正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(61)巴郡甘氏(甘寧・甘瓌・甘述・甘昌・甘卓・甘卬・甘蕃)です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
巴郡甘氏系図
巴郡甘氏系図
※赤字がこの記事でまとめている人物。
親が同一人物の場合、左側が年長。
甘瓌と甘述の兄弟の順は不明。
『晋書』甘卓伝には「揚州・丹楊郡(丹楊郡)の人」とあるが、誰の段階で丹楊郡(丹楊郡)に移ったのかは不明。
この記事では巴郡甘氏の人物、
についてまとめています。
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か(61)巴郡甘氏
第1世代(甘寧)
甘寧・興覇
生没年不詳。益州・巴郡・臨江県の人。子に甘瓌、甘述。
出自
甘寧は元々荊州・南陽郡の人であったが、その先祖が巴郡に身を寄せたのである。
初め、甘寧は役人となって計掾(会計報告)に挙げられ、蜀郡太守の丞(次官)に任命されたが、やがて官を棄てて家に帰った。
益州で無頼の渠帥となる
若い時から気概を持って游侠を好み、無頼の若者たちを集めてその渠帥となっていた。甘寧の一党は弓や弩を小脇に挟み、水牛の旗指物を背に腰には鈴を帯びていたので、人々は鈴の音を聞くとすぐに、それが甘寧の一党だと気づくことができた。
甘寧は游侠から人を殺したり、亡命者を匿ったりしたことで、その名は郡内に聞こえわたっていた。
彼らはいつも、陸路であれば馬車や騎馬を列ね、水路であれば軽舟を連ね、つき従う者たちは派手な刺繍が施された着物を身につけていたので、その行列の華麗さは行く先々で人々の視線を集め、また留まる時には錦織の綱で舟を繋ぎ、出発する時にはそれを斬り棄てて行くなどしてその豪奢さを誇示した。
人と出会った場合、たとえそれが所属する県(属城)の長吏であっても、手厚い接待を受けた者とは互いに打ち解け合って楽しんだが、そうでない場合は、すぐに手下の者を放ってその財産を奪わせた。
また、打ち解け合った長吏の管轄内で賊の被害があった場合には、その摘発を請け負った。
無頼の渠帥にあること20余年、甘寧は盗賊行為をやめ、諸子の書をたくさん読むようになった。
荊州の劉表に仕える
劉表
興平元年(194年)に益州牧・劉焉が亡くなると、益州の大官・趙韙らは、劉焉の第4子・劉璋を益州刺史とするように上書したが、朝廷は扈瑁を益州刺史に任命して益州に派遣した。
この時甘寧は、劉璋の将軍・沈弥、婁発らと共に叛旗を翻したが、劉璋を撃ち破ることはできず、手下や食客800人を引き連れて劉表の下に身を寄せ、荊州・南陽郡に居を移した。
当時は英雄豪傑たちがそれぞれ兵を挙げていたが、儒者の劉表は軍事に疎く、劉表の行動を観察して「結局は失敗に終わるに違いない」と考えた甘寧は、巻き添えを食うことを恐れて東方の呉に行こうとした。
黄祖
ところがその途上の夏口には劉表配下の黄祖がいたため、軍を率いたまま通過することができなかった。甘寧はやむを得ず黄祖の元に身を寄せたが、3年が経っても黄祖は甘寧を礼遇することはなかった。
建安8年(203年)、孫権の討伐を受けた黄祖は敗走し、激しい追撃を受けた。この時、弓を射ることに巧みであった甘寧は兵士たちを指揮して殿をつとめ、足の速い舟で単身前進して来た孫権の破賊校尉・凌操を射殺した。甘寧の働きのお陰で黄祖はなんとか本営に戻ることができたが、その後も甘寧に対する待遇は以前と変わらなかった。
