正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㊽(郭図かくと郭馬かくば郭頒かくはん郭謀かくぼう郭睦かくぼく郭攸之かくゆうし)です。

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凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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か㊽

郭(かく)

郭図かくと公則こうそく

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐんの人。

袁紹に仕える

荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん出身の陰脩いんしゅう潁川太守えいせんたいしゅとなったが、賢人を顕彰けんしょうし、英俊えいしゅん抜擢ばってきすることに努力し、五官掾ごかんえん張仲ちょうちゅう方正ほうせいに推挙し、功曹こうそう鍾繇しょうよう主簿しゅぼ荀彧じゅんいく主記掾しゅきえん張礼ちょうれい賊曹掾ぞくそうえん杜祐とゆう孝廉こうれん荀攸じゅんゆう計吏けいり郭図かくとを官吏としていだして、当時の朝廷を光り輝かせた。

その後郭図かくとは、同郡出身の荀諶じゅんしん辛評しんぴょうらと共に袁紹えんしょう謀臣ぼうしんとなり、初平しょへい2年(191年)には、袁紹えんしょう外甥がいせい*1高幹こうかん韓馥かんふくと同郷の辛評しんぴょう荀諶じゅんしん郭図かくと*2と共に韓馥かんふくを説得して、袁紹えんしょう冀州きしゅう譲渡じょうとさせた。

脚注

*1妻の兄弟姉妹の男子。

*2英雄記えいゆうきには「張景明ちょうけいめい張導ちょうどう)、郭公則かくこうそく郭図かくと)、高元才こうげんさい高幹こうかん)らを遣わして(以下略)」とある。

献帝の東遷
魏書ぎしょ袁紹伝えんしょうでん

興平こうへい2年(195年)、長安ちょうあんから脱出し、李傕りかく郭汜かくしらに追われた献帝けんてい司隷しれい河東郡かとうぐん安邑県あんゆうけんに都に定めると、元々献帝けんていが即位したことは袁紹えんしょうの本意ではなかったが、袁紹えんしょう献帝けんていの元に使者として郭図かくとを派遣した。

郭図かくとは帰還すると、献帝けんていを迎えて(袁紹えんしょうの本拠地である)冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに都を置くように進言したが、袁紹えんしょうは承知しなかった。

魏書ぎしょ袁紹伝えんしょうでん・注・『献帝伝けんていでん

沮授そじゅが「献帝けんてい鄴県ぎょうけんに迎えること」を進言すると、袁紹えんしょうは喜びこのはかりごとに従おうとした。

すると郭図かくと淳于瓊じゅんうけいが、

かん王朝は衰退すいたいし始めてからすでに長い時間がっています。今、これを再興させようとしても、困難なことではないでしょうか。その上、今や英雄が州郡を支配し、その軍勢は5けたの数にのぼりまして、『しんがその鹿を取り逃がし、先に捕まえた者がおうとなる』という言葉に当てはまります。もし天子てんし献帝けんてい)をお迎えしてこちらから接近し、1つ1つの行動について上聞するならば、ご意志に従う時には権力を弱めることになり、そむく時には勅命ちょくめいを拒否したことになってしまいます。良策ではありません」

と言ったので、袁紹えんしょう沮授そじゅはかりごとを採用することができなかった。


しょえんしょうでん・本文としょえんしょうでん・注・けんていでんでは、かくの主張が真逆である。

官渡の戦い
郭図かくと沮授そじゅ

建安けんあん4年(199年)、袁紹えんしょうが南方(曹操そうそう許県きょけん)に遠征しようとした時、沮授そじゅ田豊でんほうは「今は農業に力を入れ、民衆を慰撫いぶなさるべきかと存じます」とこれをいさめたが、審配しんぱい郭図かくとは「今奪取しなければ、後になれば困難になります」と言い、また内外の権限が沮授そじゅに集中していることをげ、「外で軍を統率する者を、内政に関与させるべきではありません」と言った。

袁紹えんしょうは疑心暗鬼になり、監軍かんぐんの権限を分割して3都督ととくとし、沮授そじゅ郭図かくと淳于瓊じゅんうけいにそれぞれ1軍を統括させ、結集して南に向かった。


