正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(95)韓信です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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か(95)韓信
韓信
韓信
生年不詳〜漢の11年(紀元前196年)没。東海郡・淮陰県の人。
不遇の日々
出自
韓信の家は貧しく善行もなかったため、官吏に推挙してもらうことができなかった。また商売をして生計を立てることもできず、いつも人に従い寄食(居候)していた。
母が亡くなった時でさえ葬儀もできなかったが、髙燥な地(高所にあって乾燥している土地)に墓をつくり、将来その傍らに1万家の墓守を置けるようにした。
居候暮らし
韓信が淮陰県の下郷にある南昌亭の亭長の家に寄食(居候)していた時のこと。
亭長の妻はこれを苦々しく思い、ある日、わざと朝早く朝食をつくって寝床の中で食べた。
食事時になって、自分の食事が用意されていないことに気づいた韓信は、その意味を悟り、自ら絶交して亭長の家を去った。
漂母の施し
韓信が城下で釣りをしていた時のこと。
水に錦を漂していた老婆が韓信を憐れんで飯を食べさせてやったが、それは漂しが終わるまで数十日間続いた。
そこで韓信が「吾は必ずあなたに厚く恩返しをするよ」と言うと、老婆は「大の男が自分の力で食べられもしないくせに。吾はお前さんを憐れんで飯を食べさせただけのこと。どうして恩返しなど望むものかっ!」と言った。
韓信の股くぐり
ある時、淮陰県の若者がまた韓信を侮って、
「でかい図体をして嬉しそうに刀剣を帯びているが、本当は臆病なだけだろう」
と言いい、また衆人の面前で韓信を辱め、
「死せるなら我を刺してみろ。死せないのなら我の股の下をくぐれ」
と言った。すると韓信はその若者をじっと見つめ、腹ばいになって股の下をくぐった。
これを見た市中の人々はみな、韓信を臆病者だと嘲り笑った。
楚に仕える
項梁が淮水を渡ると、韓信は剣を杖として項梁に従いその麾下に入ったが、まだ名前を知られていなかった。
項梁が敗れると、また項羽に属して郎中となった。韓信はしばしば策を献じたが、項羽は用いなかった。
漢に仕える
夏侯嬰に見出される
漢王(劉邦)が蜀(漢中郡)に入ると、韓信は楚(項羽)から逃亡して漢(劉邦)に帰順したが、そこでもまだ名前を知られることはなく、連敖(接待係)という低い官職を得ただけであった。
ある罪に連座して斬首の刑を言い渡され、すでにその同輩13人が斬られて韓信の順番となった。韓信が面を上げて仰ぎ見ると、たまたま滕公(夏侯嬰)の姿が目に入り、
「漢王(劉邦)は天下の大業成就を望まれず、あたら壮士を斬られるのかっ!」
と言った。滕公(夏侯嬰)はその言葉を奇(非凡)、容貌を壮(勇壮)と認め、韓信を釈して斬らず、語り合って大いに気に入ると、そのことを漢王(劉邦)に言上した。
漢王(劉邦)は韓信を治粟都尉に任命したが、まだそれほど高く評価してはいなかった。
漢の大将軍となる
韓信はしばしば蕭何と語り合ったが、蕭何は彼を優れた人物と評価していた。
漢王(劉邦)が漢中郡・南鄭県に都した時、諸将の中には(辺境の地を嫌って)逃亡する者が数十人もいたが、韓信も「蕭何らが何度も推薦してくれたにも拘わらず用いられなかった」ため、すぐに逃亡した。
蕭何は「韓信が逃亡した」ことを聞くと、漢王(劉邦)に黙って自ら韓信の後を追った。
それを見た者が「丞相の蕭何が逃亡しました」と言上すると、漢王(劉邦)は大いに怒り、また左右の手を失ったかのように落胆した。
それから1〜2日経って蕭何が謁見にやって来ると、漢王(劉邦)は怒りつつも喜び、蕭何を罵って言った。
漢王(劉邦)「お前が逃げるとはどういうことだ?」
蕭何「臣は逃げたのではありません。逃げた者を追っていたのです」
漢王「誰を追ったのか?」
蕭何「韓信です」
するとまた漢王(劉邦)は、蕭何を罵って言った。
漢王「諸将の中から逃亡者が数十人もあったというのに、お前は誰一人追わなかった。韓信を追ったというのは詐りであろう」
蕭何「(あの程度の)諸将を得るのは容易ですが、韓信は国士無双*1です。王(劉邦)がいつまでも漢中王のままで満足なされるなら、韓信を用いる必要はありません。ですがもし、天下を争おうとお望みであれば、韓信の他に共に事を計れる者はおりません。すべては王(劉邦)のお考え次第です」
