正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(95)韓信かんしんです。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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か(95)韓信

韓信

韓信かんしん

生年不詳〜かんの11年(紀元前196年)没。東海郡とうかいぐん淮陰県わいいんけんの人。

不遇の日々
出自しゅつじ

韓信かんしんの家は貧しく善行もなかったため、官吏に推挙してもらうことができなかった。また商売をして生計を立てることもできず、いつも人に従い寄食きしょく居候いそうろう)していた。

母が亡くなった時でさえ葬儀もできなかったが、髙燥な地(高所にあって乾燥している土地)に墓をつくり、将来そのかたわらに1万家の墓守を置けるようにした。

居候いそうろう暮らし

韓信かんしん淮陰県わいいんけん下郷かきょうにある南昌亭なんしょうてい亭長ていちょうの家に寄食きしょく居候いそうろう)していた時のこと。

亭長ていちょうの妻はこれをにがにがしく思い、ある日、わざと朝早く朝食をつくって寝床ねどこの中で食べた。

食事時になって、自分の食事が用意されていないことに気づいた韓信かんしんは、その意味をさとり、みずから絶交して亭長ていちょうの家を去った。

漂母ひょうぼほどこ

韓信かんしんが城下で釣りをしていた時のこと。

水に錦をさらしていた老婆が韓信かんしんあわれんで飯を食べさせてやったが、それはさらしが終わるまで数十日間続いた。

そこで韓信かんしんが「わたしは必ずあなたに厚く恩返しをするよ」と言うと、老婆は「大の男が自分の力で食べられもしないくせに。わたしはお前さんをあわれんで飯を食べさせただけのこと。どうして恩返しなど望むものかっ!」と言った。

韓信かんしんまたくぐり

ある時、淮陰県わいいんけんの若者がまた韓信かんしんあなどって、

「でかい図体ずうたいをしてうれしそうに刀剣をびているが、本当は臆病なだけだろう」

と言いい、また衆人の面前で韓信かんしんはずかしめ、

ころせるならおれを刺してみろ。ころせないのならおれまたの下をくぐれ」

と言った。すると韓信かんしんはその若者をじっと見つめ、腹ばいになってまたの下をくぐった。

これを見た市中の人々はみな、韓信かんしんを臆病者だとあざけり笑った。

楚に仕える

項梁こうりょう淮水わいすいを渡ると、韓信かんしんは剣を杖として項梁こうりょうに従いその麾下きかに入ったが、まだ名前を知られていなかった。

項梁こうりょうが敗れると、また項羽こううに属して郎中ろうちゅうとなった。韓信かんしんはしばしば策を献じたが、項羽こううもちいなかった。

漢に仕える
夏侯嬰かこうえい見出みいだされる

漢王かんおう劉邦りゅうほう)がしょく漢中郡かんちゅうぐん)に入ると、韓信かんしん項羽こうう)から逃亡してかん劉邦りゅうほう)に帰順したが、そこでもまだ名前を知られることはなく、連敖れんごう(接待係)という低い官職を得ただけであった。

ある罪に連座して斬首の刑を言い渡され、すでにその同輩13人が斬られて韓信かんしんの順番となった。韓信かんしんおもてを上げてあおぎ見ると、たまたま滕公とうこう夏侯嬰かこうえい)の姿が目に入り、

漢王かんおう劉邦りゅうほう)は天下の大業たいぎょう成就じょうじゅを望まれず、あたら壮士そうしを斬られるのかっ!」

と言った。滕公とうこう夏侯嬰かこうえい)はその言葉を(非凡)、容貌をそう(勇壮)と認め、韓信かんしんゆるして斬らず、語り合って大いに気に入ると、そのことを漢王かんおう劉邦りゅうほう)に言上した。

漢王かんおう劉邦りゅうほう)は韓信かんしん治粟都尉ちぞくこういに任命したが、まだそれほど高く評価してはいなかった。

かん大将軍だいしょうぐんとなる

韓信かんしんはしばしば蕭何しょうかと語り合ったが、蕭何しょうかは彼をすぐれた人物と評価していた。

漢王かんおう劉邦りゅうほう)が漢中郡かんちゅうぐん南鄭県なんていけんに都した時、諸将の中には(辺境の地を嫌って)逃亡する者が数十人もいたが、韓信かんしんも「蕭何しょうからが何度も推薦してくれたにもかかわらずもちいられなかった」ため、すぐに逃亡した。

蕭何しょうかは「韓信かんしんが逃亡した」ことを聞くと、漢王かんおう劉邦りゅうほう)に黙ってみずか韓信かんしんの後を追った。

それを見た者が「丞相じょうしょう蕭何しょうかが逃亡しました」と言上すると、漢王かんおう劉邦りゅうほう)は大いに怒り、また左右の手を失ったかのように落胆した。

それから1〜2日経って蕭何しょうかが謁見にやって来ると、漢王かんおう劉邦りゅうほう)は怒りつつも喜び、蕭何しょうかののしって言った。

漢王かんおう劉邦りゅうほう)「お前が逃げるとはどういうことだ?」

蕭何しょうかわたくしは逃げたのではありません。逃げた者を追っていたのです」

漢王かんおう「誰を追ったのか?」

蕭何しょうか韓信かんしんです」

するとまた漢王かんおう劉邦りゅうほう)は、蕭何しょうかののしって言った。

漢王かんおう「諸将の中から逃亡者が数十人もあったというのに、お前は誰一人追わなかった。韓信かんしんを追ったというのはいつわりであろう」

蕭何しょうか「(あの程度の)諸将を得るのは容易よういですが、韓信かんしんは国士無双*1です。おう劉邦りゅうほう)がいつまでも漢中王かんちゅうおうのままで満足なされるなら、韓信かんしんもちいる必要はありません。ですがもし、天下を争おうとお望みであれば、韓信かんしんの他に共に事をはかれる者はおりません。すべてはおう劉邦りゅうほう)のお考え次第です」

漢王かんおうわしも東方に進出して天下を争うことを望んでいる。どうしていつまでもうつうつとこの地にとどまっておられようか?」

蕭何しょうかおう劉邦りゅうほう)のお考えが東方進出におありならば、韓信かんしんもちいるべきです。韓信かんしんもちいるならばとどまり、もちいないのならば逃亡するだけのことです」

