正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧⑱泰山郡于氏(于禁・于圭)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
泰山郡于氏系図
泰山郡于氏系図
この記事では泰山郡于氏の人物、
についてまとめています。
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う①(泰山于氏)
第1世代(于禁)
于禁・文則
生年不詳〜魏の黄初2年(221年頃)没。兗州・泰山郡・鉅平県(鉅平国)の人。子は于圭。曹操の将。
曹操に仕える
光和7年(184年)、黄巾の乱の時に兵を呼び集めていた鮑信につき従った。
初平3年(192年)、曹操が兗州を治めるようになると仲間と共に出頭し、都伯(隊長)となって将軍の王朗に所属した。すると王朗は彼を「大将軍を任せられる」と曹操に推薦し、曹操は于禁を引見して話をし、軍司馬に任命した。
第一次徐州侵攻
初平4年(193年)、曹操は于禁に兵を率いて徐州に行かせ、広威(徐州・彭城国・広戚県?)を攻撃させた。于禁はこれを陥落させ、陥陣都尉に任命された。
兗州の反乱
興平元年(194年)、兗州・東郡・濮陽県における呂布討伐に参加し、別軍の将として城の南にある呂布の2陣営を撃ち破り、また東平国・須昌県において高雅を撃ち破った。
また、東平国・寿張県、済陰郡の定陶県と離狐県の攻撃、陳留郡・雍丘県における張超の包囲に参加してすべてそれらを陥落させた。
劉辟・黄邵征討
建安元年(196年)、黄巾の劉辟・黄邵らの征討に参加して版梁に駐屯した時、黄邵らが曹操の軍営に夜襲をかけてきた。于禁は直属の兵を指揮して彼らを撃破し、黄邵を斬ってその軍勢をすべて降伏させ、平虜校尉に昇進した。
袁術の陳国侵攻
建安2年(197年)、豫州(予州)・陳国に侵攻した袁術の征討に従軍して豫州(予州)・陳国・苦県の橋蕤包囲に参加し、橋蕤・李豊・梁綱・楽就ら4人の将軍を斬った。
張繡の反乱
建安2年(197年)、曹操につき従って荊州・南陽郡・宛県まで行き、張繡を降伏させたが、張繡が再び反乱を起こすと曹操は敗北を喫し、南陽郡・舞陰県に逃げ還った。
この時、軍は混乱してみなそれぞれ間道を通って曹操を探したが、于禁だけは部下数百人を指揮して戦いつつ引き揚げ、死傷者はあっても離散する者はなかった。敵の追撃が次第に緩くなると、于禁はおもむろに隊列を整え、太鼓を鳴らして帰還の途についた。
その途上、傷を受け裸で逃げる10余人の兵士に出遭った于禁がその理由を尋ねたところ、「青州兵に略奪を受けました」と言った。青州兵とは初平3年(192年)に降伏した青州の黄巾賊の部隊で、曹操は彼らを寛大に扱っていたため、それにつけ込んで平気で略奪を行ったのである。
これを聞いた于禁は「青州兵は同じ曹公(曹操)の部下でありながら、また賊になり下がったのかっ!」と怒り、そこで彼らを討伐してその罪を責め立てた。これに青州兵は慌てふためいて曹操の元に逃げ込んで訴え出たが、于禁は到着するとまず営塁を設け、すぐに曹操に謁見しなかった。
ある人が「青州兵はすでにあなたを訴えております。すぐに公(曹操)の元に行って弁明すべきです」と言うと、于禁は「今、背後には賊軍がおり、間もなく追っ手がやって来るだろう。まず備えを固めなければ、どうやって敵に対処するのだ。公(曹操)は賢明であられるから、デタラメな訴えなどお取り上げにならぬっ!」と言い、塹壕を掘り営塁を設置し終わってから曹操に謁見し、実情を詳しく説明した。
曹操はこれを喜んで「淯水における苦難は儂にとってそれこそ危急の状態だった。将軍(于禁)は混乱にありながらよく乱れず、暴虐を討ち営塁を堅めた。その動かすことができない節義は古の名将であっても及ぶまい」と言い、于禁の前後にわたる戦功を取り上げ、益寿亭侯に取り立てた。
その後于禁は再びつき従って張繡を南陽郡・穣県を攻撃し、徐州・下邳国・下邳県で呂布を捕らえ、また別郡として史渙・曹仁と共に司隷・河内郡の射犬聚に眭固を攻撃し、撃ち破って彼を斬った。
官渡の戦い
曹操が初めて袁紹を征討した時、袁紹の兵力は盛んであったが、于禁は先鋒となることを願い出た。曹操はその心意気を買い、于禁に歩兵2千人を指揮させて延津で袁紹を防がせ、自身は軍を引き連れて官渡に還った。
ちょうど徐州で劉備が叛くと、曹操は劉備を征討するため東に向かった。この時、袁紹は于禁を攻撃したが、于禁が固守したため陥落させることができなかった。
その後于禁は、楽進らと歩兵・騎兵5千を指揮して延津から西南に向かい、黄河に沿って司隷・河内郡の汲県、獲嘉国の2県まで行き、袁紹の別営・30余ヶ所を焼き払った。この時斬った首の数と捕虜にした数はそれぞれ数千、袁紹の将軍・何茂、王摩ら20余人を降伏させた。
曹操はまた、于禁に別軍を指揮させて司隷・河南尹・原武県に駐屯させ、杜氏津にある袁紹の別営を攻撃させた。于禁はこれを撃ち破って裨将軍に昇進し、官渡に還った。
この時曹操は、袁紹と陣営を連ね、土山を築いて対峙していたが、袁紹に陣営の中に矢を射込まれて死傷する士卒が多く、軍中は恐慌を来していた。そこで于禁は土山の守備隊を指揮して力の限り戦い、兵の士気は益々奮起した。
