正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(61)巴郡はぐん甘氏かんし甘寧かんねい甘瓌かんかい甘述かんじゅつ甘昌かんしょう甘卓かんたく甘卬かんごう甘蕃かんはん)です。

スポンサーリンク

系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

巴郡甘氏系図

巴郡甘氏系図

巴郡はぐん甘氏かんし系図

赤字がこの記事でまとめている人物。
親が同一人物の場合、左側が年長。
甘瓌かんかい甘述かんじゅつの兄弟の順は不明。
晋書しんじょ甘卓伝かんたくでんには「揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹楊郡たんようぐん)の人」とあるが、誰の段階で丹楊郡たんようぐん丹楊郡たんようぐん)に移ったのかは不明。


この記事では巴郡はぐん甘氏かんしの人物、

についてまとめています。

関連記事

スポンサーリンク


か(61)巴郡甘氏

第1世代(甘寧)

甘寧かんねい興覇こうは

生没年不詳。益州えきしゅう巴郡はぐん臨江県りんこうけんの人。子に甘瓌かんかい甘述かんじゅつ

出自

甘寧かんねいは元々荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんの人であったが、その先祖が巴郡はぐんに身を寄せたのである。

初め、甘寧かんねいは役人となって計掾けいえん(会計報告)にげられ、蜀郡太守しょくぐんたいしゅじょう(次官)に任命されたが、やがて官をてて家に帰った。

益州で無頼の渠帥となる

若い時から気概きがいを持って游侠おとこだてを好み、無頼ぶらいの若者たちを集めてその渠帥きょすいとなっていた。甘寧かんねいの一党は弓や小脇こわきはさみ、水牛の旗指物を背に腰には鈴をびていたので、人々は鈴の音を聞くとすぐに、それが甘寧かんねいの一党だと気づくことができた。

甘寧かんねい游侠おとこだてから人を殺したり、亡命者をかくまったりしたことで、その名は郡内に聞こえわたっていた。

彼らはいつも、陸路であれば馬車や騎馬をつらね、水路であれば軽舟をつらね、つき従う者たちは派手な刺繍ししゅうほどこされた着物を身につけていたので、その行列の華麗さは行く先々で人々の視線を集め、またとどまる時には錦織にしきおりつなで舟をつなぎ、出発する時にはそれを斬りてて行くなどしてその豪奢ごうしゃさを誇示こじした。

人と出会った場合、たとえそれが所属する県(属城)の長吏ちょうりであっても、手厚い接待を受けた者とは互いに打ちけ合って楽しんだが、そうでない場合は、すぐに手下の者を放ってその財産を奪わせた。

また、打ちけ合った長吏ちょうり管轄内かんかつないぞくの被害があった場合には、その摘発てきはつけ負った。

無頼ぶらい渠帥きょすいにあること20余年、甘寧かんねいは盗賊行為をやめ、諸子の書をたくさん読むようになった。

荊州の劉表に仕える
劉表りゅうひょう

興平こうへい元年(194年)に益州牧えきしゅうぼく劉焉りゅうえんが亡くなると、益州えきしゅう大官たいかん趙韙ちょういらは、劉焉りゅうえんの第4子・劉璋りゅうしょう益州刺史えきしゅうししとするように上書したが、朝廷は扈瑁こぼう益州刺史えきしゅうししに任命して益州えきしゅうに派遣した。

この時甘寧かんねいは、劉璋りゅうしょう将軍しょうぐん沈弥しんび婁発ろうはつらと共に叛旗はんきひるがえしたが、劉璋りゅうしょうを撃ち破ることはできず、手下や食客しょっかく800人を引き連れて劉表りゅうひょうもとに身を寄せ、荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんに居を移した。

当時は英雄えいゆう豪傑ごうけつたちがそれぞれ兵をげていたが、儒者じゅしゃ劉表りゅうひょうは軍事にうとく、劉表りゅうひょうの行動を観察して「結局は失敗に終わるに違いない」と考えた甘寧かんねいは、巻きえを食うことを恐れて東方のに行こうとした。

黄祖こうそ

ところがその途上の夏口かこうには劉表りゅうひょう配下の黄祖こうそがいたため、軍をひきいたまま通過することができなかった。甘寧かんねいはやむを得ず黄祖こうその元に身を寄せたが、3年がっても黄祖こうそ甘寧かんねいを礼遇することはなかった。

建安けんあん8年(203年)、孫権そんけんの討伐を受けた黄祖こうそは敗走し、激しい追撃を受けた。この時、弓をることにたくみであった甘寧かんねいは兵士たちを指揮して殿しんがりをつとめ、足の速い舟で単身前進して来た孫権そんけん破賊校尉はぞくこうい凌操りょうそうを射殺した。甘寧かんねいの働きのお陰で黄祖こうそはなんとか本営に戻ることができたが、その後も甘寧かんねいに対する待遇は以前と変わらなかった。

