正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(61)巴郡(はぐん)甘氏(かんし)(甘寧(かんねい)・甘瓌(かんかい)・甘述(かんじゅつ)・甘昌(かんしょう)・甘卓(かんたく)・甘卬(かんごう)・甘蕃(かんはん))です。

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系図

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

巴郡甘氏系図

巴郡甘氏系図

巴郡(はぐん)甘氏(かんし)系図

※赤字がこの記事でまとめている人物。
親が同一人物の場合、左側が年長。
甘瓌(かんかい)と甘述(かんじゅつ)の兄弟の順は不明。
『晋書(しんじょ)』甘卓伝(かんたくでん)には「揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹楊郡(たんようぐん))の人」とあるが、誰の段階で丹楊郡(たんようぐん)(丹楊郡(たんようぐん))に移ったのかは不明。


この記事では巴郡(はぐん)甘氏(かんし)の人物、

についてまとめています。

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か(61)巴郡甘氏

第1世代(甘寧)

甘寧(かんねい)・興覇(こうは)

生没年不詳。益州(えきしゅう)・巴郡(はぐん)・臨江県(りんこうけん)の人。子に甘瓌(かんかい)、甘述(かんじゅつ)。

出自

甘寧(かんねい)は元々荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)の人であったが、その先祖が巴郡(はぐん)に身を寄せたのである。

初め、甘寧(かんねい)は役人となって計掾(けいえん)(会計報告)に挙(あ)げられ、蜀郡太守(しょくぐんたいしゅ)の丞(じょう)(次官)に任命されたが、やがて官を棄(す)てて家に帰った。

益州で無頼の渠帥となる

若い時から気概(きがい)を持って游侠(おとこだて)を好み、無頼(ぶらい)の若者たちを集めてその渠帥(きょすい)となっていた。甘寧(かんねい)の一党は弓や弩(ど)を小脇(こわき)に挟(はさ)み、水牛の旗指物を背に腰には鈴を帯(お)びていたので、人々は鈴の音を聞くとすぐに、それが甘寧(かんねい)の一党だと気づくことができた。

甘寧(かんねい)は游侠(おとこだて)から人を殺したり、亡命者を匿(かくま)ったりしたことで、その名は郡内に聞こえわたっていた。

彼らはいつも、陸路であれば馬車や騎馬を列(つら)ね、水路であれば軽舟を連(つら)ね、つき従う者たちは派手な刺繍(ししゅう)が施(ほどこ)された着物を身につけていたので、その行列の華麗さは行く先々で人々の視線を集め、また留(とど)まる時には錦織(にしきおり)の綱(つな)で舟を繋(つな)ぎ、出発する時にはそれを斬り棄(す)てて行くなどしてその豪奢(ごうしゃ)さを誇示(こじ)した。

人と出会った場合、たとえそれが所属する県(属城)の長吏(ちょうり)であっても、手厚い接待を受けた者とは互いに打ち解(と)け合って楽しんだが、そうでない場合は、すぐに手下の者を放ってその財産を奪わせた。

また、打ち解(と)け合った長吏(ちょうり)の管轄内(かんかつない)で賊(ぞく)の被害があった場合には、その摘発(てきはつ)を請(う)け負った。

無頼(ぶらい)の渠帥(きょすい)にあること20余年、甘寧(かんねい)は盗賊行為をやめ、諸子の書をたくさん読むようになった。

荊州の劉表に仕える
劉表(りゅうひょう)

興平(こうへい)元年(194年)に益州牧(えきしゅうぼく)・劉焉(りゅうえん)が亡くなると、益州(えきしゅう)の大官(たいかん)・趙韙(ちょうい)らは、劉焉(りゅうえん)の第4子・劉璋(りゅうしょう)を益州刺史(えきしゅうしし)とするように上書したが、朝廷は扈瑁(こぼう)を益州刺史(えきしゅうしし)に任命して益州(えきしゅう)に派遣した。

この時甘寧(かんねい)は、劉璋(りゅうしょう)の将軍(しょうぐん)・沈弥(しんび)、婁発(ろうはつ)らと共に叛旗(はんき)を翻(ひるがえ)したが、劉璋(りゅうしょう)を撃ち破ることはできず、手下や食客(しょっかく)800人を引き連れて劉表(りゅうひょう)の下(もと)に身を寄せ、荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)に居を移した。

当時は英雄(えいゆう)豪傑(ごうけつ)たちがそれぞれ兵を挙(あ)げていたが、儒者(じゅしゃ)の劉表(りゅうひょう)は軍事に疎(うと)く、劉表(りゅうひょう)の行動を観察して「結局は失敗に終わるに違いない」と考えた甘寧(かんねい)は、巻き添(ぞ)えを食うことを恐れて東方の呉(ご)に行こうとした。

黄祖(こうそ)

ところがその途上の夏口(かこう)には劉表(りゅうひょう)配下の黄祖(こうそ)がいたため、軍を率(ひき)いたまま通過することができなかった。甘寧(かんねい)はやむを得ず黄祖(こうそ)の元に身を寄せたが、3年が経(た)っても黄祖(こうそ)は甘寧(かんねい)を礼遇することはなかった。

建安(けんあん)8年(203年)、孫権(そんけん)の討伐を受けた黄祖(こうそ)は敗走し、激しい追撃を受けた。この時、弓を射(い)ることに巧(たく)みであった甘寧(かんねい)は兵士たちを指揮して殿(しんがり)をつとめ、足の速い舟で単身前進して来た孫権(そんけん)の破賊校尉(はぞくこうい)・凌操(りょうそう)を射殺した。甘寧(かんねい)の働きのお陰で黄祖(こうそ)はなんとか本営に戻ることができたが、その後も甘寧(かんねい)に対する待遇は以前と変わらなかった。

