正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(97)(韓玄かんげん韓儼かんげん韓呉郡かんごぐん韓公かんこう韓珩かんこう韓国かんこく)です。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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か(97)

韓(かん)

韓玄かんげん

生没年不詳。

建安けんあん13年(208年)7月、曹操そうそうみずから南征して劉表りゅうひょう討伐に出陣した。

8月には劉表りゅうひょうが亡くなり、その後を継いだ劉表りゅうひょうの少子・劉琮りゅうそうは州をあげて曹操そうそうに降伏。逃走する劉備りゅうび軍を撃ち破った曹操そうそうは、黄忠こうちゅうを仮に裨将軍ひしょうぐんの官につけてそのまま元の任務をり行わせ、長沙太守ちょうさたいしゅ韓玄かんげんの統制下に置いた。

その後、曹操そうそう赤壁せきへきにおいて孫権そんけん劉備りゅうび連合軍に大敗すると、劉備りゅうび劉表りゅうひょうの長子・劉琦りゅうき荊州刺史けいしゅうししに任命して荊州けいしゅう江南こうなん4郡の征討におもむき、

  • 武陵太守ぶりょうたいしゅ金旋きんせん
  • 長沙太守ちょうさたいしゅ韓玄かんげん
  • 桂陽太守けいようたいしゅ趙範ちょうはん
  • 零陵太守れいりょうたいしゅ劉度りゅうたく劉度りゅうど

らをすべて降伏させた。


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韓儼かんげん

生没年不詳。益州えきしゅう巴西郡はせいぐんの人。

楊戲ようぎ黎韜れいとうとは子供時代からの親友であった。

後年、韓儼かんげんは持病のために廃人同然となり、黎韜れいとうは身持ちの悪さから誰にも相手にされなくなったが、楊戲ようぎは彼らの暮らしについて配慮し援助してやり、昔通りの友情を保った。


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韓呉郡かんごぐん

詳細不詳。孫亮そんりょうの時代[建興けんこう元年(252年)〜太平たいへい3年(258年)]、会稽太守かいけいたいしゅ濮陽興ぼくようこうが、元旦に部下の役人たちをまねいて開いたうたげの中で、役人たちにたずねて言った言葉の中に登場する。

太守わたしはかつて、朱潁川しゅえいせん朱寵しゅちょう)が鄭召公ていしょうこう鄭凱ていがい)に有能な人物のことをたずね、韓呉郡かんごぐん劉聖博りゅうせいはくに有能な人物のことをたずね、王景興おうけいこう王朗おうろう)が虞仲翔ぐちゅうしょう虞翻ぐはん)に有能な人物のことをたずねたと聞いたことがある。その中で、鄭氏ていし劉氏りゅうしの2人の返答については読んだことがあっても、仲翔ちゅうしょう虞翻ぐはん)の応対は読んだことがない。一国の宝たる賢者の答えをつつしんで聞きたいと思い、その立派さあふれるであろう表現を目にしたいと願ってもう久しくなる。書佐しょさの諸君の中にこれについて知っておる者はおらぬであろうか?」


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韓公かんこう李膺りようのおじ)

詳細不詳。鍾皓しょうこう鍾繇しょうようの祖父の兄)の言葉の中に登場する。

鍾皓しょうこう李膺りようおばの子・鍾覲しょうきん李膺りようと同年であり、どちらも優れた名声があった。鍾覲しょうきんもまた学問好きで古代を愛慕あいぼし、謙虚な生活態度をとっており、李膺りようの祖父・太尉たいい李脩りしゅうは彼を李膺りようの妹とめあわせた。

その後、鍾覲しょうきん州宰しゅうさい(州の長官)に辟召まねかれたが、気持ちを曲げてまで出仕しなかったので、李膺りよう鍾覲しょうきんに「孟軻もうか孟子もうし)は人間でありながら好き嫌いと善し悪しの心がなければ人間ではないと言っている。きみの人に対する態度は、どうしてそう白と黒の区別がないのだっ!」と言った。