漢王「吾も東方に進出して天下を争うことを望んでいる。どうしていつまでも鬱々とこの地に留まっておられようか?」
蕭何「王(劉邦)のお考えが東方進出におありならば、韓信を用いるべきです。韓信は用いるならば留まり、用いないのならば逃亡するだけのことです」
漢王「お前の言う通り、韓信を将軍として用いよう」
蕭何「ただ将軍とするだけでは、韓信は留まらないでしょう」
漢王「では大将軍にしよう」
蕭何「それがよろしいでしょう」
そこで漢王(劉邦)が韓信を召して大将軍に任命しようとすると、蕭何は言った。
「王(劉邦)は以前から傲慢で礼をわきまえておられません。
今、大将軍を任命されようという時に、小児を呼びつけるようになさるなら、それこそ韓信が去る所以です。
王(劉邦)が必ず韓信を任命しようと望まれるのであれば、吉日を択んで斎戒*2し、壇場を設けて礼を具えられるべきです」
漢王(劉邦)がこれを承諾すると、諸将はみな喜んで、それぞれに「自分が大将軍に任命されるのだ」と期待したが、大将軍を拝命したのは韓信だったので、軍の全員が驚いた。
脚注
*1国中で並ぶ者がないほど優れた人物のこと。
*2飲食や行動を慎んで心身を清めること。
韓信の項王(項羽)評
任命の礼が終わって上座に着くと、漢王(劉邦)は韓信に、
「丞相・蕭何はしばしば将軍(韓信)を推挙していたが、将軍(韓信)はどのような計策を寡人に教えてくれるのだろうか?」
と言った。韓信は任命に感謝し、漢王(劉邦)に問うて言った。
韓信「東に向かって天下の実権を争われるならば、今やその相手は項王(項羽)ではないでしょうか?」
漢王「その通りだ」
韓信「大王(劉邦)ご自身は、勇悍さや仁強さにおいて、項王(項羽)とどちらが優れているとお考えでしょうか?」
漢王(劉邦)はしばらく黙り込んだ後で「(吾は)項王(項羽)には及ばない」と答えた。すると韓信は再拝し、漢王(劉邦)の答えを祝福して言った。
「信もやはり大王(劉邦)が及ばないと存じます。ですが臣は項王(項羽)に仕えたことがございますので、項王(項羽)の人となりを申し上げてみましょう。
項王(項羽)が怒声を発すれば千人がみなひれ伏すほどですが、賢将を信頼して任せることができません。これでは『匹夫の勇』に過ぎません。
また一方で項王(項羽)は、人と会う時には恭しく言葉遣いも穏やかで、人が病気になれば涙を流して飲食を分け与えますが、人を使って功績ある者に封爵すべき時には、印を授けるのを惜しみ、印を弄んで摩滅するまで躊躇します。これを『婦人の仁』と申します。
項王(項羽)は天下に覇を唱えて諸侯を臣従させましたが、関中に居住せずに泗水郡・彭城県に都を置きました。
また、義帝との約束に背き、私情を差し挟んで諸侯を王に封じたため、多くの者が不満を抱いています。
諸侯は『項王(項羽)が義帝を江南に放逐したこと』に倣い、封国に帰るとみな旧主を放逐し、良い土地を奪って王になりました。
項王(項羽)の軍が通過した地域で滅ぼされなかった所はなく、百姓は怨み従わず、ただその軍威に脅され服従を強いられているに過ぎません。
項王(項羽)は『覇者』と呼ばれてはいても、その実、天下の人心を失っており、その強さは脆いものなのです。
今、大王(劉邦)が項王(項羽)のやり方とは反対に、天下の武勇の士を信任なされるならば、どこに誅伐できない敵がいるでしょうかっ!
その上で功臣を天下の城邑に封ぜられますならば、心服しない者がいるでしょうかっ!
大義名分をもって、東方への帰郷を願う将士を従えられますならば、どうして敗れ散らない敵がいるでしょうかっ!
また、三秦の王(章邯・司馬欣・董翳)は秦の将軍として秦の子弟を率いること数年に及び、彼らが殺戮した人命は数え切れないほどです。
彼らはその軍勢を欺いて諸侯に降伏しましたが、三川郡・新安県に至ると、項王(項羽)によって降兵20余万人は穴埋めにされ、ただ章邯・司馬欣・董翳だけがその難を脱したのです。
今、楚は武威をもってこの3人を王に強いておりますが、彼らに対する秦の父兄の怨みは骨髄に徹しておりますので、秦の民に愛されておりません。