黄祖(こうそ)の都督(ととく)・蘇飛(そひ)は、しばしば「甘寧(かんねい)を重く用(もち)いる」ように進言したが、黄祖(こうそ)はその意見に従わず、逆に甘寧(かんねい)の食客たちに人を遣(や)って「直接自分(黄祖(こうそ))の下につく」ように勧誘させたので、食客たちは次第に甘寧(かんねい)の下(もと)を去って行った。

呉の孫権に仕える
蘇飛(そひ)の助け

甘寧(かんねい)はいよいよ黄祖(こうそ)の下(もと)から離れようと考えたが、「脱出は不可能だろう」と思い、独(ひと)り悶々(もんもん)としていた。この甘寧(かんねい)の気持ちを汲(く)み取った蘇飛(そひ)は、甘寧(かんねい)を酒宴に招(まね)いて、

「私は度々(たびたび)あなたを推挙しましたが、ご主君(黄祖(こうそ))はその意見を採用されませんでした。月日は瞬(またた)く間に過ぎ去るもの。人生は長くはありません。大きな志(こころざし)を持ち、あなたを理解してくれる主君と巡(めぐ)り会うことを願われるのがよろしいでしょう」

と言い、甘寧(かんねい)を孫権(そんけん)が治める揚州(ようしゅう)に近い荊州(けいしゅう)・江夏郡(こうかぐん)・邾県(しゅけん)の県長(けんちょう)に推薦した。

こうして邾県(しゅけん)の県長(けんちょう)に赴任することになった甘寧(かんねい)は、1度は自分の下(もと)を離れた食客たちや新(あら)たに志願して来た者など、数百名の部下を揃(そろ)えて邾県(しゅけん)へと出発し、その後呉(ご)に身を寄せた。

黄祖(こうそ)討伐

甘寧(かんねい)が呉(ご)に身を寄せると、周瑜(しゅうゆ)と呂蒙(りょもう)が揃(そろ)って彼を重く用(もち)いるように推挙した。すると孫権(そんけん)は甘寧(かんねい)に特別の待遇を与えて、元からの配下と同じように扱った。

建安(けんあん)13年(208年)春、甘寧(かんねい)は荊州(けいしゅう)の戦略的重要性と黄祖(こうそ)軍の乱れた様子を説(と)き、「まずは黄祖(こうそ)が守る荊州(けいしゅう)・江夏郡(こうかぐん)に侵攻して荊州(けいしゅう)を攻略し、巴蜀(はしょく)(益州(えきしゅう))に軍を進める足がかりとする」ことを献策し、孫権(そんけん)は深く頷(うなず)いた。

同席していた張昭(ちょうしょう)が難色を示し、

「領内の人心はまだ安定しておらず、もし軍が西に向かえば、必ずや反乱が起きましょう」

と言うと、甘寧(かんねい)は張昭(ちょうしょう)に向かって言った。

「国家(こっか)(孫権(そんけん))に『蕭何(しょうか)の任』を託(たく)され、留守を守るあなたが反乱を恐れるとは、古人を敬慕(けいぼ)する方の言葉とは思えませんな?」

すると孫権(そんけん)は自(みずか)ら甘寧(かんねい)の杯(さかずき)に酒を注(つ)ぐと、

「興覇(こうは)(甘寧(かんねい)の字(あざな))どの、本年の軍事行動はこの酒のようにすっぱりと、すべてあなたに引き受けて貰おう。あなたは ただひたすら軍略に心を巡(めぐ)らされ、黄祖(こうそ)攻略を確実なものにされよ。それを可能にすることこそがあなたの務(つと)めである。張長史(ちょうちょうし)(張昭(ちょうしょう))の言葉など気になされるな」

と言い、甘寧(かんねい)の進言に従って西に軍を進め、黄祖(こうそ)を擒(とりこ)にしてその配下の軍勢を手に入れた。

蘇飛(そひ)を助ける

孫権(そんけん)は前もって2つの函(はこ)を作り、黄祖(こうそ)と蘇飛(そひ)の首を収(おさ)めるつもりでいた。そのことを知った甘寧(かんねい)が床に頭を打ちつけ、血と涙を流しながら恩義のある蘇飛(そひ)の命(いのち)乞(ご)いをすると、

孫権(そんけん)は「今、あなたに免(めん)じて彼の罪を問わなかったとしても、もし彼が逃亡したらどうするのか」と問うた。

これに甘寧(かんねい)が「万一、蘇飛(そひ)が逃亡いたしました場合には、代わりに私の首を函(はこ)に入れていただきましょう」と答えたので、孫権(そんけん)は蘇飛(そひ)を赦(ゆる)すことにし、甘寧(かんねい)に兵を授(さず)けて当口(とうこう)(当利口(とうりこう)?)に軍を駐(とど)めさせた。

赤壁の戦い

建安(けんあん)13年(208年)10月、甘寧(かんねい)は周瑜(しゅうゆ)につき従って、烏林(うりん)で曹操(そうそう)を防(ふせ)ぎ撃ち破った。

江陵の戦い

引き続き周瑜(しゅうゆ)は荊州(けいしゅう)・南郡(なんぐん)・江陵県(こうりょうけん)の曹仁(そうじん)を攻めたが、攻め落とすことができなかった。

そこで甘寧(かんねい)は「先に軍を進めて夷陵県(いりょうけん)を取るべきです」と献策し、即刻(そっこく)配下の数百の兵で夷陵県(いりょうけん)を奪取して守りを固めた。これに曹仁(そうじん)は、5〜6千人を派遣して甘寧(かんねい)が守る夷陵県(いりょうけん)を包囲させ、高い楼(やぐら)を建てて城内に雨のように矢を射かけさせた。

