正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(96)(韓晏かんあん韓胤かんいん韓観かんかん韓起かんき韓晞かんき韓誼かんぎ韓莒子かんきょし)です。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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か(96)

韓(かん)

韓晏かんあん

生没年不詳。揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん永寧県えいねいけん県長けんちょう

建安けんあん元年(196年)、揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん侯官県こうかんけん県長けんちょう商升しょうしょうは、孫策そんさくに敗れて東冶県とうやけんに逃げ込んだ王朗おうろうのために孫策そんさく討伐の兵を起こした。

これに孫策そんさく揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん永寧県えいねいけん県長けんちょう韓晏かんあん南部都尉なんぶといに任命して討伐に向かわせ、代わりに賀斉がせい永寧県長えいねんけんちょうに任命したが、韓晏かんあん商升しょうしょうに敗れ、代わって賀斉がせい南部都尉なんぶといに任命された。


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韓胤かんいん

生没年不詳。袁術えんじゅつ配下。

建安けんあん2年(197年)5月、袁術えんじゅつ徐州じょしゅう呂布りょふと手を結びたいと思い、「呂布りょふの娘を自分の息子の嫁に欲しい」と伝え、呂布りょふの同意を得た。そこで袁術えんじゅつは、韓胤かんいんを使者に立てて「自分が天子てんし(皇帝)に即位したこと」を告げると共に、呂布りょふの娘を迎えに行かせた。

これに沛相はいしょう豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく太守たいしゅ]の陳珪ちんけいは「袁術えんじゅつ呂布りょふが姻戚となって徐州じょしゅう楊州ようしゅうが連合することになれば、国家のわずらいとなるだろう」と憂慮ゆうりょし、これを阻止しようと呂布りょふの元におもむいて次のように言った。

曹公そうこう曹操そうそう)は天子てんし献帝けんてい)をむかえたてまつり、国政を補佐され、その輝かしい威光は当代を風靡ふうびし、四海の内を征伐されようとしておられます。将軍しょうぐん呂布りょふ)には曹公そうこう曹操そうそう)と計画を共にされ、泰山たいざんのようにどっしりとした安定を得るようお考えになるべきです。今、袁術えんじゅつと婚姻を結ばれましたならば、天下から不義の汚名を着せられ、積み重ねた卵のような危険な事態をまねくに違いありません」

すると呂布りょふは、以前袁術えんじゅつが自分を受け入れてくれなかったことを思い出し、すでに出発していた娘を追いかけて連れ戻すと、袁術えんじゅつとの婚約を破棄した。

袁術えんじゅつの使者であった韓胤かんいんかせをつけられて護送され、豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけんの市場でさらし首にされた。


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韓観かんかん曼遊まんゆう

生没年不詳。幽州ゆうしゅう燕国えんこくの人。

見識と才能を有していた。

徐邈じょばくと同等の名声があって孫礼そんれい盧毓ろいくよりも上に評価され、豫州刺史よしゅうししとなって大きな治績を残したが、在職のまま亡くなった。

黄門侍郎こうもんじろうう杜恕とじょの上奏に、

韓観かんかん王昶おうちょうは共に多くの才能を有しており、高官・重任こそ相応ふさわしく、3州の刺史ししとどめておくべき者たちではありません」

とある。


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韓起かんき公孫淵こうそんえん将軍しょうぐん

生没年不詳。公孫淵こうそんえん将軍しょうぐん公孫淵こうそんえん燕王えんおうに封ずるための孫権そんけんの使者を攻撃した。

以下詳細

太和たいわ2年(228年)に公孫恭こうそんきょうを脅迫して位を奪い取った公孫淵こうそんえんは、明帝めいてい曹叡そうえい)から揚烈将軍ようれつしょうぐん遼東太守りょうとうたいしゅに任命されておきながら、南方に使者をつかわし贈り物をおくって孫権そんけんと通じ、孫権そんけんは、