黄祖こうそ都督ととく蘇飛そひは、しばしば「甘寧かんねいを重くもちいる」ように進言したが、黄祖こうそはその意見に従わず、逆に甘寧かんねいの食客たちに人をって「直接自分(黄祖こうそ)の下につく」ように勧誘させたので、食客たちは次第に甘寧かんねいもとを去って行った。

呉の孫権に仕える
蘇飛そひの助け

甘寧かんねいはいよいよ黄祖こうそもとから離れようと考えたが、「脱出は不可能だろう」と思い、ひと悶々もんもんとしていた。この甘寧かんねいの気持ちをみ取った蘇飛そひは、甘寧かんねいを酒宴にまねいて、

「私は度々たびたびあなたを推挙しましたが、ご主君(黄祖こうそ)はその意見を採用されませんでした。月日はまたたく間に過ぎ去るもの。人生は長くはありません。大きなこころざしを持ち、あなたを理解してくれる主君とめぐり会うことを願われるのがよろしいでしょう」

と言い、甘寧かんねい孫権そんけんが治める揚州ようしゅうに近い荊州けいしゅう江夏郡こうかぐん邾県しゅけん県長けんちょうに推薦した。

こうして邾県しゅけん県長けんちょうに赴任することになった甘寧かんねいは、1度は自分のもとを離れた食客たちやあらたに志願して来た者など、数百名の部下をそろえて邾県しゅけんへと出発し、その後に身を寄せた。

黄祖こうそ討伐

甘寧かんねいに身を寄せると、周瑜しゅうゆ呂蒙りょもうそろって彼を重くもちいるように推挙した。すると孫権そんけん甘寧かんねいに特別の待遇を与えて、元からの配下と同じように扱った。

建安けんあん13年(208年)春、甘寧かんねい荊州けいしゅうの戦略的重要性と黄祖こうそ軍の乱れた様子をき、「まずは黄祖こうそが守る荊州けいしゅう江夏郡こうかぐんに侵攻して荊州けいしゅうを攻略し、巴蜀はしょく益州えきしゅう)に軍を進める足がかりとする」ことを献策し、孫権そんけんは深くうなずいた。

同席していた張昭ちょうしょうが難色を示し、

「領内の人心はまだ安定しておらず、もし軍が西に向かえば、必ずや反乱が起きましょう」

と言うと、甘寧かんねい張昭ちょうしょうに向かって言った。

国家こっか孫権そんけん)に『蕭何しょうかの任』をたくされ、留守を守るあなたが反乱を恐れるとは、古人を敬慕けいぼする方の言葉とは思えませんな?」

すると孫権そんけんみずか甘寧かんねいさかずきに酒をぐと、

興覇こうは甘寧かんねいあざな)どの、本年の軍事行動はこの酒のようにすっぱりと、すべてあなたに引き受けて貰おう。あなたは ただひたすら軍略に心をめぐらされ、黄祖こうそ攻略を確実なものにされよ。それを可能にすることこそがあなたのつとめである。張長史ちょうちょうし張昭ちょうしょう)の言葉など気になされるな」

と言い、甘寧かんねいの進言に従って西に軍を進め、黄祖こうそとりこにしてその配下の軍勢を手に入れた。

蘇飛そひを助ける

孫権そんけんは前もって2つのはこを作り、黄祖こうそ蘇飛そひの首をおさめるつもりでいた。そのことを知った甘寧かんねいが床に頭を打ちつけ、血と涙を流しながら恩義のある蘇飛そひいのちいをすると、

孫権そんけんは「今、あなたにめんじて彼の罪を問わなかったとしても、もし彼が逃亡したらどうするのか」と問うた。

これに甘寧かんねいが「万一、蘇飛そひが逃亡いたしました場合には、代わりに私の首をはこに入れていただきましょう」と答えたので、孫権そんけん蘇飛そひゆるすことにし、甘寧かんねいに兵をさずけて当口とうこう当利口とうりこう?)に軍をとどめさせた。

赤壁の戦い

建安けんあん13年(208年)10月、甘寧かんねい周瑜しゅうゆにつき従って、烏林うりん曹操そうそうふせぎ撃ち破った。

江陵の戦い

引き続き周瑜しゅうゆ荊州けいしゅう南郡なんぐん江陵県こうりょうけん曹仁そうじんを攻めたが、攻め落とすことができなかった。

そこで甘寧かんねいは「先に軍を進めて夷陵県いりょうけんを取るべきです」と献策し、即刻そっこく配下の数百の兵で夷陵県いりょうけんを奪取して守りを固めた。これに曹仁そうじんは、5〜6千人を派遣して甘寧かんねいが守る夷陵県いりょうけんを包囲させ、高いやぐらを建てて城内に雨のように矢を射かけさせた。