この時、夷陵県(いりょうけん)を守る兵は降伏した者たちを合わせてもわずか千人しかおらず、兵士たちはみな懼(おそ)れていたが、甘寧(かんねい)だけは楽しげに談笑をし、少しも慌(あわ)てずに、周瑜(しゅうゆ)に使者を派遣して事態を報告した。

周瑜(しゅうゆ)の部将たちは「兵力が少なく割(さ)き与えるわけにはいかない」と言ったが、周瑜(しゅうゆ)は呂蒙(りょもう)の計(はかりごと)に従い、部将たちを率(ひき)いて夷陵県(いりょうけん)の包囲を解(と)かせた。

益州侵攻の進言

この当時、蜀(しょく)(益州(えきしゅう))では益州牧(えきしゅうぼく)の劉璋(りゅうしょう)の統治が弛(ゆる)んで体(てい)を成(な)していない上に、漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)の侵攻を受けていた。

そうした情勢を見た周瑜(しゅうゆ)と甘寧(かんねい)は、京城(けいじょう)(京口(けいこう))*1にやって来て孫権(そんけん)に目通りし、

「敗戦後の曹操(そうそう)がまだ動けないうちに蜀(しょく)(益州(えきしゅう))を奪取し、張魯(ちょうろ)を併呑(へいどん)して馬超(ばちょう)と同盟関係を結び、北方(曹操(そうそう))を制覇する」

ことを進言した。

孫権(そんけん)はこの計(はかりごと)に同意したが、その後すぐに周瑜(しゅうゆ)は病死。孫権(そんけん)は益州(えきしゅう)侵攻のため、奮威将軍(ふんいしょうぐん)・孫瑜(そんゆ)に水軍を率(ひき)いさせ夏口(かこう)に駐屯させたが、劉備(りゅうび)の妨害(ぼうがい)に遭(あ)って断念した。

脚注

*1揚州(ようしゅう)・呉郡(ごぐん)・丹徒県(たんとけん)。孫権(そんけん)が呉県(ごけん)から移り住んだ際に「京城(けいじょう)」と名を改めた。京口(けいこう)とも言う。

濡須口の戦い

建安(けんあん)18年(213年)正月、曹操(そうそう)が濡須口(じゅしゅこう)に兵を進めてくると、歩兵・騎兵40万でもって長江(ちょうこう)まで出て、「馬に水を飲ませるのだ」と言い立てた。

これに孫権(そんけん)は軍勢7万を指揮して対抗し、甘寧(かんねい)に3千人を預けて前部督(ぜんぶとく)とし、「夜陰に紛(まぎ)れて秘かに魏(ぎ)軍に攻め込むように」と命じた。

甘寧(かんねい)は配下の勇猛な兵士百人余りを選んで真っ直(す)ぐ曹操(そうそう)の軍営の間近まで突入し、逆茂木(さかもぎ)を引き抜き、堡塁(ほうるい)を乗り越えて陣屋の中に入ると、数十の首級(くび)を斬った。曹操(そうそう)軍は驚き慌(あわ)てて太鼓(たいこ)を打って騒(さわ)ぎ立て、赤々と火が灯(とも)されたが、その時にはすでに甘寧(かんねい)は自軍の陣営に戻っており、笛や太鼓(たいこ)を鳴(な)らして万歳を叫(さけ)んだ。

甘寧(かんねい)はそのまま夜中に孫権(そんけん)に目通りをすると、孫権(そんけん)は喜んで、

「老子(おいぼれ)(曹操(そうそう))めを驚かせてやることができたか。一(ひと)先(ま)ず卿(あなた)の肝(きも)っ玉を見せてもらった」

と言い、その場で絹(きぬ)千匹と刀(かたな)百口を下賜(かし)した。

そして1ヶ月余り経(た)って曹操(そうそう)軍が引き揚(あ)げると、孫権(そんけん)は、

「孟徳(もうとく)(曹操(そうそう))には張遼(ちょうりょう)がおり、私には興覇(こうは)(甘寧(かんねい))がいて、ちょうど釣(つ)り合っておるのだ」

と言い、甘寧(かんねい)はさらに配下の兵2千人を加えられ、益(ます)々(ます)重んぜられるようになった。

晥城攻略

建安(けんあん)19年(214年)閏(うるう)5月、孫権(そんけん)は自(みずか)ら「曹操(そうそう)が廬江太守(ろこうたいしゅ)に任命した朱光(しゅこう)が守る揚州(ようしゅう)・廬江郡(ろこうぐん)・晥県(かんけん)」に向けて出陣し、部将たちに晥県(かんけん)を攻め落とすための計略を尋(たず)ねた。

この時呂蒙(りょもう)の計(はかりごと)によって升城督(しょうじょうとく)(突撃隊長)に任命された甘寧(かんねい)は、軍吏や兵卒たちの先頭を切って練(ねりぎぬ)を手に自(みずか)ら城壁をよじ登り、ついに敵を破って朱光(しゅこう)を捕らえた。この戦いにおいて甘寧(かんねい)は、呂蒙(りょもう)に次ぐ功績として折衝将軍(せっしょうしょうぐん)に任命された。

