正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(86)河東(かとう)関氏(かんし)(関羽(かんう)・関平(かんぺい)・関興(かんこう)・関索(かんさく)・関統(かんとう)・関彝(かんい))です。

スポンサーリンク

系図

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

河東関氏系図

河東関氏系図

河東(かとう)関氏(かんし)系図

※関平(かんぺい)と関興(かんこう)の兄弟の順は不詳。
関索(かんさく)は『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する架空の人物。


この記事では河東(かとう)関氏(かんし)の人物、

についてまとめています。

関連記事

スポンサーリンク


か(86)河東関氏

第1世代(関羽)


関羽(かんう)・雲長(うんちょう)

関羽(かんう)

生没年 ?〜220年
出身地 司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・解県(かいけん)
所属勢力 劉備(りゅうび)

司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・解県(かいけん)から亡命した先の幽州(ゆうしゅう)・涿郡(たくぐん)で劉備(りゅうび)・張飛(ちょうひ)と出会い、劉備(りゅうび)に仕えて挙兵した。

曹操(そうそう)に捕らえられた際は、厚遇されても劉備(りゅうび)への忠誠を忘れず、曹操(そうそう)の敵であった袁紹(えんしょう)配下の猛将・顔良(がんりょう)を討って、恩を返してから曹操(そうそう)のもとを去った。

劉備(りゅうび)が蜀(しょく)の地を得ると荊州(けいしゅう)を任されるが、傲慢(ごうまん)で敵をあなどる性格が災いし、魏(ぎ)を攻めている最中、呉(ご)に背後を突かれて敗死した。

第2世代(関平・関興・関索)

関平(かんぺい)

生年不詳〜建安(けんあん)24年(219年)没。司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・解県(かいけん)の人。父は関羽(かんう)。兄弟に関興(かんこう)。『三国志演義(さんごくしえんぎ)』では関羽(かんう)の養子として登場するが、正史(せいし)『三国志(さんごくし)』の中に「養子」の記述はない。

樊城の戦い

建安(けんあん)24年(219年)、関羽(かんう)が初めて出陣して荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・樊城(はんじょう)の曹仁(そうじん)を包囲した時のこと。「猪(いのしし)が自分の足を噛(か)んだ夢」をみた関羽(かんう)は、子の関平(かんぺい)に「吾(わし)はもう年老いたが、引き還(かえ)すわけにはいかないっ!」と言った。

当初、関羽(かんう)は曹操(そうそう)が救援に派遣した于禁(うきん)を捕らえ、その威信をもって中原(ちゅうげん)を震撼(しんかん)させたが、曹操(そうそう)が徐晃(じょこう)を救援に差し向けると勝利を得ることができず、軍を引いて撤退した。

逃走

ところがすでに荊州(けいしゅう)・南郡(なんぐん)・江陵県(こうりょうけん)は孫権(そんけん)軍の呂蒙(りょもう)に占拠されており、関羽(かんう)は荊州(けいしゅう)・南郡(なんぐん)・当陽県(とうようけん)まで軍を還(かえ)して、その西の麦城(ばくじょう)に立て籠(こ)もった。

孫権(そんけん)が使者を派遣して降伏を勧めると、関羽(かんう)は降伏する振りをして城壁の上に旗指物を立て、人形を置いて城中に人がいるように見せかけておき、その隙(すき)に逃走したが、兵たちはみな四散して関羽(かんう)に従う者は10余騎ばかりとなった。

前もって孫権(そんけん)に「関羽(かんう)の逃走経路を断(た)つ」よう命じられた朱然(しゅぜん)と潘璋(はんしょう)は、荊州(けいしゅう)・南郡(なんぐん)・臨沮国(りんしょこく)に進んで揚州(ようしゅう)・廬江郡(ろこうぐん)の夾石(きょうせき)に軍を留(とど)めた。

12月、関羽(かんう)とその子・関平(かんぺい)、都督(ととく)の趙累(ちょうるい)らとその妻子は、章郷(しょうきょう)において潘璋(はんしょう)の司馬(しば)・馬忠(ばちゅう)によってことごとくが捕らえられた。

関羽と関平の最期について

以上は、『蜀書(しょくしょ)』関羽伝(かんうでん)、『呉書(ごしょ)』呉主伝(ごしゅでん)、『呉書(ごしょ)』潘璋伝(はんしょうでん)の内容をまとめていますが、関羽(かんう)と関平(かんぺい)の最期については、列伝によって差異があります。