黄祖の都督・蘇飛は、しばしば「甘寧を重く用いる」ように進言したが、黄祖はその意見に従わず、逆に甘寧の食客たちに人を遣って「直接自分(黄祖)の下につく」ように勧誘させたので、食客たちは次第に甘寧の下を去って行った。
呉の孫権に仕える
蘇飛の助け
甘寧はいよいよ黄祖の下から離れようと考えたが、「脱出は不可能だろう」と思い、独り悶々としていた。この甘寧の気持ちを汲み取った蘇飛は、甘寧を酒宴に招いて、
「私は度々あなたを推挙しましたが、ご主君(黄祖)はその意見を採用されませんでした。月日は瞬く間に過ぎ去るもの。人生は長くはありません。大きな志を持ち、あなたを理解してくれる主君と巡り会うことを願われるのがよろしいでしょう」
と言い、甘寧を孫権が治める揚州に近い荊州・江夏郡・邾県の県長に推薦した。
こうして邾県の県長に赴任することになった甘寧は、1度は自分の下を離れた食客たちや新たに志願して来た者など、数百名の部下を揃えて邾県へと出発し、その後呉に身を寄せた。
黄祖討伐
甘寧が呉に身を寄せると、周瑜と呂蒙が揃って彼を重く用いるように推挙した。すると孫権は甘寧に特別の待遇を与えて、元からの配下と同じように扱った。
建安13年(208年)春、甘寧は荊州の戦略的重要性と黄祖軍の乱れた様子を説き、「まずは黄祖が守る荊州・江夏郡に侵攻して荊州を攻略し、巴蜀(益州)に軍を進める足がかりとする」ことを献策し、孫権は深く頷いた。
同席していた張昭が難色を示し、
「領内の人心はまだ安定しておらず、もし軍が西に向かえば、必ずや反乱が起きましょう」
と言うと、甘寧は張昭に向かって言った。
「国家(孫権)に『蕭何の任』を託され、留守を守るあなたが反乱を恐れるとは、古人を敬慕する方の言葉とは思えませんな?」
すると孫権は自ら甘寧の杯に酒を注ぐと、
「興覇(甘寧の字)どの、本年の軍事行動はこの酒のようにすっぱりと、すべてあなたに引き受けて貰おう。あなたは ただひたすら軍略に心を巡らされ、黄祖攻略を確実なものにされよ。それを可能にすることこそがあなたの務めである。張長史(張昭)の言葉など気になされるな」
と言い、甘寧の進言に従って西に軍を進め、黄祖を擒にしてその配下の軍勢を手に入れた。
蘇飛を助ける
孫権は前もって2つの函を作り、黄祖と蘇飛の首を収めるつもりでいた。そのことを知った甘寧が床に頭を打ちつけ、血と涙を流しながら恩義のある蘇飛の命乞いをすると、
孫権は「今、あなたに免じて彼の罪を問わなかったとしても、もし彼が逃亡したらどうするのか」と問うた。
これに甘寧が「万一、蘇飛が逃亡いたしました場合には、代わりに私の首を函に入れていただきましょう」と答えたので、孫権は蘇飛を赦すことにし、甘寧に兵を授けて当口(当利口?)に軍を駐めさせた。
赤壁の戦い
建安13年(208年)10月、甘寧は周瑜につき従って、烏林で曹操を防ぎ撃ち破った。
江陵の戦い
引き続き周瑜は荊州・南郡・江陵県の曹仁を攻めたが、攻め落とすことができなかった。
そこで甘寧は「先に軍を進めて夷陵県を取るべきです」と献策し、即刻配下の数百の兵で夷陵県を奪取して守りを固めた。これに曹仁は、5〜6千人を派遣して甘寧が守る夷陵県を包囲させ、高い楼を建てて城内に雨のように矢を射かけさせた。
この時、夷陵県を守る兵は降伏した者たちを合わせてもわずか千人しかおらず、兵士たちはみな懼れていたが、甘寧だけは楽しげに談笑をし、少しも慌てずに、周瑜に使者を派遣して事態を報告した。
