正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(95)韓信(かんしん)です。

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凡例・目次

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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か(95)韓信

韓信

韓信(かんしん)

生年不詳〜漢(かん)の11年(紀元前196年)没。東海郡(とうかいぐん)・淮陰県(わいいんけん)の人。

不遇の日々
出自(しゅつじ)

韓信(かんしん)の家は貧しく善行もなかったため、官吏に推挙してもらうことができなかった。また商売をして生計を立てることもできず、いつも人に従い寄食(きしょく)(居候(いそうろう))していた。

母が亡くなった時でさえ葬儀もできなかったが、髙燥な地(高所にあって乾燥している土地)に墓をつくり、将来その傍(かたわ)らに1万家の墓守を置けるようにした。

居候(いそうろう)暮らし

韓信(かんしん)が淮陰県(わいいんけん)の下郷(かきょう)にある南昌亭(なんしょうてい)の亭長(ていちょう)の家に寄食(きしょく)(居候(いそうろう))していた時のこと。

亭長(ていちょう)の妻はこれを苦(にが)々(にが)しく思い、ある日、わざと朝早く朝食をつくって寝床(ねどこ)の中で食べた。

食事時になって、自分の食事が用意されていないことに気づいた韓信(かんしん)は、その意味を悟(さと)り、自(みずか)ら絶交して亭長(ていちょう)の家を去った。

漂母(ひょうぼ)の施(ほどこ)し

韓信(かんしん)が城下で釣りをしていた時のこと。

水に錦を漂(さら)していた老婆が韓信(かんしん)を憐(あわ)れんで飯を食べさせてやったが、それは漂(さら)しが終わるまで数十日間続いた。

そこで韓信(かんしん)が「吾(わたし)は必ずあなたに厚く恩返しをするよ」と言うと、老婆は「大の男が自分の力で食べられもしないくせに。吾(わたし)はお前さんを憐(あわ)れんで飯を食べさせただけのこと。どうして恩返しなど望むものかっ!」と言った。

韓信(かんしん)の股(また)くぐり

ある時、淮陰県(わいいんけん)の若者がまた韓信(かんしん)を侮(あなど)って、

「でかい図体(ずうたい)をして嬉(うれ)しそうに刀剣を帯(お)びているが、本当は臆病なだけだろう」

と言いい、また衆人の面前で韓信(かんしん)を辱(はずかし)め、

「死(ころ)せるなら我(おれ)を刺してみろ。死(ころ)せないのなら我(おれ)の股(また)の下をくぐれ」

と言った。すると韓信(かんしん)はその若者をじっと見つめ、腹ばいになって股(また)の下をくぐった。

これを見た市中の人々はみな、韓信(かんしん)を臆病者だと嘲(あざけ)り笑った。

楚に仕える

項梁(こうりょう)が淮水(わいすい)を渡ると、韓信(かんしん)は剣を杖として項梁(こうりょう)に従いその麾下(きか)に入ったが、まだ名前を知られていなかった。

項梁(こうりょう)が敗れると、また項羽(こうう)に属して郎中(ろうちゅう)となった。韓信(かんしん)はしばしば策を献じたが、項羽(こうう)は用(もち)いなかった。

漢に仕える
夏侯嬰(かこうえい)に見出(みいだ)される

漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))が蜀(しょく)(漢中郡(かんちゅうぐん))に入ると、韓信(かんしん)は楚(そ)(項羽(こうう))から逃亡して漢(かん)(劉邦(りゅうほう))に帰順したが、そこでもまだ名前を知られることはなく、連敖(れんごう)(接待係)という低い官職を得ただけであった。

ある罪に連座して斬首の刑を言い渡され、すでにその同輩13人が斬られて韓信(かんしん)の順番となった。韓信(かんしん)が面(おもて)を上げて仰(あお)ぎ見ると、たまたま滕公(とうこう)(夏侯嬰(かこうえい))の姿が目に入り、

「漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は天下の大業(たいぎょう)成就(じょうじゅ)を望まれず、あたら壮士(そうし)を斬られるのかっ!」

と言った。滕公(とうこう)(夏侯嬰(かこうえい))はその言葉を奇(き)(非凡)、容貌を壮(そう)(勇壮)と認め、韓信(かんしん)を釈(ゆる)して斬らず、語り合って大いに気に入ると、そのことを漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))に言上した。

漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は韓信(かんしん)を治粟都尉(ちぞくこうい)に任命したが、まだそれほど高く評価してはいなかった。

漢(かん)の大将軍(だいしょうぐん)となる

韓信(かんしん)はしばしば蕭何(しょうか)と語り合ったが、蕭何(しょうか)は彼を優(すぐ)れた人物と評価していた。

漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))が漢中郡(かんちゅうぐん)・南鄭県(なんていけん)に都した時、諸将の中には(辺境の地を嫌って)逃亡する者が数十人もいたが、韓信(かんしん)も「蕭何(しょうか)らが何度も推薦してくれたにも拘(かか)わらず用(もち)いられなかった」ため、すぐに逃亡した。

蕭何(しょうか)は「韓信(かんしん)が逃亡した」ことを聞くと、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))に黙って自(みずか)ら韓信(かんしん)の後を追った。

それを見た者が「丞相(じょうしょう)の蕭何(しょうか)が逃亡しました」と言上すると、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は大いに怒り、また左右の手を失ったかのように落胆した。

それから1〜2日経って蕭何(しょうか)が謁見にやって来ると、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は怒りつつも喜び、蕭何(しょうか)を罵(ののし)って言った。

漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))「お前が逃げるとはどういうことだ?」

蕭何(しょうか)「臣(わたくし)は逃げたのではありません。逃げた者を追っていたのです」

漢王(かんおう)「誰を追ったのか?」

蕭何(しょうか)「韓信(かんしん)です」

するとまた漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は、蕭何(しょうか)を罵(ののし)って言った。

漢王(かんおう)「諸将の中から逃亡者が数十人もあったというのに、お前は誰一人追わなかった。韓信(かんしん)を追ったというのは詐(いつわ)りであろう」

蕭何(しょうか)「(あの程度の)諸将を得るのは容易(ようい)ですが、韓信(かんしん)は国士無双*1です。王(おう)(劉邦(りゅうほう))がいつまでも漢中王(かんちゅうおう)のままで満足なされるなら、韓信(かんしん)を用(もち)いる必要はありません。ですがもし、天下を争おうとお望みであれば、韓信(かんしん)の他に共に事を計(はか)れる者はおりません。すべては王(おう)(劉邦(りゅうほう))のお考え次第です」

漢王(かんおう)「吾(わし)も東方に進出して天下を争うことを望んでいる。どうしていつまでも鬱(うつ)々(うつ)とこの地に留(とど)まっておられようか?」

蕭何(しょうか)「王(おう)(劉邦(りゅうほう))のお考えが東方進出におありならば、韓信(かんしん)を用(もち)いるべきです。韓信(かんしん)は用(もち)いるならば留(とど)まり、用(もち)いないのならば逃亡するだけのことです」

漢王(かんおう)「お前の言う通り、韓信(かんしん)を将軍(しょうぐん)として用(もち)いよう」

蕭何(しょうか)「ただ将軍(しょうぐん)とするだけでは、韓信(かんしん)は留(とど)まらないでしょう」

漢王(かんおう)「では大将軍(だいしょうぐん)にしよう」

蕭何(しょうか)「それがよろしいでしょう」

そこで漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))が韓信(かんしん)を召(め)して大将軍(だいしょうぐん)に任命しようとすると、蕭何(しょうか)は言った。