これに対して、大王(劉邦)が武関から入られた際には、毛ほども民を害することなく、秦の苛烈な法令を廃し、秦の民とただ『三章の法*3』を約束されただけでしたので、秦の民で大王(劉邦)を秦の王として戴くことを望まない者はおりません。
諸侯との約束では、大王(劉邦)が関中で王となられるのが当然ですし、関中の民も家ごとにみなそのことを知っています。
それなのに、大王(劉邦)が項王(項羽)のために正当な職を失って蜀に入られたので、秦の民でこのことを恨まない者はありません。
今、大王(劉邦)が大挙して東征なさいますならば、三秦の地は檄を伝えるだけで平定することができるでしょう」
この言葉に漢王(劉邦)は大いに喜び、韓信を手に入れることが遅かったことを悔やみ、ついに韓信の計を聴き入れて、諸将の撃つべき部署(攻撃目標)を定めた。
脚注
*3人を殺した者は死刑とし、人を傷つけた者、人の物を盗んだ者は罰するという3つの法。
漢王(劉邦)の挙兵
漢の元年(紀元前206年)8月、漢王(劉邦)は挙兵して東の内史・陳倉県に出撃し、三秦の地を平定した。
漢の2年(紀元前205年)、函谷関を出て魏・河南地方を手に入れ、韓王・殷王らはみな降伏した。
4月、斉・趙と共に楚の泗水郡・彭城県を攻撃させたが、漢軍は敗れて散り散りになって逃げ還った。
韓信は再度兵を取りまとめて漢王(劉邦)と三川郡・滎陽県で合流し、再び楚を攻撃して南の京県と索県の間で破ったので、楚軍は西進することができなかった。
魏・代の平定
漢王(劉邦)が泗水郡・彭城県で敗退した時、塞王・司馬欣と翟王・董翳は漢から逃亡して楚に降り、斉・趙・魏もまた、みな漢に叛いて楚と和睦した。
漢王(劉邦)は酈生(酈食其)を派遣して魏王・魏豹を説得させようとしたが、魏豹は聞き入れなかった。
8月、漢王(劉邦)はやむを得ず、韓信を左丞相に任命して魏を攻撃たせた。そこで韓信が酈生(酈食其)に「魏は周叔を大将に用いるだろうか?」と問うと、酈生(酈食其)は「栢直でしょう」と答えた。すると韓信は「豎子(青二才)だな」と言い、ついに兵を進めて魏を攻撃した。
魏は盛兵を河東郡・蒲阪県に配置し、対岸の内史・臨晋県を封鎖した。韓信は疑兵をもって大軍であるかのように見せかけると、船を並べて臨晋県から渡る振りをし、その一方で、秘かに木罌缶(木製の瓶を並べて縛った筏)を使い、北の夏陽県から兵を渡らせて、河東郡・安邑県を襲撃した。
魏王・魏豹は驚き、兵を率いて韓信を迎え撃ったが、韓信はついに魏豹を捕らえて河東郡を平定し、漢王(劉邦)に人を遣わして言上した。
「3万人の増兵を願います。臣は北に燕・趙を挙げ、東に斉を撃ち、南に楚の糧道を絶ち、大王(劉邦)と西の三川郡・滎陽県でお会いしたいと存じます」
そこで漢王(劉邦)は韓信に兵3万人を与えると、張耳を遣わして韓信と共に東北の趙・代を攻撃させた。9月、韓信と張耳は代を破って(代の宰相・)夏説を上党郡・閼与で生け捕った。
韓信が魏・代を降すと、漢王(劉邦)はその度に人を遣ってそれらの精兵を手中に収め、滎陽県に移して楚軍を防がせた。
趙の平定
成安君・陳余の過ち
韓信と張耳は兵数万を率いて東の恒山郡・井陘県に攻め下り、趙を攻撃しようとした。趙王・趙歇と成安君・陳余は「漢軍が今にも来襲しようとしている」と聞くと、20万と号する兵を井陘口*4に集結させた。
そこで広武君・李左車は成安君・陳余に説いて言った。
「漢の将軍・韓信は、西河(黄河)を渡って魏王・魏豹を捕らえ、上党郡・閼与で(代の宰相・)夏説を生け捕りにしたばかりと聞いております。
今、補佐の張耳と謀議して趙を降そうとしていますが、勝ちに乗じて本国を離れ遠方で戦う鋭鋒には、当たるべからざる勢いがあります。
『千里の彼方から糧食を運んでいるようでは兵士の顔に飢餓の色が現れ、薪を取り草を取ってから炊事するようでは、軍の腹を満たすことはできない』と言います。
今、井陘県の道は(狭いため)車も騎馬も隊列を組んで進むことができません。そのような行軍が数百里も続けば、勢い糧食を運ぶ輜重は必ずや後方に位置するでしょう。
臣に奇兵(奇襲部隊)3万をお貸しいただければ、間道から敵の輜重を絶ち切ります。貴殿は溝を深くし、塁を高くして堅く守って敵と合戦なさらないでください。そうすれば、敵は進んで戦うこともできず、退こうにも退けません。
そこへ吾の奇襲部隊がその背後を絶ち、敵に略奪の場を与えないようにすれば、10日も経たないうちに韓信・張耳両将の首を麾下(陣所)に持参することができます。