周瑜の部将たちは「兵力が少なく割き与えるわけにはいかない」と言ったが、周瑜は呂蒙の計に従い、部将たちを率いて夷陵県の包囲を解かせた。
益州侵攻の進言
この当時、蜀(益州)では益州牧の劉璋の統治が弛んで体を成していない上に、漢中の張魯の侵攻を受けていた。
そうした情勢を見た周瑜と甘寧は、京城(京口)*1にやって来て孫権に目通りし、
「敗戦後の曹操がまだ動けないうちに蜀(益州)を奪取し、張魯を併呑して馬超と同盟関係を結び、北方(曹操)を制覇する」
ことを進言した。
孫権はこの計に同意したが、その後すぐに周瑜は病死。孫権は益州侵攻のため、奮威将軍・孫瑜に水軍を率いさせ夏口に駐屯させたが、劉備の妨害に遭って断念した。
脚注
*1揚州・呉郡・丹徒県。孫権が呉県から移り住んだ際に「京城」と名を改めた。京口とも言う。
濡須口の戦い
建安18年(213年)正月、曹操が濡須口に兵を進めてくると、歩兵・騎兵40万でもって長江まで出て、「馬に水を飲ませるのだ」と言い立てた。
これに孫権は軍勢7万を指揮して対抗し、甘寧に3千人を預けて前部督とし、「夜陰に紛れて秘かに魏軍に攻め込むように」と命じた。
甘寧は配下の勇猛な兵士百人余りを選んで真っ直ぐ曹操の軍営の間近まで突入し、逆茂木を引き抜き、堡塁を乗り越えて陣屋の中に入ると、数十の首級を斬った。曹操軍は驚き慌てて太鼓を打って騒ぎ立て、赤々と火が灯されたが、その時にはすでに甘寧は自軍の陣営に戻っており、笛や太鼓を鳴らして万歳を叫んだ。
甘寧はそのまま夜中に孫権に目通りをすると、孫権は喜んで、
「老子(曹操)めを驚かせてやることができたか。一先ず卿の肝っ玉を見せてもらった」
と言い、その場で絹千匹と刀百口を下賜した。
そして1ヶ月余り経って曹操軍が引き揚げると、孫権は、
「孟徳(曹操)には張遼がおり、私には興覇(甘寧)がいて、ちょうど釣り合っておるのだ」
と言い、甘寧はさらに配下の兵2千人を加えられ、益々重んぜられるようになった。
晥城攻略
建安19年(214年)閏5月、孫権は自ら「曹操が廬江太守に任命した朱光が守る揚州・廬江郡・晥県」に向けて出陣し、部将たちに晥県を攻め落とすための計略を尋ねた。
この時呂蒙の計によって升城督(突撃隊長)に任命された甘寧は、軍吏や兵卒たちの先頭を切って練を手に自ら城壁をよじ登り、ついに敵を破って朱光を捕らえた。この戦いにおいて甘寧は、呂蒙に次ぐ功績として折衝将軍に任命された。
関羽を防ぐ
建安19年(214年)、関羽が「3万の軍勢を有する」と号して自ら精鋭兵5千人を選び、荊州・長沙郡・益陽県の上流10余里の浅瀬に配置した。
「関羽の軍が夜のうちに浅瀬を渡ってくる」という情報が伝わると、魯粛は部将たちを集めて対応策を協議したが、この時3百の兵を有していた甘寧は、
「もしあと5百人の兵を加えていただければ、私が行ってこれに対処いたしましょう。私の咳払い(欬唾)を聞けば、関羽は敢えて川を渡っては来ないでしょう。もし渡ってきたならば、私の擒となるだけです」
と言い、魯粛はすぐさま千人の兵を選んで甘寧につけてやった。
甘寧が夜を徹して軍を進めると、そのことを知った関羽は、川を渡らずにそこに軍を留めて柴営(砦)を結んだ。現在この場所は、これにちなんで「関羽瀬」と呼ばれている。*2
孫権は甘寧の手柄を高く評価して西陵太守に任命し、陽新県と下雉県の2県を領させた。
脚注