この時、夷陵県いりょうけんを守る兵は降伏した者たちを合わせてもわずか千人しかおらず、兵士たちはみなおそれていたが、甘寧かんねいだけは楽しげに談笑をし、少しもあわてずに、周瑜しゅうゆに使者を派遣して事態を報告した。

周瑜しゅうゆの部将たちは「兵力が少なくき与えるわけにはいかない」と言ったが、周瑜しゅうゆ呂蒙りょもうはかりごとに従い、部将たちをひきいて夷陵県いりょうけんの包囲をかせた。

益州侵攻の進言

この当時、しょく益州えきしゅう)では益州牧えきしゅうぼく劉璋りゅうしょうの統治がゆるんでていしていない上に、漢中かんちゅう張魯ちょうろの侵攻を受けていた。

そうした情勢を見た周瑜しゅうゆ甘寧かんねいは、京城けいじょう京口けいこう*1にやって来て孫権そんけんに目通りし、

「敗戦後の曹操そうそうがまだ動けないうちにしょく益州えきしゅう)を奪取し、張魯ちょうろ併呑へいどんして馬超ばちょうと同盟関係を結び、北方(曹操そうそう)を制覇する」

ことを進言した。

孫権そんけんはこのはかりごとに同意したが、その後すぐに周瑜しゅうゆは病死。孫権そんけん益州えきしゅう侵攻のため、奮威将軍ふんいしょうぐん孫瑜そんゆに水軍をひきいさせ夏口かこうに駐屯させたが、劉備りゅうび妨害ぼうがいって断念した。

脚注

*1揚州ようしゅう呉郡ごぐん丹徒県たんとけん孫権そんけん呉県ごけんから移り住んだ際に「京城けいじょう」と名を改めた。京口けいこうとも言う。

濡須口の戦い

建安けんあん18年(213年)正月、曹操そうそう濡須口じゅしゅこうに兵を進めてくると、歩兵・騎兵40万でもって長江ちょうこうまで出て、「馬に水を飲ませるのだ」と言い立てた。

これに孫権そんけんは軍勢7万を指揮して対抗し、甘寧かんねいに3千人を預けて前部督ぜんぶとくとし、「夜陰にまぎれて秘かに軍に攻め込むように」と命じた。

甘寧かんねいは配下の勇猛な兵士百人余りを選んで真っ曹操そうそうの軍営の間近まで突入し、逆茂木さかもぎを引き抜き、堡塁ほうるいを乗り越えて陣屋の中に入ると、数十の首級くびを斬った。曹操そうそう軍は驚きあわてて太鼓たいこを打ってさわぎ立て、赤々と火がともされたが、その時にはすでに甘寧かんねいは自軍の陣営に戻っており、笛や太鼓たいこらして万歳をさけんだ。

甘寧かんねいはそのまま夜中に孫権そんけんに目通りをすると、孫権そんけんは喜んで、

老子おいぼれ曹操そうそう)めを驚かせてやることができたか。ひとあなたきもっ玉を見せてもらった」

と言い、その場できぬ千匹とかたな百口を下賜かしした。

そして1ヶ月余りって曹操そうそう軍が引きげると、孫権そんけんは、

孟徳もうとく曹操そうそう)には張遼ちょうりょうがおり、私には興覇こうは甘寧かんねい)がいて、ちょうどり合っておるのだ」

と言い、甘寧かんねいはさらに配下の兵2千人を加えられ、ますます重んぜられるようになった。

晥城攻略

建安けんあん19年(214年)うるう5月、孫権そんけんみずから「曹操そうそう廬江太守ろこうたいしゅに任命した朱光しゅこうが守る揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐん晥県かんけん」に向けて出陣し、部将たちに晥県かんけんを攻め落とすための計略をたずねた。

この時呂蒙りょもうはかりごとによって升城督しょうじょうとく(突撃隊長)に任命された甘寧かんねいは、軍吏や兵卒たちの先頭を切ってねりぎぬを手にみずから城壁をよじ登り、ついに敵を破って朱光しゅこうを捕らえた。この戦いにおいて甘寧かんねいは、呂蒙りょもうに次ぐ功績として折衝将軍せっしょうしょうぐんに任命された。

