正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(60)甘寧(かんねい)の先祖・下蔡(かさい)甘氏(かんし)(甘茂(かんぼう)・甘羅(かんら))です。

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系図

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

下蔡甘氏系図

下蔡甘氏系図

下蔡(かさい)甘氏(かんし)系図

※赤字がこの記事でまとめている人物。
親が同一人物の場合、左側が年長。


この記事では下蔡(かさい)甘氏(かんし)の人物、

についてまとめています。

下蔡(かさい)甘氏(かんし)は、孫権(そんけん)配下・甘寧(かんねい)(巴郡(はぐん)甘氏(かんし))の先祖に当たります。

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か(60)下蔡甘氏

第1世代(甘茂)

甘茂(かんぼう)

生没年不詳。下蔡(かさい)(現在の安徽省(あんきしょう)・阜陽市(ふようし)・潁上県(けいじょうけん)・甘羅郷(かんらきょう))の人。孫に甘羅(かんら)。戦国(せんごく)時代の秦(しん)の臣。

秦の恵王

下蔡(かさい)の史挙(しきょ)先生に師事して「百家(ひゃっか)の説」を学び、張儀(ちょうぎ)と樗里子(ちょりし)の口(くち)添(ぞ)えで秦(しん)の恵王(けいおう)に謁見(えっけん)を求めた。恵王(けいおう)は甘茂(かんぼう)を引見して気に入り、将軍(しょうぐん)に取り立てて、魏章(ぎしょう)の補佐として漢中(かんちゅう)の地を攻略させた。

秦の武王

恵王(けいおう)が亡くなって武王(ぶおう)が即位すると、張儀(ちょうぎ)と魏章(ぎしょう)は秦(しん)を去って東方の魏(ぎ)に行った。

蜀侯(しょくこう)煇(き)の宰相(さいしょう)・陳荘(ちんそう)が反(そむ)いたので、秦(しん)は甘茂(かんぼう)を派遣して蜀(しょく)を平定させ、帰還すると甘茂(かんぼう)を左丞相(さじょうしょう)とし、樗里子(ちょりし)を右丞相(ゆうじょうしょう)とした。

宜陽(ぎよう)の戦い

秦(しん)の武王(ぶおう)3年(紀元前308年)、武王(ぶおう)が甘茂(かんぼう)に「儂(わし)は三川(さんせん)に車を通せる道を拓(ひら)いて、周(しゅう)の王室を窺(うかが)ってみたいものだ。それができれば死んでも名は朽(く)ちないだろう」と言ったところ、甘茂(かんぼう)は「どうか私を魏(ぎ)に派遣して、一緒に韓(かん)を伐(う)つ盟約を結ばせていただきたい」と言った。

そこで武王(ぶおう)は、向寿(しょうじゅ)(宣太后(せんたいこう)の一族)を甘茂(かんぼう)の補佐につけ、魏(ぎ)に同行させた。魏(ぎ)に着くと、甘茂(かんぼう)は向寿(しょうじゅ)に、

「子(あなた)は国に帰って武王(ぶおう)に『魏(ぎ)は臣(わたくし)の言葉を聴き入れました。願わくは王(おう)(武王(ぶおう))が韓(かん)を伐(う)たれませんように』と申し上げて欲しい。もしこれが成功すれば、みな子(あなた)の功績としよう」

と言った。

帰国した向寿(しょうじゅ)が武王(ぶおう)にその旨(むね)を告げると、武王(ぶおう)は甘茂(かんぼう)を息壤(そくじょう)まで出迎え、甘茂(かんぼう)の到着を待って事情を尋(たず)ねた。すると甘茂(かんぼう)は、

「韓(かん)の宜陽(ぎよう)は大県で攻めるのは容易(ようい)ではなく、その攻略には時間が掛かります。臣(わたくし)はその間に王(おう)(武王(ぶおう))が樗里子(ちょりし)や公孫奭(こうそんせき)の讒言(ざんげん)をお聴き入れになることを危惧(きぐ)いたします」