『蜀書(しょくしょ)』関羽伝(かんうでん)

孫権(そんけん)はすでに荊州(けいしゅう)・南郡(なんぐん)・江陵県(こうりょうけん)を占領しており、関羽(かんう)の部下やその妻子たちをことごとく捕虜にしたので、関羽(かんう)の軍は四散した。孫権(そんけん)は将軍(しょうぐん)を遣(つか)わして関羽(かんう)を迎え撃ち、関羽(かんう)と子の関平(かんぺい)を荊州(けいしゅう)・南郡(なんぐん)・臨沮国(りんしょこく)において斬り殺した。

『呉書(ごしょ)』呉主伝(ごしゅでん)

閏(うるう)10月、孫権(そんけん)は関羽(かんう)征伐の軍を発し、先に呂蒙(りょもう)を遣(つか)わして荊州(けいしゅう)・南郡(なんぐん)・公安県(こうあんけん)を襲わせ、将軍(しょうぐん)の士仁(しじん)(傅士仁(ふしじん))を捕虜にしたが、呂蒙(りょもう)が南郡(なんぐん)まで進むと、南郡太守(なんぐんたいしゅ)の糜芳(びほう)は城(まち)を挙(あ)げて降伏した。呂蒙(りょもう)は荊州(けいしゅう)・南郡(なんぐん)・江陵県(こうりょうけん)に本営を置き、その地の老人や幼少者を慰撫(いぶ)して囚(とら)われていた于禁(うきん)を釈放した。

陸遜(りくそん)は別働隊として荊州(けいしゅう)・宜都郡(ぎとぐん)を攻め落として秭帰県(しきけん)・枝江県(しこうけん)・夷道県(いどうけん)を獲(え)ると、軍を還して夷陵県(いりょうけん)に駐屯し、峽口(きょうこう)*1を守備して蜀(しょく)からの侵攻に備(そな)えた。

関羽(かんう)は荊州(けいしゅう)・南郡(なんぐん)・当陽県(とうようけん)まで軍を還(かえ)すと、その西の麦城(ばくじょう)に立て籠(こ)もった。

孫権(そんけん)が使者を派遣して降伏を勧めると、関羽(かんう)は降伏する振りをして、城壁の上に旗指物を立て人形を置いて城中に人がいるように見せかけておき、その隙(すき)に逃走したが、兵たちはみな四散して関羽(かんう)に従う者は10余騎ばかりとなった。

孫権(そんけん)は前もって朱然(しゅぜん)と潘璋(はんしょう)に命じ、関羽(かんう)の逃走経路を遮断させておいた。

12月、潘璋(はんしょう)の司馬(しば)・馬忠(ばちゅう)が、関羽(かんう)とその子・関平(かんぺい)、都督(ととく)の趙累(ちょうるい)らを章郷(しょうきょう)で捕虜とした。

脚注

*1長江(ちょうこう)の蜀(しょく)へ出る険阻な要所である西陵峡(せいりょうきょう)の河口。

『呉書(ごしょ)』潘璋伝(はんしょうでん)

孫権(そんけん)が関羽(かんう)征伐の軍を動かすと、潘璋(はんしょう)は朱然(しゅぜん)と共に関羽(かんう)の退路を断つため荊州(けいしゅう)・南郡(なんぐん)・臨沮国(りんしょこく)に進んで揚州(ようしゅう)・廬江郡(ろこうぐん)の夾石(きょうせき)に軍を留(とど)めた。

潘璋(はんしょう)の部下である司馬(しば)の馬忠(ばちゅう)が、関羽(かんう)と関羽(かんう)の息子の関平(かんぺい)、都督(ととく)の趙累(ちょうるい)らを捕らえた。


「関平(かんぺい)」の関連記事

関興(かんこう)・安国(あんこく)

生没年不詳。司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・解県(かいけん)の人。父は関羽(かんう)。兄弟に関平(かんぺい)。子に関統(かんとう)、関彝(かんい)。

父・関羽(かんう)の後を継いだ。幼い頃から評判が高く、蜀漢(しょくかん)の丞相(じょうしょう)・諸葛亮(しょかつりょう)は彼の才能を高く評価した。

弱冠(じゃっかん)(20歳)で侍中(じちゅう)・中監軍(ちゅうかんぐん)となったが、数年後に亡くなった。


「関興(かんこう)」の関連記事

関索(かんさく)