「王(おう)(劉邦(りゅうほう))は以前から傲慢(ごうまん)で礼をわきまえておられません。

今、大将軍(だいしょうぐん)を任命されようという時に、小児を呼びつけるようになさるなら、それこそ韓信(かんしん)が去る所以(ゆえん)です。

王(おう)(劉邦(りゅうほう))が必ず韓信(かんしん)を任命しようと望まれるのであれば、吉日を択(えら)んで斎戒(さいかい)*2し、壇場(だんじょう)を設(もう)けて礼を具(そな)えられるべきです」


漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))がこれを承諾すると、諸将はみな喜んで、それぞれに「自分が大将軍(だいしょうぐん)に任命されるのだ」と期待したが、大将軍(だいしょうぐん)を拝命したのは韓信(かんしん)だったので、軍の全員が驚いた。

脚注

*1国中で並ぶ者がないほど優(すぐ)れた人物のこと。

*2飲食や行動を慎(つつし)んで心身を清めること。

韓信(かんしん)の項王(こうおう)(項羽(こうう))評

任命の礼が終わって上座(かみざ)に着くと、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は韓信(かんしん)に、

「丞相(じょうしょう)・蕭何(しょうか)はしばしば将軍(しょうぐん)(韓信(かんしん))を推挙していたが、将軍(しょうぐん)(韓信(かんしん))はどのような計策(はかりごと)を寡人(わたし)に教えてくれるのだろうか?」

と言った。韓信(かんしん)は任命に感謝し、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))に問(と)うて言った。

韓信(かんしん)「東に向かって天下の実権を争われるならば、今やその相手は項王(こうおう)(項羽(こうう))ではないでしょうか?」

漢王(かんおう)「その通りだ」

韓信(かんしん)「大王(だいおう)(劉邦(りゅうほう))ご自身は、勇悍(ゆうかん)さや仁強(じんきょう)さにおいて、項王(こうおう)(項羽(こうう))とどちらが優(すぐ)れているとお考えでしょうか?」

漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))はしばらく黙り込んだ後で「(吾(わし)は)項王(こうおう)(項羽(こうう))には及ばない」と答えた。すると韓信(かんしん)は再拝し、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))の答えを祝福して言った。


「信(わたくし)もやはり大王(だいおう)(劉邦(りゅうほう))が及ばないと存じます。ですが臣(わたくし)は項王(こうおう)(項羽(こうう))に仕えたことがございますので、項王(こうおう)(項羽(こうう))の人となりを申し上げてみましょう。

項王(こうおう)(項羽(こうう))が怒声を発すれば千人がみなひれ伏すほどですが、賢将(けんしょう)を信頼して任せることができません。これでは『匹夫(ひっぷ)の勇(ゆう)』に過ぎません。

また一方で項王(こうおう)(項羽(こうう))は、人と会う時には恭(うやうや)しく言葉遣いも穏(おだ)やかで、人が病気になれば涙を流して飲食を分け与えますが、人を使って功績ある者に封爵すべき時には、印を授(さず)けるのを惜(お)しみ、印を弄(もてあそ)んで摩滅(まめつ)するまで躊躇(ちゅうちょ)します。これを『婦人(ふじん)の仁(じん)』と申します。

項王(こうおう)(項羽(こうう))は天下に覇を唱(とな)えて諸侯(しょこう)を臣従させましたが、関中(かんちゅう)に居住せずに泗水郡(しすいぐん)・彭城県(ほうじょうけん)に都を置きました。

また、義帝(ぎてい)との約束に背(そむ)き、私情を差し挟(はさ)んで諸侯(しょこう)を王(おう)に封じたため、多くの者が不満を抱(いだ)いています。

諸侯(しょこう)は『項王(こうおう)(項羽(こうう))が義帝(ぎてい)を江南(こうなん)に放逐(ほうちく)したこと』に倣(なら)い、封国に帰るとみな旧主を放逐(ほうちく)し、良い土地を奪って王(おう)になりました。

項王(こうおう)(項羽(こうう))の軍が通過した地域で滅ぼされなかった所はなく、百姓(たみ)は怨(うら)み従わず、ただその軍威に脅(おど)され服従を強(し)いられているに過ぎません。

項王(こうおう)(項羽(こうう))は『覇者(はしゃ)』と呼ばれてはいても、その実、天下の人心を失っており、その強さは脆(もろ)いものなのです。

今、大王(だいおう)(劉邦(りゅうほう))が項王(こうおう)(項羽(こうう))のやり方とは反対に、天下の武勇の士を信任なされるならば、どこに誅伐(ちゅうばつ)できない敵がいるでしょうかっ!

その上で功臣を天下の城邑(じょうゆう)に封ぜられますならば、心服しない者がいるでしょうかっ!

大義名分をもって、東方への帰郷を願う将士を従えられますならば、どうして敗(やぶ)れ散らない敵がいるでしょうかっ!

また、三秦(さんしん)の王(おう)(章邯(しょうかん)・司馬欣(しばきん)・董翳(とうえい))は秦(しん)の将軍(しょうぐん)として秦(しん)の子弟を率(ひき)いること数年に及び、彼らが殺戮(さつりく)した人命は数え切れないほどです。

彼らはその軍勢を欺(あざむ)いて諸侯(しょこう)に降伏しましたが、三川郡(さんせんぐん)・新安県(しんあんけん)に至ると、項王(こうおう)(項羽(こうう))によって降兵20余万人は穴(あな)埋(う)めにされ、ただ章邯(しょうかん)・司馬欣(しばきん)・董翳(とうえい)だけがその難を脱したのです。

今、楚(そ)は武威をもってこの3人を王(おう)に強(し)いておりますが、彼らに対する秦しんの父兄の怨うらみは骨髄こつずいに徹てっしておりますので、秦(しん)の民に愛されておりません。

これに対して、大王(だいおう)(劉邦(りゅうほう))が武関(ぶかん)から入られた際には、毛ほども民を害することなく、秦(しん)の苛烈(かれつ)な法令を廃し、秦(しん)の民とただ『三章の法*3』を約束されただけでしたので、秦(しん)の民で大王(だいおう)(劉邦(りゅうほう))を秦(しん)の王(おう)として戴(いただ)くことを望まない者はおりません。

諸侯(しょこう)との約束では、大王(だいおう)(劉邦(りゅうほう))が関中(かんちゅう)で王(おう)となられるのが当然ですし、関中(かんちゅう)の民も家ごとにみなそのことを知っています。

それなのに、大王(だいおう)(劉邦(りゅうほう))が項王(こうおう)(項羽(こうう))のために正当な職を失って蜀(しょく)に入られたので、秦(しん)の民でこのことを恨(うら)まない者はありません。

今、大王(だいおう)(劉邦(りゅうほう))が大挙して東征なさいますならば、三秦(さんしん)の地は檄(げき)を伝えるだけで平定することができるでしょう」


この言葉に漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は大いに喜び、韓信(かんしん)を手に入れることが遅かったことを悔(く)やみ、ついに韓信(かんしん)の計(はかりごと)を聴き入れて、諸将の撃つべき部署(攻撃目標)を定めた。

脚注

*3人を殺した者は死刑とし、人を傷つけた者、人の物を盗んだ者は罰するという3つの法。

漢王(劉邦)の挙兵

漢(かん)の元年(紀元前206年)8月、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は挙兵して東の内史(ないし)・陳倉県(ちんそうけん)に出撃し、三秦(さんしん)の地を平定した。