*2『呉書』呉主伝には「孫権は呂蒙らを派遣して魯粛と共に益陽で関羽と対峙させた。まだ戦端が開かれる前に曹操が漢中に侵入し、劉備は益州を失うことを恐れて和解を申し入れ、元の同盟友好関係を回復した」とある。
合肥の戦い
甘寧は麤猛(粗暴)ですぐ人を殺すこともあるが、開けっ広げな性格で将来への見通しが立ち、財を惜しまず有能な人物を礼遇し、勇敢な兵士を養い育てたので、配下の兵たちは彼のために喜んで働いた。
建安20年(215年)、甘寧は孫権の揚州・九江郡・合肥国攻撃に参加したが、伝染病が流行したために、軍はみな引き揚げた。この時孫権の元には、虎士・千余人に呂蒙・蔣欽(蒋欽)・凌統、そして甘寧がつき従って、逍遙津の北にあった。
孫権の守りが手薄となったのを見て取った張遼が、すぐさま歩兵・騎兵を率いてこれを急襲すると、甘寧は鼓吹隊に「なぜ音を出さぬのかっ!」と叱咤し、弓を手に凌統らと共に命懸けで戦った。
その間に孫権は駿馬を駆けさせて逍遙津の橋を渡って逃げることができ、甘寧のこの働きを殊の外喜んだ。
甘寧が亡くなると、振威将軍・溧陽侯の潘璋が彼の配下の軍を引き継ぎ、孫権はその死を痛惜した。
逸話
凌統の怨み
凌統は「父親の凌操が甘寧に殺されたこと」を怨んでいたので、甘寧は常に凌統を警戒して彼と会おうとせず、孫権もまた凌統に「遺恨を晴らそうとしてはならぬ」と命じていた。
ある時、呂蒙の家に人々が集まって酒も酣となった頃、凌統が刀を手に舞い始めると、甘寧も「私も『双戟の舞い』を舞うことができます」と言って立ち上がった。これを見た呂蒙は「甘寧よ、私の腕前にはかなうまい」と言い、刀と楯を操って2人の間に割って入った。
後に凌統の怨みの深さを知った孫権は、甘寧に「兵を率いて速やかに半州に駐屯するように」と命じ、甘寧と凌統を引き離した。
料理番を殺す
ある時、甘寧の料理番(厨下児)が失敗をしでかして呂蒙の元に逃げ込んだことがあったが、呂蒙は「甘寧はこの料理番を殺してしまうに違いない」と思い、すぐには送り返さなかった。
その後、甘寧が呂蒙の母親のために贈り物を用意して呂蒙の屋敷を訪ねた。そこで呂蒙が料理番を甘寧の元に返すと、甘寧も「料理番を殺さない」と呂蒙に約束した。
ところが、程なくして船に戻った甘寧は、料理番を桑の木に縛りつけ、自ら弓を引いて射殺すと、船人に言いつけて船をしっかりと繋ぎ止めさせ、自分は上衣を脱いで船の中で横になった。
甘寧が約束に背いて料理番を殺害したことを知った呂蒙は大いに怒り、太鼓を叩いて兵士を集めると、甘寧の船を攻めようとしたが、甘寧はそのことを聞いても臥したままで起き上がろうともしなかった。
するとこの騒ぎを聞いた呂蒙の母親が裸足で飛び出して来て、呂蒙を諫めて言った。
「至尊(孫権)はお前を肉親のように待遇され、大事を託しておられます。どうして私事の腹立ちを理由に甘寧を攻め殺したりして良いものでしょうか。もし甘寧が死んだならば、たとえ至尊(孫権)がお咎めにならなかったとしても、お前は臣下にあるまじきことをしたことになるのです」
元々孝行心が篤かった呂蒙は、母親の言葉を聞くと、はっと思い直し、自ら甘寧の船にやって来ると、笑いながら、
「興覇(甘寧の字)どの、母があなたを食事に招いております。早く岸に上がられよっ!」
と言った。
すると甘寧は涙を流し、嗚咽しながら「卿には負けました」と言い、呂蒙と一緒に戻って母親に目通りをすると、その日1日宴を楽しんだ。
呂蒙の進言
