃ち、関羽かんうと子の関平かんぺい荊州けいしゅう南郡なんぐん臨沮国りんしょこくにおいて斬り殺した。

呉書ごしょ呉主伝ごしゅでん

うるう10月、孫権そんけん関羽かんう征伐の軍を発し、先に呂蒙りょもうつかわして荊州けいしゅう南郡なんぐん公安県こうあんけんを襲わせ、将軍しょうぐん士仁しじん傅士仁ふしじん)を捕虜にしたが、呂蒙りょもう南郡なんぐんまで進むと、南郡太守なんぐんたいしゅ糜芳びほうまちげて降伏した。呂蒙りょもう荊州けいしゅう南郡なんぐん江陵県こうりょうけんに本営を置き、その地の老人や幼少者を慰撫いぶしてとらわれていた于禁うきんを釈放した。

陸遜りくそんは別働隊として荊州けいしゅう宜都郡ぎとぐんを攻め落として秭帰県しきけん枝江県しこうけん夷道県いどうけんると、軍を還して夷陵県いりょうけんに駐屯し、峽口きょうこう*1を守備してしょくからの侵攻にそなえた。

関羽かんう荊州けいしゅう南郡なんぐん当陽県とうようけんまで軍をかえすと、その西の麦城ばくじょうに立てもった。

孫権そんけんが使者を派遣して降伏を勧めると、関羽かんうは降伏する振りをして、城壁の上に旗指物を立て人形を置いて城中に人がいるように見せかけておき、そのすきに逃走したが、兵たちはみな四散して関羽かんうに従う者は10余騎ばかりとなった。

孫権そんけんは前もって朱然しゅぜん潘璋はんしょうに命じ、関羽かんうの逃走経路を遮断させておいた。

12月、潘璋はんしょう司馬しば馬忠ばちゅうが、関羽かんうとその子・関平かんぺい都督ととく趙累ちょうるいらを章郷しょうきょうで捕虜とした。

脚注

*1長江ちょうこうしょくへ出る険阻な要所である西陵峡せいりょうきょうの河口。

呉書ごしょ潘璋伝はんしょうでん

孫権そんけん関羽かんう征伐の軍を動かすと、潘璋はんしょう朱然しゅぜんと共に関羽かんうの退路を断つため荊州けいしゅう南郡なんぐん臨沮国りんしょこくに進んで揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐん夾石きょうせきに軍をとどめた。

潘璋はんしょうの部下である司馬しば馬忠ばちゅうが、関羽かんう関羽かんうの息子の関平かんぺい都督ととく趙累ちょうるいらを捕らえた。


関平かんぺい」の関連記事

関興かんこう安国あんこく

生没年不詳。司隷しれい河東郡かとうぐん解県かいけんの人。父は関羽かんう。兄弟に関平かんぺい。子に関統かんとう関彝かんい

父・関羽かんうの後を継いだ。幼い頃から評判が高く、蜀漢しょくかん丞相じょうしょう諸葛亮しょかつりょうは彼の才能を高く評価した。

弱冠じゃっかん(20歳)で侍中じちゅう中監軍ちゅうかんぐんとなったが、数年後に亡くなった。


関興かんこう」の関連記事

関索かんさく

生没年不詳。司隷しれい河東郡かとうぐん解県かいけんの人。父は関羽かんう。兄に関平かんぺい関興かんこう

三国志演義さんごくしえんぎに登場する架空の人物。第87回・第88回・第89回に登場する。

父・関羽かんうが敗死して荊州けいしゅうを失った際、重傷を負って鮑家荘ほうかそうで養生していたが、建興けんこう3年(225年)の諸葛亮しょかつりょう南蛮なんばん征伐に前部ぜんぶ先鋒せんぽうとして合流し、趙雲ちょううん魏延ぎえん馬岱ばたい王平おうへい馬忠ばちゅう張嶷ちょうぎょく張翼ちょうよくらと共に活躍した。