漢(かん)の2年(紀元前205年)、函谷関(かんこくかん)を出て魏(ぎ)・河南(かなん)地方を手に入れ、韓王(かんおう)・殷王(いんおう)らはみな降伏した。

4月、斉(せい)・趙(ちょう)と共に楚(そ)の泗水郡(しすいぐん)・彭城県(ほうじょうけん)を攻撃させたが、漢(かん)軍は敗れて散(ち)り散(ぢ)りになって逃げ還(かえ)った。

韓信(かんしん)は再度兵を取りまとめて漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))と三川郡(さんせんぐん)・滎陽県(けいようけん)で合流し、再び楚(そ)を攻撃して南の京県(けいけん)と索県(さくけん)の間で破ったので、楚(そ)軍は西進することができなかった。

魏・代の平定

漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))が泗水郡(しすいぐん)・彭城県(ほうじょうけん)で敗退した時、塞王(さいおう)・司馬欣(しばきん)と翟王(てきおう)・董翳(とうえい)は漢(かん)から逃亡して楚(そ)に降(くだ)り、斉(せい)・趙(ちょう)・魏(ぎ)もまた、みな漢(かん)に叛(そむ)いて楚(そ)と和睦した。

漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は酈生(れきせい)(酈食其(れきいき))を派遣して魏王(ぎおう)・魏豹(ぎほう)を説得させようとしたが、魏豹(ぎほう)は聞き入れなかった。


8月、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))はやむを得ず、韓信(かんしん)を左丞相(さじょうしょう)に任命して魏(ぎ)を攻撃たせた。そこで韓信(かんしん)が酈生(れきせい)(酈食其(れきいき))に「魏(ぎ)は周叔(しゅうしゅく)を大将に用(もち)いるだろうか?」と問(と)うと、酈生(れきせい)(酈食其(れきいき))は「栢直(はくちょく)でしょう」と答えた。すると韓信(かんしん)は「豎子(じゅし)(青二才)だな」と言い、ついに兵を進めて魏(ぎ)を攻撃した。

魏(ぎ)は盛兵を河東郡(かとうぐん)・蒲阪県(ほはんけん)に配置し、対岸の内史(ないし)・臨晋県(りんしんけん)を封鎖した。韓信(かんしん)は疑兵をもって大軍であるかのように見せかけると、船を並べて臨晋県(りんしんけん)から渡る振りをし、その一方で、秘かに木罌缶(もくおうふ)(木製の瓶(たる)を並べて縛(しば)った筏(いかだ))を使い、北の夏陽県(かようけん)から兵を渡らせて、河東郡(かとうぐん)・安邑県(あんゆうけん)を襲撃した。

魏王(ぎおう)・魏豹(ぎほう)は驚き、兵を率(ひき)いて韓信(かんしん)を迎え撃ったが、韓信(かんしん)はついに魏豹(ぎほう)を捕らえて河東郡(かとうぐん)を平定し、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))に人を遣(つか)わして言上した。

「3万人の増兵を願います。臣(わたくし)は北に燕(えん)・趙(ちょう)を挙(あ)げ、東に斉(せい)を撃ち、南に楚(そ)の糧道を絶(た)ち、大王(だいおう)(劉邦(りゅうほう))と西の三川郡(さんせんぐん)・滎陽県(けいようけん)でお会いしたいと存じます」

そこで漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は韓信(かんしん)に兵3万人を与えると、張耳(ちょうじ)を遣(つか)わして韓信(かんしん)と共に東北の趙(ちょう)・代(だい)を攻撃させた。9月、韓信(かんしん)と張耳(ちょうじ)は代(だい)を破って(代(だい)の宰相(さいしょう)・)夏説(かえつ)を上党郡(じょうとうぐん)・閼与(あつよ)で生け捕った。

韓信(かんしん)が魏(ぎ)・代(だい)を降(くだ)すと、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))はその度(たび)に人を遣(や)ってそれらの精兵を手中に収(おさ)め、滎陽県(けいようけん)に移して楚(そ)軍を防がせた。

趙の平定
成安君(せいあんくん)・陳余(ちんよ)の過(あやま)ち

韓信(かんしん)と張耳(ちょうじ)は兵数万を率(ひき)いて東の恒山郡(こうざんぐん)・井陘県(せいけいけん)に攻め下り、趙(ちょう)を攻撃しようとした。趙王(ちょうおう)・趙歇(ちょうあつ)と成安君(せいあんくん)・陳余(ちんよ)は「漢(かん)軍が今にも来襲しようとしている」と聞くと、20万と号する兵を井陘口(せいけいこう)*4に集結させた。

そこで広武君(こうぶくん)・李左車(りさしゃ)は成安君(せいあんくん)・陳余(ちんよ)に説(と)いて言った。


「漢(かん)の将軍(しょうぐん)・韓信(かんしん)は、西河(せいが)(黄河(こうが))を渡って魏王(ぎおう)・魏豹(ぎほう)を捕らえ、上党郡(じょうとうぐん)・閼与(あつよ)で(代(だい)の宰相(さいしょう)・)夏説(かえつ)を生け捕りにしたばかりと聞いております。

今、補佐の張耳(ちょうじ)と謀議して趙(ちょう)を降(くだ)そうとしていますが、勝ちに乗じて本国を離れ遠方で戦う鋭鋒には、当たるべからざる勢いがあります。

『千里の彼方から糧食を運んでいるようでは兵士の顔に飢餓(きが)の色が現れ、薪(まき)を取り草を取ってから炊事するようでは、軍の腹を満たすことはできない』と言います。

今、井陘県(せいけいけん)の道は(狭(せま)いため)車も騎馬も隊列を組んで進むことができません。そのような行軍が数百里も続けば、勢い糧食を運ぶ輜重(しちょう)は必ずや後方に位置するでしょう。

臣(わたくし)に奇兵(奇襲部隊)3万をお貸しいただければ、間道から敵の輜重(しちょう)を絶(た)ち切ります。貴殿は溝を深くし、塁(るい)を高くして堅く守って敵と合戦なさらないでください。そうすれば、敵は進んで戦うこともできず、退(ひ)こうにも退(ひ)けません。

そこへ吾(わたし)の奇襲部隊がその背後を絶(た)ち、敵に略奪の場を与えないようにすれば、10日も経(た)たないうちに韓信(かんしん)・張耳(ちょうじ)両将の首を麾下(きか)(陣所)に持参することができます。

どうか臣(わたくし)の計(はかりごと)にご留意なさいませ。さもなければ、必ずや(あなたは)両将軍(しょうぐん)に生け捕られてしまうでしょう」


儒者(じゅしゃ)の成安君(せいあんくん)・陳余(ちんよ)は常に「正義の戦(いくさ)」を標榜(ひょうぼう)し、詐謀(さくぼう)・奇計(きけい)を用(もち)いなかったので、


「兵法に『10倍であればこれを包囲し、2倍ならば戦え』とある。今、韓信(かんしん)の兵は数万と号してはいるがその実それ程多くはなく、千里の彼方から我軍を襲うのだから、すでに疲労しているだろう。

今、このような敵さえ避けて撃たないならば、今後、大軍を相手にする場合には、一体どう対処するのか。もし諸侯(しょこう)が我が国をは臆病と見れば、軽(かろ)んじて我が国を伐(う)ちにやって来るだろう」


と言って、広武君(こうぶくん)・李左車(りさしゃ)の策を聴(き)き入れなかった。

脚注

*4河北(かほく)平原から太行(たいこう)山脈を越えて山西(さんせい)に通ずる8つの峠道(太行八陘(たいこうはっけい))の内の1つ。恒山郡(こうざんぐん)・井陘県(せいけいけん)の北にあり、四面が高く中央が低くなっている。土門口(どもんこう)とも言う。