と言った。

甘茂(かんぼう)の言葉・全文
タップ(クリック)すると開きます。

韓(かん)の宜陽(ぎよう)は大県で、上党(じょうとう)・南陽(なんよう)の長年にわたる財貨がここに蓄積されており、県とは言えその実、郡に匹敵します。今、王(おう)(武王(ぶおう))が幾(いく)多(た)の険阻(けんそ)を越え千里を行軍されましても、これを攻めるのは容易ではありません。


昔、曾参(そうしん)(曾子(そうし):孔子(こうし)の弟子)が魯(ろ)の邑(ゆう)・費(ひ)にいた時、魯(ろ)に曾参(そうしん)と同姓同名の者がいて人を殺しました。ある者が曾参(そうしん)の母に「曾参(そうしん)が人を殺した」と言いましたが、母は少しも慌(あわ)てることなく落ち着いて機(はた)を織(お)り続けていました。しばらくするとまた1人やって来て「曾参(そうしん)が人を殺した」と告げましたが、それでも母は落ち着いて機(はた)を織(お)り続けました。そしてまたしばらくすると、さらに1人がやって来て「曾参(そうしん)が人を殺した」と告げました。すると母は、杼(ひ)(織機の横糸を通す器具)を投げ出し、墻(かきね)を越えて走り出しました。

曾参(そうしん)の賢徳とその母の彼を信じる心をもってしても、人が3人まで疑えば、さすがに心が動き懼(おそ)れを抱(いだ)いたのです。今、臣(わたくし)の賢徳は曾参(そうしん)に及ばず、また王の臣(わたくし)に対する信任も、曾参(そうしん)の母が曾参(そうしん)を信じる心には及びません。しかも、臣(わたくし)を疑う者は3人では済みません。臣(わたくし)は大王(だいおう)(武王(ぶおう))が杼(ひ)を投げ出されはしないかと恐れるのであります。


以前、張儀(ちょうぎ)は西方の巴蜀(はしょく)の地を合わせ、北方の西河(せいか)の外を開き、南方の上庸(じょうよう)を奪いましたが、天下の人はこれを張子(ちょうし)(張儀(ちょうぎ))の功績とせず、先王の賢徳によるものとしました。

また、魏(ぎ)の文侯(ぶんこう)は楽羊(がくよう)を将軍(しょうぐん)として中山(ちゅうざん)を攻め、3年を費(つい)やしてこれを攻略しました。楽羊(がくよう)が国に帰り、その功績を論ずる時になって、文侯(ぶんこう)は楽羊(がくよう)を讒謗(ざんぼう)する書を1篋(はこ)出して見せました。

楽羊(がくよう)は再拝(さいはい)稽首(けいしゅ)(頭を深く下げて丁寧にお辞儀をすること)して「この度(たび)の戦勝は臣(わたくし)の功績ではなく、ご主君(文侯(ぶんこう))の力によるものです」と言いました。


臣(わたくし)は「羈旅(たび)の臣(しん)」です。樗里子(ちょりし)(母は韓(かん)の女)・公孫奭(こうそんせき)(元韓(かん)の公子(こうし))の2人が、韓(かん)を恃(たの)んで臣(わたくし)の是非を評議すれば、王(おう)(武王(ぶおう))は必ず2人の言葉をお聴き入れになりましょう。

それは、王(おう)(武王(ぶおう))が魏王(ぎおう)を欺(あざむ)くことであり、臣(わたくし)としても、韓(かん)の宰相(さいしょう)・公仲侈(こうちゅうし)の怨(うら)みを受けることになります。


すると武王(ぶおう)は「儂(わし)は樗里子(ちょりし)・公孫奭(こうそんせき)らの言葉を聴き入れないことを子(あなた)と約束しよう」と言い、丞相(じょうしょう)・甘茂(かんぼう)に命じて宜陽(ぎよう)を伐(う)たせた。

甘茂(かんぼう)が攻撃を開始して5ヶ月が経(た)つと、果たして樗里子(ちょりし)・公孫奭(こうそんせき)が甘茂(かんぼう)を非難した。武王(ぶおう)が甘茂(かんぼう)を召還して軍を退(ひ)かせようとすると、甘茂(かんぼう)は「息壤(そくじょう)での約束をお忘れですか?」と言った。