建安けんあん5年(200年)2月、袁紹えんしょう郭図かくと淳于瓊じゅんうけい顔良がんりょうを派遣して兗州えんしゅう東郡とうぐん白馬県はくばけんにいる(曹操そうそう方の)東郡太守とうぐんたいしゅ劉延りゅうえんを攻撃させ、袁紹えんしょう自身は兵をひきいて冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけんおもむき全軍で黄河こうがを渡ろうとした。

この時沮授そじゅは「全軍で黄河こうがを渡ってしまっては万一の際に帰還できません。兵を分けて黄河こうがを渡らせ、勝利を得たのちに残りの兵を渡らせても遅くはありません」といさめたが、袁紹えんしょうは聞き入れなかった。

沮授そじゅなげいきどおり、病気を理由に辞去したので、袁紹えんしょうはこれをうらみに思い、沮授そじゅが統括していた軍を廃止して郭図かくとに所属させた。

郭図かくと張郃ちょうこう

袁紹えんしょう官渡かんと曹操そうそうと対峙していた時、袁紹えんしょう将軍しょうぐん淳于瓊じゅんうけいらに輜重しちょうを指揮させて烏巣うそうに貯蔵させると、曹操そうそうみずから兵をひきいて烏巣うそうを強襲した。

この時、校尉こうい張郃ちょうこうが、

曹公そうこう曹操そうそう)の兵は精鋭ですから、淳于瓊じゅんうけいらを撃ち破るに違いありません。淳于瓊じゅんうけいらが敗れれば、将軍しょうぐん袁紹えんしょう)の事業はそれで終わりです。急ぎ兵を引き連れ彼らを救援すべきです」

と進言すると、郭図かくとは、

張郃ちょうこうはかりごとは間違いです。敵の本陣を攻撃すれば、必ず引き返すでしょう。これが救援しなくても自然に解決する方法です。」

と言った。これに張郃ちょうこうは、

曹公そうこう曹操そうそう)の陣営は堅固ですから、攻撃しても落とせないに違いありません。もし淳于瓊じゅんうけいらが捕らえられでもすれば、我々はすべて捕虜となりましょう」

と言ったが、袁紹えんしょうはただ軽装の騎兵を派遣して淳于瓊じゅんうけいを救援させただけで、重装の兵によって曹操そうそうの陣営を攻撃した。その結果、袁紹えんしょう曹操そうそうの本陣を陥落かんらくさせることはできず、曹操そうそう淳于瓊じゅんうけいらを撃ち破ったので、袁紹えんしょうの軍は崩壊した。

郭図かくとは自分のはかりごとが失敗に終わったことを恥じ、「張郃ちょうこうは我が軍の敗北を喜び、不遜ふそんな言葉をいております」と張郃ちょうこう讒言ざんげんしたので、張郃ちょうこうは身の危険を感じて曹操そうそうに帰服した。

袁譚に仕える

建安けんあん7年(202年)、官渡かんとの戦いで曹操そうそうに敗れたのち袁紹えんしょうは発病して憂悶ゆうもんのうちに亡くなったが、袁紹えんしょうの死後、審配しんぱい逢紀ほうき袁尚えんしょうに肩入れし、辛評しんぴょう郭図かくと袁譚えんたんに肩入れして権力争いを起こした。

その後、袁譚えんたん袁尚えんしょうに敗れると、郭図かくとは次のように進言した。

「今、顕甫けんほ袁尚えんしょう)が来攻して長引けば敵対できません。愚考ぐこうしますに、一旦、曹公そうこう曹操そうそう)に降伏して顕甫けんほ袁尚えんしょう)を攻撃させるのがよろしいでしょう。曹公そうこう曹操そうそう)が鄴県ぎょうけんを攻撃すれば、きっと顕甫けんほ袁尚えんしょう)は救援に引き返します。将軍しょうぐん袁譚えんたん)が兵をひきいて西に向かわれれば、鄴県ぎょうけん以北を得ることができるでしょう。もし顕甫けんほ袁尚えんしょう)の軍が敗れれば、その逃亡兵を収容して曹公そうこう曹操そうそう)に抵抗することができます。曹公そうこう曹操そうそう)は遠方の地から来ていますので兵糧は続かず、必ずや逃げ去るでしょう。そうなれば趙国ちょうこく以北はすべて手に入り、曹公そうこう曹操そうそう)と敵対するのに充分です。これ以外に生き残る道はありません」