どうか臣の計にご留意なさいませ。さもなければ、必ずや(あなたは)両将軍に生け捕られてしまうでしょう」
儒者の成安君・陳余は常に「正義の戦」を標榜し、詐謀・奇計を用いなかったので、
「兵法に『10倍であればこれを包囲し、2倍ならば戦え』とある。今、韓信の兵は数万と号してはいるがその実それ程多くはなく、千里の彼方から我軍を襲うのだから、すでに疲労しているだろう。
今、このような敵さえ避けて撃たないならば、今後、大軍を相手にする場合には、一体どう対処するのか。もし諸侯が我が国をは臆病と見れば、軽んじて我が国を伐ちにやって来るだろう」
と言って、広武君・李左車の策を聴き入れなかった。
脚注
*4河北平原から太行山脈を越えて山西に通ずる8つの峠道(太行八陘)の内の1つ。恒山郡・井陘県の北にあり、四面が高く中央が低くなっている。土門口とも言う。
背水の陣
韓信が間諜を放って探らせたところ、戻って「広武君・李左車の策が用いられない」ことを報告した。韓信は大いに喜んで、直ちに敢然と兵を率いて攻め下り、井陘口*4の手前30里(約12.5km)の地に宿営した。
その日の夜中、韓信は軽装の騎兵2千人を選んで1人に1本ずつ赤い幟を持たせ、「間道から敵に近づき、山陰に隠れて趙の軍営を望見する」ように命じ、戒めて言った。
「趙は我が軍が敗走するのを見れば、必ずや塁壁を空にして追撃するに違いない。(敵が塁壁を出たら、)お前たちはいち早く趙の塁壁に侵入し、趙の幟を引き抜いて漢の赤い幟を立てよ」
また、裨将(副将)に「全軍に軽食を配る」ように命じ、「今日、趙軍を破ってから一緒に会食しよう」と言うと、諸将はみな半信半疑であったが、「了解しました」と答えた。
また、韓信は軍吏に言った。
「趙軍はすでに有利な地に塁壁を築いている。それに彼らは我が大将の旗鼓を見ないうちは、我が先陣を攻撃しようとはしないだろう。険阻な地点まで来て、吾が引き返すことを恐れているのだ」
こうして韓信は、兵1万を先発させて水を背に陣を布かせたが、趙軍はこれを眺め見て大いに笑った。
その夜明け方、韓信は大将の旗印を立て太鼓を打ち鳴らしながら井陘口*4を進発し、趙軍は城門を開いて出撃した。しばらくの激戦の後、韓信と張耳は敗北を装い、太鼓も旗も打ち捨てて河岸の軍陣に逃げ、そこでまた激戦を繰り広げた。
趙軍は塁壁を空にして、漢の太鼓や旗を争って拾いながら韓信と張耳を追った。韓信と張耳が河岸の軍陣に入ると漢軍は死を賭して戦ったので、趙軍はこれを破ることができなかった。
韓信が派遣した奇兵(奇襲部隊)2千騎は、趙軍が韓信を追って塁壁を空にしたのを見て取ると、直ちに趙の塁壁に馳せ入って趙の幟をすべて抜き取り、2千本の漢の赤い幟を立てた。
趙軍は韓信・張耳らを捕らえることができないまま塁壁に帰還しようとしたところ、塁壁一面に漢の赤い幟がはためいているのを見て大いに驚き、すでに漢が趙王・趙歇の諸将をみな破ったものと思い込み、ついに乱れて遁走した。
趙の将軍は敗走する味方の兵を斬って逃亡を止めようとしたが、もはやどうすることもできなかった。
こうして漢軍は趙軍を挟撃し、これを破って捕虜とし、底水のほとりで成安君・陳余を斬って、趙王・趙歇を生け捕った。
そこで韓信は「広武君(李左車)を斬ってはならぬ。彼を生け捕った者には千金を与えよう」と命令し、しばらくして戲下(直属の配下)の者が広武君・李左車を縛って連れて来た。すると韓信はその縄を解いて東向きに座らせ、自分は西向きに向かい合って座ると、広武君・李左車を師と仰いだ。
脚注
*4河北平原から太行山脈を越えて山西に通ずる8つの峠道(太行八陘)の内の1つ。恒山郡・井陘県の北にあり、四面が高く中央が低くなっている。土門口とも言う。
諸将の疑問
諸将が敵兵の首級と捕虜を差し出し終わると、みなで戦勝を祝ったが、その席である者が韓信に問うた。
「兵法に『山陵を右か背後にし、水沢を前か左にする』とあります。今回、将軍(韓信)はそれに反して臣どもに背水の陣を布かせ、『趙軍を破ってから会食しよう』と言われました。臣どもは納得できませんでしたが、戦いに勝つことができました。これはどのような戦術なのでしょうか?」
韓信がこれに答えて、
「兵法には『兵を死地に追い込めば却って生き延び、亡地(絶対絶命の地)に投ずれば却って生き残る』ともあるが、諸君が気づかなかっただけであろう?