袁紹が敗れると于禁は偏将軍に昇進し、その後冀州は平定された。
旧友の昌豨を斬る
建安11年(206年)8月、徐州・東海郡の独立勢力・昌豨がまた反逆したので、曹操は于禁にその征討を命じた。
于禁が急いで進軍して昌豨を攻撃すると、昌豨は于禁と旧知の間柄だったので、于禁の元に出頭して降伏した。この時、諸将はみな「昌豨が降伏したからには公(曹操)の元に送るべきだ」と主張したが、于禁は、
「諸君は公(曹操)の常令を知らぬのかっ!常令には『包囲されて後に降伏した者は赦さない』とある。そもそも法律を奉じ命令を実行するのは、上に仕える者の守るべき節義である。昌豨は旧友ではあるが、この于禁が、節義を失う訳にはいかぬっ!」
と言い、自ら出向いて昌豨に別れを告げ、涙を流しながら彼を斬った。*1
この時曹操は青州・北海国・淳于県に駐屯していたが、これを聞くと感嘆して「昌豨が降伏する時、儂の元に来ず于禁を頼ったのは、運命ではなかろうか」と言った。これにより曹操は益々于禁を重んじるようになり、徐州・東海郡が平定されると、于禁を虎威将軍に任命した。
脚注
*1『魏書』于禁伝の注において裴松之は「包囲された後に降伏した場合、法律から言って赦されないけれども、囚人としてそれを護送することは命令に違反したことにはならない。于禁は旧友のために万一の幸運を期待することをまったくせず、その殺害を好む心のままに振る舞い、人々の意見に逆らった。最後に降伏者となり、死後に悪い諡を与えられたのは当然であろう」と批判している。
陳蘭・梅成の反乱
建安14年(209年)、揚州・廬江郡で陳蘭と梅成が叛逆すると、于禁は臧覇と共に梅成を攻撃し、張遼・張郃らは陳蘭を征討した。
于禁が到着すると、梅成は軍勢3千余人を挙げて降伏したが、降伏してから再び叛き、その軍勢は陳蘭の元に奔った。
この時、張遼らは陳蘭と対峙していたが、兵糧が少なかった。そこで于禁は兵糧輸送の役にあたって糧食を途絶えさせなかったので、張遼は陳蘭と梅成を斬ることができた。この功績により于禁は2百戸を加増され、封邑は合計1,200戸となった。
人柄
于禁は張遼・楽進・張郃・徐晃と共に名将であり、曹操が征伐するごとにみな代わる代わる起用され、進撃の時は軍の先鋒となり、帰還の時は殿となった。
しかも于禁の軍を保持する態度は厳格で整っており、賊の財物を手に入れても個人の懐に入れることはなかった。そのため(于禁が配下の士卒に与える)賞賜は特に手厚かったが、法律によって部下を統御したので、あまり兵士や民衆の心を掴めなかった。
曹操は常に朱霊を恨んでいたのでその軍営を取り上げたいと思っていた。于禁に威厳があることから、彼に数十騎を引き連れて命令書を持って行かせると、于禁は真っ直ぐに朱霊の軍営に赴いてその軍勢を取り上げたが、朱霊とその部下たちは敢えて行動を起こそうとはしなかった。
そこで曹操は朱霊を于禁配下の指揮官としたが、人々はみなおとなしく従った。彼が一目置かれている有り様はこのようであった。
曹操は于禁を左将軍に昇進させて仮節と鉞を与え、于禁の封邑から5百戸を分割して1子を列侯に封じた。
関羽に降伏する
建安24年(219年)、曹操は長安におり、曹仁に命じて樊城にいる関羽を討伐させ、また于禁に曹仁を助けさせた。
秋、長雨が続いて漢水が氾濫し、平地には数丈(1丈=2.31m)の水が溢れた。于禁ら7軍はみな水没し、于禁は諸将と高地に登って水を眺めたが、避けることができる場所はなかった。
そこへ大船に乗った関羽の攻撃を受け、結局于禁は降伏し、龐悳(龐徳)は忠節を曲げずに処刑された。そのことを聞いた曹操は長いこと哀しみ嘆き「儂が于禁を知ってから30年になるが、危機や困難に臨んで龐悳(龐徳)に及ばなかったとはっ!」と言った。
魏に還る
その後孫権が関羽を捕らえ、その軍勢を捕虜にしたので、于禁は呉に住むこととなったが、文帝(曹丕)が帝位につくと、孫権は「藩国の礼」をとって于禁を魏に還した。
文帝(曹丕)が于禁を引見すると、鬚も髪も真っ白で顔は憔悴しきっており、涙を流しながら頭を地に打ち付けて拝礼した。
文帝(曹丕)は荀林父と孟明視の故事を引き合いに出して慰め諭し、
「昔、荀林父は邲において敗北し、孟明視は殽において軍を失ったが、秦も晋も更迭せずに元の官位に復帰させた。その後晋は狄の土地を獲得し、秦は西戎に覇を唱えた。取るに足りない小国ですら、尚このような寛大さを示したのだ。まして(朕は)天子ではないか。樊城の敗北は、水害が突然訪れたためであって、戦の咎ではない。よって于禁らを元の官に復帰させる」
と言い、于禁を安遠将軍に任命した。
文帝(曹丕)は呉への使者に于禁を指名し、出発する前に北方の冀州・魏郡・鄴県に行って高陵(曹操の墓)に参拝させた。この時文帝(曹丕)は、予め御陵の建物に「関羽が戦いに勝ち、龐悳(龐徳)が憤怒しており、于禁が降伏している様子」を絵に描かせておいた。
それを見た于禁は、恥と怒りのために発病して亡くなり、厲侯と諡された。
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