漢王かんおう「お前の言う通り、韓信かんしん将軍しょうぐんとしてもちいよう」

蕭何しょうか「ただ将軍しょうぐんとするだけでは、韓信かんしんとどまらないでしょう」

漢王かんおう「では大将軍だいしょうぐんにしよう」

蕭何しょうか「それがよろしいでしょう」

そこで漢王かんおう劉邦りゅうほう)が韓信かんしんして大将軍だいしょうぐんに任命しようとすると、蕭何しょうかは言った。


おう劉邦りゅうほう)は以前から傲慢ごうまんで礼をわきまえておられません。

今、大将軍だいしょうぐんを任命されようという時に、小児を呼びつけるようになさるなら、それこそ韓信かんしんが去る所以ゆえんです。

おう劉邦りゅうほう)が必ず韓信かんしんを任命しようと望まれるのであれば、吉日をえらんで斎戒さいかい*2し、壇場だんじょうもうけて礼をそなえられるべきです」


漢王かんおう劉邦りゅうほう)がこれを承諾すると、諸将はみな喜んで、それぞれに「自分が大将軍だいしょうぐんに任命されるのだ」と期待したが、大将軍だいしょうぐんを拝命したのは韓信かんしんだったので、軍の全員が驚いた。

脚注

*1国中で並ぶ者がないほどすぐれた人物のこと。

*2飲食や行動をつつしんで心身を清めること。

韓信かんしん項王こうおう項羽こうう)評

任命の礼が終わって上座かみざに着くと、漢王かんおう劉邦りゅうほう)は韓信かんしんに、

丞相じょうしょう蕭何しょうかはしばしば将軍しょうぐん韓信かんしん)を推挙していたが、将軍しょうぐん韓信かんしん)はどのような計策はかりごと寡人わたしに教えてくれるのだろうか?」

と言った。韓信かんしんは任命に感謝し、漢王かんおう劉邦りゅうほう)にうて言った。

韓信かんしん「東に向かって天下の実権を争われるならば、今やその相手は項王こうおう項羽こうう)ではないでしょうか?」

漢王かんおう「その通りだ」

韓信かんしん大王だいおう劉邦りゅうほう)ご自身は、勇悍ゆうかんさや仁強じんきょうさにおいて、項王こうおう項羽こうう)とどちらがすぐれているとお考えでしょうか?」

漢王かんおう劉邦りゅうほう)はしばらく黙り込んだ後で「(わしは)項王こうおう項羽こうう)には及ばない」と答えた。すると韓信かんしんは再拝し、漢王かんおう劉邦りゅうほう)の答えを祝福して言った。


わたくしもやはり大王だいおう劉邦りゅうほう)が及ばないと存じます。ですがわたくし項王こうおう項羽こうう)に仕えたことがございますので、項王こうおう項羽こうう)の人となりを申し上げてみましょう。

項王こうおう項羽こうう)が怒声を発すれば千人がみなひれ伏すほどですが、賢将けんしょうを信頼して任せることができません。これでは『匹夫ひっぷゆう』に過ぎません。

また一方で項王こうおう項羽こうう)は、人と会う時にはうやうやしく言葉遣いもおだやかで、人が病気になれば涙を流して飲食を分け与えますが、人を使って功績ある者に封爵すべき時には、印をさずけるのをしみ、印をもてあそんで摩滅まめつするまで躊躇ちゅうちょします。これを『婦人ふじんじん』と申します。

項王こうおう項羽こうう)は天下に覇をとなえて諸侯しょこうを臣従させましたが、関中かんちゅうに居住せずに泗水郡しすいぐん彭城県ほうじょうけんに都を置きました。

また、義帝ぎていとの約束にそむき、私情を差しはさんで諸侯しょこうおうに封じたため、多くの者が不満をいだいています。

諸侯しょこうは『項王こうおう項羽こうう)が義帝ぎてい江南こうなん放逐ほうちくしたこと』にならい、封国に帰るとみな旧主を放逐ほうちくし、良い土地を奪っておうになりました。

項王こうおう項羽こうう)の軍が通過した地域で滅ぼされなかった所はなく、百姓たみうらみ従わず、ただその軍威におどされ服従をいられているに過ぎません。

項王こうおう項羽こうう)は『覇者はしゃ』と呼ばれてはいても、その実、天下の人心を失っており、その強さはもろいものなのです。

今、大王だいおう劉邦りゅうほう)が項王こうおう項羽こうう)のやり方とは反対に、天下の武勇の士を信任なされるならば、どこに誅伐ちゅうばつできない敵がいるでしょうかっ!

その上で功臣を天下の城邑じょうゆうに封ぜられますならば、心服しない者がいるでしょうかっ!

大義名分をもって、東方への帰郷を願う将士を従えられますならば、どうしてやぶれ散らない敵がいるでしょうかっ!

また、三秦さんしんおう章邯しょうかん司馬欣しばきん董翳とうえい)はしん将軍しょうぐんとしてしんの子弟をひきいること数年に及び、彼らが殺戮さつりくした人命は数え切れないほどです。

彼らはその軍勢をあざむいて諸侯しょこうに降伏しましたが、三川郡さんせんぐん新安県しんあんけんに至ると、項王こうおう項羽こうう)によって降兵20余万人はあなめにされ、ただ章邯しょうかん司馬欣しばきん董翳とうえいだけがその難を脱したのです。

今、は武威をもってこの3人をおういておりますが、彼らに対するしんの父兄のうらみは骨髄こつずいてっしておりますので、しんの民に愛されておりません。

これに対して、大王だいおう劉邦りゅうほう)が武関ぶかんから入られた際には、毛ほども民を害することなく、しん苛烈かれつな法令を廃し、しんの民とただ『三章の法*3』を約束されただけでしたので、しんの民で大王だいおう劉邦りゅうほう)をしんおうとしていただくことを望まない者はおりません。

諸侯しょこうとの約束では、大王だいおう劉邦りゅうほう)が関中かんちゅうおうとなられるのが当然ですし、関中かんちゅうの民も家ごとにみなそのことを知っています。

それなのに、大王だいおう劉邦りゅうほう)が項王こうおう項羽こうう)のために正当な職を失ってしょくに入られたので、しんの民でこのことをうらまない者はありません。

今、大王だいおう劉邦りゅうほう)が大挙して東征なさいますならば、三秦さんしんの地はげきを伝えるだけで平定することができるでしょう」


この言葉に漢王かんおう劉邦りゅうほう)は大いに喜び、韓信かんしんを手に入れることが遅かったことをやみ、ついに韓信かんしんはかりごとを聴き入れて、諸将の撃つべき部署(攻撃目標)を定めた。