背水の陣

韓信(かんしん)が間諜(かんちょう)を放って探らせたところ、戻って「広武君(こうぶくん)・李左車(りさしゃ)の策が用(もち)いられない」ことを報告した。韓信(かんしん)は大いに喜んで、直(ただ)ちに敢然(かんぜん)と兵を率(ひき)いて攻め下り、井陘口(せいけいこう)*4の手前30里(約12.5km)の地に宿営した。

その日の夜中、韓信(かんしん)は軽装の騎兵2千人を選んで1人に1本ずつ赤い幟(はた)を持たせ、「間道から敵に近づき、山陰に隠れて趙(ちょう)の軍営を望見する」ように命じ、戒(いまし)めて言った。

「趙(ちょう)は我が軍が敗走するのを見れば、必ずや塁壁(るいへき)を空(から)にして追撃するに違いない。(敵が塁壁(るいへき)を出たら、)お前たちはいち早く趙(ちょう)の塁壁(るいへき)に侵入し、趙(ちょう)の幟(はた)を引き抜いて漢(かん)の赤い幟(はた)を立てよ」

また、裨将(ひしょう)(副将)に「全軍に軽食を配る」ように命じ、「今日、趙(ちょう)軍を破ってから一緒に会食しよう」と言うと、諸将はみな半信半疑であったが、「了解しました」と答えた。

また、韓信(かんしん)は軍吏に言った。

「趙(ちょう)軍はすでに有利な地に塁壁(るいへき)を築(きず)いている。それに彼らは我が大将の旗鼓(きこ)を見ないうちは、我が先陣を攻撃しようとはしないだろう。険阻な地点まで来て、吾(わたし)が引き返すことを恐れているのだ」

こうして韓信(かんしん)は、兵1万を先発させて水(かわ)を背に陣を布(し)かせたが、趙(ちょう)軍はこれを眺(なが)め見て大いに笑った。


その夜明け方、韓信(かんしん)は大将の旗印(はたじるし)を立て太鼓(たいこ)を打ち鳴らしながら井陘口(せいけいこう)*4を進発し、趙(ちょう)軍は城門を開いて出撃した。しばらくの激戦の後、韓信(かんしん)と張耳(ちょうじ)は敗北を装(よそお)い、太鼓(たいこ)も旗(はた)も打ち捨てて河岸の軍陣に逃げ、そこでまた激戦を繰り広げた。

趙(ちょう)軍は塁壁(るいへき)を空(から)にして、漢(かん)の太鼓(たいこ)や旗(はた)を争って拾いながら韓信(かんしん)と張耳(ちょうじ)を追った。韓信(かんしん)と張耳(ちょうじ)が河岸の軍陣に入ると漢(かん)軍は死を賭(と)して戦ったので、趙(ちょう)軍はこれを破ることができなかった。

韓信(かんしん)が派遣した奇兵(奇襲部隊)2千騎は、趙(ちょう)軍が韓信(かんしん)を追って塁壁(るいへき)を空(から)にしたのを見て取ると、直(ただ)ちに趙(ちょう)の塁壁(るいへき)に馳(は)せ入って趙(ちょう)の幟(はた)をすべて抜き取り、2千本の漢(かん)の赤い幟(はた)を立てた。

趙(ちょう)軍は韓信(かんしん)・張耳(ちょうじ)らを捕らえることができないまま塁壁(るいへき)に帰還しようとしたところ、塁壁(るいへき)一面に漢(かん)の赤い幟(はた)がはためいているのを見て大いに驚き、すでに漢(かん)が趙王(ちょうおう)・趙歇(ちょうあつ)の諸将をみな破ったものと思い込み、ついに乱れて遁走(とんそう)した。

趙(ちょう)の将軍(しょうぐん)は敗走する味方の兵を斬って逃亡を止めようとしたが、もはやどうすることもできなかった。

こうして漢(かん)軍は趙(ちょう)軍を挟撃(きょうげき)し、これを破って捕虜とし、底水(ていすい)のほとりで成安君(せいあんくん)・陳余(ちんよ)を斬って、趙王(ちょうおう)・趙歇(ちょうあつ)を生け捕った。

そこで韓信(かんしん)は「広武君(こうぶくん)(李左車(りさしゃ))を斬ってはならぬ。彼を生け捕った者には千金を与えよう」と命令し、しばらくして戲下(きか)(直属の配下)の者が広武君(こうぶくん)・李左車(りさしゃ)を縛(しば)って連れて来た。すると韓信(かんしん)はその縄を解(と)いて東向きに座らせ、自分は西向きに向かい合って座ると、広武君(こうぶくん)・李左車(りさしゃ)を師と仰(あお)いだ。

脚注

*4河北(かほく)平原から太行(たいこう)山脈を越えて山西(さんせい)に通ずる8つの峠道(太行八陘(たいこうはっけい))の内の1つ。恒山郡(こうざんぐん)・井陘県(せいけいけん)の北にあり、四面が高く中央が低くなっている。土門口(どもんこう)とも言う。

諸将の疑問

諸将が敵兵の首級(しゅきゅう)と捕虜を差し出し終わると、みなで戦勝を祝ったが、その席である者が韓信(かんしん)に問(と)うた。

「兵法に『山陵を右か背後にし、水沢を前か左にする』とあります。今回、将軍(しょうぐん)(韓信(かんしん))はそれに反して臣(わたくし)どもに背水の陣を布(し)かせ、『趙(ちょう)軍を破ってから会食しよう』と言われました。臣(わたくし)どもは納得できませんでしたが、戦いに勝つことができました。これはどのような戦術なのでしょうか?」

韓信(かんしん)がこれに答えて、

「兵法には『兵を死地に追い込めば却(かえ)って生き延(の)び、亡地(絶対絶命の地)に投ずれば却(かえ)って生き残る』ともあるが、諸君が気づかなかっただけであろう?

それに信(わたし)は平素から士大夫(したいふ)たちを手懐(てなず)けていたわけではない。経(きょう)(兵法)に言うところの『市井(しせい)の人(庶民)を駆り立てて戦わせる』ようなものである。彼らを死地(背水の陣)に置いて各(おの)々(おの)が自(みずか)ら進んで戦うように仕向けず、彼らに生地(せいち)(逃げ道)を与えたならば、みな敗走してしまうだろう。それでは戦えぬではないかっ!」

と言うと、諸将はみな感服して「とても我らの及ぶところではありません」と言った。

燕を降す

そこで韓信(かんしん)は広武君(こうぶくん)(李左車(りさしゃ))に、

「僕(わたし)は北に燕(えん)を攻め、東に斉(せい)を伐(う)とうと思っていますが、どうすれば成功するでしょうか?」

と問(と)うたが、広武君(こうぶくん)(李左車(りさしゃ))は辞退して言った。

「『亡国の大夫(たいふ)は国の存立について図(はか)るべきではなく、敗軍の将は武勇について語るべきではない』と聞きます。臣(わたくし)ごときがどうして大事を権(はか)るに足(た)りましょうかっ!」

これに韓信(かんしん)が、

「『百里奚(ひゃくりけい)が虞(ぐ)に居(い)ても虞(ぐ)は亡(ほろ)び、秦(しん)に行って秦(しん)が覇者となったのは、(百里奚(ひゃくりけい)が)虞(ぐ)に居(い)た時に愚(おろ)かで、秦(しん)に行ってから智者になったわけではなく、(百里奚(ひゃくりけい)を)用(もち)いたか用(もち)いなかったか、彼の意見を聴き入れたか聴き入れなかったかの違いである』と聞きます。もし成安君(せいあんくん)・陳余(ちんよ)が子(あなた)の計(はかりごと)を聴き入れていたら、僕(わたし)もまた生け捕られていたでしょう。僕(わたし)は子(あなた)に心を委(ゆだ)ね、子(あなた)の計(はかりごと)に帰(したが)いますから、どうか辞退しないでください」

