正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(51)中山楽氏[楽羊・楽毅・楽間・楽乗・楽瑕公・楽臣公(楽巨公)・楽叔]です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
中山楽氏系図
中山楽氏系図
※楽乗・楽瑕公・楽臣公(楽巨公)の世代・続柄は不明。
楽叔は楽毅の孫にあたるが、父親は不明。
この記事では中山楽氏の人物、
についてまとめています。
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か(51)(中山楽氏)
第0世代(楽羊)
楽羊
生没年不詳。子孫に楽毅。
戦国時代・魏の文侯の将軍として中山国を攻めた。
すると中山国の国君は、城中にいた楽羊の子を殺し、その肉でつくった羹(肉・野菜を入れた熱い吸い物)を送ってよこした。これに楽羊は、我が子の肉の羹を飲み干して自らの覚悟を示すと、ついに中山国を攻め滅ぼし、魏の文侯は楽羊を霊寿に封じた。
楽羊は死後霊寿に葬られたので、以降、その子孫も霊寿に住むようになった。
その後中山国は国を再興したが、趙の武霊王の時にまた滅ぼされた。
楽毅は楽氏の子孫である。
第1世代(楽毅)
楽毅
生没年不詳。中山・霊寿の人。子は楽間。一族(宗族)に楽乗。祖先に楽羊。『三国志』では、蜀の諸葛亮が管仲(春秋時代・斉の桓公の宰相)と共に自らを擬えたことで有名。
趙
楽毅は才知に優れ、軍事を好んだことから趙人に抜擢されたが、趙・恵文王の4年(紀元前295年)、「沙丘の乱」で主父(趙の武霊王)が敗死(餓死)すると、楽毅は趙を去って魏に身を投じた。
魏
当時、燕では燕王噲が宰相の子之に国を譲って以降、国が乱れ、斉の侵攻を受けて大敗した。
その後即位した燕の昭王は斉を怨み、斉に報復することを1日たりとも忘れなかったが、燕は小国で僻地にあることから、斉を力で制することは不可能だった。そこで昭王は身を低くして謙り、まず郭隗を礼遇して賢者を招こうとしていた。
燕
楽毅が魏の昭王の使者として燕に赴いた時、燕の昭王は楽毅を賓客の礼をもって待遇した。すると楽毅はそれを辞退し、ついに人質を差し出して臣下となった。燕の昭王は楽毅を亜卿に任命した。
当時、勢いのあった斉の湣王が南の楚将・唐眛を重丘に破り、西の三晋(韓・魏・趙)を観津に摧き、ついに三晋と共に秦を攻撃し、趙を助けて中山国を滅ぼし、宋を破って千余里に渡って領土を広げた。
斉の湣王は秦の昭王と争って互いに帝号を称したが、その後元に戻した。諸侯はみな秦に背いて斉に服従することを望んだが、斉の湣王は驕り高ぶり、斉の民は堪え難い気持ちを抱いていた。
そこで燕の昭王が斉を伐つことを相談すると、楽毅は答えて言った。
斉には覇者(覇国)の余業があり、その領土は広大で人口は多く、単独でこれを攻めるのは容易なことではないでしょう。それでも王(昭王)が斉を伐つことを望まれるのならば、趙・楚・魏と協力して伐つべきです」
そこで昭王は、楽毅を派遣して趙の恵文王と盟約を結び、別の使者を派遣して楚・魏と連合し、また趙を通じて秦に「斉を伐つことの利」を説かせた。諸侯たちは、斉の湣王の驕った振る舞いに辟易していたので、みな先を争って合従(連合)し、燕と共に斉を伐つことに同意した。
楽毅の報告を受けた燕の昭王は、全軍をもって挙兵して楽毅を上将軍に任命し、趙の恵文王は楽毅に相国の印綬を授けた。
こうして楽毅は、趙・楚・韓・魏・燕の兵を率いて斉を伐ち、済水の西でこれを撃ち破った。
その後諸侯の兵は帰還したが、楽毅は燕軍単独で追撃して斉の都・臨菑に至り、済水の西で敗れた斉の湣王は、敗走して莒を保った。楽毅は1人留まって斉国内を巡って政令を発布したが、斉の人々はみな従わず城を守っていたので、楽毅は臨菑に攻め入り、斉の宝物・財物・祭器のことごとくを奪って燕に送った。
燕の昭王は大いに喜び、自ら済水に赴いて軍を労うと、功績を賞して士卒たちを饗応し、楽毅を昌国に封じて昌国君と呼んだ。その後昭王は、斉からの戦利品を収めて帰還し、楽毅に命じてまだ降伏していない者たちを平定させた。