甘寧は粗暴で殺生を好み、常々呂蒙の機嫌を損ねていた上に、時には孫権の命令にも従わないことがあった。
孫権がそんな甘寧に腹を立てると、呂蒙はいつも赦しを請うて、
「天下はまだ安定しておらず、甘寧のような闘将(猛将)は得難いものです。どうか堪忍してください」
と上陳した。孫権はこうした言葉を受け容れて甘寧を厚遇したため、甘寧に十分な働きをさせることができたのである。
孫皎との諍い
ある時甘寧は、酒宴の席で孫皎*3に侮辱され大喧嘩となった。
この時、甘寧を諫める者もいたが、甘寧は、
「臣下も公子も同列であるべきだ。征虜将軍(孫皎*3)は公子だからと言って、なぜ彼ばかりが他人を侮辱して良いものだろうかっ!明主(孫権)を得たからにはひたすら力を尽くし、生命を投げ出してご主君のご恩に報いる所存だが、風俗習慣に従って身を屈することなど、絶対にできない」
と言い、「孫皎*3の指揮下を離れて呂蒙の指揮下に入りたい」と願い出た。
そのことを聞いた孫権が孫皎*3に手紙を送って教え諭すと、孫皎*3は上疏して陳謝し、以後、甘寧と厚い交わりを結んだ。
脚注
*3孫権の叔父・孫静の第3子。
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第2世代(甘瓌・甘述)
第3世代(甘昌)
第4世代(甘卓)
甘卓・季思
生年不詳〜東晋の永昌元年(322年)没。揚州・丹楊郡(丹楊郡)の人。父は甘昌。子に甘蕃。曾祖父は甘寧。
出自
秦の丞相・甘茂の後裔に当たる。
呉が晋によって平定されると、甘卓は自宅に引き籠もっていたが、丹楊郡(丹楊郡)の主簿や功曹に任命された。
郡から孝廉に察挙(推挙)され、また州(揚州)から秀才に挙げられて呉王常侍となり、西晋の太安2年(303年)には、反乱を起こした石冰を討伐した功績により都亭侯の爵位を賜った。
また、その後東海王・司馬越に召し出されてその参軍となり、地方に出て(兗州・済陰郡の)離狐県令となった。
陳敏の乱
天下が大いに乱れると、甘卓は官を棄てて東[丹楊郡(丹楊郡)]に帰ろうとしたところ、揚州・九江郡・歴陽県まで来たところで、江東に割拠する志を抱く陳敏と出遭った。陳敏は大いに喜び、共に計を巡らせて子の陳景に甘卓の女を娶らせ、互いに結託した。
陳敏によって安豊太守に任命された周玘は義を唱え、秘かに銭広を派遣して陳敏の弟の陳昶を攻撃すると、陳敏は銭広を討つべく甘卓を派遣して朱雀橋の南に駐屯させた。
銭広が陳昶を討ち取ると、周玘は丹楊太守・顧栄を派遣して甘卓を招き説得させた。甘卓は以前から顧栄に敬服しており、また陳昶が敗死したこともあって、周玘らに従うことにした。
そこで甘卓は、病と偽って女を迎えると、橋を落として南岸に船を集め、陳敏を滅ぼしその首を京都(洛陽)に送った。
琅邪王・司馬睿(元帝)が長江を渡って江南にやって来ると、甘卓は前鋒都督・揚威将軍・歴陽内史に任命された。
その後、周馥討伐・杜弢征討と転戦して多くの捕虜を得ると、前後の功績により南郷侯に爵位を進め、豫章太守に任命された。また程なくして湘州刺史に遷り、さらに于湖侯に爵位を進めた。
人材登用制度に意見する
東晋による中興の初め、辺境の侵略は続き、学校は衰退して孝廉は行われず、なお秀才だけが旧来の方法で行われていた。そこで甘卓は、
「職務に堪え得る者には、古今に広く通じ、政や諸典籍に明るい者を挙げるべきです。臣の勤めている州は、過去に侵略を受けて学校は長い間放置され、流浪する人士の数は他州と比較になりません。策試*4については学問の成績によって判定し、孝廉と同じように期限を設けるべきです」