脚注

*3人を殺した者は死刑とし、人を傷つけた者、人の物を盗んだ者は罰するという3つの法。

漢王(劉邦)の挙兵

かんの元年(紀元前206年)8月、漢王かんおう劉邦りゅうほう)は挙兵して東の内史ないし陳倉県ちんそうけんに出撃し、三秦さんしんの地を平定した。

かんの2年(紀元前205年)、函谷関かんこくかんを出て河南かなん地方を手に入れ、韓王かんおう殷王いんおうらはみな降伏した。

4月、せいちょうと共に泗水郡しすいぐん彭城県ほうじょうけんを攻撃させたが、かん軍は敗れてりになって逃げかえった。

韓信かんしんは再度兵を取りまとめて漢王かんおう劉邦りゅうほう)と三川郡さんせんぐん滎陽県けいようけんで合流し、再びを攻撃して南の京県けいけん索県さくけんの間で破ったので、軍は西進することができなかった。

魏・代の平定

漢王かんおう劉邦りゅうほう)が泗水郡しすいぐん彭城県ほうじょうけんで敗退した時、塞王さいおう司馬欣しばきん翟王てきおう董翳とうえいかんから逃亡してくだり、せいちょうもまた、みなかんそむいてと和睦した。

漢王かんおう劉邦りゅうほう)は酈生れきせい酈食其れきいき)を派遣して魏王ぎおう魏豹ぎほうを説得させようとしたが、魏豹ぎほうは聞き入れなかった。


8月、漢王かんおう劉邦りゅうほう)はやむを得ず、韓信かんしん左丞相さじょうしょうに任命してを攻撃たせた。そこで韓信かんしん酈生れきせい酈食其れきいき)に「周叔しゅうしゅくを大将にもちいるだろうか?」とうと、酈生れきせい酈食其れきいき)は「栢直はくちょくでしょう」と答えた。すると韓信かんしんは「豎子じゅし(青二才)だな」と言い、ついに兵を進めてを攻撃した。

は盛兵を河東郡かとうぐん蒲阪県ほはんけんに配置し、対岸の内史ないし臨晋県りんしんけんを封鎖した。韓信かんしんは疑兵をもって大軍であるかのように見せかけると、船を並べて臨晋県りんしんけんから渡る振りをし、その一方で、秘かに木罌缶もくおうふ(木製のたるを並べてしばったいかだ)を使い、北の夏陽県かようけんから兵を渡らせて、河東郡かとうぐん安邑県あんゆうけんを襲撃した。

魏王ぎおう魏豹ぎほうは驚き、兵をひきいて韓信かんしんを迎え撃ったが、韓信かんしんはついに魏豹ぎほうを捕らえて河東郡かとうぐんを平定し、漢王かんおう劉邦りゅうほう)に人をつかわして言上した。

「3万人の増兵を願います。わたくしは北にえんちょうげ、東にせいを撃ち、南にの糧道をち、大王だいおう劉邦りゅうほう)と西の三川郡さんせんぐん滎陽県けいようけんでお会いしたいと存じます」

そこで漢王かんおう劉邦りゅうほう)は韓信かんしんに兵3万人を与えると、張耳ちょうじつかわして韓信かんしんと共に東北のちょうだいを攻撃させた。9月、韓信かんしん張耳ちょうじだいを破って(だい宰相さいしょう・)夏説かえつ上党郡じょうとうぐん閼与あつよで生け捕った。

韓信かんしんだいくだすと、漢王かんおう劉邦りゅうほう)はそのたびに人をってそれらの精兵を手中におさめ、滎陽県けいようけんに移して軍を防がせた。

趙の平定
成安君せいあんくん陳余ちんよあやま

韓信かんしん張耳ちょうじは兵数万をひきいて東の恒山郡こうざんぐん井陘県せいけいけんに攻め下り、ちょうを攻撃しようとした。趙王ちょうおう趙歇ちょうあつ成安君せいあんくん陳余ちんよは「かん軍が今にも来襲しようとしている」と聞くと、20万と号する兵を井陘口せいけいこう*4に集結させた。

そこで広武君こうぶくん李左車りさしゃ成安君せいあんくん陳余ちんよいて言った。


かん将軍しょうぐん韓信かんしんは、西河せいが黄河こうが)を渡って魏王ぎおう魏豹ぎほうを捕らえ、上党郡じょうとうぐん閼与あつよで(だい宰相さいしょう・)夏説かえつを生け捕りにしたばかりと聞いております。

今、補佐の張耳ちょうじと謀議してちょうくだそうとしていますが、勝ちに乗じて本国を離れ遠方で戦う鋭鋒には、当たるべからざる勢いがあります。

『千里の彼方から糧食を運んでいるようでは兵士の顔に飢餓きがの色が現れ、まきを取り草を取ってから炊事するようでは、軍の腹を満たすことはできない』と言います。

今、井陘県せいけいけんの道は(せまいため)車も騎馬も隊列を組んで進むことができません。そのような行軍が数百里も続けば、勢い糧食を運ぶ輜重しちょうは必ずや後方に位置するでしょう。

わたくしに奇兵(奇襲部隊)3万をお貸しいただければ、間道から敵の輜重しちょうち切ります。貴殿は溝を深くし、るいを高くして堅く守って敵と合戦なさらないでください。そうすれば、敵は進んで戦うこともできず、退こうにも退けません。

そこへわたしの奇襲部隊がその背後をち、敵に略奪の場を与えないようにすれば、10日もたないうちに韓信かんしん張耳ちょうじ両将の首を麾下きか(陣所)に持参することができます。

どうかわたくしはかりごとにご留意なさいませ。さもなければ、必ずや(あなたは)両将軍しょうぐんに生け捕られてしまうでしょう」


儒者じゅしゃ成安君せいあんくん陳余ちんよは常に「正義のいくさ」を標榜ひょうぼうし、詐謀さくぼう奇計きけいもちいなかったので、


「兵法に『10倍であればこれを包囲し、2倍ならば戦え』とある。今、韓信かんしんの兵は数万と号してはいるがその実それ程多くはなく、千里の彼方から我軍を襲うのだから、すでに疲労しているだろう。

今、このような敵さえ避けて撃たないならば、今後、大軍を相手にする場合には、一体どう対処するのか。もし諸侯しょこうが我が国をは臆病と見れば、かろんじて我が国をちにやって来るだろう」


と言って、広武君こうぶくん李左車りさしゃの策をき入れなかった。

脚注

*4河北かほく平原から太行たいこう山脈を越えて山西さんせいに通ずる8つの峠道(太行八陘たいこうはっけい)の内の1つ。恒山郡こうざんぐん井陘県せいけいけんの北にあり、四面が高く中央が低くなっている。土門口どもんこうとも言う。