袁譚えんたんは悩んだすえに結局この進言を受けれ、郭図かくとが推薦した辛佐治しんさじ辛毗しんぴ)を曹操そうそうの元に派遣した。

その後袁譚えんたんは、曹操そうそう鄴県ぎょうけんを包囲してる間に勢力を拡大させたが、幽州ゆうしゅうに逃亡した袁尚えんしょうの軍兵を併合したことで曹操そうそうに盟約違反とされ、討伐を受けて冀州きしゅう勃海郡ぼっかいぐん南皮県なんぴけんに逃走した。

建安けんあん10年(205年)正月、南皮県なんぴけんは陥落し、郭図かくと袁譚えんたんと共に斬られた。


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郭馬かくば

生没年不詳。(交州こうしゅう・)合浦太守がっぽたいしゅ脩允しゅういん配下の私兵の隊長。

合浦太守がっぽたいしゅ脩允しゅういん桂林太守けいりんたいしゅに転任することになったが、病気のために広州こうしゅうとどまり、郭馬かくばに5百人の兵をひきいさせ、先に桂林郡けいりんぐんの異民族の安撫あんぶにあたらせた。

ところが脩允しゅういんが亡くなると、兵士たちは分割されて別々の場所に配属させられることになり、郭馬かくばたちは父祖以来、1つの軍団として行動してきたので、離れ離れになることを望まなかった。


ちょうどこの頃、孫晧そんこう孫皓そんこう)は広州こうしゅうの戸籍を正確に調べてそれに課税しようとしていた。

天紀てんき3年(279年)夏、郭馬かくばは私兵の中の部将、何典かてん王族おうぞく呉述ごじゅつ殷興いんこうらと共謀し、このことを利用して兵士や民衆たちの不安をあおって動揺させると、人数を集めて広州督こうしゅうとく虞授ぐじゅを攻め殺した。

郭馬かくばは、勝手に都督ととく交広こうこう二州にしゅう諸軍事しょぐんじ安南将軍あんなんしょうぐんと号し、殷興いんこう広州刺史こうしゅうしし呉述ごじゅつ南海太守なんかいたいしゅとなった。何典かてん蒼梧郡そうごぐんに兵を進め、王族おうぞく始興郡しこうぐんに兵を進めた。


8月、孫晧そんこう孫皓そんこう)は軍師ぐんし張悌ちょうてい丞相じょうしょうに任命し、牛渚都督ぎゅうしょととく何植かしょく司徒しとに任命した。

また、執金吾しつきんご滕循とうじゅん司空しくうに任命されることになったが、その任命が実行される前に、鎮南将軍ちんなんしょうぐん仮節かせつりょう広州牧こうしゅうぼくに職を改め、1万人をひきいて東の道から郭馬かくばの討伐に向かわせた。

滕循とうじゅん始興郡しこうぐん王族おうぞくの軍と遭遇して先に進めずにいるうちに、郭馬かくば南海太守なんかいたいしゅ劉略りゅうりゃくを殺し、広州刺史こうしゅうしし徐旗じょきを追い払った。

そこで孫晧そんこう孫皓そんこう)は、さらに徐陵じょりょう京口けいこう)のとく陶濬とうしゅんを派遣し、7千人をひきいて西の道をとらせ、また交州牧こうしゅうぼく陶璜とうこうには、その配下と合浦郡がっぽぐん鬱林郡うつりんぐんなどの郡の兵をまとめひきいて東西の道を取った両軍と共同して郭馬かくばに攻撃をかけさせた。


