正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(60)甘寧かんねいの先祖・下蔡かさい甘氏かんし甘茂かんぼう甘羅かんら)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

下蔡甘氏系図

下蔡甘氏系図

下蔡かさい甘氏かんし系図

赤字がこの記事でまとめている人物。
親が同一人物の場合、左側が年長。


この記事では下蔡かさい甘氏かんしの人物、

についてまとめています。

下蔡かさい甘氏かんしは、孫権そんけん配下・甘寧かんねい巴郡はぐん甘氏かんし)の先祖に当たります。

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か(60)下蔡甘氏

第1世代(甘茂)

甘茂かんぼう

生没年不詳。下蔡かさい(現在の安徽省あんきしょう阜陽市ふようし潁上県けいじょうけん甘羅郷かんらきょう)の人。孫に甘羅かんら戦国せんごく時代のしんの臣。

秦の恵王

下蔡かさい史挙しきょ先生に師事して「百家ひゃっかの説」を学び、張儀ちょうぎ樗里子ちょりしくちえでしん恵王けいおう謁見えっけんを求めた。恵王けいおう甘茂かんぼうを引見して気に入り、将軍しょうぐんに取り立てて、魏章ぎしょうの補佐として漢中かんちゅうの地を攻略させた。

秦の武王

恵王けいおうが亡くなって武王ぶおうが即位すると、張儀ちょうぎ魏章ぎしょうしんを去って東方のに行った。

蜀侯しょくこう宰相さいしょう陳荘ちんそうそむいたので、しん甘茂かんぼうを派遣してしょくを平定させ、帰還すると甘茂かんぼう左丞相さじょうしょうとし、樗里子ちょりし右丞相ゆうじょうしょうとした。

宜陽ぎようの戦い

しん武王ぶおう3年(紀元前308年)、武王ぶおう甘茂かんぼうに「わし三川さんせんに車を通せる道をひらいて、しゅうの王室をうかがってみたいものだ。それができれば死んでも名はちないだろう」と言ったところ、甘茂かんぼうは「どうか私をに派遣して、一緒にかんつ盟約を結ばせていただきたい」と言った。

そこで武王ぶおうは、向寿しょうじゅ宣太后せんたいこうの一族)を甘茂かんぼうの補佐につけ、に同行させた。に着くと、甘茂かんぼう向寿しょうじゅに、

あなたは国に帰って武王ぶおうに『わたくしの言葉を聴き入れました。願わくはおう武王ぶおう)がかんたれませんように』と申し上げて欲しい。もしこれが成功すれば、みなあなたの功績としよう」

と言った。

帰国した向寿しょうじゅ武王ぶおうにそのむねを告げると、武王ぶおう甘茂かんぼう息壤そくじょうまで出迎え、甘茂かんぼうの到着を待って事情をたずねた。すると甘茂かんぼうは、

かん宜陽ぎようは大県で攻めるのは容易よういではなく、その攻略には時間が掛かります。わたくしはその間におう武王ぶおう)が樗里子ちょりし公孫奭こうそんせき讒言ざんげんをお聴き入れになることを危惧きぐいたします」

と言った。

甘茂かんぼうの言葉・全文
タップ(クリック)すると開きます。

かん宜陽ぎようは大県で、上党じょうとう南陽なんようの長年にわたる財貨がここに蓄積されており、県とは言えその実、郡に匹敵します。今、おう武王ぶおう)がいく険阻けんそを越え千里を行軍されましても、これを攻めるのは容易ではありません。


昔、曾参そうしん曾子そうし孔子こうしの弟子)がゆうにいた時、曾参そうしんと同姓同名の者がいて人を殺しました。ある者が曾参そうしんの母に「曾参そうしんが人を殺した」と言いましたが、母は少しもあわてることなく落ち着いてはたり続けていました。しばらくするとまた1人やって来て「曾参そうしんが人を殺した」と告げましたが、それでも母は落ち着いてはたり続けました。そしてまたしばらくすると、さらに1人がやって来て「曾参そうしんが人を殺した」と告げました。すると母は、(織機の横糸を通す器具)を投げ出し、かきねを越えて走り出しました。

曾参そうしんの賢徳とその母の彼を信じる心をもってしても、人が3人まで疑えば、さすがに心が動きおそれをいだいたのです。今、わたくしの賢徳は曾参そうしんに及ばず、また王のわたくしに対する信任も、曾参そうしんの母が曾参そうしんを信じる心には及びません。しかも、わたくしを疑う者は3人では済みません。わたくし大王だいおう武王ぶおう)がを投げ出されはしないかと恐れるのであります。


以前、張儀ちょうぎは西方の巴蜀はしょくの地を合わせ、北方の西河せいかの外を開き、南方の上庸じょうようを奪いましたが、天下の人はこれを張子ちょうし張儀ちょうぎ)の功績とせず、先王の賢徳によるものとしました。