背水の陣

韓信かんしん間諜かんちょうを放って探らせたところ、戻って「広武君こうぶくん李左車りさしゃの策がもちいられない」ことを報告した。韓信かんしんは大いに喜んで、ただちに敢然かんぜんと兵をひきいて攻め下り、井陘口せいけいこう*4の手前30里(約12.5km)の地に宿営した。

その日の夜中、韓信かんしんは軽装の騎兵2千人を選んで1人に1本ずつ赤いはたを持たせ、「間道から敵に近づき、山陰に隠れてちょうの軍営を望見する」ように命じ、いましめて言った。

ちょうは我が軍が敗走するのを見れば、必ずや塁壁るいへきからにして追撃するに違いない。(敵が塁壁るいへきを出たら、)お前たちはいち早くちょう塁壁るいへきに侵入し、ちょうはたを引き抜いてかんの赤いはたを立てよ」

また、裨将ひしょう(副将)に「全軍に軽食を配る」ように命じ、「今日、ちょう軍を破ってから一緒に会食しよう」と言うと、諸将はみな半信半疑であったが、「了解しました」と答えた。

また、韓信かんしんは軍吏に言った。

ちょう軍はすでに有利な地に塁壁るいへききずいている。それに彼らは我が大将の旗鼓きこを見ないうちは、我が先陣を攻撃しようとはしないだろう。険阻な地点まで来て、わたしが引き返すことを恐れているのだ」

こうして韓信かんしんは、兵1万を先発させてかわを背に陣をかせたが、ちょう軍はこれをながめ見て大いに笑った。


その夜明け方、韓信かんしんは大将の旗印はたじるしを立て太鼓たいこを打ち鳴らしながら井陘口せいけいこう*4を進発し、ちょう軍は城門を開いて出撃した。しばらくの激戦の後、韓信かんしん張耳ちょうじは敗北をよそおい、太鼓たいこはたも打ち捨てて河岸の軍陣に逃げ、そこでまた激戦を繰り広げた。

ちょう軍は塁壁るいへきからにして、かん太鼓たいこはたを争って拾いながら韓信かんしん張耳ちょうじを追った。韓信かんしん張耳ちょうじが河岸の軍陣に入るとかん軍は死をして戦ったので、ちょう軍はこれを破ることができなかった。

韓信かんしんが派遣した奇兵(奇襲部隊)2千騎は、ちょう軍が韓信かんしんを追って塁壁るいへきからにしたのを見て取ると、ただちにちょう塁壁るいへきせ入ってちょうはたをすべて抜き取り、2千本のかんの赤いはたを立てた。

ちょう軍は韓信かんしん張耳ちょうじらを捕らえることができないまま塁壁るいへきに帰還しようとしたところ、塁壁るいへき一面にかんの赤いはたがはためいているのを見て大いに驚き、すでにかん趙王ちょうおう趙歇ちょうあつの諸将をみな破ったものと思い込み、ついに乱れて遁走とんそうした。

ちょう将軍しょうぐんは敗走する味方の兵を斬って逃亡を止めようとしたが、もはやどうすることもできなかった。

こうしてかん軍はちょう軍を挟撃きょうげきし、これを破って捕虜とし、底水ていすいのほとりで成安君せいあんくん陳余ちんよを斬って、趙王ちょうおう趙歇ちょうあつを生け捕った。

そこで韓信かんしんは「広武君こうぶくん李左車りさしゃ)を斬ってはならぬ。彼を生け捕った者には千金を与えよう」と命令し、しばらくして戲下きか(直属の配下)の者が広武君こうぶくん李左車りさしゃしばって連れて来た。すると韓信かんしんはその縄をいて東向きに座らせ、自分は西向きに向かい合って座ると、広武君こうぶくん李左車りさしゃを師とあおいだ。

脚注

*4河北かほく平原から太行たいこう山脈を越えて山西さんせいに通ずる8つの峠道(太行八陘たいこうはっけい)の内の1つ。恒山郡こうざんぐん井陘県せいけいけんの北にあり、四面が高く中央が低くなっている。土門口どもんこうとも言う。

諸将の疑問

諸将が敵兵の首級しゅきゅうと捕虜を差し出し終わると、みなで戦勝を祝ったが、その席である者が韓信かんしんうた。

「兵法に『山陵を右か背後にし、水沢を前か左にする』とあります。今回、将軍しょうぐん韓信かんしん)はそれに反してわたくしどもに背水の陣をかせ、『ちょう軍を破ってから会食しよう』と言われました。わたくしどもは納得できませんでしたが、戦いに勝つことができました。これはどのような戦術なのでしょうか?」

韓信かんしんがこれに答えて、

「兵法には『兵を死地に追い込めばかえって生きび、亡地(絶対絶命の地)に投ずればかえって生き残る』ともあるが、諸君が気づかなかっただけであろう?

それにわたしは平素から士大夫したいふたちを手懐てなずけていたわけではない。きょう(兵法)に言うところの『市井しせいの人(庶民)を駆り立てて戦わせる』ようなものである。彼らを死地(背水の陣)に置いておのおのみずから進んで戦うように仕向けず、彼らに生地せいち(逃げ道)を与えたならば、みな敗走してしまうだろう。それでは戦えぬではないかっ!」

と言うと、諸将はみな感服して「とても我らの及ぶところではありません」と言った。

燕を降す

そこで韓信かんしん広武君こうぶくん李左車りさしゃ)に、

わたしは北にえんを攻め、東にせいとうと思っていますが、どうすれば成功するでしょうか?」

うたが、広武君こうぶくん李左車りさしゃ)は辞退して言った。

「『亡国の大夫たいふは国の存立についてはかるべきではなく、敗軍の将は武勇について語るべきではない』と聞きます。わたくしごときがどうして大事をはかるにりましょうかっ!」

これに韓信かんしんが、

「『百里奚ひゃくりけいてもほろび、しんに行ってしんが覇者となったのは、(百里奚ひゃくりけいが)た時におろかで、しんに行ってから智者になったわけではなく、(百里奚ひゃくりけいを)もちいたかもちいなかったか、彼の意見を聴き入れたか聴き入れなかったかの違いである』と聞きます。もし成安君せいあんくん陳余ちんよあなたはかりごとを聴き入れていたら、わたしもまた生け捕られていたでしょう。わたしあなたに心をゆだね、あなたはかりごとしたがいますから、どうか辞退しないでください」

