正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(62)[甘公かんこうかん蒼梧太守そうごたいしゅ)・甘公かんこう戦国せんごく時代の天文占い)・甘皇后かんこうごう甘夫人かんふじん皇思夫人こうしふじん昭烈皇后しょうれつこうごう)・甘始かんし甘醴かんれい]です。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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か(62)

甘(かん)

甘公かんこうかん蒼梧太守そうごたいしゅ

生没年不詳。揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)の人。かん蒼梧太守そうごたいしゅ陶謙とうけんの妻の父。

陶謙とうけんは幼くして父を亡くし、最初は人の世話にならないことで、県内で評判を立てられたが、14歳になってもまだ絹布をつづり合わせて軍旗を作ったり、竹馬に乗ったりして、村中の子供たち全員を引き連れて遊んでいた。

元の蒼梧太守そうごたいしゅで同じ県出身の甘公かんこうが外出の途中で陶謙とうけんと出会い、その顔形を見て面白いと感じて彼を呼び止めると、馬車を止めて語り合った。そしてこの時、陶謙とうけんを大いに気に入った甘公かんこうは「自分の娘を彼の妻にする」と約束した。

甘公かんこう夫人ふじんはこの話を聞いて大いに腹を立て、

陶家とうけの息子はケジメもなく、気ままに遊びほうけていると聞いておりますのに、どうして娘をやるなどと約束なさったのですかっ!」

と言ったが、甘公かんこうは、

「彼は人並み外れた容貌ようぼうをしている。成長すれば必ず大成するだろう」

と言い、そのまま結婚させた。


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甘公かんこう戦国せんごく時代の天文占い)

生没年不詳。の人、一説にせいの人。

石申せきしんと共に戦国せんごく時代の天文占いの名手とされ、伝来は怪しいが甘公かんこう石申せきしんの著作として星経せいきょうが現在に伝わる。

正史せいし三国志さんごくしでは、管輅かんろ甘公かんこう石申せきしんなぞらえられている。


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甘皇后かんこうごう甘夫人かんふじん皇思夫人こうしふじん昭烈皇后しょうれつこうごう

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく沛県はいけん小沛しょうはい)の人。劉備りゅうびしょう(側室)。劉禅りゅうぜんの母。

劉備りゅうび豫州よしゅう予州よしゅう)を支配し、沛県はいけん小沛しょうはい)に居住した頃、家に入れてしょう(側室)とした。

劉備りゅうび度々たびたび嫡室ちゃくしつ(正室)を亡くしたため、常に彼女が奥向きのことを取り仕切っていた。

劉備りゅうびに従って荊州けいしゅうおもむき、劉禅りゅうぜんを産んだ。

建安けんあん13年(208年)、曹操そうそうみずから南征して劉備りゅうびを追撃し、荊州けいしゅう南郡なんぐん当陽県とうようけん長阪ちょうはんで追いついた。この時劉備りゅうびは追いめられて、甘夫人かんふじん阿斗あと劉禅りゅうぜん)を置き去りにし、趙雲ちょううんに護衛を頼んでやっと難をのがれた。

のちに亡くなり、南郡なんぐん埋葬まいそうされた。

しょく章武しょうぶ2年(222年)に皇思夫人こうしふじん追諡ついしされ、しょくに移葬することになったが、ひつぎがまだ到着しないうちに劉備りゅうびも亡くなってしまった。


また、しょく丞相じょうしょう諸葛亮しょかつりょうが「皇思夫人こうしふじんに『昭烈皇后しょうれつこうごう』の諡号しごうたまわり、劉備りゅうびと合葬すること」を上言して許可された。

諸葛亮の上言・全文
タップ(クリック)すると開きます。

皇思夫人こうしふじんは品行うるわしく仁徳を修められ(履行脩仁)、その身をつつしまれしとやかな方でありました。

大行皇帝たいこうこうてい*1が昔、上将じょうしょうの位におられた時、嬪妃ひんひとして付きわれ、聖躬せいきゅう*2はぐくまれましたが、天命がとどこおり不幸にわれました。

大行皇帝たいこうこうてい*1がご存命の頃、夫婦の義にあつく恩愛をれたまいて、皇思夫人こうしふじん霊柩れいきゅうが遠方の地に飄颻ひょうようとしていることに思いをせられ、特に使者をつかわして奉迎されました。