関羽を防ぐ

建安(けんあん)19年(214年)、関羽(かんう)が「3万の軍勢を有する」と号して自(みずか)ら精鋭兵5千人を選び、荊州(けいしゅう)・長沙郡(ちょうさぐん)・益陽県(えきようけん)の上流10余里の浅瀬に配置した。

「関羽(かんう)の軍が夜のうちに浅瀬を渡ってくる」という情報が伝わると、魯粛(ろしゅく)は部将たちを集めて対応策を協議したが、この時3百の兵を有していた甘寧(かんねい)は、

「もしあと5百人の兵を加えていただければ、私が行ってこれに対処いたしましょう。私の咳(せき)払(ばら)い(欬唾)を聞けば、関羽(かんう)は敢(あ)えて川を渡っては来ないでしょう。もし渡ってきたならば、私の擒(とりこ)となるだけです」

と言い、魯粛(ろしゅく)はすぐさま千人の兵を選んで甘寧(かんねい)につけてやった。

甘寧(かんねい)が夜を徹(てっ)して軍を進めると、そのことを知った関羽(かんう)は、川を渡らずにそこに軍を留(とど)めて柴営(さいえい)(砦(とりで))を結んだ。現在この場所は、これにちなんで「関羽瀬(かんうらい)」と呼ばれている。*2

孫権(そんけん)は甘寧(かんねい)の手柄を高く評価して西陵太守(せいりょうたいしゅ)に任命し、陽新県(ようしんけん)と下雉県(かいけん)の2県を領させた。

脚注

*2『呉書(ごしょ)』呉主伝(ごしゅでん)には「孫権(そんけん)は呂蒙(りょもう)らを派遣して魯粛(ろしゅく)と共に益陽(えきよう)で関羽(かんう)と対峙させた。まだ戦端が開かれる前に曹操(そうそう)が漢中(かんちゅう)に侵入し、劉備(りゅうび)は益州(えきしゅう)を失うことを恐れて和解を申し入れ、元の同盟友好関係を回復した」とある。

合肥の戦い

甘寧(かんねい)は麤猛(そもう)(粗暴)ですぐ人を殺すこともあるが、開(あ)けっ広(ぴろ)げな性格で将来への見通しが立ち、財を惜(お)しまず有能な人物を礼遇し、勇敢な兵士を養(やしな)い育てたので、配下の兵たちは彼のために喜んで働いた。

建安(けんあん)20年(215年)、甘寧(かんねい)は孫権(そんけん)の揚州(ようしゅう)・九江郡(きゅうこうぐん)・合肥国(がっぴこく)攻撃に参加したが、伝染病が流行したために、軍はみな引き揚(あ)げた。この時孫権(そんけん)の元には、虎士(こし)・千余人に呂蒙(りょもう)・蔣欽(しょうきん)(蒋欽(しょうきん))・凌統(りょうとう)、そして甘寧(かんねい)がつき従って、逍遙津(しょうようしん)の北にあった。

孫権(そんけん)の守りが手薄となったのを見て取った張遼(ちょうりょう)が、すぐさま歩兵・騎兵を率(ひき)いてこれを急襲すると、甘寧(かんねい)は鼓吹隊(こすいたい)に「なぜ音を出さぬのかっ!」と叱咤(しった)し、弓を手に凌統(りょうとう)らと共に命(いのち)懸(が)けで戦った。

その間に孫権(そんけん)は駿馬(しゅんめ)を駆けさせて逍遙津(しょうようしん)の橋を渡って逃げることができ、甘寧(かんねい)のこの働きを殊(こと)の外(ほか)喜んだ。


甘寧(かんねい)が亡くなると、振威将軍(しんいしょうぐん)・溧陽侯(りつようこう)の潘璋(はんしょう)が彼の配下の軍を引き継ぎ、孫権(そんけん)はその死を痛惜(つうせき)した。

逸話
凌統(りょうとう)の怨(うら)み

凌統(りょうとう)は「父親の凌操(りょうそう)が甘寧(かんねい)に殺されたこと」を怨(うら)んでいたので、甘寧(かんねい)は常に凌統(りょうとう)を警戒して彼と会おうとせず、孫権(そんけん)もまた凌統(りょうとう)に「遺恨(いこん)を晴らそうとしてはならぬ」と命じていた。

ある時、呂蒙(りょもう)の家に人々が集まって酒も酣(たけなわ)となった頃、凌統(りょうとう)が刀を手に舞い始めると、甘寧(かんねい)も「私も『双戟(そうげき)の舞い』を舞うことができます」と言って立ち上がった。これを見た呂蒙(りょもう)は「甘寧(かんねい)よ、私の腕前にはかなうまい」と言い、刀と楯(たて)を操(あやつ)って2人の間に割(わ)って入った。

後(のち)に凌統(りょうとう)の怨(うら)みの深さを知った孫権(そんけん)は、甘寧(かんねい)に「兵を率(ひき)いて速(すみ)やかに半州(はんしゅう)に駐屯するように」と命じ、甘寧(かんねい)と凌統(りょうとう)を引き離した。

料理番を殺す

ある時、甘寧(かんねい)の料理番(厨下児)が失敗をしでかして呂蒙(りょもう)の元に逃げ込んだことがあったが、呂蒙(りょもう)は「甘寧(かんねい)はこの料理番を殺してしまうに違いない」と思い、すぐには送り返さなかった。