それに信は平素から士大夫たちを手懐けていたわけではない。経(兵法)に言うところの『市井の人(庶民)を駆り立てて戦わせる』ようなものである。彼らを死地(背水の陣)に置いて各々が自ら進んで戦うように仕向けず、彼らに生地(逃げ道)を与えたならば、みな敗走してしまうだろう。それでは戦えぬではないかっ!」
と言うと、諸将はみな感服して「とても我らの及ぶところではありません」と言った。
燕を降す
そこで韓信は広武君(李左車)に、
「僕は北に燕を攻め、東に斉を伐とうと思っていますが、どうすれば成功するでしょうか?」
と問うたが、広武君(李左車)は辞退して言った。
「『亡国の大夫は国の存立について図るべきではなく、敗軍の将は武勇について語るべきではない』と聞きます。臣ごときがどうして大事を権るに足りましょうかっ!」
これに韓信が、
「『百里奚が虞に居ても虞は亡び、秦に行って秦が覇者となったのは、(百里奚が)虞に居た時に愚かで、秦に行ってから智者になったわけではなく、(百里奚を)用いたか用いなかったか、彼の意見を聴き入れたか聴き入れなかったかの違いである』と聞きます。もし成安君・陳余が子の計を聴き入れていたら、僕もまた生け捕られていたでしょう。僕は子に心を委ね、子の計に帰いますから、どうか辞退しないでください」
と言うと、広武君(李左車)は答えて言った。
「『智者の千慮にも必ず一失があり、愚者の千慮にもまた一得がある』と聞きます。ですから『狂夫の言葉であっても聖人はこれを択びとる』のです。恐れながら臣の計など用いるに足らないかもしれませんが、願わくは愚忠を尽くさせていただきます。
今は亡き成安君・陳余には百戦百勝の計がありましたが、1日にしてこれを失い邯鄲郡・鄗県の城下で敗れ、その身は泜水のほとりで死にました。
今、足下は魏王・魏豹を虜にされ、(代の宰相・)夏説を生け捕り、日を置かずに趙軍20万を破って成安君・陳余を誅殺されました。その名声は海内(国内)に聞こえ、その威勢は諸侯を震撼させており、衆庶は(どうせ国が滅びるならと)耕作の手を止めて怠け、先のことを考えず豪華な衣服や食事を貪って、ただ耳を傾けてご命令を待っています。
ですが多くの兵士は疲れ果てており、実際にはあまり役に立ちません。今、足下はその疲弊した兵を、燕の堅城において更に疲弊させようとしておられますが、士気が低いため城を落とすことはできず、空しく日々が過ぎて兵糧も尽きてしまうでしょう。
もし燕を破ることができなかったなら、斉は必ず国境の防備を固めるに違いありません。2国が堅く守って降伏させることができずにいれば、劉・項(劉邦と項羽)の勝敗はどちらに転ぶか分からなくなってしまいます。
臣愚かながら、今、燕・斉を伐とうとなさるのは、秘かに過りだと思っております」
韓信が「それならばどのような方策に出たら良いのでしょうか?」と問うと、広武君(李左車)はまた答えて言った。
「当面の計としては、武装を解いて兵を休ませ、毎日百里以内の地から届く牛や酒をもって士大夫を饗応し、それから北の燕に向かわれるに越したことはありません。
然る後に、1乗の馬車で使者を送り、咫尺(短い)書簡を奉じて燕に使いさせたならば、燕も必ず聴き入れて従わないわけにはまいりません。燕を従わせて東の斉に臨むならば、例え(斉に)智者がいても、斉のために計るべき方策はないでしょう。
このようにすれば、天下の事はすべて思い通りとなります。兵法に『虚声を先にして実力を後にす』とあるのは、こうしたことを指して言うのです」
韓信は「よろしい。謹んで教えの通りにいたしましょう」と言い、広武君(李左車)の策の通り燕に使者を派遣したところ、燕は風に靡くように服従した。
そこで漢王(劉邦)に使者を派遣して報告し、「張耳を趙王に立ててその国を鎮撫させたい」と願うと、漢王(劉邦)はこれを許した。
楚はしばしば奇兵(奇襲部隊)に黄河を渡らせて趙を攻撃したが、趙王・張耳と韓信は互いに往き来して趙を救い、行く先々で趙の城邑を平定し、兵を徴発して漢に送った。
相国に任命される
楚軍が急襲して三川郡・滎陽県の漢王(劉邦)を包囲した。漢王(劉邦)は包囲を脱出して南の南陽郡・宛県、葉県に至り、九江王・英布(黥布)を味方につけて三川郡・成皋県に入ったが、楚軍はまた急襲してこれを包囲した。
漢の4年(紀元前203年)6月、漢王(劉邦)は成皋県を脱出して黄河を渡り、1人・滕公(夏侯嬰)だけを連れて河内郡・修武県の趙王・張耳の軍に身を寄せようとした。
漢王(劉邦)は修武県に到着すると宿駅の旅舎に泊まり、翌朝、自ら漢の使者と称して趙の城に馳せ入ったが、この時、張耳と韓信はまだ起きていなかったので、寝室に入ると印綬と兵符を奪い、麾下の諸将を召集して彼らを更迭した。
韓信と張耳は、起きて初めて漢王(劉邦)が1人で来たことを知り、大いに驚いた。
漢王(劉邦)は両人の軍を奪い、直ちに張耳に趙の地の守備を命じ、韓信を相国に任命して、まだ徴発していなかった者を趙兵としてを収容して徴発し、斉を攻撃させた。
斉の平定
韓信と酈食其
韓信は兵を率いて東の平原津に向かったが、まだ黄河を渡る前に「漢王(劉邦)の使者・酈食其が説得して斉を降伏させた」ことを聞いた。
韓信は斉への攻撃を中止しようとしたが、広陽郡・范陽県出身の弁士・蒯通が韓信に説いて言った。
「将軍(韓信)が詔を受けて斉を撃とうとしているのに、漢は独断で使者を送って斉を降してしまいました。(そんなことをしておいて、)どうして詔を下して将軍(韓信)を止めることができましょうか?(韓信は)どうして行かずにおられましょうかっ!
