正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「い」から始まる人物の一覧⑤です。

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凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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い⑤(陰・隠)

陰(陰化・陰貴人・陰夔・陰脩・陰溥・隠公〔魯〕・隠蕃)

陰化いんか

生没年不詳。

建安けんあん24年(219年)、益州えきしゅう犍為郡けんいぐん武陽県ぶようけん赤水せきすいにおいて、9日間に渡って黄龍こうりゅうが姿を現し、県内に甘露かんろが降りそそいだ。しょくの人々はこれを劉氏りゅうしに対する瑞兆ずいちょうだと考え、犍為太守けんいたいしゅ李厳りげんは、郡丞ぐんじょう宋遠そうえん武陽県令ぶようけんれい陰化いんかと共に「黄龍甘露碑こうりゅうかんろひ」を立てた*1

建興けんこう元年(223年)、丞相じょうしょう諸葛亮しょかつりょうは幕府を開くと蔣琬しょうえん茂才もさいに推挙したが、蔣琬しょうえんはあくまで劉邕りゅうよう陰化いんか龐延ほうえん廖淳りょうじゅんゆずって受けなかった。

陰化いんかは使者として孫権そんけんの元に派遣されたことがあったが、後に孫権そんけん諸葛亮しょかつりょうに送った手紙の中で「丁厷ていこう掞張えんちょう(文章言辞がうわついて華やかなこと)であり、陰化いんかは舌足らずであった。2国を和睦わぼくさせたのは、ひとえに鄧芝とうしのお陰である」と言っている。

参考文献

*1隷續れいぞく』巻十六
参考サイト:三国志モバイル人物伝 > 陰化
http://www.project-imagine.org/mujins/mobile.php?pg=a&req=In-Ka1
参考サイトさまが常時SSL化されていないためリンクを張っていません。ご了承下さい。


陰貴人いんきじん文帝ぶんてい曹丕そうひ)の貴人きじん

生没年不詳。文帝ぶんてい曹丕そうひ)の貴人きじん

黄初こうしょ元年(220年)10月、文帝ぶんてい曹丕そうひ)が帝位につくと、山陽公さんようこう後漢ごかん献帝けんてい)が2人の娘を王朝の側室としてささげ、郭貴嬪かくきひん郭皇后かくこうごう)、李貴人りきじん陰貴人いんきじんらもそろって寵愛ちょうあいを受けた。


陰貴人いんきじん光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)の貴人きじん

元始げんし5年(5年)〜永平えいへい7年(64年)没。陰麗華いんれいか光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)の貴人きじん。若き日の光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)に、「仕官するなら執金吾しつきんご、妻をめとらば陰麗華いんれいか」と言わしめた。

建武けんぶ元年(25年)に光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)が即位すると貴人きじんとして洛陽らくよう雒陽らくよう)に迎えられたが、先に郭聖通かくせいつう郭貴人かくきじん)が男子(劉彊りゅうきょう)を産んでいたことから皇后こうごうとなることを辞退する。

その後、陰貴人いんきじん劉荘りゅうそうのち明帝めいてい)を産み、わがままな性格から郭皇后かくこうごうが廃されると皇后こうごうに立てられ、明帝めいていが即位すると皇太后こうたいごうとなった。

魏書ぎしょ夏侯惇伝かこうとんでん裴松之はいしょうし注に、「建武けんぶ9年(33年)、盗賊が陰貴人いんきじんの同母弟をさらう事件があったが、役人は人質に対して考慮することを許されないため、そのまま盗賊に接近し、盗賊は結局人質を殺してしまった」というエピソードが紹介されている。


陰夔いんき

生没年不詳。袁紹えんしょうの3男・袁尚えんしょう配下の豫州刺史よしゅうしし

建安けんあん7年(202年)、袁紹えんしょう憂悶ゆうもんのうちに死ぬと、その子・袁譚えんたん袁尚えんしょうは互いにいがみ合い、それぞれが崔琰さいえんを味方につけようとした。崔琰さいえんは病気と称して固持したため牢獄に閉じ込められたが、陰夔いんき陳琳ちんりんの救助運動によりまぬかれることができた。

建安けんあん9年(204年)2月、袁尚えんしょう袁譚えんたんを攻撃に出ると、その隙を突いて曹操そうそう鄴県ぎょうけんを包囲した。7月、袁尚えんしょう鄴県ぎょうけんの救援に引き返して来るが、曹操そうそうの迎撃に敗れて陣を包囲さてしまう。

恐懼きょうく(恐れかしこまること)した袁尚えんしょうは、豫州刺史よしゅうしし陰夔いんき陳琳ちんりんを使者として降伏をうが許されず、袁尚えんしょうは夜陰にまぎれて逃亡。陰夔いんき都督将軍ととくしょうぐん馬延ばえん射声校尉せきせいこうい郭昭かくしょうと共に曹操そうそうに投降した*2

参考文献

*2陳琳ちんりん檄呉将校部曲文げきごしょうこうぶきょくぶん蕭統しょうとう 文選ぶんせん』巻四四に引用)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』> 陰夔


