正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(53)南郡なんぐん霍氏かくし霍篤かくとく霍峻かくしゅん霍弋かくか霍彪かくひょう)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

南郡霍氏系図

南郡霍氏系図

南郡なんぐん霍氏かくし系図


この記事では南郡なんぐん霍氏かくしの人物、

についてまとめています。


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か(53)南郡霍氏

第1世代(霍篤・霍峻)

霍篤かくとく

生没年不詳。荊州けいしゅう南郡なんぐん枝江県しこうけんの人。弟に霍峻かくしゅん

郷里において私兵数百人を集めた。

霍篤かくとくが亡くなると、荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうは彼の弟の霍峻かくしゅんに命じてその軍勢を取り仕切らせた。


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霍峻かくしゅん仲邈ちゅうばく

光和こうわ3年(180年)〜建安けんあん24年(219年)没。荊州けいしゅう南郡なんぐん枝江県しこうけんの人。子は霍弋かくよく。兄に霍篤かくとく

兄の霍篤かくとくが亡くなると、荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうの命を受けてその軍勢を取り仕切った。

建安けんあん13年(208年)に劉表りゅうひょうが亡くなると、霍峻かくしゅんは軍勢をひきいて劉備りゅうびに帰服し、劉備りゅうび霍峻かくしゅん中郎将ちゅうろうしょうに任命した。

建安けんあん17年(212年)に劉備りゅうび葭萌かぼうから南にかえって劉璋りゅうしょうを襲撃した時、霍峻かくしゅんめ置いて葭萌城かぼうじょうを守備させた。

この時、漢中郡かんちゅうぐん張魯ちょうろ将軍しょうぐん楊帛ようはくを派遣して霍峻かくしゅんに誘いをかけ、共に城を守ろうと求めたが、霍峻かくしゅんは、

拙者せっしゃの首を手に入れることはできても、城を手に入れることはできないぞ」

と言ったので、楊帛ようはくは退散した。

その後、劉璋りゅうしょうの将・扶禁ふきん向存しょうそんらが1万余人の兵をひきいて閬水ろうすいさかのぼって攻め寄せ、霍峻かくしゅんを包囲すること1年近くに及んだが、陥落かんらくさせることはできなかった。

城中の霍峻かくしゅんの兵はわずか数百人であったが、敵が油断しているすきうかがい、精鋭を選んで出撃して大いにこれを撃破して、たちまち向存しょうそんの首を斬った。

劉備りゅうびしょくを平定すると霍峻かくしゅんの手柄をめ称え、建安けんあん22年(217年)に広漢郡こうかんぐんを分割して梓潼郡しとうぐんを設置すると、霍峻かくしゅん梓潼太守しとうたいしゅ裨将軍ひしょうぐんに任命した。

在官3年で40歳で亡くなり、遺体は成都県せいとけん埋葬まいそうされた。


劉備りゅうびは大いに悼惜とうせき(死者をいたみしむこと)の念を示し、諸葛亮しょかつりょうみことのりを下して、

霍峻かくしゅんは立派な人物(佳士)である上に、国家に対して功績があった。らい*1を挙行したいと思う*2

と述べた。

こうして劉備りゅうびみずから群僚をひきいて弔祭ちょうさいのぞみ、そのまま墓の上で宿泊したが、このことは当時の人々に名誉なことだとたたえられた。

脚注

*1酒を地にそそいで霊を祭る儀式。

*2原文:「峻既佳士,加有功於國,欲行爵。」「欲行爵」の訳はちくま学芸がくげい文庫ぶんこ正史せいし三国志さんごくしより。


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第2世代(霍弋)

霍弋かくよく紹先しょうせん

生没年不詳。荊州けいしゅう南郡なんぐん枝江県しこうけんの人。父は霍峻かくしゅん。孫に霍彪かくひょう

劉備りゅうびの末年[しょく章武しょうぶ3年(223年)]に太子舍人たいししゃじんに任命され、劉禅りゅうぜんが即位すると謁者えっしゃに登用された。

しょく丞相じょうしょう諸葛亮しょかつりょうが北の漢中郡かんちゅうぐんに駐屯した時、諸葛亮しょかつりょうは要請して霍弋かくよく記室きしつとし、諸葛亮しょかつりょうの養子・諸葛喬しょかつきょうと共に各地をめぐり歩かせた。諸葛亮しょかつりょうが亡くなると、黄門侍郎こうもんじろうに任命された。