関羽を防ぐ

建安けんあん19年(214年)、関羽かんうが「3万の軍勢を有する」と号してみずから精鋭兵5千人を選び、荊州けいしゅう長沙郡ちょうさぐん益陽県えきようけんの上流10余里の浅瀬に配置した。

関羽かんうの軍が夜のうちに浅瀬を渡ってくる」という情報が伝わると、魯粛ろしゅくは部将たちを集めて対応策を協議したが、この時3百の兵を有していた甘寧かんねいは、

「もしあと5百人の兵を加えていただければ、私が行ってこれに対処いたしましょう。私のせきばらい(欬唾)を聞けば、関羽かんうえて川を渡っては来ないでしょう。もし渡ってきたならば、私のとりことなるだけです」

と言い、魯粛ろしゅくはすぐさま千人の兵を選んで甘寧かんねいにつけてやった。

甘寧かんねいが夜をてっして軍を進めると、そのことを知った関羽かんうは、川を渡らずにそこに軍をとどめて柴営さいえいとりで)を結んだ。現在この場所は、これにちなんで「関羽瀬かんうらい」と呼ばれている。*2

孫権そんけん甘寧かんねいの手柄を高く評価して西陵太守せいりょうたいしゅに任命し、陽新県ようしんけん下雉県かいけんの2県を領させた。

脚注

*2呉書ごしょ呉主伝ごしゅでんには「孫権そんけん呂蒙りょもうらを派遣して魯粛ろしゅくと共に益陽えきよう関羽かんうと対峙させた。まだ戦端が開かれる前に曹操そうそう漢中かんちゅうに侵入し、劉備りゅうび益州えきしゅうを失うことを恐れて和解を申し入れ、元の同盟友好関係を回復した」とある。

合肥の戦い

甘寧かんねい麤猛そもう(粗暴)ですぐ人を殺すこともあるが、けっぴろげな性格で将来への見通しが立ち、財をしまず有能な人物を礼遇し、勇敢な兵士をやしない育てたので、配下の兵たちは彼のために喜んで働いた。

建安けんあん20年(215年)、甘寧かんねい孫権そんけん揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん合肥国がっぴこく攻撃に参加したが、伝染病が流行したために、軍はみな引きげた。この時孫権そんけんの元には、虎士こし・千余人に呂蒙りょもう蔣欽しょうきん蒋欽しょうきん)・凌統りょうとう、そして甘寧かんねいがつき従って、逍遙津しょうようしんの北にあった。

孫権そんけんの守りが手薄となったのを見て取った張遼ちょうりょうが、すぐさま歩兵・騎兵をひきいてこれを急襲すると、甘寧かんねい鼓吹隊こすいたいに「なぜ音を出さぬのかっ!」と叱咤しったし、弓を手に凌統りょうとうらと共にいのちけで戦った。

その間に孫権そんけん駿馬しゅんめを駆けさせて逍遙津しょうようしんの橋を渡って逃げることができ、甘寧かんねいのこの働きをことほか喜んだ。


甘寧かんねいが亡くなると、振威将軍しんいしょうぐん溧陽侯りつようこう潘璋はんしょうが彼の配下の軍を引き継ぎ、孫権そんけんはその死を痛惜つうせきした。

逸話
凌統りょうとううら

凌統りょうとうは「父親の凌操りょうそう甘寧かんねいに殺されたこと」をうらんでいたので、甘寧かんねいは常に凌統りょうとうを警戒して彼と会おうとせず、孫権そんけんもまた凌統りょうとうに「遺恨いこんを晴らそうとしてはならぬ」と命じていた。

ある時、呂蒙りょもうの家に人々が集まって酒もたけなわとなった頃、凌統りょうとうが刀を手に舞い始めると、甘寧かんねいも「私も『双戟そうげきの舞い』を舞うことができます」と言って立ち上がった。これを見た呂蒙りょもうは「甘寧かんねいよ、私の腕前にはかなうまい」と言い、刀とたてあやつって2人の間にって入った。

のち凌統りょうとううらみの深さを知った孫権そんけんは、甘寧かんねいに「兵をひきいてすみやかに半州はんしゅうに駐屯するように」と命じ、甘寧かんねい凌統りょうとうを引き離した。

料理番を殺す

ある時、甘寧かんねいの料理番(厨下児)が失敗をしでかして呂蒙りょもうの元に逃げ込んだことがあったが、呂蒙りょもうは「甘寧かんねいはこの料理番を殺してしまうに違いない」と思い、すぐには送り返さなかった。

その後、甘寧かんねい呂蒙りょもうの母親のために贈り物を用意して呂蒙りょもうの屋敷をたずねた。そこで呂蒙りょもうが料理番を甘寧かんねいの元に返すと、甘寧かんねいも「料理番を殺さない」と呂蒙りょもうに約束した。