生没年不詳。司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・解県(かいけん)の人。父は関羽(かんう)。兄に関平(かんぺい)、関興(かんこう)。

『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する架空の人物。第87回・第88回・第89回に登場する。

父・関羽(かんう)が敗死して荊州(けいしゅう)を失った際、重傷を負って鮑家荘(ほうかそう)で養生していたが、建興(けんこう)3年(225年)の諸葛亮(しょかつりょう)の南蛮(なんばん)征伐に前部(ぜんぶ)先鋒(せんぽう)として合流し、趙雲(ちょううん)・魏延(ぎえん)・馬岱(ばたい)・王平(おうへい)・馬忠(ばちゅう)・張嶷(ちょうぎょく)・張翼(ちょうよく)らと共に活躍した。

以下詳細
軍に復帰する

建興(けんこう)3年(225年)、益州(えきしゅう)・益州郡(えきしゅうぐん)より急報が入った。

「蛮王(ばんおう)(南蛮王(なんばんおう))・孟獲(もうかく)が10万の兵をもって領内に侵入し、建寧太守(けんねいたいしゅ)・雍闓(ようがい)が孟獲(もうかく)に呼応して造反。牂牁太守(そうかたいしゅ)・朱褒(しゅほう)と越巂太守(えっすいたいしゅ)・高定(こうてい)は城を明け渡し、雍闓(ようがい)・朱褒(しゅほう)・高定(こうてい)が郷導官(きょうどうかん)(案内役)となって益州(えきしゅう)・永昌郡(えいしょうぐん)を攻撃しております。永昌太守(えいしょうたいしゅ)・王伉(おうこう)は反乱に加担せず、功曹(こうそう)の呂凱(りょがい)と共に領民を集めて死守しておりますが、危急に迫(せま)られております」

これに蜀(しょく)の丞相(じょうしょう)・諸葛亮(しょかつりょう)は後主(こうしゅ)・劉禅(りゅうぜん)に上奏し、自(みずか)ら反乱を鎮圧するため50万の兵を動員した。

そこへ関羽(かんう)の第3子・関索(かんさく)が孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))に目通りして言った。

「荊州(けいしゅう)を失って後(のち)、難を避(さ)けて鮑家荘(ほうかそう)で養生しておりました。常に先帝(せんてい)(劉備(りゅうび))にお目通りしてご無念を晴らしたいものと思い続けておりましたが、傷が癒(い)えぬためついに叶(かな)いませんでした。近頃ようやく傷が癒(い)えましたが、東呉(とうご)の讐人(かたき)はすでに誅戮(ちゅうりく)されたと聞き、天子(てんし)(劉禅(りゅうぜん))にお目通りしようと西川(せいせん)に向かっておりましたところ、南征の軍勢に出(で)遭(あ)いましたので、急いで罷(まか)り越しました」

孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))はこれを聞いていたく感じ入り、この旨(むね)を朝廷に報告して関索(かんさく)を前部(ぜんぶ)先鋒(せんぽう)として南征の軍に同行させた。

董荼那(とうとな)と阿会喃(あかいなん)を捕らえる

その後、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は離間の計をもって高定(こうてい)に雍闓(ようがい)と朱褒(しゅほう)を討たせ、高定(こうてい)を益州太守(えきしゅうたいしゅ)として(益州郡(えきしゅうぐん)・建寧郡(けんねいぐん)・牂牁郡(そうかぐん)の)3郡を統括させた。

蛮王(ばんおう)(南蛮王(なんばんおう))・孟獲(もうかく)は、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))が智謀をもって雍闓(ようがい)らを破ったことを聞き知ると、三洞(さんどう)の元帥(げんすい)・金環三結(きんかんさんけつ)、董荼那(とうとな)(董荼奴(とうとぬ))、阿会喃(あかいなん)と軍議を開き、金環三結(きんかんさんけつ)は中央、董荼那(とうとな)(董荼奴(とうとぬ))は左、阿会喃(あかいなん)は右に分かれ、それぞれ5万の蛮兵(ばんぺい)を率(ひき)いて軍を進めた。

これに孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は、王平(おうへい)と馬忠(ばちゅう)には右の董荼那(とうとな)(董荼奴(とうとぬ))に、張嶷(ちょうぎょく)と張翼(ちょうよく)には中央の金環三結(きんかんさんけつ)に当たらせ、趙雲(ちょううん)と魏延(ぎえん)は後(ご)詰(づ)めとした。