後主こうしゅ劉禅りゅうぜん劉璿りゅうせん太子たいしに立てた際、霍弋かくよく太子たいし中庶子ちゅうしょしに任命した。

劉璿りゅうせんは騎射を好み、宮中の出入りに節度がなかったので、霍弋かくよくは古義(昔の正しい道理)を引き合いに出して言葉を尽くしていさめた。

のち参軍さんぐんとして庲降屯らいこうとん副貳都督ふくじととくとなり、また護軍ごぐんに転じたが、これまで通りの職務を担当した。

また当時、永昌郡えいしょうぐん獠族りょうぞくが要害をたのんで服従せず、たびたび被害を与えていたので、霍弋かくよく永昌太守えいしょうたいしゅを兼務させ、偏軍へんぐん(少ない兵)をひきいてこれを討伐させた。すると霍弋かくよく獠族りょうぞく豪帥ごうすい(指導者)を斬り、その邑落ゆうらくを破壊して郡界の平穏を取り戻した。

その後、監軍かんぐん翊軍将軍よくぐんしょうぐんに昇進し、建寧太守けんねいたいしゅを兼務し、帰還して南方の郡の軍事を統括した。


霍弋かくよくしょく景耀けいよう6年(263年)に安南将軍あんなんしょうぐんに称号を進めたが、この年、しょく併合へいごうされた。

霍弋かくよくは「軍が来た」と聞くと、しょくの都・成都県せいとけんに駆けつけたいと望んだが、後主こうしゅ劉禅りゅうぜんは「敵へのそなえはすでにさだまっている」として聞き入れなかった。

成都県せいとけんが開城するに及び、霍弋かくよく喪服もふく素服そふく)を着て号泣ごうきゅう号哭ごうこく)し、3日にわたって大喪たいそうに服した。

諸将はみな「すみやかに降伏すべきだ」と勧めたが、霍弋かくよくは 、

「今、交通は途絶して、まだご主君(劉禅りゅうぜん)の安否も分からないうちに、国家の大事や我が身の進退を決定してはならない。もし主上(劉禅りゅうぜん)がと講和され、礼をもってぐうされておられるのならば、それから我が境域をたもって降伏しても遅くはあるまい。もし万一危険な目にわれはずかしめを受けておられるのならば、私は死を覚悟して抵抗するつもりだ。あなた方はなぜ、降伏の遅い速いなどということを論じているのかっ!」

と言った。

そして「後主こうしゅ劉禅りゅうぜんが東方(洛陽らくよう)にうつった」との情報を得た霍弋かくよくは、そこで初めて荊州えいしゅう襄陽郡じょうようぐん出身の巴東領軍はとうりょうぐん羅憲らけんと共に6郡の将・太守たいしゅひきいて元帝げんてい曹奐そうかん)に上奏し、

わたしは『人は三者(父・母・君主)のお陰で生きているが、そのつかえ方は同じで、危難があればその命をささげるものである』と聞いております。今、わたしの国は敗れ、主君は降伏なさっておりますので、死をもって守るあてがありません。それゆえ陛下に臣礼をとった次第であり、えて二心ふたごころいだくことはありません」

べた。

しん文王ぶんおう司馬昭しばしょう)はこれをたたえ、霍弋かくよく南中都督なんちゅうととくに任命して、名目だけでなく実際に職務を任せた。

のちに兵を指揮させて呂興りょこうを救援させた。また、交阯郡こうしぐん日南郡じつなんぐん九真郡きゅうしんぐんの3郡を平定し、功績によって列侯れっこうに封ぜられ、称号を進めて高い恩賞を受けた。


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第4世代(霍彪)

霍彪かくひょう

生没年不詳。荊州けいしゅう南郡なんぐん枝江県しこうけんの人。祖父は霍弋かくよく

しん越雟太守えっすいたいしゅとなった。


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