また、文侯ぶんこう楽羊がくよう将軍しょうぐんとして中山ちゅうざんを攻め、3年をついやしてこれを攻略しました。楽羊がくようが国に帰り、その功績を論ずる時になって、文侯ぶんこう楽羊がくよう讒謗ざんぼうする書を1はこ出して見せました。

楽羊がくよう再拝さいはい稽首けいしゅ(頭を深く下げて丁寧にお辞儀をすること)して「このたびの戦勝はわたくしの功績ではなく、ご主君(文侯ぶんこう)の力によるものです」と言いました。


わたくしは「羈旅たびしん」です。樗里子ちょりし(母はかんの女)・公孫奭こうそんせき(元かん公子こうし)の2人が、かんたのんでわたくしの是非を評議すれば、おう武王ぶおう)は必ず2人の言葉をお聴き入れになりましょう。

それは、おう武王ぶおう)が魏王ぎおうあざむくことであり、わたくしとしても、かん宰相さいしょう公仲侈こうちゅうしうらみを受けることになります。


すると武王ぶおうは「わし樗里子ちょりし公孫奭こうそんせきらの言葉を聴き入れないことをあなたと約束しよう」と言い、丞相じょうしょう甘茂かんぼうに命じて宜陽ぎようたせた。

甘茂かんぼうが攻撃を開始して5ヶ月がつと、果たして樗里子ちょりし公孫奭こうそんせき甘茂かんぼうを非難した。武王ぶおう甘茂かんぼうを召還して軍を退かせようとすると、甘茂かんぼうは「息壤そくじょうでの約束をお忘れですか?」と言った。

武王ぶおうは「忘れていない」と言い、そこで全軍をげて甘茂かんぼう宜陽ぎようを攻撃させた。その結果、斬首すること6万、甘茂かんぼうはついに宜陽ぎようを陥落させ、かん襄王じょうおう宰相さいしょう公仲侈こうちゅうしつかわして謝罪し、しん和睦わぼくした。

武王ぶおうはついにしゅうおもむき、しゅうで亡くなった。

秦の昭王(昭襄王)
かんを救う

武王ぶおうが亡くなると、その弟が即位して昭王しょうおうとなった。昭王しょうおうの母・宣太后せんたいこうは、の女である。

懐王かいおうは、以前丹陽たんようしんに敗れた時、かんが救援しなかったことをうらみ、兵を出してかんゆう雍氏ようしを包囲した。

かん公仲侈こうちゅうしつかわしてしんに危急を告げたが、しんでは武王ぶおうの弟の昭王しょうおうが即位しており、昭王しょうおうの母・宣太后せんたいこう楚人そじんであることからかんを助けようとしなかった。

公仲侈こうちゅうし甘茂かんぼうを頼ると、甘茂かんぼうかんのためしん昭王しょうおうに言った。

かんしんの救援を期待してを防いでいます。今、雍氏ようしが包囲されているのに、しんこうとりでから兵を下してかんを救おうとしないので、公仲こうちゅう公仲侈こうちゅうし)は天をあおいで絶望し、しんに入朝しようとせず、かん公子こうし公叔こうしゅくも、国をげて南のと連合しようとしています。かんが連合すれば、えて同調しないわけにはいかず、しんつ形勢ができあがります。してたれるのを待つのと、進んで人をつのでは、どちらに利があるでしょうか」

昭王しょうおうは「なるほど」と言い、兵をこうとりでから下してかんを救ったので、の兵は退しりぞいた。

しんを去る

昭王しょうおう向寿しょうじゅ宜陽ぎようを平定させ、樗里子ちょりし甘茂かんぼうに命じて皮氏ひしたせた。向寿しょうじゅ宣太后せんたいこうの外族(母または妻の親族。外戚)であり、昭王しょうおうとは幼い頃から一緒に成長したこともあって任用されたのである。

向寿しょうじゅしんのために宜陽ぎようを守備し、さらにかんとうとした。するとかん公仲こうちゅう公仲侈こうちゅうし)は蘇代そだいを派遣して、向寿しょうじゅに「向寿しょうじゅしん国での立場上、かんと親善してそなえるのが良い」と勧め、また、

甘茂かんぼうは『をもってせいを取りたい』と思い、公孫奭こうそんせきは『かんをもってせいを取りたい』と望んでいます。今、あなた宜陽ぎようを取って自分の功績としておられますから、この上はかんを味方につけてこれをやすんじ、せいの罪を責められるのが良いでしょう。そうすれば、公孫奭こうそんせき甘茂かんぼうあなたに手出しできなくなります」