武王(ぶおう)は「忘れていない」と言い、そこで全軍を挙(あ)げて甘茂(かんぼう)に宜陽(ぎよう)を攻撃させた。その結果、斬首すること6万、甘茂(かんぼう)はついに宜陽(ぎよう)を陥落させ、韓(かん)の襄王(じょうおう)は宰相(さいしょう)の公仲侈(こうちゅうし)を遣(つか)わして謝罪し、秦(しん)と和睦(わぼく)した。

武王(ぶおう)はついに周(しゅう)に赴(おもむ)き、周(しゅう)で亡くなった。

秦の昭王(昭襄王)
韓(かん)を救う

武王(ぶおう)が亡くなると、その弟が即位して昭王(しょうおう)となった。昭王(しょうおう)の母・宣太后(せんたいこう)は、楚(そ)の女である。

楚(そ)の懐王(かいおう)は、以前丹陽(たんよう)で秦(しん)に敗れた時、韓(かん)が救援しなかったことを怨(うら)み、兵を出して韓(かん)の邑(ゆう)・雍氏(ようし)を包囲した。

韓(かん)は公仲侈(こうちゅうし)を遣(つか)わして秦(しん)に危急を告げたが、秦(しん)では武王(ぶおう)の弟の昭王(しょうおう)が即位しており、昭王(しょうおう)の母・宣太后(せんたいこう)が楚人(そじん)であることから韓(かん)を助けようとしなかった。

公仲侈(こうちゅうし)が甘茂(かんぼう)を頼ると、甘茂(かんぼう)は韓(かん)のため秦(しん)の昭王(しょうおう)に言った。

「韓(かん)は秦(しん)の救援を期待して楚(そ)を防いでいます。今、雍氏(ようし)が包囲されているのに、秦(しん)が殽(こう)の塞(とりで)から兵を下して韓(かん)を救おうとしないので、公仲(こうちゅう)(公仲侈(こうちゅうし))は天を仰(あお)いで絶望し、秦(しん)に入朝しようとせず、韓(かん)の公子(こうし)・公叔(こうしゅく)も、国を挙(あ)げて南の楚(そ)と連合しようとしています。楚(そ)と韓(かん)が連合すれば、魏(ぎ)も敢(あ)えて同調しない訳(わけ)にはいかず、秦(しん)を伐(う)つ形勢ができあがります。坐(ざ)して伐(う)たれるのを待つのと、進んで人を伐(う)つのでは、どちらに利があるでしょうか」

昭王(しょうおう)は「なるほど」と言い、兵を殽(こう)の塞(とりで)から下して韓(かん)を救ったので、楚(そ)の兵は退(しりぞ)いた。

秦(しん)を去る

昭王(しょうおう)は向寿(しょうじゅ)に宜陽(ぎよう)を平定させ、樗里子(ちょりし)と甘茂(かんぼう)に命じて魏(ぎ)の皮氏(ひし)を伐(う)たせた。向寿(しょうじゅ)は宣太后(せんたいこう)の外族(母または妻の親族。外戚)であり、昭王(しょうおう)とは幼い頃から一緒に成長したこともあって任用されたのである。

向寿(しょうじゅ)は秦(しん)のために宜陽(ぎよう)を守備し、さらに韓(かん)を伐(う)とうとした。すると韓(かん)の公仲(こうちゅう)(公仲侈(こうちゅうし))は蘇代(そだい)を派遣して、向寿(しょうじゅ)に「向寿(しょうじゅ)の秦(しん)国での立場上、韓(かん)と親善して楚(そ)に備(そな)えるのが良い」と勧め、また、

「甘茂(かんぼう)は『魏(ぎ)をもって斉(せい)を取りたい』と思い、公孫奭(こうそんせき)は『韓(かん)をもって斉(せい)を取りたい』と望んでいます。今、公(あなた)は宜陽(ぎよう)を取って自分の功績としておられますから、この上は楚(そ)・韓(かん)を味方につけてこれを安(やす)んじ、斉(せい)・魏(ぎ)の罪を責められるのが良いでしょう。そうすれば、公孫奭(こうそんせき)と甘茂(かんぼう)は公(あなた)に手出しできなくなります」