楽毅が斉に留まって各地を巡り政令を発布すること5年、斉の70余城を下し、みな燕の郡県として属させたが、まだ莒と即墨だけは降伏していなかった。
燕・昭王の33年(紀元前279年)、燕の昭王が亡くなると、その子が立って燕の恵王となったが、恵王は太子であった頃から楽毅と仲が悪かった。
燕の恵王が即位したことを知った斉の田単は、
「楽毅が莒と即墨を攻め落とさないのは、燕の新王(恵王)と不仲であることから、戦争を長引かせて斉に留まり、自ら斉王になろうとしているからだ。斉が恐れるのは、ただ他の将軍がやって来ることだけだ」
という噂を流した。燕の恵王は元々楽毅を疑っていたので、この噂を聞くと代わりの将軍として騎劫を派遣し、楽毅を召し還した。
楽毅自身も燕の恵王が自分を嫌っていることを知っていたので、誅殺されることを畏れ、ついに西に赴いて趙に降った。趙は楽毅を観津に封じて望諸君と呼び、彼を尊敬・寵愛して燕・斉に対して警戒させた。
趙
斉の田単は後に騎劫と戦い、謀略により燕軍を欺いてついに騎劫を即墨城下で破り、騎劫は戦死した。田単は転戦して燕軍を駆逐し、北は黄河に至るまで斉国の城を回復して、莒から襄王(斉の湣王の子)を迎えて臨菑に入った。
燕の恵王は「楽毅を騎劫に交代したために、軍を破られ、将を亡くし、斉を失ったこと」を後悔する一方で、楽毅が趙に降ったことを怨み、趙が燕の疲弊に乗じて楽毅に燕を伐たせるのではないかと恐れた。
そこで恵王は、楽毅に人を遣わして言った。
「先王(燕の昭王)は国を挙げて将軍(楽毅)に委ねられた。将軍(楽毅)は燕のために斉を破り、先王(燕の昭王)の讐を報いて天下を震撼させた。寡人は1日として将軍(楽毅)の功績を忘れたことはないっ!折しも先王(燕の昭王)が崩御*1され、寡人が即位したが、左右の者たちが寡人を誤らせたのだ。
寡人が騎劫と将軍(楽毅)を交代させたのは、将軍(楽毅)が久しく国外で敵に晒されていたことから、一旦休ませてから事を計ろうと考えてのことだったのだ。ところが将軍(楽毅)は寡人を疑って、燕を捨て趙に帰順なされた。
将軍(楽毅)は自分1人のことを考えておられるが、どのようにして先王(燕の昭王)のご恩に報いるつもりなのだろうか?」
これに楽毅は、燕の昭王への思いを書面をもって答えた。
楽毅報遺燕恵王書・全文
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臣は不才(不佞)にして王命を慎んで承り、左右の方々のお心に添うことができず、先王(燕の昭王)の明察に傷をつけ、足下(燕の恵王)の義を害することを恐れ、趙に逃走したのでございます。
今、足下(燕の恵王)は人を遣わして罪を責められましたが、先王(燕の昭王)が私を寵愛した理由も、臣が先王(燕の昭王)にお仕えした理由も、側仕えの方(侍御者)にはご理解いただけないと思い、書面をもってお答えさせていただきました。
『”賢聖の君”は私情や血縁によって俸禄を与えず、功績が多い者を賞し、適材を適所に用いる』と聞きます。故に能力を見抜いて官を授ける者こそが『功を成し遂げる君主』であり、君主の行いを論じて仕える者こそが『名を立てる士』と言えるのです。
かつて先王(燕の昭王)のお振る舞いを窺い見ましたところ、気高き君主の御心(高世主之心)をお持ちのように見受けられましたので、魏の使者として燕に赴いて、先王(燕の昭王)に私を観察していただきました。
その結果、先王(燕の昭王)は誤って臣を賓客の中に加えられ、群臣の上位に立つことになり、御父兄にも相談なさらずに亜卿となされました。内心、臣には分不相応だと理解しておりましたが、ご命令を奉じて教えを承ることで、幸いにも大過なくお仕えできると考えて、命令をお受けして辞退しなかったのです。
先王(燕の昭王)は私に命じて『儂は斉に対して積もる怨みと深い怒りを抱いている。我が燕国の国力では敵わないことを分かってはいても、ただただ斉を伐ちたいのだ』とおっしゃられました。
これに臣が、
『斉には覇者(覇国)の余業がある上に過去何度も勝利した実績があり、優れた武器・鎧を有し、兵は戦闘に習熟しています。それでも王(昭王)が斉を伐つことを望まれるのならば、必ず天下の諸侯たちと手を結ぶべきです。