以下詳細
軍に復帰する

建興けんこう3年(225年)、益州えきしゅう益州郡えきしゅうぐんより急報が入った。

蛮王ばんおう南蛮王なんばんおう)・孟獲もうかくが10万の兵をもって領内に侵入し、建寧太守けんねいたいしゅ雍闓ようがい孟獲もうかくに呼応して造反。牂牁太守そうかたいしゅ朱褒しゅほう越巂太守えっすいたいしゅ高定こうていは城を明け渡し、雍闓ようがい朱褒しゅほう高定こうてい郷導官きょうどうかん(案内役)となって益州えきしゅう永昌郡えいしょうぐんを攻撃しております。永昌太守えいしょうたいしゅ王伉おうこうは反乱に加担せず、功曹こうそう呂凱りょがいと共に領民を集めて死守しておりますが、危急にせまられております」

これにしょく丞相じょうしょう諸葛亮しょかつりょう後主こうしゅ劉禅りゅうぜんに上奏し、みずから反乱を鎮圧するため50万の兵を動員した。

そこへ関羽かんうの第3子・関索かんさく孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)に目通りして言った。

荊州けいしゅうを失ってのち、難をけて鮑家荘ほうかそうで養生しておりました。常に先帝せんてい劉備りゅうび)にお目通りしてご無念を晴らしたいものと思い続けておりましたが、傷がえぬためついにかないませんでした。近頃ようやく傷がえましたが、東呉とうご讐人かたきはすでに誅戮ちゅうりくされたと聞き、天子てんし劉禅りゅうぜん)にお目通りしようと西川せいせんに向かっておりましたところ、南征の軍勢にいましたので、急いでまかり越しました」

孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)はこれを聞いていたく感じ入り、このむねを朝廷に報告して関索かんさく前部ぜんぶ先鋒せんぽうとして南征の軍に同行させた。

董荼那とうとな阿会喃あかいなんを捕らえる

その後、孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)は離間の計をもって高定こうてい雍闓ようがい朱褒しゅほうを討たせ、高定こうてい益州太守えきしゅうたいしゅとして(益州郡えきしゅうぐん建寧郡けんねいぐん牂牁郡そうかぐんの)3郡を統括させた。

蛮王ばんおう南蛮王なんばんおう)・孟獲もうかくは、孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)が智謀をもって雍闓ようがいらを破ったことを聞き知ると、三洞さんどう元帥げんすい金環三結きんかんさんけつ董荼那とうとな董荼奴とうとぬ)、阿会喃あかいなんと軍議を開き、金環三結きんかんさんけつは中央、董荼那とうとな董荼奴とうとぬ)は左、阿会喃あかいなんは右に分かれ、それぞれ5万の蛮兵ばんぺいひきいて軍を進めた。

これに孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)は、王平おうへい馬忠ばちゅうには右の董荼那とうとな董荼奴とうとぬ)に、張嶷ちょうぎょく張翼ちょうよくには中央の金環三結きんかんさんけつに当たらせ、趙雲ちょううん魏延ぎえんめとした。

これを不満に思った趙雲ちょううん魏延ぎえんは、精兵5千を選んでとりこにした蛮人ばんじんに案内させ、左右から中央の金環三結きんかんさんけつの本陣に斬り込むと、金環三結きんかんさんけつった趙雲ちょううんはただひとやりで討ち取った。2人は兵を分け、魏延ぎえん董荼那とうとな董荼奴とうとぬ)に、趙雲ちょううん阿会喃あかいなんの陣に向かい、魏延ぎえん王平おうへい趙雲ちょううん馬忠ばちゅうと共に大いに敵を撃ち破ったが、董荼那とうとな董荼奴とうとぬ)と阿会喃あかいなんは討ちらしてしまった。

戻って報告すると、孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)は大笑いして「その両名はすでにわたしが捕らえた」と言った。

この時、永昌太守えいしょうたいしゅ王伉おうこう功曹こうそう呂凱りょがいが作成した詳細な南蛮なんばんの地図平蛮指掌図へいばんししょうずを献上されていた孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)は、董荼那とうとな董荼奴とうとぬ)と阿会喃あかいなんの逃走経路に張嶷ちょうぎょく張翼ちょうよくの兵を伏せ、関索かんさくに命じて迎え撃たせてこの2人をとりこにしたのである。

孟獲もうかくを捕らえる

孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)は董荼那とうとな董荼奴とうとぬ)と阿会喃あかいなんいましめをいてそれぞれのどうに帰らせると、「次は必ずや、孟獲もうかくみずから兵をひきいて攻め寄せて来るに違いない。そうすれば、孟獲もうかくとりこにすることができる」と言い、趙雲ちょううん魏延ぎえん王平おうへい関索かんさくに計略をさずけた。