その後、甘寧(かんねい)が呂蒙(りょもう)の母親のために贈り物を用意して呂蒙(りょもう)の屋敷を訪(たず)ねた。そこで呂蒙(りょもう)が料理番を甘寧(かんねい)の元に返すと、甘寧(かんねい)も「料理番を殺さない」と呂蒙(りょもう)に約束した。

ところが、程(ほど)なくして船に戻った甘寧(かんねい)は、料理番を桑の木に縛(しば)りつけ、自(みずか)ら弓を引いて射殺すと、船人に言いつけて船をしっかりと繋(つな)ぎ止めさせ、自分は上衣を脱いで船の中で横になった。

甘寧(かんねい)が約束に背(そむ)いて料理番を殺害したことを知った呂蒙(りょもう)は大いに怒り、太鼓(たいこ)を叩いて兵士を集めると、甘寧(かんねい)の船を攻めようとしたが、甘寧(かんねい)はそのことを聞いても臥したままで起き上がろうともしなかった。

するとこの騒ぎを聞いた呂蒙(りょもう)の母親が裸足(はだし)で飛び出して来て、呂蒙(りょもう)を諫(いさ)めて言った。

「至尊(しそん)(孫権(そんけん))はお前を肉親のように待遇され、大事を託(たく)しておられます。どうして私事(わたくしごと)の腹立ちを理由に甘寧(かんねい)を攻め殺したりして良いものでしょうか。もし甘寧(かんねい)が死んだならば、たとえ至尊(しそん)(孫権(そんけん))がお咎(とが)めにならなかったとしても、お前は臣下にあるまじきことをしたことになるのです」

元々孝行心が篤(あつ)かった呂蒙(りょもう)は、母親の言葉を聞くと、はっと思い直し、自(みずか)ら甘寧(かんねい)の船にやって来ると、笑いながら、

「興覇(こうは)(甘寧(かんねい)の字(あざな))どの、母があなたを食事に招(まね)いております。早く岸に上がられよっ!」

と言った。

すると甘寧(かんねい)は涙を流し、嗚咽(おえつ)しながら「卿(あなた)には負けました」と言い、呂蒙(りょもう)と一緒に戻って母親に目通りをすると、その日1日宴(うたげ)を楽しんだ。

呂蒙(りょもう)の進言

甘寧(かんねい)は粗暴で殺生(せっしょう)を好み、常(つね)々(づね)呂蒙(りょもう)の機嫌を損(そこ)ねていた上に、時には孫権(そんけん)の命令にも従わないことがあった。

孫権(そんけん)がそんな甘寧(かんねい)に腹を立てると、呂蒙(りょもう)はいつも赦(ゆる)しを請(こ)うて、

「天下はまだ安定しておらず、甘寧(かんねい)のような闘将(とうしょう)(猛将)は得(え)難(がた)いものです。どうか堪忍(かんにん)してください」

と上陳した。孫権(そんけん)はこうした言葉を受け容(い)れて甘寧(かんねい)を厚遇したため、甘寧(かんねい)に十分な働きをさせることができたのである。

孫皎(そんこう)との諍(いさか)い

ある時甘寧(かんねい)は、酒宴の席で孫皎(そんこう)*3に侮辱され大(おお)喧嘩(げんか)となった。

この時、甘寧(かんねい)を諫(いさ)める者もいたが、甘寧(かんねい)は、

「臣下も公子も同列であるべきだ。征虜将軍(せいりょしょうぐん)(孫皎(そんこう)*3)は公子だからと言って、なぜ彼ばかりが他人を侮辱して良いものだろうかっ!明主(めいしゅ)(孫権(そんけん))を得たからにはひたすら力を尽くし、生命を投げ出してご主君のご恩に報いる所存だが、風俗習慣に従って身を屈することなど、絶対にできない」

と言い、「孫皎(そんこう)*3の指揮下を離れて呂蒙(りょもう)の指揮下に入りたい」と願い出た。

そのことを聞いた孫権(そんけん)が孫皎(そんこう)*3に手紙を送って教え諭(さと)すと、孫皎(そんこう)*3は上疏(じょうそ)して陳謝し、以後、甘寧(かんねい)と厚い交(まじ)わりを結んだ。

脚注

*3孫権(そんけん)の叔父(おじ)・孫静(そんせい)の第3子。


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第2世代(甘瓌・甘述)

甘瓌(かんかい)

生没年不詳。益州(えきしゅう)・巴郡(はぐん)・臨江県(りんこうけん)の人。父は甘寧(かんねい)。兄弟に甘述(かんじゅつ)。

罪を犯して揚州(ようしゅう)・会稽郡(かいけいぐん)に強制移住させられ、程(ほど)なくして亡くなった。


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甘述(かんじゅつ)

生没年不詳。益州(えきしゅう)・巴郡(はぐん)・臨江県(りんこうけん)の人。父は甘寧(かんねい)。子に甘昌(かんしょう)。兄弟に甘瓌(かんかい)。

呉(ご)に仕えて尚書(しょうしょ)となった。


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第3世代(甘昌)

甘昌(かんしょう)

生没年不詳。益州(えきしゅう)・巴郡(はぐん)・臨江県(りんこうけん)の人。父は甘述(かんじゅつ)。子に甘卓(かんたく)。祖父(そふ)は甘寧(かんねい)。

呉(ご)に仕えて太子太傅(たいしたいふ)となった。


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第4世代(甘卓)

甘卓(かんたく)・季思(きし)

生年不詳〜東晋(とうしん)の永昌(えいしょう)元年(322年)没。揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹楊郡(たんようぐん))の人。父は甘昌(かんしょう)。子に甘蕃(かんはん)。曾祖父(そうそふ)は甘寧(かんねい)。