と言った。

その後、甘茂かんぼう昭王しょうおうに言って武遂ぶすいかんに返還した。向寿しょうじゅ公孫奭こうそんせきはこれに反対したが、聞き入れられなかったので、甘茂かんぼううらんで讒言ざんげんした。甘茂かんぼうおそれて蒲阪ほはんつのをやめて逃亡し、そのため樗里子ちょりしと講和して軍を退しりぞいた。

甘茂かんぼう争奪戦

甘茂かんぼうしんからせい出奔しゅっぽんし、そこでせいのためにしんに使いすることになっていた蘇代そだいと会った。

甘茂かんぼうが、

わたくししんにおいて罪を得たのでおそれて逃亡したが、身を寄せる所がない。わたくしは今、困窮こんきゅうしているが、君はしんに使いするところだという。わたくしの妻子はしんにいるが、どうか君のお力で救ってはいただけまいか」

と言うと、蘇代そだいは承知してしんに行き、使者の役目を果たした上で秦王しんおう昭王しょうおう)に、

甘茂かんぼうは非凡の士です。彼がしんにいた時には、恵王けいおう武王ぶおうの2代のおうに重んぜられました。こうとりでから鬼谷きこくに至る地形の険阻平坦(険易)を熟知しています。もし彼がせいと盟約し、かんと共にしんに反することをはかるなら、しんの利益にはならないでしょう」

と言った。また蘇代そだいが「俸禄を手厚くして甘茂かんぼうむかえ、もし甘茂かんぼうが来たならば鬼谷きこくに置いて終身他所よそに出してはなりません」と言うと、秦王しんおう昭王しょうおう)はすぐに甘茂かんぼう上卿じょうけいの位をたまわり、宰相さいしょうの印をもってせいからむかえようとしたが、甘茂かんぼうは行かなかった。

すると蘇代そだいせい湣王びんおうに言った。

甘茂かんぼうは賢人です。今、しんは彼に上卿じょうけいの位をたまわり、宰相さいしょうの印をもってむかえようとしましたが、甘茂かんぼう秦王しんおう昭王しょうおう)のたまわり物を『徳』とし、秦王しんおう昭王しょうおう)の臣下となることを喜びつつ辞退しました。さて、おう湣王びんおう)はどのような礼をもって彼をぐうするおつもりでしょうか」

斉王せいおう湣王びんおう)はすぐに甘茂かんぼう上卿じょうけいの位に置いてせいとどめ、しんは以前没収した甘茂かんぼうの家を元に返し、せいと競って甘茂かんぼうを得ようとした。

斉の湣王

ある時、せいが使者として甘茂かんぼうに派遣したが、この時懐王かいおうは、新たにしんと縁組みを結んでよしみかん)を通じているところであり、甘茂かんぼうに滞在していると聞いたしんは、楚王そおう懐王かいおう)に「甘茂かんぼうしんに送っていただきたい」と申し入れた。

そこで楚王そおう懐王かいおう)が范蜎はんけんに「甘茂かんぼうを(しんの)宰相さいしょうにしたいと思うがどうであろう?」とたずねると、范蜎はんけんは言った。

「いけません。甘茂かんぼうまことの賢者です。しん賢相けんしょうを置くことはの利益となりません。もししん宰相さいしょうとするなら、向寿しょうじゅに勝る者はおりません。向寿しょうじゅ秦王しんおう昭王しょうおう)の親族で、幼い頃は同じ衣を着て育ち、成人してからは同じ車に乗る間柄です。秦王しんおう昭王しょうおう)は彼の言うことなら何でも聴き入れるでしょう。向寿しょうじゅしん宰相さいしょうとされる方が、楚国そこくの利益となります」

そこで楚王そおう懐王かいおう)は向寿しょうじゅしん宰相さいしょうとするように要請し、しん向寿しょうじゅ宰相さいしょうとした。

その後甘茂かんぼうは、ついに再びしんに帰ることはなく、で亡くなった。


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第3世代(甘羅)

甘羅かんら

生没年不詳。下蔡かさい(現在の安徽省あんきしょう阜陽市ふようし潁上県けいじょうけん甘羅郷かんらきょう)の人。祖父は甘茂かんぼう戦国せんごく時代のしんの臣。

12歳の時にしん宰相さいしょう文信侯ぶんしんこう呂不韋りょふいに仕えた。

しん始皇帝しこうていは、剛成君ごうせいくん蔡沢さいたくえんに派遣し、3年して燕王えんおう太子たいしたんしんに送って人質とした。


その後しんは、張唐ちょうとうえんに派遣して宰相さいしょうとし、えんと共にちょうって国境に近い河間かかんの地を広げようとしたが、この時、張唐ちょうとう呂不韋りょふいに言った。

「かつてわたくししん昭王しょうおうのためにちょうった時、ちょうわたくしうらんで『張唐ちょうとうを捕らえた者には百里の地を与える』と言いました。今、えんおもむくためには必ずちょうを通らねばならず、わたくしには行くことができません」