酈生(酈食其)は一介の士に過ぎませんが、車の横木に寄りかかったまま三寸の舌を振るって斉の70余城を降し、将軍(韓信)は数万の軍勢を率いて、1年余りでやっと趙の50余城を降しただけでございます。
将軍の地位に数年ある者が、1人の豎儒(つまらない儒学者)の功績に及ばないというのでしょうか?」
これを「その通りだ」と思った韓信は蒯通の計に従い、ついに黄河を渡って済北郡・歴下邑の軍を襲い、斉の国都・臨菑郡・臨菑県に迫った。これを「酈生(酈食其)に騙された」と思った斉王・田広は、彼を煮殺して膠東郡・髙密県に逃亡し、楚に使者を派遣して救援を要請した。
韓信は臨菑県を平定すると、斉王・田広を追って髙密県の西に至ったが、この時、楚は龍且を将軍として遣わし、20万と号する兵をもって斉を救援させた。
龍且の侮り
斉王・田広と楚の将軍・龍且は連合して韓信と戦うことになったが、まだ交戦に至らないうちに、ある人が龍且に説いて言った。
「漢兵は国を遠く離れて戦っておりますから逃げ道はなく、その鋭鋒には当たるべからざる勢いがありますが、斉・楚は自国の領内で戦うのですから、その兵は敗れ散りやすいと言えます。
城壁を深くし、斉王・田広に命じて王の腹心の者を遣わし、降伏した城の将兵を招かせるに越したことはありません。『城には斉王・田広が健在で、楚軍も救援に来ている』と聞けば、彼らは必ず漢に背くでしょう。
漢兵は本国から2千里も離れた斉の地にいるのですから、斉の城がすべて叛けば、勢い食糧を得ることができなくなり、戦わずに降伏させることができるでしょう」
すると龍且は、
「吾は平素から韓信の人となりを知っているが、彼はとても与しやすい。自活の策もなく漂母*5に寄食し、人を凌ぐ勇気もなく跨の下をくぐる屈辱を受け入れた男だ。何も畏れる必要はない。
斉を救援にやって来て、戦わずして漢軍を降伏させたのでは、吾にとって何の功績となろうか?
今、戦ってこれに勝てば斉の半分を得ることができるというのに、どうして止まってなどいられようかっ!」
と言い、ついに濰水を挟んで韓信と対陣した。
斉王・田広を捕らえる
その夜、韓信は部下に命じて1万余の嚢を作らせ、その中に砂を満たして濰水の上流を堰き止めると、半数の兵を率い、水を渡って龍且を攻撃したが、負けた振りをして逃げ帰った。
これに龍且は「韓信が臆病なことは、初めから分かっていたのだ」と言い、喜び勇んで韓信を追って濰水を渡った。
それを見た韓信が水を堰き止めていた嚢を決壊させた。その奔流によって龍且の軍の大半が水を渡れなくなると、韓信はすぐさま急襲して龍且を討ち取った。
濰水の東岸に陣取っていた軍は散り散りになって敗走し、斉王・田広も逃亡したが、韓信は敗走する敵を追撃して城陽*6に至ると、斉王・田広を捕らえた。その後、楚の兵卒もみな降伏し、ついに斉は平定された。
脚注
*5前述の水に錦を漂していた老婆。韓信を憐れんで飯を食べさせてやった。
*6詳細不詳。後に設置される城陽郡の治所は当時の琅邪郡・莒県にあり、現在の城陽区は膠州湾の北岸にある。田広が濰水の東岸から南に逃げれば前者、東に逃げたなら後者の可能性が高い。
斉王となる
韓信は使者を派遣して漢王(劉邦)に言った。
「斉は夸詐(ほら吹き)で心変わりを繰り返す国です。また、南は(楚と国境を接する)僻遠の地であるため、仮の王を立てて鎮定しなければ、その形勢は定まりません。
(臣の)権力は軽く、これを安定させるには足りませんので、どうか臣が仮の王として立つことをお許しください」
この時漢王(劉邦)は、ちょうど楚の急襲を受けて三川郡・滎陽県を包囲されていたので、韓信の書簡を開いて大いに怒り、
「吾はここで苦戦し、朝夕、我を助ける者が来るのを待っているのに、(お前は)自立して王となりたいと言うのかっ!」
と罵ると、後ろに控えていた張良と陳平が漢王(劉邦)の足を踏んで合図し、漢王(劉邦)に耳打ちして言った。
「現在、漢は不利な形勢にあります。どうして韓信が自ら王となることを禁じることができましょうか?
ここは韓信を王に立てて厚遇し、漢のため韓信自身に斉の地を守らせるのがよろしいでしょう。さもなければ変事が起こるかもしれません」
漢王(劉邦)は事情を悟り、また罵って言った。
「大丈夫たるもの、諸侯を平定したからには、すぐさま真の王となって然るべきだ。どうして仮の王などと言うのかっ!」
こうして漢王(劉邦)は張良を遣わして韓信を斉王に立て、その兵を徴発して楚を攻撃させた。
項羽の誘い
楚は龍且を失い、(韓信を)恐れた項王(項羽)は東海郡・盱台県出身の武渉を派遣して、韓信に説いて言った。
「楚王(項羽)は足下と旧交がありますのに、足下はどうして漢に叛いて楚に味方なされないのか?