そのためにはまず趙と結ぶことが最も重要です。淮北・宋の地は楚・魏が欲しがっている土地ですから、もし趙が許諾して盟約を結び、4国(趙・楚・韓・魏)と共に攻めたならば、大いに斉を撃ち破ることができるでしょう』
と答えると、先王(燕の昭王)は符節を与えられ、臣を使者として南の趙に遣わされました。
その後、命を受け挙兵して斉を撃つと、天の道と先王(燕の昭王)のご威光(霊)により河北の地は燕に従い、大挙して済水に集結しました。彼らは命を受けて斉を攻撃し、斉軍を大敗させました。
そして軽装の精鋭兵が長駆して斉の国都(臨菑)に至ると、斉王は命からがら莒に逃走し、斉の珠玉・財宝・戦車・鎧・珍器のことごとくを収めて燕に送りました。これらの戦利品は寧台に設置され、大呂(斉の鐘の名)は元英(燕の宮殿名)に陳列され、燕の鼎を磿室(燕の宮室名)に取り戻し、薊丘(燕の国都)には斉の汶水の篁(竹林)が移植されました。五伯(春秋五覇)以来、先王(燕の昭王)ほどの功績を残した者はおりません。
先王(燕の昭王)は満足され、土地を分割して臣を封じ、小国の諸侯と肩を並べる身分にしていただきました。内心、臣には分不相応だと理解しておりましたが、ご命令を奉じて教えを承ることで、幸いにも大過なくお仕えできると考えて、命令をお受けして辞退しなかったのです。
臣は『”賢聖の君”は功績を立てて廃れることがなかったために春秋(歴史書)に著され、”蚤知の士(先見の明のある人)”は名を成して毀られることがなかったために後世においても称賛される』と聞きます。
先王(燕の昭王)は怨みに報いて恥を雪ぎ、万乗の強国(斉)を平らげ、(斉が)8百年にわたって蓄積した財宝・珍器を収められ、崩御*1される日に至るまで示された数々の教化は衰えを知りませんでした。政治を預かる臣下は法令を修め、庶孽(妾腹の子)は慎みの心を持ち、先王(燕の昭王)が萌隸(人民と奴隷)に施されたことは、すべて後世の教訓とすべきです。
臣は『よく事を起こす者は必ずしもよく事を成し遂げず、始めをよくする者は必ずしも終わりをよくしない』と聞きます。
昔、吳王・闔閭は伍子胥の進言を聞き入れて、遠く楚の国都・郢に攻め込んだが、次の吳王・夫差は伍子胥の進言を聞き入れず、伍子胥に鴟夷(馬の皮袋)を賜って長江に浮かべてしまいました。(伍子胥に死を賜った)
吳王・夫差は先王(闔閭)の方策(論)が功績を立てられることに気づかなかったので、伍子胥を長江に沈めても悔やまず、伍子胥は夫差に先王(闔閭)と同等の度量がないことに気づかなかったので、長江に沈められることになっても自説を改めなかったのです。
そもそも身を免れ功を立て、先王(燕の昭王)の事績を明らかにすることが臣の願い(上計)であり、誹謗の辱めを受けて先王(燕の昭王)の名を貶めることは、臣が大いに恐れるところです。燕を去り趙に降るという不測の罪を犯しながら、燕の疲弊に乗じて利とするような、義に反することはできません。
臣は『古の君子は交わりを絶っても(相手の)悪口を言わず、忠臣は国を去っても身の潔白を言い立てたりはしない』と聞きます。
臣は不才(不佞)ながら、何度も君子に教えを奉ってまいりました。側仕えの方(侍御者)が左右の方々の言葉に親しまれ、疎遠な者の行いを察しては下さらないのではないかと恐れ、書面をもってお答えさせていただきました。どうか君主(燕の恵王)だけはこのことをご留意いただけますように。
脚注
*1原文:棄群臣。「群臣を見棄てた=崩御した」の意。
これを受け、わだかまりを解いた燕の恵王は、楽毅の子・楽間を昌国君とし、楽毅はまた燕と通じて往来を再開した。燕と趙の両方で客卿となり、趙で亡くなった。
斉の蒯通と主父偃は、楽毅の『燕の恵王に報ずる書』を読む度に、涙を流さないことはなかったという。
第2世代(楽間)
楽間
生没年不詳。中山・霊寿の人。父は楽毅。一族(宗族)に楽乗。祖先に楽羊。
燕
楽毅の『燕の恵王に報ずる書』を読んだ燕王(燕の恵王)は、楽毅の子・楽間を昌国君とした。燕・恵王の7年(紀元前272年)、燕の恵王は亡くなった。
楽間が燕に居住して30余年[燕王喜の4年(紀元前251年)]、燕王喜が宰相・栗腹の計略を用いて趙を攻めようと望み、昌国君の楽間に相談した。