ところが、ほどなくして船に戻った甘寧かんねいは、料理番を桑の木にしばりつけ、みずから弓を引いて射殺すと、船人に言いつけて船をしっかりとつなぎ止めさせ、自分は上衣を脱いで船の中で横になった。

甘寧かんねいが約束にそむいて料理番を殺害したことを知った呂蒙りょもうは大いに怒り、太鼓たいこを叩いて兵士を集めると、甘寧かんねいの船を攻めようとしたが、甘寧かんねいはそのことを聞いても臥したままで起き上がろうともしなかった。

するとこの騒ぎを聞いた呂蒙りょもうの母親が裸足はだしで飛び出して来て、呂蒙りょもういさめて言った。

至尊しそん孫権そんけん)はお前を肉親のように待遇され、大事をたくしておられます。どうして私事わたくしごとの腹立ちを理由に甘寧かんねいを攻め殺したりして良いものでしょうか。もし甘寧かんねいが死んだならば、たとえ至尊しそん孫権そんけん)がおとがめにならなかったとしても、お前は臣下にあるまじきことをしたことになるのです」

元々孝行心があつかった呂蒙りょもうは、母親の言葉を聞くと、はっと思い直し、みずか甘寧かんねいの船にやって来ると、笑いながら、

興覇こうは甘寧かんねいあざな)どの、母があなたを食事にまねいております。早く岸に上がられよっ!」

と言った。

すると甘寧かんねいは涙を流し、嗚咽おえつしながら「あなたには負けました」と言い、呂蒙りょもうと一緒に戻って母親に目通りをすると、その日1日うたげを楽しんだ。

呂蒙りょもうの進言

甘寧かんねいは粗暴で殺生せっしょうを好み、つねづね呂蒙りょもうの機嫌をそこねていた上に、時には孫権そんけんの命令にも従わないことがあった。

孫権そんけんがそんな甘寧かんねいに腹を立てると、呂蒙りょもうはいつもゆるしをうて、

「天下はまだ安定しておらず、甘寧かんねいのような闘将とうしょう(猛将)はがたいものです。どうか堪忍かんにんしてください」

と上陳した。孫権そんけんはこうした言葉を受けれて甘寧かんねいを厚遇したため、甘寧かんねいに十分な働きをさせることができたのである。

孫皎そんこうとのいさか

ある時甘寧かんねいは、酒宴の席で孫皎そんこう*3に侮辱されおお喧嘩げんかとなった。

この時、甘寧かんねいいさめる者もいたが、甘寧かんねいは、

「臣下も公子も同列であるべきだ。征虜将軍せいりょしょうぐん孫皎そんこう*3)は公子だからと言って、なぜ彼ばかりが他人を侮辱して良いものだろうかっ!明主めいしゅ孫権そんけん)を得たからにはひたすら力を尽くし、生命を投げ出してご主君のご恩に報いる所存だが、風俗習慣に従って身を屈することなど、絶対にできない」

と言い、「孫皎そんこう*3の指揮下を離れて呂蒙りょもうの指揮下に入りたい」と願い出た。

そのことを聞いた孫権そんけん孫皎そんこう*3に手紙を送って教えさとすと、孫皎そんこう*3上疏じょうそして陳謝し、以後、甘寧かんねいと厚いまじわりを結んだ。

脚注

*3孫権そんけん叔父おじ孫静そんせいの第3子。


甘寧かんねい」の関連記事

第2世代(甘瓌・甘述)

甘瓌かんかい

生没年不詳。益州えきしゅう巴郡はぐん臨江県りんこうけんの人。父は甘寧かんねい。兄弟に甘述かんじゅつ

罪を犯して揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐんに強制移住させられ、ほどなくして亡くなった。


甘瓌かんかい」の関連記事

甘述かんじゅつ

生没年不詳。益州えきしゅう巴郡はぐん臨江県りんこうけんの人。父は甘寧かんねい。子に甘昌かんしょう。兄弟に甘瓌かんかい

に仕えて尚書しょうしょとなった。


甘述かんじゅつ」の関連記事

第3世代(甘昌)

甘昌かんしょう

生没年不詳。益州えきしゅう巴郡はぐん臨江県りんこうけんの人。父は甘述かんじゅつ。子に甘卓かんたく祖父そふ甘寧かんねい

に仕えて太子太傅たいしたいふとなった。


甘昌かんしょう」の関連記事

第4世代(甘卓)

甘卓かんたく季思きし

生年不詳〜東晋とうしん永昌えいしょう元年(322年)没。揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹楊郡たんようぐん)の人。父は甘昌かんしょう。子に甘蕃かんはん曾祖父そうそふ甘寧かんねい

