正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(52)(楽隠・楽何当・楽莒・楽資・楽就・楽詳・楽敦)です。
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凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
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か(52)
楽(がく)
楽隠
生年不詳〜光熹元年(189年)8月没。冀州・安平郡・観津県の人。車騎将軍・何苗の長史。
同郷の牽招が10余歳の時、楽隠の元で学び、後に楽隠が車騎将軍・何苗の長史となると、楽隠に随行して学業を修了した。
光熹元年(189年)8月、大将軍・何進が嘉徳殿で張讓らに殺害されると、門外で待機していた何進配下の呉匡・張璋は、袁術と合流して「大将軍(何進)を殺したのは(当時何進と対立していた)車騎将軍(何苗)であるっ!」として嘉徳殿を攻め、車騎将軍・何苗の長史であった楽隠は何苗と共に殺害された。
牽招は楽隠の門生・史路らと協力し、白刃を冒して共に楽隠の遺体を収容し、遺体を送って帰郷の途についたが、その途上で略奪に遭い、史路らはみな逃げ散った。
賊が棺を叩き斬り、釘を抜き取ろうとすると、牽招は涙を流して見逃してくれるように頼んだ。すると賊はそれを「義気のある行為」だと感心し、放置して立ち去ったと言う。
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楽何当
生没年不詳。公孫瓚が寵遇した商人。
初平4年(193年)に大司馬・劉虞を処刑した公孫瓚は、幽州の行政と軍務を統括し、役人の子弟のうち優秀な者がいれば、決まってその者を圧迫して困窮の状態に陥れた。
ある人がその訳を尋ねると、公孫瓚は「今、役人の子弟や立派な人物を取り立てて、彼らを富貴にしてやったとしても、みな自分がそのような官職につくのは当然だと考え、儂が良くしてやっていることに感謝しないだろう」と言った。
このようなことから、公孫瓚が寵遇し、したい放題にさせている者は、だいたい凡庸な者が多かった。
中でも元占師(卜数師)の劉緯台、絹商人(販繒)の李移子、商人の楽何当ら3人とは義兄弟の契りを結び、自分(公孫瓚)は「伯(兄弟の1番上)」と称し、3人を「仲(兄弟の2番目)」「叔(兄弟の3番目)」「季(兄弟の4番目)」と呼んでいた。
3人共、巨万の富を有した大金持ちであったため、彼らの娘を自分の息子の嫁にしたりして、常々彼らを前漢の曲周侯(酈商)や潁陰侯(灌嬰)*1に擬えていた。
脚注
*1曲周侯(酈商)は元は身分が卑しく、潁陰侯(灌嬰)は元絹商人であった。
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楽莒
生没年不詳。春秋時代・宋の臣下。
宋の文公22年(紀元前589年)、文公が亡くなり、子の共公(瑕)が立った。
この時華元と楽莒は、先例を破って今までになく豪華に文公を葬ったので、君子らは華元と楽莒を「臣道を尽くさない者だ」と譏った。
『魏書』文帝紀の魏の黄初3年(222年)、首陽山の東に寿陵(生前に作る陵墓)を築き、葬礼の制度を制定して述べた中に、
「宋公(文公)に対して厚葬がなされた時、君子は華元・楽莒を臣道に外れていると評したが、それは主君の悪を放置したと考えたからである」
とあるが、裴松之は孫盛の「昔、華元は宋の文公のために厚葬を行ったので、君子は君を悪の中に棄て去ったと判断した」という言葉を注に引いている。
また『魏書』明帝紀の裴松之注にも「華元・楽莒が宋の文公のために厚葬を行った」ことが引用されている。
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楽資
生没年不詳。晋の人。
『山陽公載記』の撰者。『山陽公載記』は隋志によれば10巻。
「山陽公」とは、後漢の献帝が魏の文帝(曹丕)に譲位した後の称号であり、「載記」とは地方の覇者の事跡を記す場合に使われる語であり、献帝には相応しくない。
裴松之はその注の中で、袁暐の『献帝春秋』と共に「猥雑で虚偽・誤謬(嘘偽り・誤り)に満ちた記事が数多くある」と批判している。
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楽就