と言うと、広武君(こうぶくん)(李左車(りさしゃ))は答えて言った。


「『智者の千慮(せんりょ)にも必ず一失(いっしつ)があり、愚者の千慮(せんりょ)にもまた一得(いっとく)がある』と聞きます。ですから『狂夫(きょうふ)の言葉であっても聖人はこれを択(えら)びとる』のです。恐れながら臣(わたくし)の計(はかりごと)など用(もち)いるに足(た)らないかもしれませんが、願わくは愚忠を尽くさせていただきます。

今は亡(な)き成安君(せいあんくん)・陳余(ちんよ)には百戦百勝の計(はかりごと)がありましたが、1日にしてこれを失い邯鄲郡(かんたんぐん)・鄗県(こうけん)の城下で敗れ、その身は泜水(ていすい)のほとりで死にました。

今、足下(あなた)は魏王(ぎおう)・魏豹(ぎほう)を虜(とりこ)にされ、(代(だい)の宰相(さいしょう)・)夏説(かえつ)を生け捕り、日を置かずに趙(ちょう)軍20万を破って成安君(せいあんくん)・陳余(ちんよ)を誅殺(ちゅうさつ)されました。その名声は海内(かいだい)(国内)に聞こえ、その威勢は諸侯(しょこう)を震撼(しんかん)させており、衆庶(たみ)は(どうせ国が滅びるならと)耕作の手を止めて怠(なま)け、先のことを考えず豪華な衣服や食事を貪(むさぼ)って、ただ耳を傾けてご命令を待っています。

ですが多くの兵士は疲れ果てており、実際にはあまり役に立ちません。今、足下(あなた)はその疲弊(ひへい)した兵を、燕(えん)の堅城において更に疲弊(ひへい)させようとしておられますが、士気が低いため城を落とすことはできず、空(むな)しく日々が過ぎて兵糧も尽きてしまうでしょう。

もし燕(えん)を破ることができなかったなら、斉(せい)は必ず国境の防備を固めるに違いありません。2国が堅く守って降伏させることができずにいれば、劉(りゅう)・項(こう)(劉邦(りゅうほう)と項羽(こうう))の勝敗はどちらに転ぶか分からなくなってしまいます。

臣(わたくし)愚(おろ)かながら、今、燕(えん)・斉(せい)を伐(う)とうとなさるのは、秘かに過(あやま)りだと思っております」


韓信(かんしん)が「それならばどのような方策に出たら良いのでしょうか?」と問(と)うと、広武君(こうぶくん)(李左車(りさしゃ))はまた答えて言った。


「当面の計(はかりごと)としては、武装を解(と)いて兵を休ませ、毎日百里以内の地から届く牛や酒をもって士大夫(したいふ)を饗応(きょうおう)し、それから北の燕(えん)に向かわれるに越したことはありません。

然(しか)る後(のち)に、1乗(じょう)の馬車で使者を送り、咫尺(しせき)(短い)書簡を奉じて燕(えん)に使いさせたならば、燕(えん)も必ず聴き入れて従わないわけにはまいりません。燕(えん)を従わせて東の斉(せい)に臨(のぞ)むならば、例え(斉(せい)に)智者がいても、斉(せい)のために計(はか)るべき方策はないでしょう。

このようにすれば、天下の事はすべて思い通りとなります。兵法に『虚声を先にして実力を後にす』とあるのは、こうしたことを指して言うのです」


韓信(かんしん)は「よろしい。謹(つつし)んで教えの通りにいたしましょう」と言い、広武君(こうぶくん)(李左車(りさしゃ))の策の通り燕(えん)に使者を派遣したところ、燕(えん)は風に靡(なび)くように服従した。

そこで漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))に使者を派遣して報告し、「張耳(ちょうじ)を趙王(ちょうおう)に立ててその国を鎮撫(ちんぶ)させたい」と願うと、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))はこれを許した。


楚(そ)はしばしば奇兵(奇襲部隊)に黄河(こうが)を渡らせて趙(ちょう)を攻撃したが、趙王(ちょうおう)・張耳(ちょうじ)と韓信(かんしん)は互いに往(ゆ)き来して趙(ちょう)を救い、行く先々で趙(ちょう)の城邑(じょうゆう)を平定し、兵を徴発して漢(かん)に送った。

相国に任命される

楚(そ)軍が急襲して三川郡(さんせんぐん)・滎陽県(けいようけん)の漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))を包囲した。漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は包囲を脱出して南の南陽郡(なんようぐん)・宛県(えんけん)、葉県(しょうけん)に至り、九江王(きゅうこうおう)・英布(えいふ)(黥布(げいふ))を味方につけて三川郡(さんせんぐん)・成皋県(せいこうけん)に入ったが、楚(そ)軍はまた急襲してこれを包囲した。

漢(かん)の4年(紀元前203年)6月、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は成皋県(せいこうけん)を脱出して黄河(こうが)を渡り、1人・滕公(とうこう)(夏侯嬰(かこうえい))だけを連れて河内郡(かだいぐん)・修武県(しゅうぶけん)の趙王(ちょうおう)・張耳(ちょうじ)の軍に身を寄せようとした。

漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は修武県(しゅうぶけん)に到着すると宿駅の旅舎に泊まり、翌朝、自(みずか)ら漢(かん)の使者と称して趙(ちょう)の城に馳(は)せ入ったが、この時、張耳(ちょうじ)と韓信(かんしん)はまだ起きていなかったので、寝室に入ると印綬(いんじゅ)と兵符(へいふ)を奪い、麾下(きか)の諸将を召集して彼らを更迭(こうてつ)した。

韓信(かんしん)と張耳(ちょうじ)は、起きて初めて漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))が1人で来たことを知り、大いに驚いた。

漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は両人の軍を奪い、直(ただ)ちに張耳(ちょうじ)に趙(ちょう)の地の守備を命じ、韓信(かんしん)を相国(しょうこく)に任命して、まだ徴発していなかった者を趙(ちょう)兵としてを収容して徴発し、斉(せい)を攻撃させた。

斉の平定
韓信(かんしん)と酈食其(れきいき)

韓信(かんしん)は兵を率(ひき)いて東の平原津(へいげんしん)に向かったが、まだ黄河(こうが)を渡る前に「漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))の使者・酈食其(れきいき)が説得して斉(せい)を降伏させた」ことを聞いた。

韓信(かんしん)は斉(せい)への攻撃を中止しようとしたが、広陽郡(こうようぐん)・范陽県(はんようけん)出身の弁士・蒯通(かいとう)が韓信(かんしん)に説(と)いて言った。


「将軍(しょうぐん)(韓信(かんしん))が詔(みことのり)を受けて斉(せい)を撃とうとしているのに、漢(かん)は独断で使者を送って斉(せい)を降(くだ)してしまいました。(そんなことをしておいて、)どうして詔(みことのり)を下して将軍(しょうぐん)(韓信(かんしん))を止めることができましょうか?(韓信(かんしん)は)どうして行かずにおられましょうかっ!

