正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(87)(関靖・関龍逢)です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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か(87)関
関靖・関龍逢
関靖・士起
生年不詳〜建安4年(199年)没。幷州(并州)・太原郡の人。公孫瓚の長史。
公孫瓚の慢心
関靖は元々酷吏*1であって、媚びへつらうばかりで大謀(長期的な計謀)を持っていなかったが、公孫瓚から特に信頼され可愛がられていた。
初平4年(193年)に対立する大司馬・劉虞を殺害した公孫瓚は、慢心して善行を忘れ多くの者を殺傷した。
これに劉虞の従事・鮮于輔、斉周、騎都尉・鮮于銀らは、燕国出身の閻柔を烏丸司馬に推し立てて公孫瓚に復讐しようとした。閻柔は烏丸族と鮮卑族に誘いをかけ、異民族・漢人合わせて数万の兵を手に入れると、公孫瓚が配置していた漁陽太守の鄒丹と潞北で交戦し、大いに撃ち破って鄒丹を斬った。
脚注
*1法律を威にかざし、人に罪を被せて処罰・処刑する役人に対する蔑称。
鮑丘の戦い
興平2年(195年)、袁紹は配下の麴義と劉虞の子・劉和に兵を与え、鮮于輔らと共に合計10万の兵で公孫瓚を攻撃して鮑丘(川の名前:鮑丘水・路水)で破り、2万余人を斬首した。
公孫瓚は易京に敗走して守備を固め、袁紹は大将を派遣してこれを攻撃させたが、数年経っても陥落させることができなかった。
公孫瓚はさらに防備を固めて戦に備えると、関靖に言った。
「今、四方では群雄たちが激しい争いを繰り広げているが、吾城下に居座り長年にわたって対峙できる者がいないことは明らかである。袁本初(袁紹)などに我をどうすることもできまいっ!」
易京の戦い
建安4年(199年)、袁紹が全軍を挙げて易京を包囲すると、公孫瓚は黒山賊に救援を要請し、自らも突騎兵を率いて包囲を突破して、袁紹の背後を断ち切ろうとした。
すると長史の関靖は、
「今、将軍(公孫瓚)の将兵は総崩れとなっております。それでも彼らがなんとか持ち堪えているのは、自分の住居や老人・子供を案じ、将軍(公孫瓚)を主君と仰いでいるからに過ぎません。将軍(公孫瓚)が長期にわたって固守しておられましたならば、必ずや袁紹は自分の方から撤退するに違いありません。袁紹が撤退すれば、四方の軍勢は必ずやまた集まって来るでしょう。もし今、将軍(公孫瓚)がこれを見捨てて出て行かれましたならば、軍は重鎮を失い、易京は立ち所に危機に瀕することになるでしょう。本拠地を失い草野に孤立して、一体何が成せると言うのでしょうかっ!」
と説得し、ついに公孫瓚は出撃を中止した。
関靖の死
その後、袁紹が地下道を掘って公孫瓚が築いた10重の城楼を突き崩し、彼が居住する中央の土山へと近づくと、公孫瓚は「敗北を免れぬ」と悟り、その妻子をことごとく殺害して自殺した。
この時関靖は、
「『君子は他人を危難に陥れた場合には、必ずその人と運命を共にする』と聞いている。どうして私1人生きていられようかっ!」
と言うと、馬に鞭打ち袁紹軍に突入して戦死した。
その後、関靖らの首はみな袁紹によって豫州(予州)・潁川郡・許県に送り届けられた。
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関龍逢
生没年不詳。夏の最後の王・桀王の臣下。殷の紂王を諫めて殺害された比干と共に忠臣の代表とされる。
夏の桀王は、瑤台*2の台上から「炮烙*3の刑」が執行されているのを観ていたが、ふと関龍逢に話しかけた。
桀王「楽しいか?」
関龍逢「楽しいです!」
桀王「お前は今、刑罰の執行を観るのは楽しいと言ったが、同情や憐憫の心はないのか?」
関龍逢「天下の民は苦しんでいても、王(桀王)は楽しんでおられます。臣下は王の股肱(手足)でございますから、心が悦んでおられるのに股肱(手足)が悦ばないということがありましょうか?」
桀王「お前の諫言を聴こう。だが、諫言を聴いて我に得るものがなければ、お前にも刑罰を加えようぞ」
関龍逢「臣が王の冕を観ますに、冕ではなく危石(背の高い大きな岩)を冠っているようにみえます。また王の足元を観ますに、春の薄い氷の上に立っているようにみえます。危石(背の高い大きな岩)を頭に乗せて押し潰されない者はなく、春の薄い氷を踏んで水に落ちない者はおりません」
これを聞いた桀王は嘆いて言った。
「お前は我が死ぬことを知っているらしいが、自分が死ぬことを知らないらしい。吾はお前が炮烙*3の刑で死ぬところを観ることができるが、お前が我の死を知ることはない」
すると関龍逢は、
「造化*4は働かせるために我に生命を与え、休ませるために我に炮烙*3を与えられた(造化勞我以生,休我以炮烙)」
と辞世の詩を詠み、自ら火の中に赴いて死んだ。
脚注
*2玉をちりばめた立派な高殿。
*3炮烙の刑。諸説あり、「炭火の上に油を塗った銅柱を渡し、罪人にその上を歩かせて火中に落とす」または「罪人を銅の柱に縛りつけ、その銅柱を火で熱して焼き殺す」という刑罰。『全相平話武王伐紂書』の挿し絵には後者が描かれている。
*4万物を創造する造物主、天地、自然。
備考
- 以上は『太平御覧』皇王部7・帝桀が注に引く『符子』より。
- 関龍逢の死には諸説あり、『楚辞』には「首を刎ねられた」とあり、『韓非子』には「四肢を斬られた」とある。
- 『新唐書』宰相世系5下には「商(殷)の大夫・関龍逢」とあり、河東関氏(関羽の家系)の始祖とされている。
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