生没年不詳。袁術配下の将。
建安2年(197年)秋9月、袁術が豫州(予州)・陳国に侵攻すると、曹操は袁術征伐のために東方に赴いた。
袁術は「曹操が自ら攻めて来た」と聞くと、
- 橋蕤
- 李豊
- 梁綱
- 楽就
らを豫州(予州)・沛国・蘄県に残して自分は軍を棄て、淮水を南に渡って逃走した。
曹操は蘄県に到着すると橋蕤らを撃破してすべて斬り殺し、豫州(予州)・潁川郡・許県に帰還した。
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楽詳・文載
生没年不詳。司隷・河東郡の人。
若い頃から学問を好んだ。
建安年間(196年〜220年)の初め、楽詳は荊州・南郡出身の公車司馬令・謝該が『左氏伝(春秋左氏伝)』に詳しいと聞くや、荊州・南陽郡から歩いて豫州(予州)・潁川郡・許県に行き、疑問の箇所や難解な箇所などについて要点を質問した。
現在ある『左氏楽氏問七十二事』は楽詳が著述したものである。質問が終わると郷里に帰った。
当時、河東太守であった杜畿は非常な学問好きであったので、楽詳を文学祭酒に任命して若い者たちを教育させた。その結果、河東郡では学問が非常に盛んになった。
魏の文帝(曹丕)の黄初年間(220年〜226年)になると、中央に徵されて博士に任命された。
この時、ちょうど太学が設立されたところで博士が10余人いたが、彼らの学問は偏っているか狭い場合が多く、その上、専門分野の理解が不充分であった。そのため、ほとんど自分で教育に当たることはなく、官に就いているだけだったが、ただ楽詳だけは五経のすべてを自ら教授した。
難解な事柄について質問して学生が答えられない時でも、楽詳は腹を立てた様子もなく、杖で地面に絵を描いたり、例えや類似の話しを引いたりして、寝食を忘れるほど教授したので、博士の中でただ1人遠近に名声が響き渡った。
楽詳は学問に精通していた上に、星の運行について詳しかったので、別に詔勅を受けて太史にと共に音律と暦を制定し、魏の明帝(曹叡)の太和年間(227年〜233年)に騎都尉が転任した。
楽詳は学問には優れていたが、実務の能力に乏しかった。そのため三世*2の時代を経ても、結局地方に出て宰守(太守)とはならなかった。
魏の斉王(曹芳)の正始年間(240年〜249年)になって、老齢のために引退して家に帰った。出身地(本国)の一族(宗族)も彼を頼って帰り、門弟(門徒)は数千人にのぼった。
魏の高貴郷公(曹髦)の甘露2年(257年)、楽詳は90余歳であったが、上書して杜畿の残した業績について弁護し、朝廷はそれに心を動かされた。
詔勅が下され、(杜畿の子・)杜如の子・杜預を豊楽亭侯に封じ、邑百戸を与えた。
『魏略』は賈洪・董遇・邯鄲淳・薛夏・隗禧・蘇林・楽詳ら7人を儒学の宗家としている。
脚注
*2文帝(曹丕)・明帝(曹叡)・斉王(曹芳)の3世。
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楽敦
生年不詳〜魏の嘉平6年(254年)没。魏の斉王(曹芳)期の永寧署令(宦官)。
中書令の李豊は、かねてから大将軍・司馬師に親任されていたが、秘かに太常の夏侯玄に心を寄せ、皇后の父である光禄大夫の張緝と結託して、夏侯玄に政治を執らせようと企んだ。
魏の斉王(曹芳)の嘉平6年(254年)2月、李豊らは、貴人を任命するため帝[斉王(曹芳)]が宮殿の外にお出ましになり、諸門に近衛兵がいる機会を利用し、司馬師を誅殺して夏侯玄と交代させ、張緝を驃騎将軍にしようと考えた。
李豊は内密で宦官の、
- 黄門監の蘇鑠
- 永寧署令の楽敦
- 宂従僕射の劉賢
らに計画を打ち明けて、
「君たちは宮中にいて多くの不法行為を犯しているが、大将軍は厳しい性格ゆえ、しきりにこれを問題にしておられる。張当の例*3を自らの鏡にすべきだ」
と言うと、蘇鑠らはみな李豊の命令従うことを承諾した。
この陰謀を耳にした司馬師は李豊に「会いたい」と申し入れ、李豊が何も知らずにやって来ると、即座に彼を殺害した。
事は有司(役人)に下され、その結果、李豊・夏侯玄・張緝・蘇鑠・楽敦・劉賢らはみな三族皆殺しの処分を受け、残りの親族は幽州・楽浪郡に流された。
脚注
*3魏の斉王(曹芳)の嘉平元年(249年)、黄門の張当は曹爽と共謀した廉で誅殺された。
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