出自

秦(しん)の丞相(じょうしょう)・甘茂(かんぼう)の後裔(こうえい)に当たる。

呉(ご)が晋(しん)によって平定されると、甘卓(かんたく)は自宅に引き籠(こ)もっていたが、丹楊郡(たんようぐん)(丹楊郡(たんようぐん))の主簿(しゅぼ)や功曹(こうそう)に任命された。

郡から孝廉(こうれん)に察挙(さっきょ)(推挙)され、また州(揚州(ようしゅう))から秀才(しゅうさい)に挙(あ)げられて呉王常侍(ごおうじょうじ)となり、西晋(せいしん)の太安(たいあん)2年(303年)には、反乱を起こした石冰(せきひょう)を討伐した功績により都亭侯(とていこう)の爵位を賜(たまわ)った。

また、その後東海王(とうかいおう)・司馬越(しばえつ)に召(め)し出されてその参軍(さんぐん)となり、地方に出て(兗州(えんしゅう)・済陰郡(せいいんぐん)の)離狐県令(りこけんれい)となった。

陳敏の乱

天下が大いに乱れると、甘卓(かんたく)は官を棄(す)てて東[丹楊郡(たんようぐん)(丹楊郡(たんようぐん))]に帰ろうとしたところ、揚州(ようしゅう)・九江郡(きゅうこうぐん)・歴陽県(れきようけん)まで来たところで、江東(こうとう)に割拠(かっきょ)する志(こころざし)を抱(いだ)く陳敏(ちんびん)と出(で)遭(あ)った。陳敏(ちんびん)は大いに喜び、共に計(はかりごと)を巡(めぐ)らせて子の陳景(ちんけい)に甘卓(かんたく)の女(むすめ)を娶(めと)らせ、互いに結託した。

陳敏(ちんびん)によって安豊太守(あんほうたいしゅ)に任命された周玘(しゅうき)は義を唱(とな)え、秘かに銭広(せんこう)を派遣して陳敏(ちんびん)の弟の陳昶(ちんちょう)を攻撃すると、陳敏(ちんびん)は銭広(せんこう)を討つべく甘卓(かんたく)を派遣して朱雀橋(すざくきょう)の南に駐屯させた。

銭広(せんこう)が陳昶(ちんちょう)を討ち取ると、周玘(しゅうき)は丹楊太守(たんようたいしゅ)・顧栄(こえい)を派遣して甘卓(かんたく)を招(まね)き説得させた。甘卓(かんたく)は以前から顧栄(こえい)に敬服しており、また陳昶(ちんちょう)が敗死したこともあって、周玘(しゅうき)らに従うことにした。

そこで甘卓(かんたく)は、病(やまい)と偽(いつわ)って女(むすめ)を迎(むか)えると、橋を落として南岸に船を集め、陳敏(ちんびん)を滅ぼしその首を京都(けいと)(洛陽(らくよう))に送った。


琅邪王(ろうやおう)・司馬睿(しばえい)(元帝(げんてい))が長江(ちょうこう)を渡って江南(こうなん)にやって来ると、甘卓(かんたく)は前鋒都督(ぜんほうととく)・揚威将軍(よういしょうぐん)・歴陽内史(れきようないし)に任命された。

その後、周馥(しゅうふく)討伐・杜弢(ととう)征討と転戦して多くの捕虜を得ると、前後の功績により南郷侯(なんきょうこう)に爵位を進め、豫章太守(よしょうたいしゅ)に任命された。また程(ほど)なくして湘州刺史(しょうしゅうしし)に遷(うつ)り、さらに于湖侯(うここう)に爵位を進めた。

人材登用制度に意見する

東晋(とうしん)による中興(ちゅうこう)の初め、辺境の侵略は続き、学校は衰退(すいたい)して孝廉(こうれん)は行われず、なお秀才(しゅうさい)だけが旧来の方法で行われていた。そこで甘卓(かんたく)は、

「職務に堪(た)え得(う)る者には、古今に広く通じ、政(まつりごと)や諸典籍(てんせき)に明るい者を挙(あ)げるべきです。臣(わたくし)の勤(つと)めている州は、過去に侵略を受けて学校は長い間放置され、流浪する人士の数は他州と比較になりません。策試*4については学問の成績によって判定し、孝廉(こうれん)と同じように期限を設(もう)けるべきです」

と上疏(じょうそ)したが、朝議で却下された。

脚注

*4策(問題)を与えて経義や政治に関する意見を試問すること。

甘卓の統治

その後甘卓(かんたく)は、安南将軍(あんなんしょうぐん)・梁州刺史(りょうしゅうしし)・仮節(かせつ)・督(とく)沔北諸軍(べんほくしょぐん)に遷(うつ)り、襄陽(じょうよう)に駐屯した。

甘卓(かんたく)は外見は柔和(にゅうわ)だが内面は強くしっかりしており、その統治は簡素で領民を慰(なぐさ)め労(いたわ)った。甘卓(かんたく)は市場の税を免除して二重価格をなくし、州境にある魚池の税収を貧しい人々に与えたため、西方(西土)では恵政(恩情のある政治)だと称(たた)えられた。

王敦の乱
王敦(おうとん)の挙兵

永昌(えいしょう)元年(322年)、王敦(おうとん)は挙兵するに及び、使者を派遣して甘卓(かんたく)に告げた。甘卓(かんたく)はこれにとりあえず偽(いつわ)って同意したが、王敦(おうとん)が出陣(升舟)する時になっても赴(おもむ)かず、参軍(さんぐん)の孫双(そんそう)を武昌(ぶしょう)に派遣して彼を諫(いさ)め、王敦(おうとん)の挙兵を思い留(とど)まらせようとした。