と言った。

その後、甘茂(かんぼう)は昭王(しょうおう)に言って武遂(ぶすい)を韓(かん)に返還した。向寿(しょうじゅ)と公孫奭(こうそんせき)はこれに反対したが、聞き入れられなかったので、甘茂(かんぼう)を怨(うら)んで讒言(ざんげん)した。甘茂(かんぼう)は懼(おそ)れて魏(ぎ)の蒲阪(ほはん)を伐(う)つのをやめて逃亡し、そのため樗里子(ちょりし)は魏(ぎ)と講和して軍を退(しりぞ)いた。

甘茂(かんぼう)争奪戦

甘茂(かんぼう)は秦(しん)から斉(せい)に出奔(しゅっぽん)し、そこで斉(せい)のために秦(しん)に使いすることになっていた蘇代(そだい)と会った。

甘茂(かんぼう)が、

「臣(わたくし)は秦(しん)において罪を得たので懼(おそ)れて逃亡したが、身を寄せる所がない。臣(わたくし)は今、困窮(こんきゅう)しているが、君は秦(しん)に使いするところだという。茂(わたくし)の妻子は秦(しん)にいるが、どうか君のお力で救ってはいただけまいか」

と言うと、蘇代(そだい)は承知して秦(しん)に行き、使者の役目を果たした上で秦王(しんおう)(昭王(しょうおう))に、

「甘茂(かんぼう)は非凡の士です。彼が秦(しん)にいた時には、恵王(けいおう)・武王(ぶおう)の2代の王(おう)に重んぜられました。殽(こう)の塞(とりで)から鬼谷(きこく)に至る地形の険阻平坦(険易)を熟知しています。もし彼が斉(せい)と盟約し、韓(かん)・魏(ぎ)と共に秦(しん)に反することを図(はか)るなら、秦(しん)の利益にはならないでしょう」

と言った。また蘇代(そだい)が「俸禄を手厚くして甘茂(かんぼう)を迎(むか)え、もし甘茂(かんぼう)が来たならば鬼谷(きこく)に置いて終身他所(よそ)に出してはなりません」と言うと、秦王(しんおう)(昭王(しょうおう))はすぐに甘茂(かんぼう)に上卿(じょうけい)の位を賜(たまわ)り、宰相(さいしょう)の印をもって斉(せい)から迎(むか)えようとしたが、甘茂(かんぼう)は行かなかった。

すると蘇代(そだい)は斉(せい)の湣王(びんおう)に言った。

「甘茂(かんぼう)は賢人です。今、秦(しん)は彼に上卿(じょうけい)の位を賜(たまわ)り、宰相(さいしょう)の印をもって迎(むか)えようとしましたが、甘茂(かんぼう)は秦王(しんおう)(昭王(しょうおう))の賜(たまわ)り物を『徳』とし、秦王(しんおう)(昭王(しょうおう))の臣下となることを喜びつつ辞退しました。さて、王(おう)(湣王(びんおう))はどのような礼をもって彼を遇(ぐう)するおつもりでしょうか」

斉王(せいおう)(湣王(びんおう))はすぐに甘茂(かんぼう)を上卿(じょうけい)の位に置いて斉(せい)に留(とど)め、秦(しん)は以前没収した甘茂(かんぼう)の家を元に返し、斉(せい)と競って甘茂(かんぼう)を得ようとした。

斉の湣王

ある時、斉(せい)が使者として甘茂(かんぼう)を楚(そ)に派遣したが、この時楚(そ)の懐王(かいおう)は、新たに秦(しん)と縁組みを結んで誼(よしみ)(驩(かん))を通じているところであり、甘茂(かんぼう)が楚(そ)に滞在していると聞いた秦(しん)は、楚王(そおう)(懐王(かいおう))に「甘茂(かんぼう)を秦(しん)に送っていただきたい」と申し入れた。

そこで楚王(そおう)(懐王(かいおう))が范蜎(はんけん)に「甘茂(かんぼう)を(秦(しん)の)宰相(さいしょう)にしたいと思うがどうであろう?」と尋(たず)ねると、范蜎(はんけん)は言った。

「いけません。甘茂(かんぼう)は誠(まこと)の賢者です。秦(しん)に賢相(けんしょう)を置くことは楚(そ)の利益となりません。もし秦(しん)の宰相(さいしょう)とするなら、向寿(しょうじゅ)に勝る者はおりません。向寿(しょうじゅ)は秦王(しんおう)(昭王(しょうおう))の親族で、幼い頃は同じ衣を着て育ち、成人してからは同じ車に乗る間柄です。秦王(しんおう)(昭王(しょうおう))は彼の言うことなら何でも聴き入れるでしょう。向寿(しょうじゅ)を秦(しん)の宰相(さいしょう)とされる方が、楚国(そこく)の利益となります」