と言うと、広武君こうぶくん李左車りさしゃ)は答えて言った。


「『智者の千慮せんりょにも必ず一失いっしつがあり、愚者の千慮せんりょにもまた一得いっとくがある』と聞きます。ですから『狂夫きょうふの言葉であっても聖人はこれをえらびとる』のです。恐れながらわたくしはかりごとなどもちいるにらないかもしれませんが、願わくは愚忠を尽くさせていただきます。

今は成安君せいあんくん陳余ちんよには百戦百勝のはかりごとがありましたが、1日にしてこれを失い邯鄲郡かんたんぐん鄗県こうけんの城下で敗れ、その身は泜水ていすいのほとりで死にました。

今、足下あなた魏王ぎおう魏豹ぎほうとりこにされ、(だい宰相さいしょう・)夏説かえつを生け捕り、日を置かずにちょう軍20万を破って成安君せいあんくん陳余ちんよ誅殺ちゅうさつされました。その名声は海内かいだい(国内)に聞こえ、その威勢は諸侯しょこう震撼しんかんさせており、衆庶たみは(どうせ国が滅びるならと)耕作の手を止めてなまけ、先のことを考えず豪華な衣服や食事をむさぼって、ただ耳を傾けてご命令を待っています。

ですが多くの兵士は疲れ果てており、実際にはあまり役に立ちません。今、足下あなたはその疲弊ひへいした兵を、えんの堅城において更に疲弊ひへいさせようとしておられますが、士気が低いため城を落とすことはできず、むなしく日々が過ぎて兵糧も尽きてしまうでしょう。

もしえんを破ることができなかったなら、せいは必ず国境の防備を固めるに違いありません。2国が堅く守って降伏させることができずにいれば、りゅうこう劉邦りゅうほう項羽こうう)の勝敗はどちらに転ぶか分からなくなってしまいます。

わたくしおろかながら、今、えんせいとうとなさるのは、秘かにあやまりだと思っております」


韓信かんしんが「それならばどのような方策に出たら良いのでしょうか?」とうと、広武君こうぶくん李左車りさしゃ)はまた答えて言った。


「当面のはかりごととしては、武装をいて兵を休ませ、毎日百里以内の地から届く牛や酒をもって士大夫したいふ饗応きょうおうし、それから北のえんに向かわれるに越したことはありません。

しかのちに、1じょうの馬車で使者を送り、咫尺しせき(短い)書簡を奉じてえんに使いさせたならば、えんも必ず聴き入れて従わないわけにはまいりません。えんを従わせて東のせいのぞむならば、例え(せいに)智者がいても、せいのためにはかるべき方策はないでしょう。

このようにすれば、天下の事はすべて思い通りとなります。兵法に『虚声を先にして実力を後にす』とあるのは、こうしたことを指して言うのです」


韓信かんしんは「よろしい。つつしんで教えの通りにいたしましょう」と言い、広武君こうぶくん李左車りさしゃ)の策の通りえんに使者を派遣したところ、えんは風になびくように服従した。

そこで漢王かんおう劉邦りゅうほう)に使者を派遣して報告し、「張耳ちょうじ趙王ちょうおうに立ててその国を鎮撫ちんぶさせたい」と願うと、漢王かんおう劉邦りゅうほう)はこれを許した。


はしばしば奇兵(奇襲部隊)に黄河こうがを渡らせてちょうを攻撃したが、趙王ちょうおう張耳ちょうじ韓信かんしんは互いにき来してちょうを救い、行く先々でちょう城邑じょうゆうを平定し、兵を徴発してかんに送った。

相国に任命される

軍が急襲して三川郡さんせんぐん滎陽県けいようけん漢王かんおう劉邦りゅうほう)を包囲した。漢王かんおう劉邦りゅうほう)は包囲を脱出して南の南陽郡なんようぐん宛県えんけん葉県しょうけんに至り、九江王きゅうこうおう英布えいふ黥布げいふ)を味方につけて三川郡さんせんぐん成皋県せいこうけんに入ったが、軍はまた急襲してこれを包囲した。

かんの4年(紀元前203年)6月、漢王かんおう劉邦りゅうほう)は成皋県せいこうけんを脱出して黄河こうがを渡り、1人・滕公とうこう夏侯嬰かこうえい)だけを連れて河内郡かだいぐん修武県しゅうぶけん趙王ちょうおう張耳ちょうじの軍に身を寄せようとした。

漢王かんおう劉邦りゅうほう)は修武県しゅうぶけんに到着すると宿駅の旅舎に泊まり、翌朝、みずかかんの使者と称してちょうの城にせ入ったが、この時、張耳ちょうじ韓信かんしんはまだ起きていなかったので、寝室に入ると印綬いんじゅ兵符へいふを奪い、麾下きかの諸将を召集して彼らを更迭こうてつした。

韓信かんしん張耳ちょうじは、起きて初めて漢王かんおう劉邦りゅうほう)が1人で来たことを知り、大いに驚いた。

漢王かんおう劉邦りゅうほう)は両人の軍を奪い、ただちに張耳ちょうじちょうの地の守備を命じ、韓信かんしん相国しょうこくに任命して、まだ徴発していなかった者をちょう兵としてを収容して徴発し、せいを攻撃させた。

斉の平定
韓信かんしん酈食其れきいき

韓信かんしんは兵をひきいて東の平原津へいげんしんに向かったが、まだ黄河こうがを渡る前に「漢王かんおう劉邦りゅうほう)の使者・酈食其れきいきが説得してせいを降伏させた」ことを聞いた。

韓信かんしんせいへの攻撃を中止しようとしたが、広陽郡こうようぐん范陽県はんようけん出身の弁士・蒯通かいとう韓信かんしんいて言った。


将軍しょうぐん韓信かんしん)がみことのりを受けてせいを撃とうとしているのに、かんは独断で使者を送ってせいくだしてしまいました。(そんなことをしておいて、)どうしてみことのりを下して将軍しょうぐん韓信かんしん)を止めることができましょうか?(韓信かんしんは)どうして行かずにおられましょうかっ!

