正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「う」から始まる人物の一覧②、「」から始まる人物の一覧です。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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う②(于)

于(う)

于吉うきつ

于吉(うきつ)

生没年 ?年〜200年
出身地 徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく
所属勢力 孫策そんさく

徐州じょしゅう下邳国かひこく曲陽県きょくようけんの水辺で太平清領書たいへいせいりょうしょを手に入れ、順帝じゅんていの時代に弟子の宮崇きゅうすうによって宮廷に献上された。

先祖代々、東部の海岸地帯に寓居かりずまいをし、呉郡ごぐん会稽郡かいけいぐん一帯を行き来して道教の教会を建て、こういて経典を誦読しょうどくし、おふだや神聖な水をもちいて病気の治療を行っていたが、建安けんあん5年(200年)、孫策そんさくの怒りを買って処刑された。


于茲うじ

生没年不詳。下邳相かひしょう徐州じょしゅう下邳国かひこく太守たいしゅ)・笮融さくゆうの部将(部隊長)。

興平こうへい2年(195年)、孫策そんさく丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)に兵を進めると、揚州刺史ようしゅうしし劉繇りゅうようを盟主として頼る笮融さくゆう秣陵城ばつりょうじょうの南に軍営を置いて孫策そんさくと戦った。

この時、孫策そんさく軍の逃亡者から「孫郎そんろう孫策そんさく)は矢に当たって死んだ」という情報を得た笮融さくゆうは、すぐさま部将の于茲うじ孫策そんさく軍に打ち入らせたが、わざと敗走する敵軍を深追いし、伏兵の包囲を受けて千人余りの犠牲者を出した。


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于綽うしゃく

生没年不詳。冀州きしゅう鉅鹿郡きょろくぐん任県じんけん県令けんれい

青龍せいりゅう3年(235年)、涼州りょうしゅう張掖郡ちょうえきぐん刪丹県さくたんけんの金山の山奥の川(玄川げんせん)が氾濫はんらんし、川の西方に霊亀に似た巨大な宝石が現れた。

すると翌年、詔書しょうしょが下り、この瑞祥ずいしょうと「古王聖帝も今まで受けたことのないもので、まこと魏国ぎこく嘉運かうん(幸運)のしるしであり、東序とうじょ(宮殿の東側の壁)に代々保存されるべき宝でございます」という太史令たいしれい高堂隆こうどうりゅうの上奏文が天下に頒布はんぷされた。

この時、任県じんけん県令けんれい于綽うしゃくはこの文書を持参して、讖緯しんい(予言)学者の張臶ちょうせんに何度も質問した。すると張臶ちょうせんは内密に「そもそも神事は未来を予告するものであって、過去にさかのぼりはしません。瑞兆ずいちょうが先に出現して後から興廃がそれに続いて起こるものです。かんはとっくの昔に滅亡し、すでに目的をげております。何の理由で過去の興起の瑞兆ずいちょうを示すことがありましょうか。この石は現在に対する変異であって、将来に対する瑞祥ずいしょうです」と語った。

魏書ぎしょ明帝紀めいていぎが注に引く魏氏春秋ぎししゅんじゅうでは、この瑞祥ずいしょうは「王朝としん王朝が交替すること」の予兆とされている。


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于詮うせん

生年不詳〜甘露かんろ3年(258年)没。将軍しょうぐん

甘露かんろ2年(257年)、諸葛誕しょかつたんに反乱を起こして揚州刺史ようしゅうしし楽綝がくちんを攻撃・殺害して寿春県じゅしゅんけんに立てもった。諸葛誕しょかつたんの要請を受けたは3万の軍勢を派遣するが、大将軍だいしょうぐん司馬昭しばしょうの26万の軍勢が到着すると城は陥落。諸葛誕しょかつたんは敵陣に突撃して斬られた。

捕らえられた諸葛誕しょかつたんの旗本の兵・数百人は、胸の前で手を組まされて一列に並ばされ、1人斬られるたびに降伏を呼びかけられたが、「諸葛公しょかつこうのために死ぬのだ。心残りはない」と、誰1人として降伏することなく斬られていった。

これを見た将軍しょうぐん于詮うせんは「大の男が主君から命を受け、 兵をひきいて人を救おうとしながら勝利を得られなかった上に、手を縛って敵に降るなど、わしの取る道ではない」と言ってかぶとを脱ぎ、敵陣に斬り込んで死んだ。