この年の冬、しん鎮東大将軍ちんとうだいしょうぐん司馬伷しばちゅうに命じて涂中とちゅうへ軍を進めさせ、安南将軍あんなんしょうぐん王渾おうこん揚州刺史ようしゅうしし周浚しゅうしゅんには牛渚ぎゅうしょへと軍を進めさせ、建威将軍けんいしょうぐん王戎おうじゅうには武昌ぶしょうへ軍を進めさせ、平南将軍へいなんしょうぐん胡奮こふんには夏口かこうへと軍を進めさせ、鎮南将軍ちんなんしょうぐん杜預とよには江陵こうりょうへと軍を進めさせ、龍驤将軍りゅうじょうしょうぐん王濬おうしゅん広武将軍こうぶしょうぐん唐彬とうひんには軍船をひきいて長江ちょうこうを東に下らせた。

また、太尉たいい賈充かじゅう大都督だいととくに任命し、情勢を見つつ最も重要な場所にあって全軍の中心として取りまとめの仕事を任せた。

陶濬とうしゅん郭馬かくばの征伐のため武昌ぶしょうまで来たところで、北方(しん)の軍が大挙して押し寄せて来たと聞き、武昌ぶしょうに軍をとどめて広州こうしゅうには向かわなかった。

しん王濬おうしゅん唐彬とうひんが攻め寄せた所では、軍は雪崩なだれを打って崩壊し、しん軍はいたる所で勝利を収め、天紀てんき4年(280年)3月、王濬おうしゅんが先頭を切っての都まで軍を進め、孫晧そんこう孫皓そんこう)の降伏を認めた。


南海太守なんかいたいしゅ劉略りゅうりゃくを殺し、広州刺史こうしゅうしし徐旗じょきを追い払って以降の、郭馬かくばの動向・生死は不明。


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郭頒かくはん

生没年不詳。しん襄陽県令じょうようけんれい魏晋世語ぎしんせご世語せご)を編纂へんさんした。

隋志ずいしに「魏晋世語ぎしんせご10巻、しん襄陽県令じょうようけんれい郭頒かくはんせん」とある。

裴松之はいしょうし魏書ぎしょ高貴郷公紀こうききょうこうきの注において、


張璠ちょうはん虞溥ぐほ郭頒かくはんらはみなしんの官吏であって、張璠ちょうはん郭頒かくはんは地方に出て官長となっており、虞溥ぐほ鄱陽内史はんようないしとなった。

張璠ちょうはんの編集した後漢紀ごかんきは未完成のように見えるが、表現力には見るべきものがある。

虞溥ぐほあらわした江表伝こうひょうでんは、ほぼ筋道が通っている。

ただ郭頒かくはんが編集した魏晋世語ぎしんせご世語せご)だけは才能がとぼしく、口調が悪く最も愚劣ぐれつであるが、時々変わったことが書いてあるために、世間で広く読まれている。干宝かんぽう晋紀しんき)・孫盛そんせい晋陽秋しんようしゅう)らはその叙述じょじゅつの中から多くのものを採録して晋書しんじょを作ったので、その中にこのような嘘やあやまりが、おうおうにして存在するのである。


酷評こくひょうしている。


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郭謀かくぼう

生没年不詳。明帝めいてい曹叡そうえい)期の給事中きゅうじちゅう

太和たいわ5年(231年)より以前のこと。満寵まんちょう王淩おうりょうと共同で事に当たりながら、なかたがいしており、ある時王淩おうりょうが、

満寵まんちょう耄碌もうろくして酒にふけっているので、地方官の任務には相応ふさわしくありません」

と上奏した。

明帝めいてい曹叡そうえい)が満寵まんちょうし寄せようとすると、給事中きゅうじちゅう郭謀かくぼうは、

満寵まんちょう汝南太守じょなんたいしゅ豫州刺史よしゅうししを20余年つとめ、地方長官としての功績をげました。淮南わいなんを鎮守することになってからは、の人は彼をはばかっております。もし王淩おうりょうが上奏した通りでなかったならば、すきを狙われることになるでしょう。(罷免ひめんするのではなく)朝廷に召還し、任地のことを質問して真偽を確かめるのがよろしいでしょう」