酈生れきせい酈食其れきいき)は一介の士に過ぎませんが、車の横木に寄りかかったまま三寸の舌を振るってせいの70余城をくだし、将軍しょうぐん韓信かんしん)は数万の軍勢をひきいて、1年余りでやっとちょうの50余城をくだしただけでございます。

将軍しょうぐんの地位に数年ある者が、1人の豎儒じゅじゅ(つまらない儒学者)の功績に及ばないというのでしょうか?」


これを「その通りだ」と思った韓信かんしん蒯通かいとうはかりごとに従い、ついに黄河こうがを渡って済北郡せいほくぐん歴下邑れきかゆうの軍を襲い、せいの国都・臨菑郡りんしぐん臨菑県りんしけんに迫った。これを「酈生れきせい酈食其れきいき)にだまされた」と思った斉王せいおう田広でんこうは、彼をころして膠東郡こうとうぐん髙密県こうみつけんに逃亡し、に使者を派遣して救援を要請した。

韓信かんしん臨菑県りんしけんを平定すると、斉王せいおう田広でんこうを追って髙密県こうみつけんの西に至ったが、この時、龍且りゅうしょ将軍しょうぐんとしてつかわし、20万と号する兵をもってせいを救援させた。

龍且りゅうしょあなど

斉王せいおう田広でんこう将軍しょうぐん龍且りゅうしょは連合して韓信かんしんと戦うことになったが、まだ交戦に至らないうちに、ある人が龍且りゅうしょいて言った。


かん兵は国を遠く離れて戦っておりますから逃げ道はなく、その鋭鋒には当たるべからざる勢いがありますが、せいは自国の領内で戦うのですから、その兵はやぶりやすいと言えます。

城壁を深くし、斉王せいおう田広でんこうに命じておうの腹心の者をつかわし、降伏した城の将兵をまねかせるに越したことはありません。『城には斉王せいおう田広でんこうが健在で、軍も救援に来ている』と聞けば、彼らは必ずかんそむくでしょう。

かん兵は本国から2千里も離れたせいの地にいるのですから、せいの城がすべてそむけば、勢い食糧を得ることができなくなり、戦わずに降伏させることができるでしょう」


すると龍且りゅうしょは、


わたしは平素から韓信かんしんの人となりを知っているが、彼はとてもくみしやすい。自活の策もなく漂母ひょうぼ*5に寄食し、人をしのぐ勇気もなくまたの下をくぐる屈辱くつじょくを受け入れた男だ。何もおそれる必要はない。

せいを救援にやって来て、戦わずしてかん軍を降伏させたのでは、わたしにとって何の功績となろうか?

今、戦ってこれに勝てばせいの半分を得ることができるというのに、どうして止まってなどいられようかっ!」


と言い、ついに濰水いすいはさんで韓信かんしんと対陣した。

斉王せいおう田広でんこうを捕らえる

その夜、韓信かんしんは部下に命じて1万余のふくろを作らせ、その中に砂を満たして濰水いすいの上流をき止めると、半数の兵をひきい、かわを渡って龍且りゅうしょを攻撃したが、負けた振りをして逃げ帰った。

これに龍且りゅうしょは「韓信かんしんが臆病なことは、初めから分かっていたのだ」と言い、喜びいさんで韓信かんしんを追って濰水いすいを渡った。

それを見た韓信かんしんかわき止めていたふくろ決壊けっかいさせた。その奔流ほんりゅうによって龍且りゅうしょの軍の大半がかわを渡れなくなると、韓信かんしんはすぐさま急襲して龍且りゅうしょを討ち取った。

濰水いすいの東岸に陣取っていた軍はりになって敗走し、斉王せいおう田広でんこうも逃亡したが、韓信かんしんは敗走する敵を追撃して城陽じょうよう*6に至ると、斉王せいおう田広でんこうを捕らえた。その後、の兵卒もみな降伏し、ついにせいは平定された。

脚注

*5前述の水に錦をさらしていた老婆。韓信かんしんあわれんで飯を食べさせてやった。

*6詳細不詳。のちに設置される城陽郡じょうようぐんの治所は当時の琅邪郡ろうやぐん莒県きょけんにあり、現在の城陽区じょうようく膠州湾こうしゅうわんの北岸にある。田広でんこう濰水いすいの東岸から南に逃げれば前者、東に逃げたなら後者の可能性が高い。

斉王となる

韓信かんしんは使者を派遣して漢王かんおう劉邦りゅうほう)に言った。


せい夸詐こさ(ほら吹き)で心変わりを繰り返す国です。また、南は(と国境を接する)僻遠へきえんの地であるため、仮のおうを立てて鎮定ちんていしなければ、その形勢はさだまりません。

わたくしの)権力は軽く、これを安定させるにはりませんので、どうかわたくしが仮のおうとして立つことをお許しください」


この時漢王かんおう劉邦りゅうほう)は、ちょうどの急襲を受けて三川郡さんせんぐん滎陽県けいようけんを包囲されていたので、韓信かんしんの書簡を開いて大いに怒り、

わたしはここで苦戦し、朝夕、わたしを助ける者が来るのを待っているのに、(お前は)自立しておうとなりたいと言うのかっ!」

ののしると、後ろにひかえていた張良ちょうりょう陳平ちんぺい漢王かんおう劉邦りゅうほう)の足をんで合図し、漢王かんおう劉邦りゅうほう)に耳打ちして言った。


「現在、かんは不利な形勢にあります。どうして韓信かんしんみずかおうとなることを禁じることができましょうか?

ここは韓信かんしんおうに立てて厚遇し、かんのため韓信かんしん自身にせいの地を守らせるのがよろしいでしょう。さもなければ変事が起こるかもしれません」


漢王かんおう劉邦りゅうほう)は事情をさとり、またののしって言った。

大丈夫だいじょうぶたるもの、諸侯しょこうを平定したからには、すぐさま真のおうとなってしかるべきだ。どうして仮のおうなどと言うのかっ!」

こうして漢王かんおう劉邦りゅうほう)は張良ちょうりょうつかわして韓信かんしん斉王せいおうに立て、その兵を徴発してを攻撃させた。

項羽の誘い

龍且りゅうしょを失い、(韓信かんしんを)恐れた項王こうおう項羽こうう)は東海郡とうかいぐん盱台県くいけん出身の武渉ぶしょうを派遣して、韓信かんしんいて言った。


楚王そおう項羽こうう)は足下あなたと旧交がありますのに、足下あなたはどうしてかんそむいてに味方なされないのか?

漢王かんおう劉邦りゅうほう)は信用の置けない人物で、しばしば項王こうおう項羽こうう)に生殺与奪の権をにぎられたこともありましたが、危機を脱すると約束にそむいてまた項王こうおう項羽こうう)を攻撃したのです。その親しみがたく信用ならないことは、このようであります。

今、足下あなた漢王かんおう劉邦りゅうほう)と金石きんせきまじわり(固い友情)を有しているとお思いでしょうが、いずれは漢王かんおう劉邦りゅうほう)によって捕らえられることになるでしょう。

足下あなた今日こんにちまで生きてこられたのは、項王こうおう項羽こうう)が健在であったからこそです。もし項王こうおう項羽こうう)が滅亡すれば、次は足下あなたの番です。どうしてと連合和平し、天下を三分してせいおうとなられないのですか?