孫双(そんそう)の言葉を聞いた王敦(おうとん)は大いに驚いて、

「甘侯(かんこう)(甘卓(かんたく))は以前、私に何と言った!?今さらなぜ反対するのだっ!私が朝廷を危(あや)うくするとでも思っているのか?私はただ姦凶(かんきょう)(劉隗(りゅうかい))を除(のぞ)きたいだけなのだ。卿(あなた)は還(かえ)って『事が済めば公(こう)とする』と甘侯(かんこう)(甘卓(かんたく))に伝えてくれ」

と言った。孫双(そんそう)は還(かえ)って王敦(おうとん)の言葉を報告したが、甘卓(かんたく)は決めかねており、

「『陳敏(ちんびん)の乱』の時、私は真っ先に陳敏(ちんびん)の計画に従ったが、論者はその謀(はかりごと)に恐れを抱(いだ)いたと言う。私はそうは思っていなかったが、自分のしたことが恥ずかしくなった。もしまた同じことをしたら、誰が私を理解してくれるだろうかっ!」

と言った。

この時、湘州刺史(しょうしゅうしし)・譙王(しょうおう)・司馬承(しばしょう)が主簿(しゅぼ)の鄧騫(とうけん)を派遣して、甘卓(かんたく)に言った。

「(王敦(おうとん)が標的とした)劉大連(りゅうだいれん)(劉隗(りゅうかい))は、権力と寵愛(ちょうあい)を利用したとは言え天下に害はなく、大将軍(だいしょうぐん)(王敦(おうとん))は私怨(しえん)によって挙兵して天下の人望を失った。今こそ忠臣・義士が匡(ただ)し救う時である。昔、魯連(ろれん)(魯仲連(ろちゅうれん))のような匹夫(ひっぷ)でも『蹈海(とうかい)の志(こころざし)*5』があった。まして方伯(ほうはく)という国の重責を担(にな)う者(あなた)がっ!今こそ『桓文(かんぶん)*6の挙(きょ)』を唱(とな)えて謀反(むほん)を一掃し、義兵を擁(よう)して王室に忠勤を励(はげ)む、千載(せんざい)一遇(いちぐう)の好機です」

すると甘卓(かんたく)は笑って言った。

「私には桓文(かんぶん)*6がしたようなことはできないが、国難に当たって尽力したいと思っている。みなで考えようではないか」

これを受け、静観を主張する参軍(さんぐん)・李梁(りりょう)と王敦(おうとん)討伐を主張する鄧騫(とうけん)が議論を戦わせたが、甘卓(かんたく)はまだ迷っていた。一説に、甘卓(かんたく)は「王敦(おうとん)が都(建康(けんこう))に至るのを待ってこれを討つ」つもりであったと言われている。

脚注

*5海に飛び込んで自殺する覚悟。

*6斉(せい)の桓公(かんこう)と晋(しん)の文公(ぶんこう)。

王敦(おうとん)討伐

甘卓(かんたく)がやって来ないことから、変事を憂慮(ゆうりょ)した王敦(おうとん)は、参軍(さんぐん)・楽道融(がくどうゆう)を派遣して催促した。ところが、元々王敦(おうとん)を裏切るつもりであった楽道融(がくどうゆう)は、甘卓(かんたく)に「王敦(おうとん)を討つように」と説(と)いた。

この時すでに王敦(おうとん)に従う気がなくなっていた甘卓(かんたく)は、楽道融(がくどうゆう)の説得を受けてついに決断し、巴東監軍(はとうかんぐん)・柳純(りゅうじゅん)、南平太守(なんぺいたいしゅ)・夏侯承(かこうしょう)、宜都太守(ぎとたいしゅ)・譚該(たんがい)ら10余人と共に「王敦(おうとん)の悪事(肆逆(しぎゃく))を列挙した檄(げき)」を発し、王敦(おうとん)討伐の軍を起こした。

参軍(さんぐん)の司馬讚(しばさん)と孫双(そんそう)に上表文を奉じて朝廷(台)に赴(おもむ)かせ、参軍(さんぐん)の羅英(らえい)を広州(こうしゅう)に派遣して陶侃(とうかん)と合流させ、参軍(さんぐん)の鄧騫(とうけん)と虞沖(ぐちゅう)を長沙(ちょうさ)に向かわせて譙王(しょうおう)・司馬承(しばしょう)を堅守するように命じた。

これより先、江西(こうせい)にいた征西将軍(せいせいしょうぐん)・戴若思(たいじゃくし)(戴淵(たいえん))は甘卓(かんたく)の檄(げき)(書)を得るとこれを上表し、宮廷(台)内の者はみな万歳をした。

甘卓(かんたく)の軍勢がやって来ると伝わると、武昌(ぶしょう)の人々はみな散(ち)り散(ぢ)りになって逃亡した。

甘卓(かんたく)に詔書(しょうしょ)が下されて鎮南大将軍(ちんなんだいしょうぐん)・侍中(じちゅう)・都督(ととく)荊梁二州(けいりょうにしゅう)諸軍事(しょぐんじ)・荊州牧(けいしゅうぼく)となり、梁州刺史(りょうしゅうしし)はこれまで通りとされた。