と上疏したが、朝議で却下された。
脚注
*4策(問題)を与えて経義や政治に関する意見を試問すること。
甘卓の統治
その後甘卓は、安南将軍・梁州刺史・仮節・督沔北諸軍に遷り、襄陽に駐屯した。
甘卓は外見は柔和だが内面は強くしっかりしており、その統治は簡素で領民を慰め労った。甘卓は市場の税を免除して二重価格をなくし、州境にある魚池の税収を貧しい人々に与えたため、西方(西土)では恵政(恩情のある政治)だと称えられた。
王敦の乱
王敦の挙兵
永昌元年(322年)、王敦は挙兵するに及び、使者を派遣して甘卓に告げた。甘卓はこれにとりあえず偽って同意したが、王敦が出陣(升舟)する時になっても赴かず、参軍の孫双を武昌に派遣して彼を諫め、王敦の挙兵を思い留まらせようとした。
孫双の言葉を聞いた王敦は大いに驚いて、
「甘侯(甘卓)は以前、私に何と言った!?今さらなぜ反対するのだっ!私が朝廷を危うくするとでも思っているのか?私はただ姦凶(劉隗)を除きたいだけなのだ。卿は還って『事が済めば公とする』と甘侯(甘卓)に伝えてくれ」
と言った。孫双は還って王敦の言葉を報告したが、甘卓は決めかねており、
「『陳敏の乱』の時、私は真っ先に陳敏の計画に従ったが、論者はその謀に恐れを抱いたと言う。私はそうは思っていなかったが、自分のしたことが恥ずかしくなった。もしまた同じことをしたら、誰が私を理解してくれるだろうかっ!」
と言った。
この時、湘州刺史・譙王・司馬承が主簿の鄧騫を派遣して、甘卓に言った。
「(王敦が標的とした)劉大連(劉隗)は、権力と寵愛を利用したとは言え天下に害はなく、大将軍(王敦)は私怨によって挙兵して天下の人望を失った。今こそ忠臣・義士が匡し救う時である。昔、魯連(魯仲連)のような匹夫でも『蹈海の志*5』があった。まして方伯という国の重責を担う者がっ!今こそ『桓文*6の挙』を唱えて謀反を一掃し、義兵を擁して王室に忠勤を励む、千載一遇の好機です」
すると甘卓は笑って言った。
「私には桓文*6がしたようなことはできないが、国難に当たって尽力したいと思っている。みなで考えようではないか」
これを受け、静観を主張する参軍・李梁と王敦討伐を主張する鄧騫が議論を戦わせたが、甘卓はまだ迷っていた。一説に、甘卓は「王敦が都(建康)に至るのを待ってこれを討つ」つもりであったと言われている。
脚注
*5海に飛び込んで自殺する覚悟。
*6斉の桓公と晋の文公。
王敦討伐
甘卓がやって来ないことから、変事を憂慮した王敦は、参軍・楽道融を派遣して催促した。ところが、元々王敦を裏切るつもりであった楽道融は、甘卓に「王敦を討つように」と説いた。
この時すでに王敦に従う気がなくなっていた甘卓は、楽道融の説得を受けてついに決断し、巴東監軍・柳純、南平太守・夏侯承、宜都太守・譚該ら10余人と共に「王敦の悪事(肆逆)を列挙した檄」を発し、王敦討伐の軍を起こした。
参軍の司馬讚と孫双に上表文を奉じて朝廷(台)に赴かせ、参軍の羅英を広州に派遣して陶侃と合流させ、参軍の鄧騫と虞沖を長沙に向かわせて譙王・司馬承を堅守するように命じた。
これより先、江西にいた征西将軍・戴若思(戴淵)は甘卓の檄(書)を得るとこれを上表し、宮廷(台)内の者はみな万歳をした。
甘卓の軍勢がやって来ると伝わると、武昌の人々はみな散り散りになって逃亡した。
甘卓に詔書が下されて鎮南大将軍・侍中・都督荊梁二州諸軍事・荊州牧となり、梁州刺史はこれまで通りとされた。