これを不満に思った趙雲(ちょううん)と魏延(ぎえん)は、精兵5千を選んで擒(とりこ)にした蛮人(ばんじん)に案内させ、左右から中央の金環三結(きんかんさんけつ)の本陣に斬り込むと、金環三結(きんかんさんけつ)と出(で)遭(あ)った趙雲(ちょううん)はただ一(ひと)槍(やり)で討ち取った。2人は兵を分け、魏延(ぎえん)は董荼那(とうとな)(董荼奴(とうとぬ))に、趙雲(ちょううん)は阿会喃(あかいなん)の陣に向かい、魏延(ぎえん)は王平(おうへい)、趙雲(ちょううん)は馬忠(ばちゅう)と共に大いに敵を撃ち破ったが、董荼那(とうとな)(董荼奴(とうとぬ))と阿会喃(あかいなん)は討ち漏(も)らしてしまった。

戻って報告すると、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は大笑いして「その両名はすでに吾(わたし)が捕らえた」と言った。

この時、永昌太守(えいしょうたいしゅ)・王伉(おうこう)の功曹(こうそう)・呂凱(りょがい)が作成した詳細な南蛮(なんばん)の地図『平蛮指掌図(へいばんししょうず)』を献上されていた孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は、董荼那(とうとな)(董荼奴(とうとぬ))と阿会喃(あかいなん)の逃走経路に張嶷(ちょうぎょく)と張翼(ちょうよく)の兵を伏せ、関索(かんさく)に命じて迎え撃たせてこの2人を擒(とりこ)にしたのである。

孟獲(もうかく)を捕らえる

孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は董荼那(とうとな)(董荼奴(とうとぬ))と阿会喃(あかいなん)の縛(いまし)めを解(と)いてそれぞれの洞(どう)に帰らせると、「次は必ずや、孟獲(もうかく)自(みずか)ら兵を率(ひき)いて攻め寄せて来るに違いない。そうすれば、孟獲(もうかく)を擒(とりこ)にすることができる」と言い、趙雲(ちょううん)と魏延(ぎえん)、王平(おうへい)と関索(かんさく)に計略を授(さず)けた。

三洞(さんどう)の元帥(げんすい)の敗北を知った孟獲(もうかく)は大いに怒り、ついに自(みずか)ら蛮兵(ばんぺい)を率(ひき)いて軍を進めたところ、王平(おうへい)の軍と遭遇(そうぐう)した。孟獲(もうかく)の軍から黄驃馬(こうひょうば)に跨(また)がった截頭大刀(せっとうだいとう)の使い手・忙牙長(ぼうがちょう)が進み出て斬りかかると、数合も打ち合わないうちに王平(おうへい)は逃げ出した。

孟獲(もうかく)がこれを追って行くと関索(かんさく)が現れたが、関索(かんさく)もまたすぐに逃げ出し、20余里(約8.6km)も退(しりぞ)いた。孟獲(もうかく)がなおもこれを追って行くと、突然鬨(とき)の声が湧(わ)き起こり、左に張嶷(ちょうぎょく)、右に張翼(ちょうよく)の2手の軍勢が孟獲(もうかく)の退路を遮(さえぎ)った。そこへ王平(おうへい)と関索(かんさく)も兵を返して殺到し、前後から攻め立てたので、蛮人(ばんじん)らは大敗した。

孟獲(もうかく)はやっとのことで錦帯山(きんたいざん)を目指して逃走したが、逃走経路に伏せていた趙雲(ちょううん)の攻撃を受け、魏延(ぎえん)に生け捕(ど)られて降伏した。

再度孟獲(もうかく)を捕らえる

孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))が孟獲(もうかく)に帰順を勧めると、孟獲(もうかく)は「もう1度戦って捕らえられたならば降伏する」と約束した。そこで孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))が許して帰らせると、孟獲(もうかく)は孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))との戦闘を避(さ)け、毒水が流れる瀘水(ろすい)の川岸一帯に土塁(どるい)を築いて持久戦に備(そな)えた。

その後、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は軍を大きく進めたが、時は炎熱の5月)、南方の地は特に暑さが酷(ひど)く、軍馬も人も鎧兜(よろいかぶと)を着けていられない程であった。孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は自(みずか)ら瀘水(ろすい)の岸辺に赴(おもむ)いて視察すると、瀘水(ろすい)から百里(約43km)の地に涼しい場所を探し当て、王平(おうへい)・張嶷(ちょうぎょく)・張翼(ちょうよく)・関索(かんさく)に陣を守らせ暑さを避(さ)けさせた。