これに楽間は「趙は四方の敵と戦った強国です。その民は戦闘に習熟しており、これを伐つことはできません」と答えたが、燕王喜はこれを聞き入れず、結局趙を伐った。
これに趙は、廉頗を派遣して栗腹の軍を鄗で大破し、栗腹と、楽間の一族(宗族)である楽乗を捕らえた。こうして楽間は趙に出奔し、趙はついに燕を包囲した。
趙
その後、燕は重ねて領地を割譲する事で趙と和睦し、趙軍は包囲を解をいて軍を引き揚げた。
燕王喜は楽間の意見を用いなかったことを後悔したが、楽間はすでに趙にいたので、楽間に書面を送って言った。
「殷の紂王の時、箕子はその進言を用いられなかったが、紂王が変わることを期待して諌めることを怠らなかった。そして商容もまた進言が届かず身を辱められたが、やはり紂王が変わることを強く願った。民心が離れ、囚人が脱獄するようになると、箕子と商容は職を退いた。
その結果、紂王は桀王のような暴君と同類とされたが、箕子と商容は忠聖の名を失わなかった。なぜか?それは憂患を除くために尽力したからである。
今、寡人は愚かといえども、紂王の暴虐ほどではない。燕の民は乱れているといえども、殷の民ほど酷くはない。家に問題があるのに互いに手を尽くさず、隣の里へ告げるとはいかなる了見か。寡人は君がそんなことをするとは思わなかった」
ところが楽間と楽乗は、燕王喜に計が聞き入れられなかったことを怨んでおり、結局趙に留まった。趙は楽乗を武襄君に封じた。
世代不明(楽乗・楽瑕公・楽臣公(楽巨公)]
楽乗
生没年不詳。中山・霊寿の人。一族(宗族)に楽毅、楽間。祖先に楽羊。
燕
燕王喜の4年(紀元前251年)、燕王喜は宰相・栗腹の計略を用いて趙を攻めたが、栗腹は趙の将軍・廉頗に大いに撃ち破られた。栗腹と楽乗は趙に捕らえられ、その後、趙を伐つことに反対していた楽乗の一族(宗族)の楽間も趙に出奔した。
趙
燕王喜は楽間の意見を用いなかったことを後悔し、趙にいる楽間に書面を送って「後悔の気持ち」を述べたが、楽間と楽乗は、燕王喜に計が聞き入れられなかったことを怨んでおり、結局趙に留まり、趙の孝成王は楽乗を武襄君に封じた。
翌年、楽乗と廉頗は趙のために燕を包囲したが、燕は礼を尽くして和睦し、趙軍は包囲を解いて軍を引き揚げた。
その5年後[趙・孝成王の21年(紀元前245年)]、趙の孝成王が亡くなり、後を継いだ悼襄王が廉頗に代えて楽乗を将軍とした。
するとこれを不服とした廉頗が楽乗を攻め、楽乗は敗走した。廉頗は魏の大梁に出奔した。
その16年後[趙・幽繆王の8年(紀元前228年)]、趙は秦に滅ぼされた。
楽瑕公
生没年不詳。中山・霊寿の人。楽氏の一族。
楽氏の一族には楽瑕公と楽臣公(楽巨公)がおり、趙が秦に滅ぼされた時に、斉の高密に亡命した。
楽瑕公は黄帝・老子を学んだ。その大元の師は河上丈人と号した人物だが、その出自は知られていない。
河上丈人は安期生に教え、安期生は毛翕公に教え、毛翕公は楽瑕公に教え、楽瑕公は楽臣公(楽巨公)に教え、楽臣公(楽巨公)は蓋公に教えた。蓋公は斉の高密・膠西の地において教え、曹相国(曹参)の師となった。
楽臣公(楽巨公)
生没年不詳。中山・霊寿の人。楽氏の一族。
楽氏の一族には楽瑕公と楽臣公(楽巨公)がおり、趙が秦に滅ぼされた時に、斉の高密に亡命した。
楽臣公(楽巨公)は、よく「黄帝・老子の言葉」を修めたことから斉において名を知られ、「賢師」と称された。
楽臣公(楽巨公)は黄帝・老子を学んだ。その大元の師は河上丈人と号した人物だが、その出自は知られていない。
河上丈人は安期生に教え、安期生は毛翕公に教え、毛翕公は楽瑕公に教え、楽瑕公は楽臣公(楽巨公)に教え、楽臣公(楽巨公)は蓋公に教えた。蓋公は斉の高密・膠西の地において教え、曹相国(曹参)の師となった。
第3世代(楽叔)
楽叔
生没年不詳。中山・霊寿の人。祖父に楽毅。祖先に楽羊。
趙・幽繆王の8年(紀元前228年)に趙が秦に滅ぼされてから20余年、高帝[漢の高祖(劉邦)]がかつての趙の地に立ち寄ったことがあったが、その時高帝が「楽毅に子孫はいるのか?」と尋ねたところ、楽毅の孫に楽叔という者がいることが分かった。
そこで高帝は、楽叔を楽卿に封じて華成君と呼んだ。
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