折しも大行皇帝たいこうこうてい*1崩御ほうぎょされ、今、皇思夫人こうしふじん霊柩れいきゅうが到着するにあたって、梓宮しきゅう皇帝こうていひつぎ)もまた道にあり、園陵えんりょうはまさに完成しようとしていて、安置の時期も決まっております。

わたくしはすぐさま太常たいじょうの臣・頼恭らいきょうらと相談いたしました。

礼記らいきには『(天下に)愛の道を打ち立てるにはまず肉親から始め、それによって民に孝の道を教える。(天下に)敬の道を打ち立てるにはまず年長者をうやまうことから始め、それによって民に従順さを教える』とあり、自分を生んでくれた人を忘れないものです。

春秋しゅんじゅう*3の建前では、母は子の身分に従って尊貴となるものです。

昔、高皇帝こうこうてい劉邦りゅうほう)は太上皇帝たいじょうこうてい皇帝こうていの父)の昭霊夫人しょうれいふじんを追尊して昭霊皇后しょうれいこうごうとし、孝和皇帝こうわこうていはその母の梁貴人りょうきじんを改葬し、恭懐皇后きょうかいこうごうの尊号をたてまつり、孝愍皇帝こうびんこうていもまたその母の王夫人おうふじんを改葬し、霊懐皇后れいかいこうごうの尊号をたてまつりました。

今、皇思夫人こうしふじんに尊号をたてまつって、冥界めいかいの悲しみを慰藉いしゃしてくださいますように。ただちに頼恭らいきょうらと諡号しごうの規則を検討しましたところ、昭烈皇后しょうれつこうごうとするのが相応ふさわしいと思われます。

詩経しきょう王風おうふう大車たいしゃには『きてはすなわち室を異にするも、死してはすなわち穴を同じくせん』とあります。

それゆえ昭烈皇后しょうれつこうごう大行皇帝たいこうこうてい*1と合葬なさるのが適当であります。わたくし太尉たいいに頼んで宗廟そうびょうに報告させ、天下に宣布いたさせます。具備すべき礼儀については、別に奏上いたします。

脚注

*1皇帝こうてい崩御ほうぎょしてから諡号しごうが贈られるまでの間の呼称。ここでは劉備りゅうびのこと。

*2玉体ぎょくたい天子てんしの身体)。ここでは劉禅りゅうぜんのこと。

*3春秋公羊伝しゅんじゅうくようでん隠公元年いんこうがんねん


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甘始かんし甘始亦かんしえき

生没年不詳。冀州きしゅう清河国せいがこく甘陵県かんりょうけん冀州きしゅう甘陵国かんりょうこく)の人。方術士ほうじゅつし

曹操そうそうは「養性の法*4」を好み、それについての処方や薬に詳しく、方術ほうじゅつの士をまねき寄せ、

  • 揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐん左慈さじ
  • 豫州よしゅう予州よしゅう)・譙郡しょうぐん華佗かだ
  • 冀州きしゅう清河国せいがこく甘陵県かんりょうけん甘始かんし甘始亦かんしえき
  • 豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん陽城県ようじょうけん郤倹げきけん郄倹げきけん

らがみなやって来た。野生のくずを1尺(約23.1cm)ほどまで食う訓練をし、鴆毒ちんどくを入れた酒を多少飲むこともできた。


甘始かんし甘始亦かんしえき)は行気導引こうきどういん(呼吸術)にたくみで、歳を取っても若々しい顔色をしており、他の方術士ほうじゅつしたちもみな彼に心服していた。

甘始かんし甘始亦かんしえき)がやって来ると、人々はそろって鴟視狼顧ししろうこの体操を行ったが、司隷しれい弘農郡こうのうぐん出身の軍謀祭酒ぐんぼうさいしゅ董芬とうふんはこれをやり過ぎて、気がまって通じなくなり、しばらくってやっと息を吹き返した。


甘始かんし甘始亦かんしえき)は様々なことをべるが事実の裏付けがとぼしく、時に怪しげなことも語った。

東阿王とうあおう曹植そうしょく)はある時、側近の者を下がらせて彼と2人だけで話をし、彼が行ってきた術についてたずねた。優しい顔つきで彼の気持ちを誘い、たくみな言葉で彼の口をなめらかにすると、甘始かんし甘始亦かんしえき)は次のように語った。