陶侃は甘卓を信頼し、すぐに参軍の高宝に兵を率いさせて甘卓の下に派遣した。
甘卓の敗北
王敦は大いに懼れ、甘卓の兄の子で行参軍の甘卬を派遣して和議を申し入れた。甘卓は正義の心を懐いてはいたが、決断力がない上に老齢で疑い深く、豬口に軍を進めても、前進することを躊躇っていた。
その間に王師(建康)は陥落(敗績)し、王敦は朝廷(台)に騶虞幡(戦闘を停止させる時に使う旗)をもって甘卓の軍を駐留させた。
甘卓は周顗と戴若思(戴淵)が殺害されたと聞くと、涙を流して甘卬に、
「私が憂えていたのは、正に今日の状況だ。朝廷から書を得る度に胡の侵攻への対処を優先していたので、うっかり蕭牆の禍*7に気づかなかった。もし聖上(元帝)と太子が無事で、私が王敦の上位に臨むことができるのならば、王敦も敢えてすぐに社稷を危うくすることはないだろう。逆にもし私が武昌に侵攻したならば、形勢が差し迫った王敦は必ずや天子(元帝)を脅かし、天下(四海)の希望は絶たれてしまうだろう。襄陽に還り、後のことを図った方が良い」
と言い、すぐに撤兵(旋軍)を命じた。これに都尉の秦康は、
「今、兵を分けて彭沢を断てば、王敦は長江の上流と下流を互いに行き来できなくなり、敵は自ずと離散し、一戦するだけで彼を擒にすることができます。忠節(王敦討伐)を途中で止めてしまえば、将軍(甘卓)は敗軍の将となります。将軍(甘卓)の配下の者たちはみな西に還ろうとし、守りを固めることができなくなってしまいます」
と諫めたが、甘卓は従わなかった。
また、楽道融も日夜にわたって早く侵攻するようにと勧めたが、元来寛大で和やかであった甘卓は急に頑固になり、襄陽に還ってからも情緒が不安定(意気騒擾、挙動失常)で、鏡を見ては「頭がない」と言い、庭の樹を見ては「樹の上に頭がある」と言う有り様だった。
甘卓の家の金櫃(金庫)を叩くと、鏡を槌で叩いたような澄んだ悲しげな音を立てるほど空になり、巫は「金櫃(金庫)の悲鳴だ」と言った。
また、主簿の何無忌と家人たちはみな警備を固めるように勧めたが、甘卓はさらにひねくれて、諫言を聞くたびごとに怒りを露わにした。広大な大佃(荘園)を守る兵たちも離れ去り、功曹の栄建(栄建固?)が固く諫めても聞き入れることはなかった。
秘かに王敦の意を受けた襄陽太守・周慮らは、甘卓が無防備であることを知ると、偽って「湖にたくさんの魚がいる」と言い、甘卓に「側仕えの者たち全員に魚を捕りに行かせる」ように勧め、甘卓が寝ているところを襲って殺害してその首を王敦に送った。
太寧年間(323年〜326年)に驃騎将軍を追贈され、敬と諡された。
脚注
*7一家一門の内部の身近なところから起こる禍。
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生没年不詳。揚州・丹楊郡(丹楊郡)の人。父は甘卓の兄。
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叔父の甘卓が王敦討伐の兵を起こすと、王敦の使者として甘卓に和議を申し入れた。
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散騎郎。
父の甘卓が王敦の意を受けた襄陽太守・周慮らに殺害されると、甘蕃らもみな殺害された。
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