漢王(劉邦)は信用の置けない人物で、しばしば項王(項羽)に生殺与奪の権を握られたこともありましたが、危機を脱すると約束に背いてまた項王(項羽)を攻撃したのです。その親しみ難く信用ならないことは、このようであります。
今、足下は漢王(劉邦)と金石の交わり(固い友情)を有しているとお思いでしょうが、いずれは漢王(劉邦)によって捕らえられることになるでしょう。
足下が今日まで生きてこられたのは、項王(項羽)が健在であったからこそです。もし項王(項羽)が滅亡すれば、次は足下の番です。どうして楚と連合和平し、天下を三分して斉の王となられないのですか?
今、足下はこの好機を逃し、漢王(劉邦)を信じて楚を攻撃しようとされていますが、真の智恵者なら、どうしてそのようなことをいたしましょうかっ!」
韓信はこれを謝絶して言った。
「臣はかつて数年の間、項王(項羽)に仕えておりましたが、与えられた官は郎中に過ぎず、位は執戟(郎中で戟を執る宿衛の士)に過ぎなかった。建言は聴き入れられず、計策は採り上げられなかった。だからこそ、楚に叛いて漢についたのである。
漢王(劉邦)は我に上将軍の印と数万の兵を授け、自分の衣を脱いで我に着せ、食事を勧めて我に食わせ、建言は聞き入れられ、計は用いられた。だからこそ、吾は今日この身分になることができたのである。
人がこれほど我を信任してくれているのに、これに背くのはよろしくない。どうか我に代わって項王(項羽)にお断りしていただきたい」
武渉が去った後、蒯通は天下を左右する秤の分銅が韓信にあることを察知し、韓信に「天下を三分して王となる」よう切々と説いたが、韓信は漢に叛くに忍びず、また「自分の功績が大きいことから、漢王(劉邦)が斉を奪うことなどない」と考えて、ついに聴き入れなかった。
楚王に徙される
漢王(劉邦)は陳郡・固陵県で敗れると、張良の計を用いて韓信の将兵を徴発し、泗水郡・垓下で会合した。
項羽が死ぬと、高帝(劉邦)は韓信の軍を襲奪し、韓信を楚王に徙して東海郡・下邳県に都させた。
韓信の恩返し
韓信は領国に赴くと、かつて食事を恵んでくれた漂母を召し出して千金を下賜し、東海郡・淮陰県の下郷の亭長には百銭を与えて「お前は小人だ。恩を施しながら途中でやめた」と言った。
また、自分を侮辱して股の下をくぐらせた若者を召し出して中尉*7に任命し、将軍や大臣たちに、
「これは壮士である。我を侮辱した当時、殺せなかったわけではない。ただこれを殺したところで名誉にもならないから、我慢して今日の功績を成したのだ」
と言った。
脚注
*7巡察して盗賊を捕らえる官職。
淮陰侯に降格される
韓信と鍾離眜
項王(項羽)の将軍・鍾離眜の家は南郡・伊廬県*8にあって、元々韓信とは仲が良く、項王(項羽)が敗れると、鍾離眜は逃亡して韓信の元に身を寄せていた。
鍾離眜を怨んでいた高帝(劉邦)は、彼が楚にいると聞いて、楚に詔を下して鍾離眜を捕らえるように命じた。
当時、韓信は領国に着いたばかりであったので、県邑を巡行するために護衛の兵を連ねて出入りしていた。
漢の6年(紀元前201年)、「韓信は謀叛しようとしている」と変事を告げる者があり、その書簡が上聞されると、高帝(劉邦)はこれを憂慮した。
そこで高帝(劉邦)は、諸侯に使者を発して「吾はこれから雲夢沢に巡狩*9する(吾將游雲夢)」と告げ、諸侯を(楚国にある)雲夢沢に召集する命令を下した。
これは韓信の不意を襲おうとする陳平の謀であったが、韓信はそれを知らなかった[ので、高帝(劉邦)が諸侯を集結して楚に攻めて来るのだと思った]。
高帝(劉邦)が楚に近づいて来ると、韓信は兵を発してこれと戦おうかとも思ったが、何度考えても自分に罪を犯した覚えはないので、高帝(劉邦)に謁見することとした。
それでもまだ「謁見すれば捕らえられるのではないか」と恐れていると、
「鍾離眜を斬って上[高帝(劉邦)]に謁見すれば、上[高帝(劉邦)]は必ず喜ばれましょう。それで患いはなくなります」
と言う者があった。そこで韓信は鍾離眜と会って相談すると、鍾離眜は言った。
「漢が攻撃して楚を取らないのは、眜が公の元にいるからです。もし公が我を捕えて自ら漢に媚びたいとお望みであれば、吾は今にも死にますが、吾に続いて公も殺されることになるでしょう」
そして、「公は長者(有徳者)ではないっ!」と韓信を罵ると、自ら首を刎ねて死んだ。
韓信は鍾離眜の首を持参して、陳郡・陳県で高帝(劉邦)に謁見したが、高帝(劉邦)は武士(武装兵)に命じ、韓信を縛って後車に載せた。
韓信が、
「果たして世の人の言う通り、『狡兔死して良狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵れ、敵国破れて謀臣亡ぶ*10』ということか。天下はすでに定まり、我が烹殺されるのは当然なのだろう」