酈生(れきせい)(酈食其(れきいき))は一介の士に過ぎませんが、車の横木に寄りかかったまま三寸の舌を振るって斉(せい)の70余城を降(くだ)し、将軍(しょうぐん)(韓信(かんしん))は数万の軍勢を率(ひき)いて、1年余りでやっと趙(ちょう)の50余城を降(くだ)しただけでございます。

将軍(しょうぐん)の地位に数年ある者が、1人の豎儒(じゅじゅ)(つまらない儒学者)の功績に及ばないというのでしょうか?」


これを「その通りだ」と思った韓信(かんしん)は蒯通(かいとう)の計(はかりごと)に従い、ついに黄河(こうが)を渡って済北郡(せいほくぐん)・歴下邑(れきかゆう)の軍を襲い、斉(せい)の国都・臨菑郡(りんしぐん)・臨菑県(りんしけん)に迫った。これを「酈生(れきせい)(酈食其(れきいき))に騙(だま)された」と思った斉王(せいおう)・田広(でんこう)は、彼を煮(に)殺(ころ)して膠東郡(こうとうぐん)・髙密県(こうみつけん)に逃亡し、楚(そ)に使者を派遣して救援を要請した。

韓信(かんしん)は臨菑県(りんしけん)を平定すると、斉王(せいおう)・田広(でんこう)を追って髙密県(こうみつけん)の西に至ったが、この時、楚(そ)は龍且(りゅうしょ)を将軍(しょうぐん)として遣(つか)わし、20万と号する兵をもって斉(せい)を救援させた。

龍且(りゅうしょ)の侮(あなど)り

斉王(せいおう)・田広(でんこう)と楚(そ)の将軍(しょうぐん)・龍且(りゅうしょ)は連合して韓信(かんしん)と戦うことになったが、まだ交戦に至らないうちに、ある人が龍且(りゅうしょ)に説(と)いて言った。


「漢(かん)兵は国を遠く離れて戦っておりますから逃げ道はなく、その鋭鋒には当たるべからざる勢いがありますが、斉(せい)・楚(そ)は自国の領内で戦うのですから、その兵は敗(やぶ)れ散(ち)りやすいと言えます。

城壁を深くし、斉王(せいおう)・田広(でんこう)に命じて王(おう)の腹心の者を遣(つか)わし、降伏した城の将兵を招(まね)かせるに越したことはありません。『城には斉王(せいおう)・田広(でんこう)が健在で、楚(そ)軍も救援に来ている』と聞けば、彼らは必ず漢(かん)に背(そむ)くでしょう。

漢(かん)兵は本国から2千里も離れた斉(せい)の地にいるのですから、斉(せい)の城がすべて叛(そむ)けば、勢い食糧を得ることができなくなり、戦わずに降伏させることができるでしょう」


すると龍且(りゅうしょ)は、


「吾(わたし)は平素から韓信(かんしん)の人となりを知っているが、彼はとても与(くみ)しやすい。自活の策もなく漂母(ひょうぼ)*5に寄食し、人を凌(しの)ぐ勇気もなく跨(また)の下をくぐる屈辱(くつじょく)を受け入れた男だ。何も畏(おそ)れる必要はない。

斉(せい)を救援にやって来て、戦わずして漢(かん)軍を降伏させたのでは、吾(わたし)にとって何の功績となろうか?

今、戦ってこれに勝てば斉(せい)の半分を得ることができるというのに、どうして止まってなどいられようかっ!」


と言い、ついに濰水(いすい)を挟(はさ)んで韓信(かんしん)と対陣した。

斉王(せいおう)・田広(でんこう)を捕らえる

その夜、韓信(かんしん)は部下に命じて1万余の嚢(ふくろ)を作らせ、その中に砂を満たして濰水(いすい)の上流を堰(せ)き止めると、半数の兵を率(ひき)い、水(かわ)を渡って龍且(りゅうしょ)を攻撃したが、負けた振りをして逃げ帰った。

これに龍且(りゅうしょ)は「韓信(かんしん)が臆病なことは、初めから分かっていたのだ」と言い、喜び勇(いさ)んで韓信(かんしん)を追って濰水(いすい)を渡った。

それを見た韓信(かんしん)が水(かわ)を堰(せ)き止めていた嚢(ふくろ)を決壊(けっかい)させた。その奔流(ほんりゅう)によって龍且(りゅうしょ)の軍の大半が水(かわ)を渡れなくなると、韓信(かんしん)はすぐさま急襲して龍且(りゅうしょ)を討ち取った。

濰水(いすい)の東岸に陣取っていた軍は散(ち)り散(ぢ)りになって敗走し、斉王(せいおう)・田広(でんこう)も逃亡したが、韓信(かんしん)は敗走する敵を追撃して城陽(じょうよう)*6に至ると、斉王(せいおう)・田広(でんこう)を捕らえた。その後、楚(そ)の兵卒もみな降伏し、ついに斉(せい)は平定された。

脚注

*5前述の水に錦を漂(さら)していた老婆。韓信(かんしん)を憐(あわ)れんで飯を食べさせてやった。

*6詳細不詳。後(のち)に設置される城陽郡(じょうようぐん)の治所は当時の琅邪郡(ろうやぐん)・莒県(きょけん)にあり、現在の城陽区(じょうようく)は膠州湾(こうしゅうわん)の北岸にある。田広(でんこう)が濰水(いすい)の東岸から南に逃げれば前者、東に逃げたなら後者の可能性が高い。

斉王となる

韓信(かんしん)は使者を派遣して漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))に言った。


「斉(せい)は夸詐(こさ)(ほら吹き)で心変わりを繰り返す国です。また、南は(楚(そ)と国境を接する)僻遠(へきえん)の地であるため、仮の王(おう)を立てて鎮定(ちんてい)しなければ、その形勢は定(さだ)まりません。

(臣(わたくし)の)権力は軽く、これを安定させるには足(た)りませんので、どうか臣(わたくし)が仮の王(おう)として立つことをお許しください」


この時漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は、ちょうど楚(そ)の急襲を受けて三川郡(さんせんぐん)・滎陽県(けいようけん)を包囲されていたので、韓信(かんしん)の書簡を開いて大いに怒り、

「吾(わたし)はここで苦戦し、朝夕、我(わたし)を助ける者が来るのを待っているのに、(お前は)自立して王(おう)となりたいと言うのかっ!」

と罵(ののし)ると、後ろに控(ひか)えていた張良(ちょうりょう)と陳平(ちんぺい)が漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))の足を踏(ふ)んで合図し、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))に耳打ちして言った。


「現在、漢(かん)は不利な形勢にあります。どうして韓信(かんしん)が自(みずか)ら王(おう)となることを禁じることができましょうか?

ここは韓信(かんしん)を王(おう)に立てて厚遇し、漢(かん)のため韓信(かんしん)自身に斉(せい)の地を守らせるのがよろしいでしょう。さもなければ変事が起こるかもしれません」


漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は事情を悟(さと)り、また罵(ののし)って言った。

「大丈夫(だいじょうぶ)たるもの、諸侯(しょこう)を平定したからには、すぐさま真の王(おう)となって然(しか)るべきだ。どうして仮の王(おう)などと言うのかっ!」

こうして漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は張良(ちょうりょう)を遣(つか)わして韓信(かんしん)を斉王(せいおう)に立て、その兵を徴発して楚(そ)を攻撃させた。

項羽の誘い

楚(そ)は龍且(りゅうしょ)を失い、(韓信(かんしん)を)恐れた項王(こうおう)(項羽(こうう))は東海郡(とうかいぐん)・盱台県(くいけん)出身の武渉(ぶしょう)を派遣して、韓信(かんしん)に説(と)いて言った。


「楚王(そおう)(項羽(こうう))は足下(あなた)と旧交がありますのに、足下(あなた)はどうして漢(かん)に叛(そむ)いて楚(そ)に味方なされないのか?

漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は信用の置けない人物で、しばしば項王(こうおう)(項羽(こうう))に生殺与奪の権を握(にぎ)られたこともありましたが、危機を脱すると約束に背(そむ)いてまた項王(こうおう)(項羽(こうう))を攻撃したのです。その親しみ難(がた)く信用ならないことは、このようであります。

今、足下(あなた)は漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))と金石(きんせき)の交(まじ)わり(固い友情)を有しているとお思いでしょうが、いずれは漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))によって捕らえられることになるでしょう。

足下(あなた)が今日(こんにち)まで生きてこられたのは、項王(こうおう)(項羽(こうう))が健在であったからこそです。もし項王(こうおう)(項羽(こうう))が滅亡すれば、次は足下(あなた)の番です。どうして楚(そ)と連合和平し、天下を三分して斉(せい)の王(おう)となられないのですか?

今、足下(あなた)はこの好機を逃(のが)し、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))を信じて楚(そ)を攻撃しようとされていますが、真(まこと)の智恵者なら、どうしてそのようなことをいたしましょうかっ!」


韓信(かんしん)はこれを謝絶して言った。


「臣(わたくし)はかつて数年の間、項王(こうおう)(項羽(こうう))に仕えておりましたが、与えられた官は郎中(ろうちゅう)に過ぎず、位は執戟(しつげき)(郎中(ろうちゅう)で戟(ほこ)を執(と)る宿衛の士)に過ぎなかった。建言は聴き入れられず、計策は採(と)り上げられなかった。だからこそ、楚(そ)に叛(そむ)いて漢(かん)についたのである。

漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は我(わたし)に上将軍(じょうしょうぐん)の印と数万の兵を授(さず)け、自分の衣(ころも)を脱いで我(わたし)に着せ、食事を勧めて我(わたし)に食わせ、建言は聞き入れられ、計(はかりごと)は用(もち)いられた。だからこそ、吾(わたし)は今日この身分になることができたのである。

人がこれほど我(わたし)を信任してくれているのに、これに背(そむ)くのはよろしくない。どうか我(わたし)に代わって項王(こうおう)(項羽(こうう))にお断りしていただきたい」


武渉(ぶしょう)が去った後(のち)、蒯通(かいとう)は天下を左右する秤(はかり)の分銅(ふんどう)が韓信(かんしん)にあることを察知し、韓信(かんしん)に「天下を三分して王(おう)となる」よう切々と説(と)いたが、韓信(かんしん)は漢(かん)に叛(そむ)くに忍びず、また「自分の功績が大きいことから、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))が斉(せい)を奪うことなどない」と考えて、ついに聴き入れなかった。

楚王に徙される

漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は陳郡(ちんぐん)・固陵県(こりょうけん)で敗れると、張良(ちょうりょう)の計(はかりごと)を用(もち)いて韓信(かんしん)の将兵を徴発し、泗水郡(しすいぐん)・垓下(がいか)で会合した。

項羽(こうう)が死ぬと、高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))は韓信(かんしん)の軍を襲奪し、韓信(かんしん)を楚王(そおう)に徙(うつ)して東海郡(とうかいぐん)・下邳県(かひけん)に都させた。

韓信の恩返し

韓信(かんしん)は領国に赴(おもむ)くと、かつて食事を恵んでくれた漂母(ひょうぼ)を召(め)し出して千金を下賜(かし)し、東海郡(とうかいぐん)・淮陰県(わいいんけん)の下郷(かきょう)の亭長(ていちょう)には百銭を与えて「お前は小人だ。恩を施(ほどこ)しながら途中でやめた」と言った。

また、自分を侮辱(ぶじょく)して股(また)の下をくぐらせた若者を召(め)し出して中尉(ちゅうい)*7に任命し、将軍(しょうぐん)や大臣たちに、

「これは壮士(そうし)である。我(わたし)を侮辱(ぶじょく)した当時、殺せなかったわけではない。ただこれを殺したところで名誉にもならないから、我慢して今日の功績を成したのだ」

と言った。

脚注

*7巡察して盗賊を捕らえる官職。

淮陰侯に降格される
韓信(かんしん)と鍾離眜(しょうりばつ)

項王(こうおう)(項羽(こうう))の将軍(しょうぐん)・鍾離眜(しょうりばつ)の家は南郡(なんぐん)・伊廬県(いろけん)*8にあって、元々韓信(かんしん)とは仲が良く、項王(こうおう)(項羽(こうう))が敗れると、鍾離眜(しょうりばつ)は逃亡して韓信(かんしん)の元に身を寄せていた。

鍾離眜(しょうりばつ)を怨(うら)んでいた高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))は、彼が楚(そ)にいると聞いて、楚(そ)に詔(みことのり)を下して鍾離眜(しょうりばつ)を捕らえるように命じた。


当時、韓信(かんしん)は領国に着いたばかりであったので、県邑(けんゆう)を巡行するために護衛の兵を連(つら)ねて出入りしていた。

漢(かん)の6年(紀元前201年)、「韓信(かんしん)は謀叛(むほん)しようとしている」と変事を告げる者があり、その書簡が上聞されると、高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))はこれを憂慮(ゆうりょ)した。

そこで高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))は、諸侯(しょこう)に使者を発して「吾(わたし)はこれから雲夢沢(うんぼうたく)に巡狩(じゅんしゅ)*9する(吾將游雲夢)」と告げ、諸侯(しょこう)を(楚(そ)国にある)雲夢沢(うんぼうたく)に召集する命令を下した。

これは韓信(かんしん)の不意を襲おうとする陳平(ちんぺい)の謀(はかりごと)であったが、韓信(かんしん)はそれを知らなかった[ので、高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))が諸侯(しょこう)を集結して楚(そ)に攻めて来るのだと思った]。

高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))が楚(そ)に近づいて来ると、韓信(かんしん)は兵を発してこれと戦おうかとも思ったが、何度考えても自分に罪を犯(おか)した覚えはないので、高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))に謁見(えっけん)することとした。

それでもまだ「謁見(えっけん)すれば捕らえられるのではないか」と恐れていると、

「鍾離眜(しょうりばつ)を斬って上[高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))]に謁見(えっけん)すれば、上[高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))]は必ず喜ばれましょう。それで患(わずら)いはなくなります」

と言う者があった。そこで韓信(かんしん)は鍾離眜(しょうりばつ)と会って相談すると、鍾離眜(しょうりばつ)は言った。

「漢(かん)が攻撃して楚(そ)を取らないのは、眜(わたし)が公(あなた)の元にいるからです。もし公(あなた)が我(わたし)を捕えて自(みずか)ら漢(かん)に媚(こ)びたいとお望みであれば、吾(わたし)は今にも死にますが、吾(わたし)に続いて公(あなた)も殺されることになるでしょう」

そして、「公(あなた)は長者(有徳者)ではないっ!」と韓信(かんしん)を罵(ののし)ると、自(みずか)ら首を刎(は)ねて死んだ。


韓信(かんしん)は鍾離眜(しょうりばつ)の首を持参して、陳郡(ちんぐん)・陳県(ちんけん)で高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))に謁見(えっけん)したが、高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))は武士(武装兵)に命じ、韓信(かんしん)を縛って後車に載(の)せた。

韓信(かんしん)が、

「果たして世の人の言う通り、『狡兔(こうと)死して良狗(りょうく)烹(に)られ、高鳥(こうちょう)尽(つ)きて良弓(りょうきゅう)蔵(かく)れ、敵国(てきこく)破(やぶ)れて謀臣(ぼうしん)亡(ほろ)ぶ*10』ということか。天下はすでに定(さだ)まり、我(わたし)が烹(に)殺(ころ)されるのは当然なのだろう」