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陰脩いんしゅう

生没年不詳。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんの人。

後漢ごかんの末期、潁川太守えいせんたいしゅとなった陰脩いんしゅうは、優れた人物を抜擢することに尽力し、張仲ちょうちゅう鍾繇しょうよう荀彧じゅんいく張礼ちょうれい杜祐とゆう荀攸じゅんゆう郭図かくとらを見出して当時の朝廷を光り輝かせた。

初平しょへい元年(190年)、当時少府しょうふであった陰脩いんしゅうは、太傅たいふ馬日磾ばびつてい太僕たいぼく趙岐ちょうき胡母班こぼはんらと共に、董卓とうたくから「反董卓とうたく連合を解散させること」を命じる勅命を受けた。


陰脩いんしゅう」の関連記事

陰溥いんほ

生没年不詳。司隷しれい河内郡かだいぐんの人。劉璋りゅうしょうの配下。

曹操そうそう荊州けいしゅうを征討して、すでに漢中かんちゅうを平定したと聞いた劉璋りゅうしょうは、陰溥いんほを派遣して曹操そうそうに敬意を表した。


隠公いんこう

春秋しゅんじゅう時代前期、の第14代君主(在位:紀元前722年~紀元前712年)。生年不詳〜紀元前712年没。いみな息姑そくこ。父はの第13代君主・恵公けいこう

恵公けいこうの1番目の夫人ふじん孟子もうしが亡くなると、のち夫人ふじん聲子せいし声子せいし)は息姑そくこ隠公いんこう)を生んだが、その後恵公けいこうは、そう武公ぶこう王女おうじょ仲子ちゅうし正夫人せいふじんに迎え、仲子ちゅうし太子たいしいん*3桓公かんこう)を生んだ。

こうした事情から隠公いんこうは、恵公けいこうの死後の君主となっても、弟の太子たいしいん*3が成人するまでの摂政せっしょうの気持ちでいた。

隠公いんこう11年(紀元前712年)、大夫たいふ羽父うほ公子こうし)は、高位につきたいがために隠公いんこうの機嫌を取ろうとして太子たいしいん*3の殺害を願い出たが、隠公いんこうは「自分は太子たいしいん*3が若いから仮に位についているのであって、やがて太子たいしいん*3に位をゆずって隠居したいと思っている」と答えた。

「これでは自分が重罪に問われてしまう」と考えた羽父うほ公子こうし)は、秘かに太子たいしいん*3に向かって隠公いんこう讒言ざんげんし、「あなたのために隠公いんこうを亡き者にいたしましょう」と言って、隠公いんこうが祭礼のために大臣だいじん蔿氏るしの家に宿泊したところを殺害し、その罪を蔿氏るしに着せた。


隠公いんこうの君主としての実績は高く評価されても良いものと思われるが、正史せいし三国志さんごくしではなぜか、「(国王が娯楽のために遠出をして)川狩り(漁)の見物をしたこと」や、「なつ(農繁期)に城を築いたこと」などをげ、悪い行いの例とされる。

脚注

*3またはとも言う。


隠蕃いんはん

生没年不詳。青州せいしゅうの人。弁舌の才があった。

明帝めいてい曹叡そうえい)は隠蕃いんはんに、「いつわってに投降し、廷尉ていいの官にいて重臣たちを離反するように仕向けよ」と命じ、黄龍こうりゅう2年(230年)、に投降した隠蕃いんはんし入れた孫権そんけんは、彼が盛んに司法のことを論じたことから廷尉監ていいかん(裁判官)に任命する。

すると隠蕃いんはんは、衛将軍えいしょうぐん全琮ぜんそう左将軍さしょうぐん朱拠しゅきょ廷尉ていい郝普かくふ潘濬はんしゅんの子・潘緒はんしょ一廉ひとかどの人物たちと親交を結び、多くの人々が彼に心を寄せて尊重するようになった。


事が発覚して捕らえられた隠蕃いんはんは、陰謀に加わった者の名をげるように糾弾きゅうだんされたが、何ひとつ答えようとしなかった。

そこで孫権そんけんが「どうしてみずからの肉体の苦しみをしのんでまでも、他人をかばい立てするのか」と問うと隠蕃いんはんは、「孫君そんくんよ、大丈夫だいじょうぶが事を成さんとする時、共同して事を計る者がいないはずはない。しかし烈士れっし(名誉のためにじゅんじる人物)は、死んでも他人を巻き添えにはせぬものだ」と言い、ついに口を割らぬまま死んだ。

特に隠蕃いんはんに傾倒していた郝普かくふは、孫権そんけんに「あなたは前に盛んに隠蕃いんはんを称賛し、しかも彼が不当な冷遇を受けているとして朝廷にうらみ言を述べておった。隠蕃いんはん謀叛むほんに走らせたのは、みなあなたに責任があるのだ」と問責されて自殺し、朱拠しゅきょも長期の禁錮きんこを命ぜられた。

隠蕃いんはんが死ぬと人々は、隠蕃いんはんとの交わりをこばんで付き合おうとしなかった潘濬はんしゅん羊衜ようどう宣詔郎せんしょうろう楊迪ようてきらの先見の明に敬服した。



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【三国志人物伝】総索引