そこへ蜀(しょく)(成都(せいと))から馬岱(ばたい)が解暑薬(かいしょやく)(熱中症の薬)と兵糧米を届けに来たので、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は馬岱(ばたい)に「3千の兵を率(ひき)いて瀘水(ろすい)を渡り、真っ直(す)ぐ蛮洞(ばんどう)に入って敵の糧道を断ち、董荼那(とうとな)(董荼奴(とうとぬ))と阿会喃(あかいなん)を内応させるように」と命じた。

「蜀(しょく)軍が瀘水(ろすい)を渡った」ことを聞いた孟獲(もうかく)は忙牙長(ぼうがちょう)を差し向けたが、馬岱(ばたい)に一太刀(ひとたち)に斬り殺された。次に董荼那(とうとな)(董荼奴(とうとぬ))が挑(いど)んだが、馬岱(ばたい)の罵倒(ばとう)に気(け)圧(お)されて戦わずに兵を引いたので孟獲(もうかく)は大いに怒り、董荼那(とうとな)(董荼奴(とうとぬ))を百叩きの刑とした。南蛮(なんばん)の酋長(しゅうちょう)たちは、董荼那(とうとな)(董荼奴(とうとぬ))に「孟獲(もうかく)を殺して孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))に降伏すること」を勧め、幔幕(まんまく)の中で酔いつぶれていた孟獲(もうかく)を捕らえて孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))に知らせた。

3度孟獲(もうかく)を捕らえる

董荼那(とうとな)(董荼奴(とうとぬ))らに捕らえられた孟獲(もうかく)は「戦って負けた訳ではない」ことを理由に降伏を拒(こば)んだが、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))が「蜀(しょく)軍は兵糧・武器が充実しており、孟獲(もうかく)に勝つ見込みがない」ことを見せつけると、孟獲(もうかく)は「某(それがし)1人が降伏しても意味がない。もし許して帰らせてくれるなら洞(どう)中(ちゅう)の者たちを説得し、心を1つに合わせて降伏しよう」と言うので、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は再度孟獲(もうかく)を許して帰らせた。

すると孟獲(もうかく)は一計を案じ、弟の孟優(もうゆう)に蛮兵(ばんぺい)百人を連れ、金(きん)・真珠(しんじゅ)・宝貝(たからがい)・象牙(ぞうげ)・犀(さい)の角(つの)などを積んで瀘水(ろすい)を渡らせた。「孟獲(もうかく)が弟の孟優(もうゆう)を遣(つか)わして宝物を献上に来た」との報告を受けた孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は、趙雲(ちょううん)と魏延(ぎえん)にそれぞれ耳打ちし、さらに王平(おうへい)・馬忠(ばちゅう)・関索(かんさく)を呼んで人知れず言い含(ふく)めた。

各(おの)々(おの)計略を授(さず)かって退出した後、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は孟優(もうゆう)と従者百人全員を幕中に呼び入れると、宴席を設(もう)けて諸将に酒を勧め、懇(ねんご)ろにもてなした。

しばらくして孟獲(もうかく)のところへやって来た孟優(もうゆう)の使者が言うには「諸葛亮(しょかつりょう)は進物を受け取っていたく喜び、従者を残らず幕中に招(まね)き入れ、牛や羊を料理し宴席を設(もう)けてもてなしております。二大王(にだいおう)(孟優(もうゆう))は某(わたくし)に『今夜二更(にこう)(21時〜23時)に内と外から示し合わせて大事を成(な)そうと伝えよ』と言われました」とのこと。孟獲(もうかく)は大いに喜んで、すぐさま3万の蛮兵(ばんぺい)を揃(そろ)えて3隊に分け、諸洞(どう)の酋長(しゅうちょう)たちと共に瀘水(ろすい)を渡った。

孟獲(もうかく)は腹心の蛮将(ばんしょう)百余人を引き連れて護衛とし、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))の本陣目指して進んだが、途中、1隊の敵兵にも出(で)遭(あ)わなかった。本陣に突入したがそこには人影1つなく、幔幕(まんまく)の中は燈燭(ともしび)が明るく輝いていて、孟優(もうゆう)と蛮兵(ばんぺい)たちがみな倒れていた。酒に薬が入れてあり、みな死んだように酔いつぶれていたのである。