呂不韋りょふいは内心これを不快に思ったが、無理いはしなかった。甘羅かんらが「君侯くんこう呂不韋りょふい)はなぜそんなに不機嫌なのですか?」とたずねると、呂不韋りょふいは言った。

わし剛成君ごうせいくん蔡沢さいたくえんに3年仕えさせたことによって、えん太子たいしたんが人質として我が国にやって来た。今、わしみずか張卿ちょうけい張唐ちょうとう)にえん宰相さいしょうとなるようにうたが、彼は行こうとしないのだ」

これに甘羅かんらが「わたくしが行かせてみせましょう」と言うと呂不韋りょふいは、

「去れっ!わしみずかうても承知しなかったのに、お前ごときがどうして行かせることができようか!?」

甘羅かんらしかりつけた。すると甘羅かんらは、

「かの項橐こうたくは7歳で孔子こうしの師となりました。わたくしは今12歳です。そのようにおしかりにならず、わたくしにやらせてください」

と言って張卿ちょうけい張唐ちょうとう)に会いに行き、張卿ちょうけい張唐ちょうとう)にたずねた。

甘羅かんらあなたの功績は武安君ぶあんくん白起はくき)と比べてどうでしょうか?」

張唐ちょうとう武安君ぶあんくん白起はくき)は、南は強楚きょうそくじき、北はえんちょうおどし、戦えば勝ち攻めれば取り、城を破りゆうとすこと数知れず、わたくしの功績など到底及ばない」

甘羅かんら応侯おうこう范雎はんしょ)がしんもちいられた時、文信侯ぶんしんこう呂不韋りょふい)とどちらが権力を振るったでしょうか」

張唐ちょうとう応侯おうこう范雎はんしょ)は文信侯ぶんしんこう呂不韋りょふい)には及ばない」

甘羅かんらあなた応侯おうこう范雎はんしょ)が文信侯ぶんしんこう呂不韋りょふい)に及ばないのが、はっきりとお分かりですか?」

張唐ちょうとう「分かっている」

そこで甘羅かんらは言った。

応侯おうこう范雎はんしょ)がちょうを攻めようとした時、武安君ぶあんくん白起はくき)が難色を示したので、咸陽かんようを去ること7里の杜郵とゆうにおいて死をたまわりました。今、文信侯ぶんしんこう呂不韋りょふい)はみずかあなたえん宰相さいしょうとなるように頼まれたのに、あなたは行こうとされません。わたくしにはあなたがどこで死なれるかは分かりません」

すると張卿ちょうけい張唐ちょうとう)は「孺子おまえの言う通り行くことにしよう」と言い、旅支度をさせた。

出発の日が決まると、甘羅かんら呂不韋りょふいに、

わたくしに車5じょうをお貸しいただきたい。張唐ちょうとうのため、まずちょうに通報したいのです」

と言った。そこで呂不韋りょふいは参内して始皇帝しこうていに言上した。

「かつての甘茂かんぼうの孫・甘羅かんらは年少ですが、名家の子孫で諸侯もみな聞き知っています。今、張唐ちょうとうやまいと称して赴任することを承知しなかったのに、甘羅かんら張唐ちょうとうを赴任するように説得して、まずちょうに通報したいと願っております。どうかお許しいただきますように」

これを受け、始皇帝しこうていはまず甘羅かんらを引見し、その後でちょうに派遣した。


ちょう襄王じょうおう甘羅かんらを郊外まで出迎えると、甘羅かんら趙王ちょうおう襄王じょうおう)に言った。

甘羅かんらおう襄王じょうおう)はえん太子たいしたんが、しんに入って人質となっていることをご存知ですか?」

襄王じょうおう「聞いている」

甘羅かんら張唐ちょうとうえん宰相さいしょうとなるのをご存知ですか?」

襄王じょうおう「聞いている」

甘羅かんらえん太子たいしたんしんに入ったのはえんしんあざむかないあかしであり、張唐ちょうとうえん宰相さいしょうとなるのはしんえんあざむかないあかしです。これはちょうを攻めて河間かかんの地を広げるためであり、ちょうにとっては危険なことです。おう襄王じょうおう)におかれましては、5城をしんに献上して河間かかんの地を広げさせ、しんに『えん太子たいしたんえんに帰し、強趙きょうちょうと共に弱燕じゃくえんを攻撃する』ように要請するのが良いかと存じます」

趙王ちょうおう襄王じょうおう)はすぐに5城をいてしん河間かかんの地を広げさせたので、しんえん太子たいしたんを帰し、ちょうえんを攻めて上谷じょうこくの30城を取り、その内の11城をしんに分けた。

甘羅かんらが帰って報告すると、しん甘羅かんら上卿じょうけいに封じ、元の甘茂かんぼうの田宅を下賜かしした。


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【三国志人物伝】総索引