ある時鍾覲しょうきんは、李膺りようの言葉を父の鍾皓しょうこうに話したところ、鍾皓しょうこうは次のように言った。

元礼げんれい李膺りようあざな)は祖父(李脩りしゅう)と父(李益りえき)が高位に昇り、諸父おじたちもみな立派な身分で、韓公かんこうおいなのだからそうできるのだ。国武子こくぶしは好んで人の過失をあげつらい、うらまれる元と判断されたものだが、今はそのように落ち着いた時代だろうかっ!我が身と家の安全をはかるお前の生き方は正しい」

鍾覲しょうきんは早くに亡くなり、李膺りようは功績と名声を背負って官位は卿佐けいさ(大臣)にまで昇ったが、結局、世のわざわい(第二次党錮とうこの禁)によって命を落とした。


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韓珩かんこう子佩しはい

生没年不詳。幽州ゆうしゅう代郡だいぐんの人。袁氏えんし配下の幽州別駕ゆうしゅうべつが

潔白で私欲がなく、奥ゆかしくて大らかな度量を有していた。幼い頃に父母を亡くしたが、兄姉に奉養ほうよう(目上の人を養うこと)を尽くし、宗族からその孝悌こうていぶりを称賛された。


建安けんあん10年(205年)正月、曹操そうそう冀州きしゅう勃海郡ぼっかいぐん南皮県なんぴけんを攻め落とし、袁譚えんたん郭図かくとらを斬り殺すと、幽州ゆうしゅうにいた袁煕えんき袁尚えんしょうは配下の将軍しょうぐん焦触しょうしょく張南ちょうなんに襲撃されて幽州ゆうしゅう遼西郡りょうせいぐん烏丸うがん族の元に逃亡した。

焦触しょうしょくみずか幽州刺史ゆうしゅうししを号し、諸郡の太守たいしゅ県令けんれい県長けんちょうらを駆り立てて曹操そうそうにつくと、兵士・数万をそろえて白馬を生贄いけにえささげ、「命令にそむく者は斬るっ!」と言った。みなえて言葉を発することなく順番に(白馬の血を)すすっていたが、別駕べつが韓珩かんこうの番になった時、韓珩かんこうは、

わたし袁公えんこう父子の厚恩を受けた身でありながら、今、袁氏えんしやぶほろびるに当たって彼らを救う智力もなく、死ぬ勇気もありません。ですがこのような信義に欠けるわたしでも、北面して曹操そうそうに仕えることはできません」

と言った。一同みな韓珩かんこうづかって顔色を失ったが、焦触しょうしょくは、

「そもそも大事をおこす時には大義に立脚しておらねばならず、事の済否せいひ(成否)は1人の力だけでどうなるものでもない。韓珩かんこうの志の通り、主君(袁氏えんし)に仕えることに専念させてやろう」

と言った。


その後、曹操そうそう韓珩かんこうの「気高い節操」を高く評価して何度も辟召まねいたが、韓珩かんこうは応じず、家で亡くなった。


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韓国かんこく南韓なんかん

詳細不詳。太和たいわ2年(228年)に曹植そうしょくが「自分を試して欲しい」と請願した上奏文の中に登場する。

」といういぬが悲しみなげいているのを聞いてその才能を知り、すばしこいうさぎの追跡に試して搏噬はくぜいつかんでみつくこと)にもちいることで、その才能を証明した。

備考

名前を韓国かんこくとするのはちくま学芸がくげい文庫ぶんこ正史せいし三国志さんごくしより。原文は南韓なんかん

原文

盧狗悲號,則南韓知其才。是以效之齊、楚之路,以逞千里之任;試之狡兔之捷,以驗搏噬之用。今臣志狗馬之微功,竊自惟度,終無伯樂、南韓之舉,是以於邑而竊自痛者也。


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【三国志人物伝】総索引