正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「い」から始まる人物の一覧⑩です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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い⑩(陰・隠)
陰(陰化・陰貴人・陰夔・陰脩・陰溥・隠公〔魯〕・隠蕃)
陰化
生没年不詳。
建安24年(219年)、益州・犍為郡・武陽県の赤水において、9日間に渡って黄龍が姿を現し、県内に甘露が降り注いだ。蜀の人々はこれを劉氏に対する瑞兆だと考え、犍為太守の李厳は、郡丞の宋遠、武陽県令の陰化と共に「黄龍甘露碑」を立てた*1。
建興元年(223年)、丞相の諸葛亮は幕府を開くと蔣琬を茂才に推挙したが、蔣琬はあくまで劉邕、陰化、龐延、廖淳に譲って受けなかった。
陰化は使者として孫権の元に派遣されたことがあったが、後に孫権が諸葛亮に送った手紙の中で「丁厷は掞張(文章言辞が浮ついて華やかなこと)であり、陰化は舌足らずであった。2国を和睦させたのは、ひとえに鄧芝のお陰である」と言っている。
参考文献
*1『隷續』巻十六
参考サイト:三国志モバイル人物伝 > 陰化
http://www.project-imagine.org/mujins/mobile.php?pg=a&req=In-Ka1
参考サイトさまが常時SSL化されていないためリンクを張っていません。ご了承下さい。
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陰貴人[文帝(曹丕)の貴人]
生没年不詳。文帝(曹丕)の貴人。
黄初元年(220年)10月、文帝(曹丕)が帝位につくと、山陽公(後漢の献帝)が2人の娘を魏王朝の側室として捧げ、郭貴嬪(郭皇后)、李貴人、陰貴人らもそろって寵愛を受けた。
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陰貴人[光武帝(劉秀)の貴人]
元始5年(5年)〜永平7年(64年)没。陰麗華。光武帝(劉秀)の貴人。若き日の光武帝(劉秀)に、「仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」と言わしめた。
建武元年(25年)に光武帝(劉秀)が即位すると貴人として洛陽(雒陽)に迎えられたが、先に郭聖通(郭貴人)が男子(劉彊)を産んでいたことから皇后となることを辞退する。
その後、陰貴人は劉荘(後の明帝)を産み、わがままな性格から郭皇后が廃されると皇后に立てられ、明帝が即位すると皇太后となった。
『魏書』夏侯惇伝の裴松之注に、「建武9年(33年)、盗賊が陰貴人の同母弟をさらう事件があったが、役人は人質に対して考慮することを許されないため、そのまま盗賊に接近し、盗賊は結局人質を殺してしまった」というエピソードが紹介されている。
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陰夔
生没年不詳。袁紹の3男・袁尚配下の豫州刺史。
建安7年(202年)、袁紹が憂悶のうちに死ぬと、その子・袁譚と袁尚は互いにいがみ合い、それぞれが崔琰を味方につけようとした。崔琰は病気と称して固持したため牢獄に閉じ込められたが、陰夔と陳琳の救助運動により免れることができた。
建安9年(204年)2月、袁尚が袁譚を攻撃に出ると、その隙を突いて曹操が鄴県を包囲した。7月、袁尚は鄴県の救援に引き返して来るが、曹操の迎撃に敗れて陣を包囲さてしまう。
恐懼(恐れ畏まること)した袁尚は、豫州刺史・陰夔と陳琳を使者として降伏を乞うが許されず、袁尚は夜陰に紛れて逃亡。陰夔は都督将軍・馬延、射声校尉・郭昭と共に曹操に投降した*2。
参考文献
*2陳琳『檄呉将校部曲文』(蕭統 『文選』巻四四に引用)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』> 陰夔
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陰脩
生没年不詳。荊州・南陽郡の人。
後漢の末期、潁川太守となった陰脩は優れた人物を抜擢することに尽力し、張仲、鍾繇、荀彧、張礼、杜祐、荀攸、郭図らを見出して当時の朝廷を光り輝かせた。
初平元年(190年)、当時少府であった陰脩は、太傅の馬日磾、太僕の趙岐、胡母班らと共に、董卓から「反董卓連合を解散させること」を命じる勅命を受けた。
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隠公〔魯〕
春秋時代前期、魯の第14代君主(在位:紀元前722年~紀元前712年)。生年不詳〜紀元前712年没。諱は息姑。父は魯の第13代君主・恵公。
恵公の1番目の夫人・孟子が亡くなると、後の夫人・聲子(声子)は息姑(隠公)を生んだが、その後恵公は、宋の武公の王女・仲子を正夫人に迎え、仲子は太子允*3(桓公)を生んだ。
こうした事情から隠公は、恵公の死後魯の君主となっても、弟の太子允*3が成人するまでの摂政の気持ちでいた。
隠公11年(紀元前712年)、大夫の羽父(公子翬)は、高位につきたいがために隠公の機嫌を取ろうとして太子允*3の殺害を願い出たが、隠公は「自分は太子允*3が若いから仮に位についているのであって、やがて太子允*3に位を譲って隠居したいと思っている」と答えた。
「これでは自分が重罪に問われてしまう」と考えた羽父(公子翬)は、秘かに太子允*3に向かって隠公を讒言し、「あなたのために隠公を亡き者にいたしましょう」と言って、隠公が祭礼のために大臣の蔿氏の家に宿泊したところを殺害し、その罪を蔿氏に着せた。
隠公の君主としての実績は高く評価されても良いものと思われるが、正史『三国志』ではなぜか、「(国王が娯楽のために遠出をして)川狩り(漁)の見物をしたこと」や、「夏(農繁期)に城を築いたこと」などを挙げ、悪い行いの例とされる。
脚注
*3または軌とも言う。
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隠蕃
生没年不詳。青州の人。弁舌の才があった。
魏の明帝(曹叡)は隠蕃に、「偽って呉に投降し、廷尉の官に就いて重臣たちを離反するように仕向けよ」と命じた。
黄龍2年(230年)、呉に投降した隠蕃を召し入れた孫権は、彼が盛んに司法のことを論じたことから廷尉監(裁判官)に任命する。すると隠蕃は、衛将軍の全琮、左将軍の朱拠、廷尉の郝普、潘濬の子・潘緒ら一廉の人物たちと親交を結び、多くの人々が彼に心を寄せて尊重するようになった。
事が発覚して捕らえられた隠蕃は、陰謀に加わった者の名を挙げるように糾弾されたが、何ひとつ答えようとしなかった。
そこで孫権が「どうして自らの肉体の苦しみを忍んでまでも、他人をかばい立てするのか」と問うと隠蕃は、「孫君よ、大丈夫が事を成さんとする時、共同して事を計る者がいないはずはない。しかし烈士(名誉のために殉じる人物)は、死んでも他人を巻き添えにはせぬものだ」と言い、ついに口を割らぬまま死んだ。
特に隠蕃に傾倒していた郝普は、孫権に「あなたは前に盛んに隠蕃を称賛し、しかも彼が不当な冷遇を受けているとして朝廷に恨み言を述べておった。隠蕃を謀叛に走らせたのは、みなあなたに責任があるのだ」と問責されて自殺し、朱拠も長期の禁錮を命ぜられた。
隠蕃が死ぬと人々は、隠蕃との交わりを拒んで付き合おうとしなかった潘濬や羊衜、宣詔郎の楊迪らの先見の明に敬服した。
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