今、足下あなたはこの好機をのがし、漢王かんおう劉邦りゅうほう)を信じてを攻撃しようとされていますが、まことの智恵者なら、どうしてそのようなことをいたしましょうかっ!」


韓信かんしんはこれを謝絶して言った。


わたくしはかつて数年の間、項王こうおう項羽こうう)に仕えておりましたが、与えられた官は郎中ろうちゅうに過ぎず、位は執戟しつげき郎中ろうちゅうほこる宿衛の士)に過ぎなかった。建言は聴き入れられず、計策はり上げられなかった。だからこそ、そむいてかんについたのである。

漢王かんおう劉邦りゅうほう)はわたし上将軍じょうしょうぐんの印と数万の兵をさずけ、自分のころもを脱いでわたしに着せ、食事を勧めてわたしに食わせ、建言は聞き入れられ、はかりごともちいられた。だからこそ、わたしは今日この身分になることができたのである。

人がこれほどわたしを信任してくれているのに、これにそむくのはよろしくない。どうかわたしに代わって項王こうおう項羽こうう)にお断りしていただきたい」


武渉ぶしょうが去ったのち蒯通かいとうは天下を左右するはかり分銅ふんどう韓信かんしんにあることを察知し、韓信かんしんに「天下を三分しておうとなる」よう切々といたが、韓信かんしんかんそむくに忍びず、また「自分の功績が大きいことから、漢王かんおう劉邦りゅうほう)がせいを奪うことなどない」と考えて、ついに聴き入れなかった。

楚王に徙される

漢王かんおう劉邦りゅうほう)は陳郡ちんぐん固陵県こりょうけんで敗れると、張良ちょうりょうはかりごともちいて韓信かんしんの将兵を徴発し、泗水郡しすいぐん垓下がいかで会合した。

項羽こううが死ぬと、高帝こうてい劉邦りゅうほう)は韓信かんしんの軍を襲奪し、韓信かんしん楚王そおううつして東海郡とうかいぐん下邳県かひけんに都させた。

韓信の恩返し

韓信かんしんは領国におもむくと、かつて食事を恵んでくれた漂母ひょうぼし出して千金を下賜かしし、東海郡とうかいぐん淮陰県わいいんけん下郷かきょう亭長ていちょうには百銭を与えて「お前は小人だ。恩をほどこしながら途中でやめた」と言った。

また、自分を侮辱ぶじょくしてまたの下をくぐらせた若者をし出して中尉ちゅうい*7に任命し、将軍しょうぐんや大臣たちに、

「これは壮士そうしである。わたし侮辱ぶじょくした当時、殺せなかったわけではない。ただこれを殺したところで名誉にもならないから、我慢して今日の功績を成したのだ」

と言った。

脚注

*7巡察して盗賊を捕らえる官職。

淮陰侯に降格される
韓信かんしん鍾離眜しょうりばつ

項王こうおう項羽こうう)の将軍しょうぐん鍾離眜しょうりばつの家は南郡なんぐん伊廬県いろけん*8にあって、元々韓信かんしんとは仲が良く、項王こうおう項羽こうう)が敗れると、鍾離眜しょうりばつは逃亡して韓信かんしんの元に身を寄せていた。

鍾離眜しょうりばつうらんでいた高帝こうてい劉邦りゅうほう)は、彼がにいると聞いて、みことのりを下して鍾離眜しょうりばつを捕らえるように命じた。


当時、韓信かんしんは領国に着いたばかりであったので、県邑けんゆうを巡行するために護衛の兵をつらねて出入りしていた。

かんの6年(紀元前201年)、「韓信かんしん謀叛むほんしようとしている」と変事を告げる者があり、その書簡が上聞されると、高帝こうてい劉邦りゅうほう)はこれを憂慮ゆうりょした。

そこで高帝こうてい劉邦りゅうほう)は、諸侯しょこうに使者を発して「わたしはこれから雲夢沢うんぼうたく巡狩じゅんしゅ*9する(吾將游雲夢)」と告げ、諸侯しょこうを(国にある)雲夢沢うんぼうたくに召集する命令を下した。

これは韓信かんしんの不意を襲おうとする陳平ちんぺいはかりごとであったが、韓信かんしんはそれを知らなかった[ので、高帝こうてい劉邦りゅうほう)が諸侯しょこうを集結してに攻めて来るのだと思った]。

高帝こうてい劉邦りゅうほう)がに近づいて来ると、韓信かんしんは兵を発してこれと戦おうかとも思ったが、何度考えても自分に罪をおかした覚えはないので、高帝こうてい劉邦りゅうほう)に謁見えっけんすることとした。

それでもまだ「謁見えっけんすれば捕らえられるのではないか」と恐れていると、

鍾離眜しょうりばつを斬って上[高帝こうてい劉邦りゅうほう)]に謁見えっけんすれば、上[高帝こうてい劉邦りゅうほう)]は必ず喜ばれましょう。それでわずらいはなくなります」

と言う者があった。そこで韓信かんしん鍾離眜しょうりばつと会って相談すると、鍾離眜しょうりばつは言った。

かんが攻撃してを取らないのは、わたしあなたの元にいるからです。もしあなたわたしを捕えてみずかかんびたいとお望みであれば、わたしは今にも死にますが、わたしに続いてあなたも殺されることになるでしょう」

そして、「あなたは長者(有徳者)ではないっ!」と韓信かんしんののしると、みずから首をねて死んだ。


韓信かんしん鍾離眜しょうりばつの首を持参して、陳郡ちんぐん陳県ちんけん高帝こうてい劉邦りゅうほう)に謁見えっけんしたが、高帝こうてい劉邦りゅうほう)は武士(武装兵)に命じ、韓信かんしんを縛って後車にせた。

韓信かんしんが、

「果たして世の人の言う通り、『狡兔こうと死して良狗りょうくられ、高鳥こうちょうきて良弓りょうきゅうかくれ、敵国てきこくやぶれて謀臣ぼうしんほろ*10』ということか。天下はすでにさだまり、わたしころされるのは当然なのだろう」