出自

しん丞相じょうしょう甘茂かんぼう後裔こうえいに当たる。

しんによって平定されると、甘卓かんたくは自宅に引きもっていたが、丹楊郡たんようぐん丹楊郡たんようぐん)の主簿しゅぼ功曹こうそうに任命された。

郡から孝廉こうれん察挙さっきょ(推挙)され、また州(揚州ようしゅう)から秀才しゅうさいげられて呉王常侍ごおうじょうじとなり、西晋せいしん太安たいあん2年(303年)には、反乱を起こした石冰せきひょうを討伐した功績により都亭侯とていこうの爵位をたまわった。

また、その後東海王とうかいおう司馬越しばえつし出されてその参軍さんぐんとなり、地方に出て(兗州えんしゅう済陰郡せいいんぐんの)離狐県令りこけんれいとなった。

陳敏の乱

天下が大いに乱れると、甘卓かんたくは官をてて東[丹楊郡たんようぐん丹楊郡たんようぐん)]に帰ろうとしたところ、揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん歴陽県れきようけんまで来たところで、江東こうとう割拠かっきょするこころざしいだ陳敏ちんびんった。陳敏ちんびんは大いに喜び、共にはかりごとめぐらせて子の陳景ちんけい甘卓かんたくむすめめとらせ、互いに結託した。

陳敏ちんびんによって安豊太守あんほうたいしゅに任命された周玘しゅうきは義をとなえ、秘かに銭広せんこうを派遣して陳敏ちんびんの弟の陳昶ちんちょうを攻撃すると、陳敏ちんびん銭広せんこうを討つべく甘卓かんたくを派遣して朱雀橋すざくきょうの南に駐屯させた。

銭広せんこう陳昶ちんちょうを討ち取ると、周玘しゅうき丹楊太守たんようたいしゅ顧栄こえいを派遣して甘卓かんたくまねき説得させた。甘卓かんたくは以前から顧栄こえいに敬服しており、また陳昶ちんちょうが敗死したこともあって、周玘しゅうきらに従うことにした。

そこで甘卓かんたくは、やまいいつわってむすめむかえると、橋を落として南岸に船を集め、陳敏ちんびんを滅ぼしその首を京都けいと洛陽らくよう)に送った。


琅邪王ろうやおう司馬睿しばえい元帝げんてい)が長江ちょうこうを渡って江南こうなんにやって来ると、甘卓かんたく前鋒都督ぜんほうととく揚威将軍よういしょうぐん歴陽内史れきようないしに任命された。

その後、周馥しゅうふく討伐・杜弢ととう征討と転戦して多くの捕虜を得ると、前後の功績により南郷侯なんきょうこうに爵位を進め、豫章太守よしょうたいしゅに任命された。またほどなくして湘州刺史しょうしゅうししうつり、さらに于湖侯うここうに爵位を進めた。

人材登用制度に意見する

東晋とうしんによる中興ちゅうこうの初め、辺境の侵略は続き、学校は衰退すいたいして孝廉こうれんは行われず、なお秀才しゅうさいだけが旧来の方法で行われていた。そこで甘卓かんたくは、

「職務にる者には、古今に広く通じ、まつりごとや諸典籍てんせきに明るい者をげるべきです。わたくしつとめている州は、過去に侵略を受けて学校は長い間放置され、流浪する人士の数は他州と比較になりません。策試*4については学問の成績によって判定し、孝廉こうれんと同じように期限をもうけるべきです」

上疏じょうそしたが、朝議で却下された。

脚注

*4策(問題)を与えて経義や政治に関する意見を試問すること。

甘卓の統治

その後甘卓かんたくは、安南将軍あんなんしょうぐん梁州刺史りょうしゅうしし仮節かせつとく沔北諸軍べんほくしょぐんうつり、襄陽じょうように駐屯した。

甘卓かんたくは外見は柔和にゅうわだが内面は強くしっかりしており、その統治は簡素で領民をなぐさいたわった。甘卓かんたくは市場の税を免除して二重価格をなくし、州境にある魚池の税収を貧しい人々に与えたため、西方(西土)では恵政(恩情のある政治)だとたたえられた。

王敦の乱
王敦おうとんの挙兵

永昌えいしょう元年(322年)、王敦おうとんは挙兵するに及び、使者を派遣して甘卓かんたくに告げた。甘卓かんたくはこれにとりあえずいつわって同意したが、王敦おうとんが出陣(升舟)する時になってもおもむかず、参軍さんぐん孫双そんそう武昌ぶしょうに派遣して彼をいさめ、王敦おうとんの挙兵を思いとどまらせようとした。