陶侃(とうかん)は甘卓(かんたく)を信頼し、すぐに参軍(さんぐん)の高宝(こうほう)に兵を率(ひき)いさせて甘卓(かんたく)の下(もと)に派遣した。

甘卓(かんたく)の敗北

王敦(おうとん)は大いに懼(おそ)れ、甘卓(かんたく)の兄の子で行参軍(こうさんぐん)の甘卬(かんごう)を派遣して和議を申し入れた。甘卓(かんたく)は正義の心を懐(いだ)いてはいたが、決断力がない上に老齢で疑い深く、豬口(ちょこう)に軍を進めても、前進することを躊躇(ためら)っていた。

その間に王師(おうし)(建康(けんこう))は陥落(敗績)し、王敦(おうとん)は朝廷(台)に騶虞幡(すうぐばん)(戦闘を停止させる時に使う旗)をもって甘卓(かんたく)の軍を駐留させた。


甘卓(かんたく)は周顗(しゅうぎ)と戴若思(たいじゃくし)(戴淵(たいえん))が殺害されたと聞くと、涙を流して甘卬(かんごう)に、

「私が憂(うれ)えていたのは、正に今日の状況だ。朝廷から書を得る度(たび)に胡(こ)の侵攻への対処を優先していたので、うっかり蕭牆(しょうしょう)の禍(わざわい)*7に気づかなかった。もし聖上(せいじょう)(元帝(げんてい))と太子(たいし)が無事で、私が王敦(おうとん)の上位に臨(のぞ)むことができるのならば、王敦(おうとん)も敢(あ)えてすぐに社稷(しゃしょく)を危(あや)うくすることはないだろう。逆にもし私が武昌(ぶしょう)に侵攻したならば、形勢が差し迫(せま)った王敦(おうとん)は必ずや天子(てんし)(元帝(げんてい))を脅(おびや)かし、天下(四海)の希望は絶(た)たれてしまうだろう。襄陽(じょうよう)に還(かえ)り、後のことを図(はか)った方が良い」

と言い、すぐに撤兵(旋軍)を命じた。これに都尉(とい)の秦康(しんこう)は、

「今、兵を分けて彭沢(ほうたく)を断てば、王敦(おうとん)は長江(ちょうこう)の上流と下流を互いに行き来できなくなり、敵は自(おの)ずと離散し、一戦するだけで彼を擒(とりこ)にすることができます。忠節(王敦(おうとん)討伐)を途中で止めてしまえば、将軍(しょうぐん)(甘卓(かんたく))は敗軍の将となります。将軍(しょうぐん)(甘卓(かんたく))の配下の者たちはみな西に還(かえ)ろうとし、守りを固めることができなくなってしまいます」

と諫(いさ)めたが、甘卓(かんたく)は従わなかった。

また、楽道融(がくどうゆう)も日夜にわたって早く侵攻するようにと勧めたが、元来寛大(かんだい)で和(なご)やかであった甘卓(かんたく)は急に頑固になり、襄陽(じょうよう)に還(かえ)ってからも情緒が不安定(意気騒擾、挙動失常)で、鏡を見ては「頭がない」と言い、庭の樹を見ては「樹の上に頭がある」と言う有り様だった。

甘卓(かんたく)の家の金櫃(きんき)(金庫)を叩くと、鏡を槌(つち)で叩いたような澄(す)んだ悲しげな音を立てるほど空(から)になり、巫(みこ)は「金櫃(きんき)(金庫)の悲鳴だ」と言った。

また、主簿(しゅぼ)の何無忌(かむき)と家人たちはみな警備を固めるように勧めたが、甘卓(かんたく)はさらにひねくれて、諫言(かんげん)を聞くたびごとに怒りを露(あら)わにした。広大な大佃(だいでん)(荘園)を守る兵たちも離れ去り、功曹(こうそう)の栄建(えいけん)(栄建固(えいけんこ)?)が固く諫(いさ)めても聞き入れることはなかった。


秘かに王敦(おうとん)の意を受けた襄陽太守(じょうようたいしゅ)・周慮(しゅうりょ)らは、甘卓(かんたく)が無防備であることを知ると、偽(いつわ)って「湖(みずうみ)にたくさんの魚がいる」と言い、甘卓(かんたく)に「側(そば)仕(づか)えの者たち全員に魚を捕(と)りに行かせる」ように勧め、甘卓(かんたく)が寝ているところを襲って殺害してその首を王敦(おうとん)に送った。

太寧(たいねい)年間(323年〜326年)に驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)を追贈され、敬(けい)と諡(おくりな)された。

脚注

*7一家一門の内部の身近なところから起こる禍(わざわい)。


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第5世代(甘卬・甘蕃)

甘卬(かんごう)

生没年不詳。揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹楊郡(たんようぐん))の人。父は甘卓(かんたく)の兄。

東晋(とうしん)の永昌(えいしょう)元年(322年)に挙兵した大将軍(だいしょうぐん)・王敦(おうとん)の行参軍(こうさんぐん)。

叔父(おじ)の甘卓(かんたく)が王敦(おうとん)討伐の兵を起こすと、王敦(おうとん)の使者として甘卓(かんたく)に和議を申し入れた。


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甘蕃(かんはん)

生年不詳〜東晋(とうしん)の永昌(えいしょう)元年(322年)没。揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹楊郡(たんようぐん))の人。父は甘卓(かんたく)。甘卓(かんたく)の第4子)。

散騎郎(さんきろう)。

父の甘卓(かんたく)が王敦(おうとん)の意を受けた襄陽太守(じょうようたいしゅ)・周慮(しゅうりょ)らに殺害されると、甘蕃(かんはん)らもみな殺害された。


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