計(はか)られたと気づいた孟獲(もうかく)が急いで孟優(もうゆう)らを助け起こし、本隊へ引き返そうとしたところ、行く手に王平(おうへい)の軍勢が現れて攻めかかった。これに大いに驚いた孟獲(もうかく)が左の隊へ奔(はし)ろうとすると魏延(ぎえん)が、慌(あわ)てて右の隊へ奔(はし)ると趙雲(ちょううん)が現れ、3方向から挟撃(きょうげき)された孟獲(もうかく)は兵たちを置き去りにして瀘水(ろすい)へと落ち延(の)びた。

折(おり)良く数十の蛮兵(ばんぺい)が小船を漕(こ)いでいるのを見つけた孟獲(もうかく)が、その小舟に乗り込んだ途端、一(ひと)声(こえ)の合図が響き渡ると、孟獲(もうかく)はたちまち縛り上げられた。孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))の計略によって馬岱(ばたい)の兵が蛮兵(ばんぺい)に扮(ふん)して待ち構えていたのである。

こうして馬岱(ばたい)が孟獲(もうかく)を、趙雲(ちょううん)が孟優(もうゆう)を、魏延(ぎえん)・王平(おうへい)・関索(かんさく)が諸洞(どう)の酋長(しゅうちょう)たちを捕らえるに至(いた)った。

4度孟獲(もうかく)を捕らえる

3度捕らえられた孟獲(もうかく)はそれでも自分の負けを認めず、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))はまた孟獲(もうかく)を許して帰らせると、蜀(しょく)軍は瀘水(ろすい)を渡った。

孟獲(もうかく)は銀坑洞(ぎんこうどう)に戻るや、すぐさま腹心の者に金(きん)・真珠(しんじゅ)・宝貝(たからがい)を持たせて蛮人(ばんじん)の諸部落に派遣し、牌(はい)(盾)と刀(かたな)を使う獠人(ろうじん)の壮丁(そうてい)(成人男子)数十万を借り受けた。勢(せい)揃(ぞろ)いの日になると、各隊の人馬は雲の如(ごと)く集まり、みな孟獲(もうかく)の指図に従った。

孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は底なし沼状の西洱河(せいじが)に竹の浮橋を架(か)けて渡ると、土を盛って城を築き、3つの大きな陣営を築いて蛮兵(ばんぺい)を待ち受けた。

一方、孟獲(もうかく)は数十万の蛮兵(ばんぺい)を率(ひき)い、怒りに燃えて西洱河(せいじが)の間近まで来ると、散々に悪態をついて挑発したが、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は応戦することを許さなかった。蜀(しょく)軍が守りを固めて数日が経(た)った頃、蛮兵(ばんぺい)たちが怠(なま)け始めたのを見て取った孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は、趙雲(ちょううん)と魏延(ぎえん)、王平(おうへい)と馬忠(ばちゅう)を呼んでそれぞれ計略を授(さず)けると、次に馬岱(ばたい)を呼んで次のように言いつけた。

「吾(わたし)は今から3つの陣を棄(す)て北岸へ撤退する。吾軍(わがぐん)が撤退したらすぐさま浮橋を解(と)いて下流に移し、趙雲(ちょううん)と魏延(ぎえん)の軍勢を渡してその後(ご)詰(づ)めをせよ」

馬岱(ばたい)が退出すると、次に張翼(ちょうよく)を呼んで、

「吾軍(わがぐん)が退去した後は、陣中に多くの燈火(あかり)を設置せよ。孟獲(もうかく)がこれに気づけば必ずや追って来る。汝(おぬし)はその退路を断て」

と言いつけた。

張翼(ちょうよく)が退出すると、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は関索(かんさく)に車の護衛をさせて陣を引き揚(あ)げた。

これ以降、関索(かんさく)は登場しない。

次の日の明け方、孟獲(もうかく)が大軍を率(ひき)いて押し寄せた時には、3つの陣屋とも人馬の姿は見えず、糧草や数百台もの車が打ち棄(す)てられていた。孟獲(もうかく)はこれを「蜀(しょく)の国内に緊急事態が起こったに違いない」と思い、自(みずか)ら先鋒(せんぽう)を率(ひき)いて西洱河(せいじが)の畔(ほとり)に駆(か)けつけた。

