正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(85)[管亥・管叔(管叔鮮)・管承・管統・管篤]です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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か(85)管
管(かん)
管亥
生没年不詳。青州の黄巾。
初平4年(193年)頃、青州の黄巾が反乱を起こして乱暴を働いていたことから、北海相(北海国の太守)の孔融は軍を進めて青州・北海国・都昌県に軍営を置いたが、そこで青州の黄巾・管亥の包囲を受けた。
ちょうどこの時、青州の役人に憎まれて幽州・遼東郡に避難していた太史慈が、たまたま北海国に帰って来た。すると太史慈の母は、息子の留守中に孔融に手厚い待遇を受けていたことから、太史慈に「孔融を救う」ように言い、太史慈は母の元に3日間だけ留まった後、1人徒歩で孔融が籠もる都昌県に赴いた。
包囲は日ごとに厳しくなり、孔融は平原相(平原国の太守)の劉備に危急を告げたいと思ったが、城中に敵の包囲を突破できる者がいなかった。そこで太史慈は自ら志願して劉備に危急を告げ、劉備から精鋭兵3千人を与えられた。
太史慈の兵が来たと聞くと、管亥は包囲を解いて散り散りに逃げ去った。
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管叔(管叔鮮)
生没年不詳。管叔とも称される。父は周の文王。母は文王の正妃・太姒(禹の子孫・姒氏の女)。同母兄弟は10人。兄に伯邑考、武王発。弟に周公旦、蔡叔度、曹叔振鐸、成叔武、霍叔処、康叔封、冉季載。
管に封ぜられる
文王の跡を嗣いだ武王は、殷の殷王に克って天下を平定すると功臣や兄弟を諸侯に封じたが、この時、叔鮮は管(司隷・河南尹・新鄭県)に封ぜられた。故に管叔鮮というのである。
管に封ぜられた管叔鮮と蔡[豫州(予州)・汝南郡・上蔡県]に封ぜられた蔡叔度は、殷の殷王の子・武庚禄父を補佐して殷の遺民を治めた。
三監の乱
武王が崩御すると、その跡を嗣いだ成王がまだ幼少であったため、周公旦が王室の権を専らとした。管叔鮮と蔡叔度は「周公旦の振る舞いは成王にとって不利となる」と疑って、武庚禄父を擁して乱を起こした。
成王の命を受けた周公旦は、これを討伐して武庚禄父と管叔鮮を誅殺し、蔡叔度は車10乗と歩兵70人を与えて放逐したが、蔡叔度はそこで亡くなった。
管叔鮮は乱を起こし誅殺されて子孫がなかったが、蔡叔度の子・胡は後に蔡国の復興を許されて蔡叔度の祭祀を継承した。これが蔡仲である。
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管承
生没年不詳。青州・東萊郡・長広県の人。
豫州(予州)・汝南郡・城父県の県令であった何夔が青州・長広郡*1の太守として赴任した当初*2、長広県では海賊の管承が手下の3千余家を率いて乱暴を働いていた。
長広郡*1の山と海に沿った地域は未だに黄巾が平定されておらず、豪傑たちの中には離反する者が多くいたが、青州を治めていた袁譚は彼らを放置してそのまま官位を授けていたのである。
人々が「兵を挙げて管承らを討伐して欲しい」と進言すると、何夔は次のように言った。
「管承らは生まれつき乱を楽しんでいるのではなく、乱に慣れてしまって自分では元に戻れなくなっているのであり、また道徳の教えを受けたことがないから、善に目覚める方法を知らないのだ。今、兵をもって厳しく迫れば、彼らは滅ぼされることを恐れて必ずや力の限り戦うはずである。これを攻めても容易には抜けず、勝ったとしても必ずや吏民に被害が出るだろう。ここは恩徳をもってゆっくりと教え諭し、自らの過ちに気づかせるべきである。兵を煩わせなくとも平定することができよう」
そこで郡丞(太守の次官)の黄珍を派遣して事の利害を説かせると、管承らはみな帰服し、何夔は役人の成弘を派遣して(彼らを指揮する)校尉とした。
建安11年(206年)秋8月、曹操は東征して青州・北海国・淳于県に至ると、楽進と李典を派遣して管承を撃破し、管承は海中の島に逃げ込んだ。
その後の消息は不詳。
脚注
*1『資治通鑑』胡三省注に「青州・東萊郡・長広県。当時、曹操は楽進を青州に侵入させ、長広県を収めて郡とした」とある。
*2袁譚が青州を治めていたのは、建安元年(196年)〜建安8年(203年)。
また『魏書』何夔伝が注に引く『魏書』に「劉備が叛いて以降、東南には事変が多かった。そこで太祖(曹操)は陳羣を酇県令に、何夔を城父令とし、その他の諸県もみな名士を起用して鎮撫すると、官吏・民衆は次第に落ち着いた」とある。
劉備が曹操に叛いたのは建安4年(199年)であるから、建安5年(200年)前後と思われる。
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管統
生没年不詳。袁譚配下の東萊太守、楽安太守。
袁譚への忠義
建安7年(202年)に袁紹が死ぬと、その子・袁譚と袁尚は仲違いするようになり、袁尚が袁譚を攻撃した。袁譚の軍が敗れると、(袁譚配下の)劉詢が青州・平原国・漯陰県(湿陰県)で兵を起こし、諸城はみなこれに応じた。
袁譚が嘆息して「州を挙げて離反された今、孤の不徳が明白となったわっ!」と言うと、王脩(王修)は「海岸地域にいる東萊太守の管統は、背くような男ではありません。必ずや、(救援に)やって来るでしょう」と言った。
それから10日余りすると、果たして管統は妻子を棄てて袁譚の元にやって来たが、管統の妻子は賊によって殺されてしまった。袁譚は改めて管統を楽安太守に任命した。
曹操に仕える
その後袁譚は、王脩(王修)の諫めを聞かずに袁尚と争い続け、劣勢となった袁譚は曹操に降伏して袁尚を幽州に逃亡させるが、袁尚の軍兵を併合したことで曹操に盟約違反とされ、曹純に討ち取られた。
王脩(王修)が「袁譚の遺体を引き取って埋葬したい」と申し出ると、曹操は彼の義心を嘉みして願いを聞き届け、督軍糧(兵糧監督官)に任命して青州・楽安国に還らせた。
袁譚が敗れると諸城はすべて降伏したが、ただ管統だけは青州・楽安国・楽安県に立て籠もって命令に服従しなかった。
曹操は王脩(王修)に管統の首を取って来るように命じた。王脩(王修)は「管統が亡国の忠臣である」ことから、彼の縛めを解いて曹操の元に出頭させると、曹操は上機嫌で彼を赦免した。
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管篤
生没年不詳。呉の校尉。
黄龍元年(229年)夏4月丙申(7日)の日、孫権は(都・建業の)南郊で皇帝に即位した。
5月、孫権は校尉の張剛と管篤を幽州・遼東郡に派遣し(て、公孫淵に皇帝に即位したことを伝え)た。
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