と言うと、高帝(劉邦)は「公の謀叛を密告して来た者がいたのだ」と言い、ついに韓信に械(枷)をはめた。
三川郡・雒陽に到着すると、高帝(劉邦)は韓信を赦し、位を下げて淮陰侯とした。
韓信は高帝(劉邦)が自分の才能を畏れ憎んでいることを知り、その後は病気と称して参朝せず、天子の行幸にも随行しなかった。
韓信は日々高帝(劉邦)を怨んで心が晴れず、絳侯・周勃や灌嬰と同列であることを羞じた。
脚注
*8『括地志輯校』によれば「秦の伊廬は漢の中廬県である」とある。
*9天子が天下を巡り、地方の政治や民の生活状態を視察すること。巡守とも書く。
*10「すばしこい兎が死ぬと優秀な猟犬は煮殺され、高く飛ぶ鳥が尽きてしまうと良い弓は蔵にしまわれ、敵国が破れると謀臣は殺されてしまう」転じて敵国が滅びれば忠臣は不要となり、穀潰しとして殺されてしまうということ。
韓信の嘆き
以前、樊将軍(樊噲)の家を訪ねた時、樊噲は趨拝*11して送迎し、韓信と話す時には自分のことを「臣」と称して「大王(韓信)には、よくぞ臣の家にお越しくださいました」と言っていた。
韓信は門を出ると自嘲して「生き延びはしたが、樊噲らと同列になってしまったかっ!」と言った。
脚注
*11出向いていって拝顔すること。また小走りに走り寄って拝むこと。
韓信の高帝(劉邦)評
以前、高帝(劉邦)が寛いで、韓信と共に諸将の能力差について語り、それぞれに等級をつけていた時のこと。
高帝「我などは、何人を率いる将となれるだろうか?」
韓信「陛下はせいぜい10万人を率いる将に過ぎないでしょう」
高帝「そちはどうか?」
韓信「臣なら、多ければ多いほどよろしゅうございます」
すると高帝(劉邦)は笑って言った。
「多ければ多いほど良いと言うのに、どうして我の擒となったのか?」
韓信「陛下は兵の将となることはできませんが、将の将となることがおできになられます。これが信が陛下の擒となった理由でございます。ともあれ陛下は、いわゆる天から授かった特別な才能をお持ちですので、人の力の及ぶところではございません」
韓信の死
韓信と陳豨
その後、陳豨が代の宰相として辺境を監領することになり、韓信に暇乞いをした。
すると韓信は、陳豨の手を取って共に庭園を何度も巡り歩き、天を仰いで嘆いて言った。
「聞いてもらえるかな?子に話しておきたいことがあるのだ…」
陳豨「ただ将軍のお指図のままに」
韓信「公のいる所は天下の精兵が集まる所であり、しかも公は陛下の信任の厚い寵臣だ。人が公の謀叛を告げても、陛下は決してその密告を信じないだろう。だが再び密告があれば、陛下も疑いを持たれるだろう。密告が三度に及べば、必ず怒って親征なされるに違いない。だが、吾が公のために都で内応すれば、天下を図ることができる」
陳豨は平素から韓信の才能を知っていたので、この言葉を信じ、「謹んでお教えに従いましょうっ!」と答えた。
謀叛の失敗
漢の10年(紀元前197年)、果たして陳豨は謀叛を起こし、高帝(劉邦)自ら将として出陣したが、韓信は病気と称して従軍しなかった。
韓信は秘かに陳豨の元に人を派遣して「弟よ、兵を挙げよ、吾が公を助けに行こう」と言った。また、家臣と謀議して「夜に詐って諸官に所属する徒奴(罪人)を赦免し、兵を発して呂后と太子を襲う」こととした。
すでに手筈を整えて、ただ陳豨の報告を待つだけとなった時、たまたま韓信の舎人(家来)が韓信に対して罪を犯したので、韓信は捕えて殺そうとした。するとその舎人(家来)の弟が上書して変事を告げ、韓信が謀叛を起こそうとしていることを呂后に告げた。
呂后は韓信を召し出そうとしたが、韓信が応じないことを恐れた。呂后は相国の蕭何と相談し、人に命じて高帝(劉邦)の使者と偽って「陳豨はすでに死んだ」と言わせ、群臣はみなこれを慶賀した。
さらに蕭何は韓信を欺いて「病気といえど、参内して慶賀するように」と言った。
韓信が参内すると、呂后は武士(武装兵)に命じて韓信を捕縛し、長楽宮の鐘室(鐘を懸けた部屋)で斬った。
まさに斬られようとする時、韓信は言った。
「蒯通の計を用いなかったばかりに、こうして婦女子に欺かれることとなった。これも天命なのだろうかっ!」
ついに韓信はその三族を族滅された*12。
高帝(劉邦)は陳豨を破り、凱旋して韓信の死を聞くと、喜びつつも憐れんで、「韓信は死に臨んで何か言葉を残したか?」と問うた。
呂后がその言葉を告げると、高帝(劉邦)は「それは斉の弁士・蒯通のことだ」と言った。高帝(劉邦)は彼を捕らえて煮殺そうと思ったが、蒯通の申し開きを聞いてその罪を赦した。
脚注
*12三族の刑は、『刑法志』によれば、みなまず黥し、次に鼻を斬り、左右の四肢を斬り落とし、笞打って殺し、その首を晒して骨肉を菹(塩漬け)にする。
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