三洞さんどう元帥げんすいの敗北を知った孟獲もうかくは大いに怒り、ついにみずか蛮兵ばんぺいひきいて軍を進めたところ、王平おうへいの軍と遭遇そうぐうした。孟獲もうかくの軍から黄驃馬こうひょうばまたがった截頭大刀せっとうだいとうの使い手・忙牙長ぼうがちょうが進み出て斬りかかると、数合も打ち合わないうちに王平おうへいは逃げ出した。

孟獲もうかくがこれを追って行くと関索かんさくが現れたが、関索かんさくもまたすぐに逃げ出し、20余里(約8.6km)も退しりぞいた。孟獲もうかくがなおもこれを追って行くと、突然ときの声がき起こり、左に張嶷ちょうぎょく、右に張翼ちょうよくの2手の軍勢が孟獲もうかくの退路をさえぎった。そこへ王平おうへい関索かんさくも兵を返して殺到し、前後から攻め立てたので、蛮人ばんじんらは大敗した。

孟獲もうかくはやっとのことで錦帯山きんたいざんを目指して逃走したが、逃走経路に伏せていた趙雲ちょううんの攻撃を受け、魏延ぎえんに生けられて降伏した。

再度孟獲もうかくを捕らえる

孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)が孟獲もうかくに帰順を勧めると、孟獲もうかくは「もう1度戦って捕らえられたならば降伏する」と約束した。そこで孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)が許して帰らせると、孟獲もうかく孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)との戦闘をけ、毒水が流れる瀘水ろすいの川岸一帯に土塁どるいを築いて持久戦にそなえた。

その後、孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)は軍を大きく進めたが、時は炎熱の5月、南方の地は特に暑さがひどく、軍馬も人も鎧兜よろいかぶとを着けていられない程であった。孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)はみずか瀘水ろすいの岸辺におもむいて視察すると、瀘水ろすいから百里(約43km)の地に涼しい場所を探し当て、王平おうへい張嶷ちょうぎょく張翼ちょうよく関索かんさくに陣を守らせ暑さをけさせた。

そこへしょく成都せいと)から馬岱ばたい解暑薬かいしょやく(熱中症の薬)と兵糧米を届けに来たので、孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)は馬岱ばたいに「3千の兵をひきいて瀘水ろすいを渡り、真っ蛮洞ばんどうに入って敵の糧道を断ち、董荼那とうとな董荼奴とうとぬ)と阿会喃あかいなんを内応させるように」と命じた。

しょく軍が瀘水ろすいを渡った」ことを聞いた孟獲もうかく忙牙長ぼうがちょうを差し向けたが、馬岱ばたい一太刀ひとたちに斬り殺された。次に董荼那とうとな董荼奴とうとぬ)がいどんだが、馬岱ばたい罵倒ばとうされて戦わずに兵を引いたので孟獲もうかくは大いに怒り、董荼那とうとな董荼奴とうとぬ)を百叩きの刑とした。南蛮なんばん酋長しゅうちょうたちは、董荼那とうとな董荼奴とうとぬ)に「孟獲もうかくを殺して孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)に降伏すること」を勧め、幔幕まんまくの中で酔いつぶれていた孟獲もうかくを捕らえて孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)に知らせた。

3度孟獲もうかくを捕らえる

董荼那とうとな董荼奴とうとぬ)らに捕らえられた孟獲もうかくは「戦って負けた訳ではない」ことを理由に降伏をこばんだが、孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)が「しょく軍は兵糧・武器が充実しており、孟獲もうかくに勝つ見込みがない」ことを見せつけると、孟獲もうかくは「それがし1人が降伏しても意味がない。もし許して帰らせてくれるならどうちゅうの者たちを説得し、心を1つに合わせて降伏しよう」と言うので、孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)は再度孟獲もうかくを許して帰らせた。

すると孟獲もうかくは一計を案じ、弟の孟優もうゆう蛮兵ばんぺい百人を連れ、きん真珠しんじゅ宝貝たからがい象牙ぞうげさいつのなどを積んで瀘水ろすいを渡らせた。「孟獲もうかくが弟の孟優もうゆうつかわして宝物を献上に来た」との報告を受けた孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)は、趙雲ちょううん魏延ぎえんにそれぞれ耳打ちし、さらに王平おうへい馬忠ばちゅう関索かんさくを呼んで人知れず言いふくめた。