  • 私が以前仕えた師匠は、姓はかんあざな世雄せゆうと申します。かつて師匠と共に何度か交州こうしゅう南海郡なんかいぐんで黄金を作り、数万きん(1万きん=約2.2t)の黄金を海に投じたものです。
  • 梁冀りょうきの一族が権力を握っておりました時代、西域せいいき胡人こじんがやって来て、香罽こうけい*5腰帯こしおび割玉刀かつぎょくとう(玉をどろごとく切ることができる名刀)を献上いたしました。今でも時々それを自分のものにしておかなかったことを後悔いたします。
  • 車師しゃし(トルファン)の西の国では、子供が生まれると背中をいて脾臓ひぞうを取り去ってしまいます。「食事の量が少なく、健脚(弩行)になるように」と願ってそうするのです。
  • 5寸(約12.1cm)ほどこいを2匹(1そう)用意し、そのうちの1匹の口に薬を含ませて2匹とも煮立った油の中に放り込みますと、薬を飲んだ方は尾を振りえらを動かして浮いたり沈んだりしながら泳ぎ、深いふちにいるのと変わりません。もう1匹の方は、間もなく煮え上がって食べられるようになりました。

東阿王とうあおう曹植そうしょく)が「お前の言うことをすぐに試してみることができるのか」と問うと、甘始かんし甘始亦かんしえき)は答えて言った。

「この薬はここから1万里(約4,300km)以上も彼方かなたにあって、塞外さいがいの地まで行かねばなりません。それに私がみずから行かねば、手に入れることができないのです」


東阿王とうあおう曹植そうしょく)は甘始かんし甘始亦かんしえき)について、

「彼が語ったのはこれだけにはとどまらず、そのすべてを記録するのはなかなか困難である。それゆえ、そのうちの特に怪しげなことだけをいくつかここにげた。

甘始かんし甘始亦かんしえき)が、もししん始皇帝しこうていかん武帝ぶていの時代に生まれ合わせたとすれば、彼もまた徐巿じょふつ欒大らんだい*6の仲間入りをしたのである」

と結んでいる。

脚注

*4道家どうかが行う本来のせいまっとうする法。「養性」は「養生」に同じ。

*5華麗な毛氈もうせん(羊毛などの獣毛を原料として作られたフェルト状のカーペット)。

*6徐巿じょふつしん始皇帝しこうていあざむき、その援助で東海とうかい中の神山(日本)を探検した人物。欒大らんだいかん武帝ぶていに「神仙説」で取り入って栄達を極めた人物。史記しき封禅書ほうぜんしょなどに詳しい。


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甘醴かんれい

生没年不詳。交阯太守こうしたいしゅ士燮ししょうの子・士徽しきの部将。

黄武こうぶ5年(226年)に交阯太守こうしたいしゅ士燮ししょうが亡くなると、孫権そんけん士燮ししょうの子・士徽しき安遠将軍あんえんしょうぐんとして九真太守きゅうしんたいしゅの職務を兼任させ、校尉こうい陳時ちんじ士燮ししょうの後任として交阯太守こうしたいしゅに任命した。

呂岱りょたいは上表して南海なんかいの3郡を交州こうしゅうとして将軍しょうぐん戴良たいりょう交州刺史こうしゅうししに任命し、海東かいとうの4郡を広州こうしゅうとして、呂岱りょたいみずか広州刺史こうしゅうししとなった。

戴良たいりょう陳時ちんじが任地におもむこうとすると、士徽しきは命令を拒否し、兵を動かして海口かいこうを固め、戴良たいりょうらの着任を阻止しようとした。


呂岱りょたい上疏じょうそして、兵3千人をひきいて昼夜兼行で海路から軍を進め、合浦県がっぽけん戴良たいりょうと合流して先を急いだ。

士徽しきは「呂岱りょたいがやって来た」と聞くと恐慌きょうこうを来し、すべもなくあわてて兄弟6人を引き連れはだぎになって呂岱りょたいを出迎えたが、呂岱りょたいは彼らすべてを斬刑に処し、その首級しゅきゅう孫権そんけんの元に送った。

これに士徽しきの大将であった甘醴かんれい桓治かんちらは、吏民を引き連れて呂岱りょたいに攻撃をかけたが、呂岱りょたいの反撃を受けて大いに撃ち破られた。


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