と言うと、高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))は「公(あなた)の謀叛(むほん)を密告して来た者がいたのだ」と言い、ついに韓信(かんしん)に械(かい)(枷(かせ))をはめた。

三川郡(さんせんぐん)・雒陽(らくよう)に到着すると、高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))は韓信(かんしん)を赦(ゆる)し、位を下げて淮陰侯(わいいんこう)とした。


韓信(かんしん)は高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))が自分の才能を畏(おそ)れ憎んでいることを知り、その後は病気と称して参朝せず、天子(てんし)の行幸(ぎょうこう)にも随行(ずいこう)しなかった。

韓信(かんしん)は日々高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))を怨(うら)んで心が晴れず、絳侯(こうこう)・周勃(しゅうぼつ)や灌嬰(かんえい)と同列であることを羞(は)じた。

脚注

*8『括地志輯校(かつちししゅうこう)』によれば「秦(しん)の伊廬(いろ)は漢(かん)の中廬県(ちゅうろけん)である」とある。

*9天子(てんし)が天下を巡り、地方の政治や民の生活状態を視察すること。巡守(じゅんしゅ)とも書く。

*10「すばしこい兎(うさぎ)が死ぬと優秀な猟犬は煮(に)殺(ころ)され、高く飛ぶ鳥が尽(つ)きてしまうと良い弓は蔵にしまわれ、敵国が破れると謀臣は殺されてしまう」転じて敵国が滅びれば忠臣は不要となり、穀(ごく)潰(つぶ)しとして殺されてしまうということ。

韓信(かんしん)の嘆(なげ)き

以前、樊将軍(はんしょうぐん)(樊噲(はんかい))の家を訪(たず)ねた時、樊噲(はんかい)は趨拝(すうはい)*11して送迎し、韓信(かんしん)と話す時には自分のことを「臣(しん)」と称して「大王(だいおう)(韓信(かんしん))には、よくぞ臣(しん)の家にお越しくださいました」と言っていた。

韓信(かんしん)は門を出ると自嘲(じちょう)して「生き延(の)びはしたが、樊噲(はんかい)らと同列になってしまったかっ!」と言った。

脚注

*11出向いていって拝顔すること。また小走りに走り寄って拝(おが)むこと。

韓信(かんしん)の高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))評

以前、高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))が寛(くつろ)いで、韓信(かんしん)と共に諸将の能力差について語り、それぞれに等級をつけていた時のこと。

高帝(こうてい)「我(わたし)などは、何人を率(ひき)いる将となれるだろうか?」

韓信(かんしん)「陛下はせいぜい10万人を率(ひき)いる将に過ぎないでしょう」

高帝(こうてい)「そちはどうか?」

韓信(かんしん)「臣(わたくし)なら、多ければ多いほどよろしゅうございます」

すると高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))は笑って言った。

)「多ければ多いほど良いと言うのに、どうして我(わたし)の擒(とりこ)となったのか?」

韓信(かんしん)「陛下は兵の将となることはできませんが、将の将となることがおできになられます。これが信(わたし)が陛下の擒(とりこ)となった理由でございます。ともあれ陛下は、いわゆる天から授(さず)かった特別な才能をお持ちですので、人の力の及ぶところではございません」

韓信の死
韓信(かんしん)と陳豨(ちんき)

その後、陳豨(ちんき)が代(だい)の宰相(さいしょう)として辺境を監領することになり、韓信(かんしん)に暇乞(いとまご)いをした。

すると韓信(かんしん)は、陳豨(ちんき)の手を取って共に庭園を何度も巡(めぐ)り歩き、天を仰(あお)いで嘆(なげ)いて言った。

「聞いてもらえるかな?子(あなた)に話しておきたいことがあるのだ…」

陳豨(ちんき)「ただ将軍(しょうぐん)のお指図(さしず)のままに」

韓信(かんしん)「公(あなた)のいる所は天下の精兵が集まる所であり、しかも公(あなた)は陛下の信任の厚い寵臣(ちょうしん)だ。人が公(あなた)の謀叛(むほん)を告げても、陛下は決してその密告を信じないだろう。だが再び密告があれば、陛下も疑いを持たれるだろう。密告が三度(みたび)に及べば、必ず怒って親征なされるに違いない。だが、吾(わたし)が公(あなた)のために都で内応すれば、天下を図(はか)ることができる」

陳豨(ちんき)は平素から韓信(かんしん)の才能を知っていたので、この言葉を信じ、「謹(つつし)んでお教えに従いましょうっ!」と答えた。

謀叛(むほん)の失敗

漢(かん)の10年(紀元前197年)、果たして陳豨(ちんき)は謀叛(むほん)を起こし、高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))自(みずか)ら将として出陣したが、韓信(かんしん)は病気と称して従軍しなかった。

韓信(かんしん)は秘かに陳豨(ちんき)の元に人を派遣して「弟よ、兵を挙(あ)げよ、吾(わたし)が公(あなた)を助けに行こう」と言った。また、家臣と謀議(ぼうぎ)して「夜に詐(いつわ)って諸官に所属する徒奴(とど)(罪人)を赦免(しゃめん)し、兵を発して呂后(りょこう)と太子(たいし)を襲う」こととした。

すでに手筈(てはず)を整えて、ただ陳豨(ちんき)の報告を待つだけとなった時、たまたま韓信(かんしん)の舎人(しゃじん)(家来)が韓信(かんしん)に対して罪を犯したので、韓信(かんしん)は捕えて殺そうとした。するとその舎人(しゃじん)(家来)の弟が上書して変事を告げ、韓信(かんしん)が謀叛(むほん)を起こそうとしていることを呂后(りょこう)に告げた。

呂后(りょこう)は韓信(かんしん)を召し出そうとしたが、韓信(かんしん)が応じないことを恐れた。呂后(りょこう)は相国(しょうこく)の蕭何(しょうか)と相談し、人に命じて高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))の使者と偽(いつわ)って「陳豨(ちんき)はすでに死んだ」と言わせ、群臣はみなこれを慶賀した。

さらに蕭何(しょうか)は韓信(かんしん)を欺(あざむ)いて「病気といえど、参内して慶賀するように」と言った。

韓信(かんしん)が参内すると、呂后(りょこう)は武士(武装兵)に命じて韓信(かんしん)を捕縛し、長楽宮(ちょうらくきゅう)の鐘室(しょうしつ)(鐘(かね)を懸(か)けた部屋)で斬った。

まさに斬られようとする時、韓信(かんしん)は言った。

「蒯通(かいとう)の計(はかりごと)を用(もち)いなかったばかりに、こうして婦女子に欺(あざむ)かれることとなった。これも天命なのだろうかっ!」

ついに韓信(かんしん)はその三族を族滅された*12。


高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))は陳豨(ちんき)を破り、凱旋(がいせん)して韓信(かんしん)の死を聞くと、喜びつつも憐(あわ)れんで、「韓信(かんしん)は死に臨(のぞ)んで何か言葉を残したか?」と問(と)うた。

呂后(りょこう)がその言葉を告げると、高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))は「それは斉(せい)の弁士・蒯通(かいとう)のことだ」と言った。高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))は彼を捕らえて煮(に)殺(ころ)そうと思ったが、蒯通(かいとう)の申し開きを聞いてその罪を赦(ゆる)した。

脚注

*12三族の刑は、『刑法志(けいほうし)』によれば、みなまず黥(いれずみ)し、次に鼻を斬り、左右の四肢を斬り落とし、笞(むち)打って殺し、その首を晒(さら)して骨肉を菹(そ)(塩漬け)にする。


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