そこで楚王(そおう)(懐王(かいおう))は向寿(しょうじゅ)を秦(しん)の宰相(さいしょう)とするように要請し、秦(しん)は向寿(しょうじゅ)を宰相(さいしょう)とした。

その後甘茂(かんぼう)は、ついに再び秦(しん)に帰ることはなく、魏(ぎ)で亡くなった。


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第3世代(甘羅)

甘羅(かんら)

生没年不詳。下蔡(かさい)(現在の安徽省(あんきしょう)・阜陽市(ふようし)・潁上県(けいじょうけん)・甘羅郷(かんらきょう))の人。祖父は甘茂(かんぼう)。戦国(せんごく)時代の秦(しん)の臣。

12歳の時に秦(しん)の宰相(さいしょう)、文信侯(ぶんしんこう)・呂不韋(りょふい)に仕えた。

秦(しん)の始皇帝(しこうてい)は、剛成君(ごうせいくん)・蔡沢(さいたく)を燕(えん)に派遣し、3年して燕王(えんおう)喜(き)は太子(たいし)丹(たん)を秦(しん)に送って人質とした。


その後秦(しん)は、張唐(ちょうとう)を燕(えん)に派遣して宰相(さいしょう)とし、燕(えん)と共に趙(ちょう)を伐(う)って国境に近い河間(かかん)の地を広げようとしたが、この時、張唐(ちょうとう)は呂不韋(りょふい)に言った。

「かつて臣(わたくし)が秦(しん)の昭王(しょうおう)のために趙(ちょう)を伐(う)った時、趙(ちょう)は臣(わたくし)を怨(うら)んで『張唐(ちょうとう)を捕らえた者には百里の地を与える』と言いました。今、燕(えん)に赴(おもむ)くためには必ず趙(ちょう)を通らねばならず、臣(わたくし)には行くことができません」

呂不韋(りょふい)は内心これを不快に思ったが、無理強(じ)いはしなかった。甘羅(かんら)が「君侯(くんこう)(呂不韋(りょふい))はなぜそんなに不機嫌なのですか?」と尋(たず)ねると、呂不韋(りょふい)は言った。

「儂(わし)が剛成君(ごうせいくん)・蔡沢(さいたく)を燕(えん)に3年仕えさせたことによって、燕(えん)の太子(たいし)丹(たん)が人質として我が国にやって来た。今、儂(わし)が自(みずか)ら張卿(ちょうけい)(張唐(ちょうとう))に燕(えん)の宰相(さいしょう)となるように請(こ)うたが、彼は行こうとしないのだ」

これに甘羅(かんら)が「臣(わたくし)が行かせてみせましょう」と言うと呂不韋(りょふい)は、

「去れっ!儂(わし)が自(みずか)ら請(こ)うても承知しなかったのに、お前如(ごと)きがどうして行かせることができようか!?」

と甘羅(かんら)を叱(しか)りつけた。すると甘羅(かんら)は、

「かの項橐(こうたく)は7歳で孔子(こうし)の師となりました。臣(わたくし)は今12歳です。そのようにお叱(しか)りにならず、臣(わたくし)にやらせてください」

と言って張卿(ちょうけい)(張唐(ちょうとう))に会いに行き、張卿(ちょうけい)(張唐(ちょうとう))に尋(たず)ねた。

甘羅(かんら)「卿(あなた)の功績は武安君(ぶあんくん)(白起(はくき))と比べてどうでしょうか?」

張唐(ちょうとう)「武安君(ぶあんくん)(白起(はくき))は、南は強楚(きょうそ)を挫(くじ)き、北は燕(えん)・趙(ちょう)を威(おど)し、戦えば勝ち攻めれば取り、城を破り邑(ゆう)を墮(お)とすこと数知れず、臣(わたくし)の功績など到底及ばない」