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于氐根うていこん于羝根うていこん羝根ていこん

生没年不詳。黄巾こうきんの乱に呼応して蜂起した河北かほくぞく黒山賊こくざんぞく白波賊はくはぞくなど)の頭目の1人。ひげ(あごひげ)が豊かであったことから于氐根うていこんと名乗ったと言う。

霊帝れいていは彼らを討伐することができず、頭目の1人である楊鳳ようほう黒山校尉こくざんこういの官位をさずけて諸山賊を取り締まらせ、孝廉こうれん計吏けいりを推薦する権利を与えた。

初平しょへい4年(193年)3月、冀州きしゅう魏郡ぎぐんの軍勢が黒山賊こくざんぞく于毒うどくと結んで謀叛むほんを起こすと、袁紹えんしょう朝歌県ちょうかけん鹿場山ろくじょうさん蒼厳谷そうげんこくに侵攻して于毒うどくと朝廷(李傕りかく郭汜かくし)が任命した冀州牧きしゅうぼく壺寿こじゅを斬り殺し、于氐根うていこんらのとりでをことごとく打ち壊して数万の首級をあげた。


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于定国うていこく

生年不詳〜永光えいこう4年(紀元前40年)没。

前漢ぜんかん時代に廷尉ていい(司法官)となって、その公正さで評判があり、「張釈之ちょうしゃくし廷尉ていいとなると天下に冤罪えんざいの民はいなくなった。于定国うていこく廷尉ていいとなると民は冤罪えんざいを心配することがなくなった」とたたえた。

廷尉ていいを18年つとめ、甘露かんろ2年(紀元前52年)に御史大夫じょしたいふ、翌年丞相じょうしょうに任命され西平侯せいへいこうに封ぜられたが、永光えいこう元年(紀元前43年)、日食の発生などを叱責されて職を辞した。

歩騭ほしつ摘発てきはつ濫発らんぱつする中書ちゅうしょ呂壱りょいつを批判した際に「司法の理想」として名前を出したほか、鍾繇しょうようが亡くなった際、鍾繇しょうよう廷尉ていいだった時に、裁判を処理して明確な判断を示し、民にうらみをいだく者がなかったことから、于定国うていこく張釈之ちょうしゃくしかんにおける地位に相当すると称賛された。


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于毒うどく

生没年不詳。黄巾こうきんの乱に呼応して蜂起した河北かほくぞく黒山賊こくざんぞくの頭目の1人。

霊帝れいていは彼らを討伐することができず、頭目の1人である楊鳳ようほう黒山校尉こくざんこういの官位をさずけて諸山賊を取り締まらせ、孝廉こうれん計吏けいりを推薦する権利を与えた。

初平しょへい4年(193年)3月、于毒うどく冀州きしゅう魏郡ぎぐんの軍勢と結んで袁紹えんしょう謀叛むほんを起こすが、袁紹えんしょう朝歌県ちょうかけん鹿場山ろくじょうさん蒼厳谷そうげんこくに侵攻して于毒うどくを攻撃。5日間包囲してこれを破り、于毒うどくは朝廷(李傕りかく郭汜かくし)が任命した冀州牧きしゅうぼく壺寿こじゅと共に斬り殺された。


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于麋うび

生没年不詳。揚州刺史ようしゅうしし劉繇りゅうようの将。

興平こうへい元年(194年)、樊能はんのうと共に横江津おうこうしんに駐屯し、当利口とうりこうに駐屯する張英ちょうえいと連携して袁術えんじゅつの勢力拡大を阻止していたが、翌年、孫策そんさく江東こうとうの平定に乗り出すと孫策そんさくに敗れて敗走する。

その後、孫策そんさく丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)の笮融さくゆう薛礼せつれいの攻撃に移ると、軍勢を集め直した于麋うびは、樊能はんのうと共に孫策そんさくに奪われた牛渚ぎゅうしょの軍営を攻撃して奪還するが、兵をかえして来た孫策そんさくに撃ち破られて再び牛渚ぎゅうしょを奪われ、男女1万人を生け捕りにされた。


三国志演義さんごくしえんぎでは干麋かんびという名で登場し、牛渚ぎゅうしょ孫策そんさくに一騎打ちをいどむも3合とまじえぬうちに生け捕られ、陣に帰った時には孫策そんさくの脇の下でめ殺されていた。


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【三国志人物伝】総索引