  • 張弥ちょうび
  • 許晏きょあん
  • 中郎将ちゅうろうしょう万泰ばんたい
  • 軍将ぐんしょう賀達がたつ
  • 校尉こうい裴潜はいせん
  • 軍将ぐんしょう虞諮ぐし虞咨ぐし

らをつかわして金・玉・珍宝を届け、公孫淵こうそんえん燕王えんおうに封じようとした。

幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐん沓津とうしんに到着すると、張弥ちょうび許晏きょあん万泰ばんたい裴潜はいせんは官吏と兵400余人を引き連れ、文書・命服(官服)・什物じゅうもつたずさえて船を下り、軍将ぐんしょう賀達がたつ虞諮ぐし虞咨ぐし)は残りの軍兵を従えて船が停泊している場所にとどまっていた。

この時、公孫淵こうそんえんは「孫権そんけんが遠方のためたのみにならないことを恐れ、また財物が欲しかった」ことから張弥ちょうびらを包囲して斬ると、将軍しょうぐん韓起かんきらに三軍を統率させて沓津とうしんに向かわせた。

一方、沓津とうしんでは長史ちょうし柳遠りゅうえん賓客ひんかくを迎える儀礼を整えさせ、賀達がたつ虞諮ぐし虞咨ぐし)をまねき寄せて馬や貨物を用意して交易を求めさせた。

ところが賀達がたつ虞諮ぐし虞咨ぐし)は疑心をいだいて下船せず、商人5〜6百人を下船させて交易させようとしたところ、公孫淵こうそんえん将軍しょうぐん韓起かんきらが鐘太鼓を打ち鳴らし、彼ら目がけて矢を乱発した。3百余級が斬首され、負傷して海に飛び込んで溺死できしした者2百余人、その他は、投降したり山や谷に散り散りに逃げ込んだ末にえ死にした。


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韓晞かんき

生年不詳〜建安けんあん4年(199年)没。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんの人。劉表りゅうひょう配下。

建安けんあん4年(199年)、袁術えんじゅつ劉表りゅうひょう討伐の詔勅しょうちょくを受けた孫策そんさくは、夏口かこうまで軍を進めて黄祖こうそに攻撃をかけた。

この時、荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうは、従子おい劉虎りゅうこ荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん出身の韓晞かんきが指揮する長矛ながほこ部隊・5千人を派遣して、沙羡県さいけんに陣をいた黄祖こうそ軍の先鋒せんぽうとしていたが、孫策そんさく軍と戦って大いに撃ち破られた。

この戦いにおいて、劉虎りゅうこ韓晞かんきをはじめ2万余の首級が斬られ、水にはまって溺死できしした者は1万余名。黄祖こうそはただ1人逃亡し、彼の妻や息子たち男女7人が捕虜となった。


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韓誼かんぎ

生没年不詳。

前漢ぜんかんえん剌王らつおう劉旦りゅうたん武帝ぶていの第3子)が謀反むほんを計画した際に諫言かんげんして処刑されたが、その子は漢朝かんちょうにおいて高官として登用された。


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韓莒子かんきょし

生年不詳〜建安けんあん5年(200年)没。袁紹えんしょう配下の騎督きとく

建安けんあん5年(200年)10月、官渡かんとにおいて袁紹えんしょうと対峙していた曹操そうそうもと袁紹えんしょう謀臣ぼうしん許攸きょゆうが身を寄せて来ると、曹操そうそう許攸きょゆうの進言を受け入れ、みずから5千人の歩兵・騎兵を指揮して「袁紹えんしょう軍の輜重しちょう(輸送物資)の集積地」である烏巣うそうを強襲した。

曹操そうそうは散々にこれを撃ち破ると糧穀りょうこく宝貨ほうかことごとくを焼き払い、督将とくしょう眭元進すいげんしん騎督きとく韓莒子かんきょし呂威璜りょいこう趙叡ちょうえいらの首を斬り、将軍しょうぐん淳于仲簡じゅんうちゅうかん淳于瓊じゅんうけい)の鼻をいだ。


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【三国志人物伝】総索引