孫双そんそうの言葉を聞いた王敦おうとんは大いに驚いて、

甘侯かんこう甘卓かんたく)は以前、私に何と言った!?今さらなぜ反対するのだっ!私が朝廷をあやうくするとでも思っているのか?私はただ姦凶かんきょう劉隗りゅうかい)をのぞきたいだけなのだ。あなたかえって『事が済めばこうとする』と甘侯かんこう甘卓かんたく)に伝えてくれ」

と言った。孫双そんそうかえって王敦おうとんの言葉を報告したが、甘卓かんたくは決めかねており、

「『陳敏ちんびんの乱』の時、私は真っ先に陳敏ちんびんの計画に従ったが、論者はそのはかりごとに恐れをいだいたと言う。私はそうは思っていなかったが、自分のしたことが恥ずかしくなった。もしまた同じことをしたら、誰が私を理解してくれるだろうかっ!」

と言った。

この時、湘州刺史しょうしゅうしし譙王しょうおう司馬承しばしょう主簿しゅぼ鄧騫とうけんを派遣して、甘卓かんたくに言った。

「(王敦おうとんが標的とした)劉大連りゅうだいれん劉隗りゅうかい)は、権力と寵愛ちょうあいを利用したとは言え天下に害はなく、大将軍だいしょうぐん王敦おうとん)は私怨しえんによって挙兵して天下の人望を失った。今こそ忠臣・義士がただし救う時である。昔、魯連ろれん魯仲連ろちゅうれん)のような匹夫ひっぷでも『蹈海とうかいこころざし*5』があった。まして方伯ほうはくという国の重責をになあなたがっ!今こそ『桓文かんぶん*6きょ』をとなえて謀反むほんを一掃し、義兵をようして王室に忠勤をはげむ、千載せんざい一遇いちぐうの好機です」

すると甘卓かんたくは笑って言った。

「私には桓文かんぶん*6がしたようなことはできないが、国難に当たって尽力したいと思っている。みなで考えようではないか」

これを受け、静観を主張する参軍さんぐん李梁りりょう王敦おうとん討伐を主張する鄧騫とうけんが議論を戦わせたが、甘卓かんたくはまだ迷っていた。一説に、甘卓かんたくは「王敦おうとんが都(建康けんこう)に至るのを待ってこれを討つ」つもりであったと言われている。

脚注

*5海に飛び込んで自殺する覚悟。

*6せい桓公かんこうしん文公ぶんこう

王敦おうとん討伐

甘卓かんたくがやって来ないことから、変事を憂慮ゆうりょした王敦おうとんは、参軍さんぐん楽道融がくどうゆうを派遣して催促した。ところが、元々王敦おうとんを裏切るつもりであった楽道融がくどうゆうは、甘卓かんたくに「王敦おうとんを討つように」といた。

この時すでに王敦おうとんに従う気がなくなっていた甘卓かんたくは、楽道融がくどうゆうの説得を受けてついに決断し、巴東監軍はとうかんぐん柳純りゅうじゅん南平太守なんぺいたいしゅ夏侯承かこうしょう宜都太守ぎとたいしゅ譚該たんがいら10余人と共に「王敦おうとんの悪事(肆逆しぎゃく)を列挙したげき」を発し、王敦おうとん討伐の軍を起こした。

参軍さんぐん司馬讚しばさん孫双そんそうに上表文を奉じて朝廷(台)におもむかせ、参軍さんぐん羅英らえい広州こうしゅうに派遣して陶侃とうかんと合流させ、参軍さんぐん鄧騫とうけん虞沖ぐちゅう長沙ちょうさに向かわせて譙王しょうおう司馬承しばしょうを堅守するように命じた。

これより先、江西こうせいにいた征西将軍せいせいしょうぐん戴若思たいじゃくし戴淵たいえん)は甘卓かんたくげき(書)を得るとこれを上表し、宮廷(台)内の者はみな万歳をした。

甘卓かんたくの軍勢がやって来ると伝わると、武昌ぶしょうの人々はみなりになって逃亡した。

甘卓かんたく詔書しょうしょが下されて鎮南大将軍ちんなんだいしょうぐん侍中じちゅう都督ととく荊梁二州けいりょうにしゅう諸軍事しょぐんじ荊州牧けいしゅうぼくとなり、梁州刺史りょうしゅうししはこれまで通りとされた。

陶侃とうかん甘卓かんたくを信頼し、すぐに参軍さんぐん高宝こうほうに兵をひきいさせて甘卓かんたくもとに派遣した。

甘卓かんたくの敗北

王敦おうとんは大いにおそれ、甘卓かんたくの兄の子で行参軍こうさんぐん甘卬かんごうを派遣して和議を申し入れた。甘卓かんたくは正義の心をいだいてはいたが、決断力がない上に老齢で疑い深く、豬口ちょこうに軍を進めても、前進することを躊躇ためらっていた。