おのおの計略をさずかって退出した後、孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)は孟優もうゆうと従者百人全員を幕中に呼び入れると、宴席をもうけて諸将に酒を勧め、ねんごろにもてなした。

しばらくして孟獲もうかくのところへやって来た孟優もうゆうの使者が言うには「諸葛亮しょかつりょうは進物を受け取っていたく喜び、従者を残らず幕中にまねき入れ、牛や羊を料理し宴席をもうけてもてなしております。二大王にだいおう孟優もうゆう)はわたくしに『今夜二更にこう(21時〜23時)に内と外から示し合わせて大事をそうと伝えよ』と言われました」とのこと。孟獲もうかくは大いに喜んで、すぐさま3万の蛮兵ばんぺいそろえて3隊に分け、諸どう酋長しゅうちょうたちと共に瀘水ろすいを渡った。

孟獲もうかくは腹心の蛮将ばんしょう百余人を引き連れて護衛とし、孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)の本陣目指して進んだが、途中、1隊の敵兵にもわなかった。本陣に突入したがそこには人影1つなく、幔幕まんまくの中は燈燭ともしびが明るく輝いていて、孟優もうゆう蛮兵ばんぺいたちがみな倒れていた。酒に薬が入れてあり、みな死んだように酔いつぶれていたのである。

はかられたと気づいた孟獲もうかくが急いで孟優もうゆうらを助け起こし、本隊へ引き返そうとしたところ、行く手に王平おうへいの軍勢が現れて攻めかかった。これに大いに驚いた孟獲もうかくが左の隊へはしろうとすると魏延ぎえんが、あわてて右の隊へはしると趙雲ちょううんが現れ、3方向から挟撃きょうげきされた孟獲もうかくは兵たちを置き去りにして瀘水ろすいへと落ちびた。

おり良く数十の蛮兵ばんぺいが小船をいでいるのを見つけた孟獲もうかくが、その小舟に乗り込んだ途端、ひとこえの合図が響き渡ると、孟獲もうかくはたちまち縛り上げられた。孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)の計略によって馬岱ばたいの兵が蛮兵ばんぺいふんして待ち構えていたのである。

こうして馬岱ばたい孟獲もうかくを、趙雲ちょううん孟優もうゆうを、魏延ぎえん王平おうへい関索かんさくが諸どう酋長しゅうちょうたちを捕らえるにいたった。

4度孟獲もうかくを捕らえる

3度捕らえられた孟獲もうかくはそれでも自分の負けを認めず、孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)はまた孟獲もうかくを許して帰らせると、しょく軍は瀘水ろすいを渡った。

孟獲もうかく銀坑洞ぎんこうどうに戻るや、すぐさま腹心の者にきん真珠しんじゅ宝貝たからがいを持たせて蛮人ばんじんの諸部落に派遣し、はい(盾)とかたなを使う獠人ろうじん壮丁そうてい(成人男子)数十万を借り受けた。せいぞろいの日になると、各隊の人馬は雲のごとく集まり、みな孟獲もうかくの指図に従った。

孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)は底なし沼状の西洱河せいじがに竹の浮橋をけて渡ると、土を盛って城を築き、3つの大きな陣営を築いて蛮兵ばんぺいを待ち受けた。

一方、孟獲もうかくは数十万の蛮兵ばんぺいひきい、怒りに燃えて西洱河せいじがの間近まで来ると、散々に悪態をついて挑発したが、孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)は応戦することを許さなかった。しょく軍が守りを固めて数日がった頃、蛮兵ばんぺいたちがなまけ始めたのを見て取った孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)は、趙雲ちょううん魏延ぎえん王平おうへい馬忠ばちゅうを呼んでそれぞれ計略をさずけると、次に馬岱ばたいを呼んで次のように言いつけた。

わたしは今から3つの陣をて北岸へ撤退する。吾軍わがぐんが撤退したらすぐさま浮橋をいて下流に移し、趙雲ちょううん魏延ぎえんの軍勢を渡してそのめをせよ」

馬岱ばたいが退出すると、次に張翼ちょうよくを呼んで、

吾軍わがぐんが退去した後は、陣中に多くの燈火あかりを設置せよ。孟獲もうかくがこれに気づけば必ずや追って来る。おぬしはその退路を断て」

と言いつけた。

張翼ちょうよくが退出すると、孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)は関索かんさくに車の護衛をさせて陣を引きげた。