甘羅(かんら)「応侯(おうこう)(范雎(はんしょ))が秦(しん)に用(もち)いられた時、文信侯(ぶんしんこう)(呂不韋(りょふい))とどちらが権力を振るったでしょうか」

張唐(ちょうとう)「応侯(おうこう)(范雎(はんしょ))は文信侯(ぶんしんこう)(呂不韋(りょふい))には及ばない」

甘羅(かんら)「卿(あなた)は応侯(おうこう)(范雎(はんしょ))が文信侯(ぶんしんこう)(呂不韋(りょふい))に及ばないのが、はっきりとお分かりですか?」

張唐(ちょうとう)「分かっている」

そこで甘羅(かんら)は言った。

「応侯(おうこう)(范雎(はんしょ))が趙(ちょう)を攻めようとした時、武安君(ぶあんくん)(白起(はくき))が難色を示したので、咸陽(かんよう)を去ること7里の杜郵(とゆう)において死を賜(たまわ)りました。今、文信侯(ぶんしんこう)(呂不韋(りょふい))は自(みずか)ら卿(あなた)に燕(えん)の宰相(さいしょう)となるように頼まれたのに、卿(あなた)は行こうとされません。臣(わたくし)には卿(あなた)がどこで死なれるかは分かりません」

すると張卿(ちょうけい)(張唐(ちょうとう))は「孺子(おまえ)の言う通り行くことにしよう」と言い、旅支度をさせた。

出発の日が決まると、甘羅(かんら)は呂不韋(りょふい)に、

「臣(わたくし)に車5乗(じょう)をお貸しいただきたい。張唐(ちょうとう)のため、まず趙(ちょう)に通報したいのです」

と言った。そこで呂不韋(りょふい)は参内して始皇帝(しこうてい)に言上した。

「かつての甘茂(かんぼう)の孫・甘羅(かんら)は年少ですが、名家の子孫で諸侯もみな聞き知っています。今、張唐(ちょうとう)は病(やまい)と称して赴任することを承知しなかったのに、甘羅(かんら)は張唐(ちょうとう)を赴任するように説得して、まず趙(ちょう)に通報したいと願っております。どうかお許しいただきますように」

これを受け、始皇帝(しこうてい)はまず甘羅(かんら)を引見し、その後で趙(ちょう)に派遣した。


趙(ちょう)の襄王(じょうおう)が甘羅(かんら)を郊外まで出迎えると、甘羅(かんら)は趙王(ちょうおう)(襄王(じょうおう))に言った。

甘羅(かんら)「王(おう)(襄王(じょうおう))は燕(えん)の太子(たいし)丹(たん)が、秦(しん)に入って人質となっていることをご存知ですか?」

襄王(じょうおう)「聞いている」

甘羅(かんら)「張唐(ちょうとう)が燕(えん)の宰相(さいしょう)となるのをご存知ですか?」

襄王(じょうおう)「聞いている」

甘羅(かんら)「燕(えん)の太子(たいし)丹(たん)が秦(しん)に入ったのは燕(えん)が秦(しん)を欺(あざむ)かない証(あかし)であり、張唐(ちょうとう)が燕(えん)の宰相(さいしょう)となるのは秦(しん)が燕(えん)を欺(あざむ)かない証(あかし)です。これは趙(ちょう)を攻めて河間(かかん)の地を広げるためであり、趙(ちょう)にとっては危険なことです。王(おう)(襄王(じょうおう))におかれましては、5城を秦(しん)に献上して河間(かかん)の地を広げさせ、秦(しん)に『燕(えん)の太子(たいし)丹(たん)を燕(えん)に帰し、強趙(きょうちょう)と共に弱燕(じゃくえん)を攻撃する』ように要請するのが良いかと存じます」

趙王(ちょうおう)(襄王(じょうおう))はすぐに5城を割(さ)いて秦(しん)の河間(かかん)の地を広げさせたので、秦(しん)は燕(えん)の太子(たいし)丹(たん)を帰し、趙(ちょう)は燕(えん)を攻めて上谷(じょうこく)の30城を取り、その内の11城を秦(しん)に分けた。

甘羅(かんら)が帰って報告すると、秦(しん)は甘羅(かんら)を上卿(じょうけい)に封じ、元の甘茂(かんぼう)の田宅を下賜(かし)した。


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