その間に王師おうし建康けんこう)は陥落(敗績)し、王敦おうとんは朝廷(台)に騶虞幡すうぐばん(戦闘を停止させる時に使う旗)をもって甘卓かんたくの軍を駐留させた。


甘卓かんたく周顗しゅうぎ戴若思たいじゃくし戴淵たいえん)が殺害されたと聞くと、涙を流して甘卬かんごうに、

「私がうれえていたのは、正に今日の状況だ。朝廷から書を得るたびの侵攻への対処を優先していたので、うっかり蕭牆しょうしょうわざわい*7に気づかなかった。もし聖上せいじょう元帝げんてい)と太子たいしが無事で、私が王敦おうとんの上位にのぞむことができるのならば、王敦おうとんえてすぐに社稷しゃしょくあやうくすることはないだろう。逆にもし私が武昌ぶしょうに侵攻したならば、形勢が差しせまった王敦おうとんは必ずや天子てんし元帝げんてい)をおびやかし、天下(四海)の希望はたれてしまうだろう。襄陽じょうようかえり、後のことをはかった方が良い」

と言い、すぐに撤兵(旋軍)を命じた。これに都尉とい秦康しんこうは、

「今、兵を分けて彭沢ほうたくを断てば、王敦おうとん長江ちょうこうの上流と下流を互いに行き来できなくなり、敵はおのずと離散し、一戦するだけで彼をとりこにすることができます。忠節(王敦おうとん討伐)を途中で止めてしまえば、将軍しょうぐん甘卓かんたく)は敗軍の将となります。将軍しょうぐん甘卓かんたく)の配下の者たちはみな西にかえろうとし、守りを固めることができなくなってしまいます」

いさめたが、甘卓かんたくは従わなかった。

また、楽道融がくどうゆうも日夜にわたって早く侵攻するようにと勧めたが、元来寛大かんだいなごやかであった甘卓かんたくは急に頑固になり、襄陽じょうようかえってからも情緒が不安定(意気騒擾、挙動失常)で、鏡を見ては「頭がない」と言い、庭の樹を見ては「樹の上に頭がある」と言う有り様だった。

甘卓かんたくの家の金櫃きんき(金庫)を叩くと、鏡をつちで叩いたようなんだ悲しげな音を立てるほどからになり、みこは「金櫃きんき(金庫)の悲鳴だ」と言った。

また、主簿しゅぼ何無忌かむきと家人たちはみな警備を固めるように勧めたが、甘卓かんたくはさらにひねくれて、諫言かんげんを聞くたびごとに怒りをあらわにした。広大な大佃だいでん(荘園)を守る兵たちも離れ去り、功曹こうそう栄建えいけん栄建固えいけんこ?)が固くいさめても聞き入れることはなかった。


秘かに王敦おうとんの意を受けた襄陽太守じょうようたいしゅ周慮しゅうりょらは、甘卓かんたくが無防備であることを知ると、いつわって「みずうみにたくさんの魚がいる」と言い、甘卓かんたくに「そばづかえの者たち全員に魚をりに行かせる」ように勧め、甘卓かんたくが寝ているところを襲って殺害してその首を王敦おうとんに送った。

太寧たいねい年間(323年〜326年)に驃騎将軍ひょうきしょうぐんを追贈され、けいおくりなされた。

脚注

*7一家一門の内部の身近なところから起こるわざわい


甘卓かんたく」の関連記事

第5世代(甘卬・甘蕃)

甘卬かんごう

生没年不詳。揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹楊郡たんようぐん)の人。父は甘卓かんたくの兄。

東晋とうしん永昌えいしょう元年(322年)に挙兵した大将軍だいしょうぐん王敦おうとん行参軍こうさんぐん

叔父おじ甘卓かんたく王敦おうとん討伐の兵を起こすと、王敦おうとんの使者として甘卓かんたくに和議を申し入れた。


甘卬かんごう」の関連記事

甘蕃かんはん

生年不詳〜東晋とうしん永昌えいしょう元年(322年)没。揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹楊郡たんようぐん)の人。父は甘卓かんたく甘卓かんたくの第4子

散騎郎さんきろう

父の甘卓かんたく王敦おうとんの意を受けた襄陽太守じょうようたいしゅ周慮しゅうりょらに殺害されると、甘蕃かんはんらもみな殺害された。


甘蕃かんはん」の関連記事


スポンサーリンク


【三国志人物伝】総索引