これ以降、関索かんさくは登場しない。

次の日の明け方、孟獲もうかくが大軍をひきいて押し寄せた時には、3つの陣屋とも人馬の姿は見えず、糧草や数百台もの車が打ちてられていた。孟獲もうかくはこれを「しょくの国内に緊急事態が起こったに違いない」と思い、みずか先鋒せんぽうひきいて西洱河せいじがほとりけつけた。

西洱河せいじがの北岸をながめ見れば、きし沿い一帯の土城には旗指物が整然と立ち並んでいる。孟獲もうかくは「これは諸葛亮しょかつりょうが追い撃ちを恐れてしばらく踏みとどまっているのだ。2日と待たずに逃げ出すに違いない」と言うと、竹を切り出していかだを作り、かわを渡る準備を始めた。

この日、狂ったような大風が起こったかと思うと、四方よりしょくの軍勢が攻め寄せ、蛮兵ばんぺいたちは同士討ちとなった。孟獲もうかくは大いに驚いて、急ぎ一族の洞丁どうてい(兵士)をひきいて血路を開き、元の陣目指して逃げ戻ろうとしたが、趙雲ちょううん馬岱ばたいが次々に現れ、孟獲もうかくに従う者はわずか数十人となって谷間へ逃げ込もうとした。

ところが、南・北・西の3方には土煙つちけむり松明たいまつの光が見えたので、仕方なく東へ向かってやますそをまわった時、林の間から数十人の従者にまもられて出て来た車上に、孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)が威儀を正して座っていた。孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)がと大きく笑って、

蛮王ばんおう孟獲もうかくよ、天運尽きてまた負けたか。永らくここで待っておったぞっ!」

と言うと、孟獲もうかくは激怒しみずか蛮兵ばんぺいの先頭に立って林の手前まで突進したが、カタリと音がするや1人残らず落とし穴に落ち、林の中から現れた魏延ぎえんの部隊に縛り上げられた。


その後孟獲もうかくは、合計7度、捕らえられては逃がされることを繰り返し、7度目にはついに孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう)に心服した。いわゆる七縦七擒しちしょうしちきんである。


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第3世代(関統・関彝)

関統かんとう

生没年不詳。司隷しれい河東郡かとうぐん解県かいけんの人。父は関興かんこう。弟に関彝かんい

父・関興かんこうの後を継ぎ、公主こうしゅ劉禅りゅうぜんの娘)をめとった。

官は虎賁中郎将こほんちゅうろうしょういたった。


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関彝かんい

生没年不詳。司隷しれい河東郡かとうぐん解県かいけんの人。父は関興かんこう。兄に関統かんとう

父・関興かんこうの後を継いだ関統かんとうには子がなかったので、関興かんこう庶子しょしめかけの子)の関彝かんいが爵位を継いだ。

関羽かんうに処刑された)龐徳ほうとくの子・龐会ほうかいは、鍾会しょうかい鄧艾とうがいに従ってしょくを討伐し、しょくが敗北すると関氏かんしの血統をことごとく滅ぼした。

備考

上記の「龐会ほうかい関氏かんしの血統をことごとく滅ぼした」というのは蜀書しょくしょ関羽伝かんうでんが注に引く蜀記しょくきによるが、新唐書しんとうしょ宰相さいしょう世系せいけい5には、

関氏かんしの出自はしょういん)の大夫たいふ関龍逢かんりょうほう後裔こうえいである。しょく前将軍ぜんしょうぐん漢寿亭侯かんじゅていこう関羽かんう)は侍中じちゅうこう関興かんこう)を生み、その後裔こうえい信都しんと冀州きしゅう安平国あんぺいこく信都県しんとけん)に居住した。裔孫えいそん(遠い子孫)のはん関播かんはん)は(とうの)徳宗とくそうしょう宰相さいしょう)となった。関氏かんしの中で宰相さいしょうとなった者は、ただ一人・はん関播かんはん)のみである。

とあり、関氏かんしの血統は残ったようである。


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【三国志人物伝】総索引