西洱河(せいじが)の北岸を眺(なが)め見れば、岸(きし)沿(ぞ)い一帯の土城には旗指物が整然と立ち並んでいる。孟獲(もうかく)は「これは諸葛亮(しょかつりょう)が追い撃ちを恐れてしばらく踏み留(とど)まっているのだ。2日と待たずに逃げ出すに違いない」と言うと、竹を切り出して筏(いかだ)を作り、河(かわ)を渡る準備を始めた。

この日、狂ったような大風が起こったかと思うと、四方より蜀(しょく)の軍勢が攻め寄せ、蛮兵(ばんぺい)たちは同士討ちとなった。孟獲(もうかく)は大いに驚いて、急ぎ一族の洞丁(どうてい)(兵士)を率(ひき)いて血路を開き、元の陣目指して逃げ戻ろうとしたが、趙雲(ちょううん)・馬岱(ばたい)が次々に現れ、孟獲(もうかく)に従う者はわずか数十人となって谷間へ逃げ込もうとした。

ところが、南・北・西の3方には土煙(つちけむり)と松明(たいまつ)の光が見えたので、仕方なく東へ向かって山(やま)裾(すそ)をまわった時、林の間から数十人の従者に護(まも)られて出て来た車上に、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))が威儀を正して座っていた。孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))が呵(か)呵(か)と大きく笑って、

「蛮王(ばんおう)・孟獲(もうかく)よ、天運尽きてまた負けたか。永らくここで待っておったぞっ!」

と言うと、孟獲(もうかく)は激怒し自(みずか)ら蛮兵(ばんぺい)の先頭に立って林の手前まで突進したが、カタリと音がするや1人残らず落とし穴に落ち、林の中から現れた魏延(ぎえん)の部隊に縛り上げられた。


その後孟獲(もうかく)は、合計7度、捕らえられては逃がされることを繰り返し、7度目にはついに孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))に心服した。いわゆる七縦七擒(しちしょうしちきん)である。


「関索(かんさく)」の関連記事

第3世代(関統・関彝)

関統(かんとう)

生没年不詳。司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・解県(かいけん)の人。父は関興(かんこう)。弟に関彝(かんい)。

父・関興(かんこう)の後を継ぎ、公主(こうしゅ)(劉禅(りゅうぜん)の娘)を娶(めと)った。

官は虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)に至(いた)った。


「関統(かんとう)」の関連記事

関彝(かんい)

生没年不詳。司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・解県(かいけん)の人。父は関興(かんこう)。兄に関統(かんとう)。

父・関興(かんこう)の後を継いだ関統(かんとう)には子がなかったので、関興(かんこう)の庶子(しょし)(妾(めかけ)の子)の関彝(かんい)が爵位を継いだ。

(関羽(かんう)に処刑された)龐徳(ほうとく)の子・龐会(ほうかい)は、鍾会(しょうかい)・鄧艾(とうがい)に従って蜀(しょく)を討伐し、蜀(しょく)が敗北すると関氏(かんし)の血統をことごとく滅ぼした。

備考

上記の「龐会(ほうかい)が関氏(かんし)の血統をことごとく滅ぼした」というのは『蜀書(しょくしょ)』関羽伝(かんうでん)が注に引く『蜀記(しょくき)』によるが、『新唐書(しんとうしょ)』宰相(さいしょう)世系(せいけい)5下(げ)には、

関氏(かんし)の出自は商(しょう)(殷(いん))の大夫(たいふ)・関龍逢(かんりょうほう)の後裔(こうえい)である。蜀(しょく)の前将軍(ぜんしょうぐん)・漢寿亭侯(かんじゅていこう)・羽(う)(関羽(かんう))は侍中(じちゅう)・興(こう)(関興(かんこう))を生み、その後裔(こうえい)は信都(しんと)(冀州(きしゅう)・安平国(あんぺいこく)・信都県(しんとけん))に居住した。裔孫(えいそん)(遠い子孫)の播(はん)(関播(かんはん))は(唐(とう)の)徳宗(とくそう)の相(しょう)(宰相(さいしょう))となった。関氏(かんし)の中で宰相(さいしょう)となった者は、ただ一人・播(はん)(関播(かんはん))のみである。

とあり、関氏(かんし)の血統は残ったようである。


「関彝(かんい)」の関連記事


スポンサーリンク


【三国志人物伝】総索引