と言うと、高帝こうてい劉邦りゅうほう)は「あなた謀叛むほんを密告して来た者がいたのだ」と言い、ついに韓信かんしんかいかせ)をはめた。

三川郡さんせんぐん雒陽らくように到着すると、高帝こうてい劉邦りゅうほう)は韓信かんしんゆるし、位を下げて淮陰侯わいいんこうとした。


韓信かんしん高帝こうてい劉邦りゅうほう)が自分の才能をおそれ憎んでいることを知り、その後は病気と称して参朝せず、天子てんし行幸ぎょうこうにも随行ずいこうしなかった。

韓信かんしんは日々高帝こうてい劉邦りゅうほう)をうらんで心が晴れず、絳侯こうこう周勃しゅうぼつ灌嬰かんえいと同列であることをじた。

脚注

*8括地志輯校かつちししゅうこうによれば「しん伊廬いろかん中廬県ちゅうろけんである」とある。

*9天子てんしが天下を巡り、地方の政治や民の生活状態を視察すること。巡守じゅんしゅとも書く。

*10「すばしこいうさぎが死ぬと優秀な猟犬はころされ、高く飛ぶ鳥がきてしまうと良い弓は蔵にしまわれ、敵国が破れると謀臣は殺されてしまう」転じて敵国が滅びれば忠臣は不要となり、ごくつぶしとして殺されてしまうということ。

韓信かんしんなげ

以前、樊将軍はんしょうぐん樊噲はんかい)の家をたずねた時、樊噲はんかい趨拝すうはい*11して送迎し、韓信かんしんと話す時には自分のことを「しん」と称して「大王だいおう韓信かんしん)には、よくぞしんの家にお越しくださいました」と言っていた。

韓信かんしんは門を出ると自嘲じちょうして「生きびはしたが、樊噲はんかいらと同列になってしまったかっ!」と言った。

脚注

*11出向いていって拝顔すること。また小走りに走り寄っておがむこと。

韓信かんしん高帝こうてい劉邦りゅうほう)評

以前、高帝こうてい劉邦りゅうほう)がくつろいで、韓信かんしんと共に諸将の能力差について語り、それぞれに等級をつけていた時のこと。

高帝こうていわたしなどは、何人をひきいる将となれるだろうか?」

韓信かんしん「陛下はせいぜい10万人をひきいる将に過ぎないでしょう」

高帝こうてい「そちはどうか?」

韓信かんしんわたくしなら、多ければ多いほどよろしゅうございます」

すると高帝こうてい劉邦りゅうほう)は笑って言った。

「多ければ多いほど良いと言うのに、どうしてわたしとりことなったのか?」

韓信かんしん「陛下は兵の将となることはできませんが、将の将となることがおできになられます。これがわたしが陛下のとりことなった理由でございます。ともあれ陛下は、いわゆる天からさずかった特別な才能をお持ちですので、人の力の及ぶところではございません」

韓信の死
韓信かんしん陳豨ちんき

その後、陳豨ちんきだい宰相さいしょうとして辺境を監領することになり、韓信かんしん暇乞いとまごいをした。

すると韓信かんしんは、陳豨ちんきの手を取って共に庭園を何度もめぐり歩き、天をあおいでなげいて言った。

「聞いてもらえるかな?あなたに話しておきたいことがあるのだ…」

陳豨ちんき「ただ将軍しょうぐんのお指図さしずのままに」

韓信かんしんあなたのいる所は天下の精兵が集まる所であり、しかもあなたは陛下の信任の厚い寵臣ちょうしんだ。人があなた謀叛むほんを告げても、陛下は決してその密告を信じないだろう。だが再び密告があれば、陛下も疑いを持たれるだろう。密告が三度みたびに及べば、必ず怒って親征なされるに違いない。だが、わたしあなたのために都で内応すれば、天下をはかることができる」

陳豨ちんきは平素から韓信かんしんの才能を知っていたので、この言葉を信じ、「つつしんでお教えに従いましょうっ!」と答えた。

謀叛むほんの失敗

かんの10年(紀元前197年)、果たして陳豨ちんき謀叛むほんを起こし、高帝こうてい劉邦りゅうほうみずから将として出陣したが、韓信かんしんは病気と称して従軍しなかった。

韓信かんしんは秘かに陳豨ちんきの元に人を派遣して「弟よ、兵をげよ、わたしあなたを助けに行こう」と言った。また、家臣と謀議ぼうぎして「夜にいつわって諸官に所属する徒奴とど(罪人)を赦免しゃめんし、兵を発して呂后りょこう太子たいしを襲う」こととした。

すでに手筈てはずを整えて、ただ陳豨ちんきの報告を待つだけとなった時、たまたま韓信かんしん舎人しゃじん(家来)が韓信かんしんに対して罪を犯したので、韓信かんしんは捕えて殺そうとした。するとその舎人しゃじん(家来)の弟が上書して変事を告げ、韓信かんしん謀叛むほんを起こそうとしていることを呂后りょこうに告げた。

呂后りょこう韓信かんしんを召し出そうとしたが、韓信かんしんが応じないことを恐れた。呂后りょこう相国しょうこく蕭何しょうかと相談し、人に命じて高帝こうてい劉邦りゅうほう)の使者といつわって「陳豨ちんきはすでに死んだ」と言わせ、群臣はみなこれを慶賀した。

さらに蕭何しょうか韓信かんしんあざむいて「病気といえど、参内して慶賀するように」と言った。

韓信かんしんが参内すると、呂后りょこうは武士(武装兵)に命じて韓信かんしんを捕縛し、長楽宮ちょうらくきゅう鐘室しょうしつかねけた部屋)で斬った。

まさに斬られようとする時、韓信かんしんは言った。

蒯通かいとうはかりごともちいなかったばかりに、こうして婦女子にあざむかれることとなった。これも天命なのだろうかっ!」

ついに韓信かんしんはその三族を族滅された*12


高帝こうてい劉邦りゅうほう)は陳豨ちんきを破り、凱旋がいせんして韓信かんしんの死を聞くと、喜びつつもあわれんで、「韓信かんしんは死にのぞんで何か言葉を残したか?」とうた。

呂后りょこうがその言葉を告げると、高帝こうてい劉邦りゅうほう)は「それはせいの弁士・蒯通かいとうのことだ」と言った。高帝こうてい劉邦りゅうほう)は彼を捕らえてころそうと思ったが、蒯通かいとうの申し開きを聞いてその罪をゆるした。

脚注

*12三族の刑は、刑法志けいほうしによれば、みなまずいれずみし、次に鼻を斬り、左右の四肢を斬り落とし、むち打って殺し、その首をさらして骨肉を(塩漬け)にする。


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