と進言し、明帝めいてい曹叡そうえい)はその意見に従った。

満寵まんちょうは到着すると目通りしたが、酒を1こく飲んでも乱れなかった。明帝めいてい曹叡そうえい)は彼を慰労いろうしたのち、任地へ帰した。


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郭睦かくぼく

生没年不詳。しょく南郷太守なんきょうたいしゅ

建安けんあん24年(219年)、しょく関羽かんうが軍勢をひきいて荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん樊城はんじょうにいる曹仁そうじんを攻撃した時、呂蒙りょもうへのそなえとして兵の一部を公安こうあん南郡なんぐんとどめていた。

この状況を見た呂蒙りょもうが病気と称して任地を離れ、まだ無名であった陸遜りくそん偏将軍へんしょうぐん右部督ゆうぶとくに任命して呂蒙りょもうの後任にあたらせると、関羽かんうは油断してへのそなえをいてしまった。

11月、この報告を受けた孫権そんけんは、陸遜りくそん呂蒙りょもうを先鋒として秘かに長江ちょうこうさかのぼらせ、またたく間に公安こうあん南郡なんぐんを落とすと、まちまちの長官たちや異民族の君長くんちょうたちもみなくだった。

陸遜りくそんは、将軍しょうぐん李異りい謝旌しゃせいらに命じて要害の地を押さえさせ、さらに房陵太守ぼうりょうたいしゅ鄧輔とうほ南郷太守なんきょうたいしゅ郭睦かくぼくらを攻撃して大いに撃ち破った。


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郭攸之かくゆうし演長えんちょう

生没年不詳。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんの人。しょく侍中じちゅう

才幹と学識によって当時の人々から名を知られ、劉備りゅうび劉禅りゅうぜんの2代に渡ってしょくに仕えた。

しょく建興けんこう5年(227年)、北伐に際して丞相じょうしょう諸葛亮しょかつりょう上疏じょうそした前出師表ぜんすいしのひょうの中で、侍中じちゅう費禕ひい侍郎じろう董允とういんと共に、諸葛亮しょかつりょうの留守中、劉禅りゅうぜんが相談すべき相手として名前がげられている。

前出師表・抜粋
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侍中じちゅう郭攸之かくゆうし費禕ひい侍郎じろう董允とういんらは先帝(劉備りゅうび)が選出して陛下(劉禅りゅうぜん)におのこしになった者たちであり、政治の規範・利害を斟酌しんしゃく(相手の事情や心情をくみとること)し、進み出て忠言を尽くすのは彼らの役目です。私が思いますに、宮中の事柄は大小の区別なく、すべて彼らに相談なさいませ。必ず不備を補足し、広い利益をもたらしましょう。もし陛下(劉禅りゅうぜん)のおんとくを高める言葉がなければ、董允とういんらを処刑してその職務怠慢たいまんを明らかになさってください。


また、蜀書しょくしょ董允伝とういんでんには、

諸葛亮しょかつりょうは次いで費禕ひい参軍さんぐんにしたいと要請し、董允とういん侍中じちゅうに昇進して虎賁中郎将こほんちゅうろうしょうを兼任し、警護の近衛隊を指揮した。郭攸之かくゆうしは元々おとなしい性格だったので、ただ官職にあるだけだった」

とあり、長水校尉ちょうすいこうい廖立りょうりつ李邵りしょう蔣琬しょうえんに語った言葉の中で、

中郎ちゅうろう郭演長かくえんちょう郭攸之かくゆうし)は人の後について行くだけで、共に大事を成すには不足であるのに、侍中じちゅうとなっている」

と評している。

廖立りょうりつの言葉に関しては、自分の地位への不満から、多くの者たちを批判して言った言葉であるので公平な評価とは言えないが、その内容はみな必ずしもまとはずれとは言えないところがある。

ちなみに李邵りしょう蔣琬しょうえんから報告を受けた諸葛亮しょかつりょうは、廖立りょうりつ罷免ひめんして庶民しょみんに落とし、益州えきしゅう汶山郡びんざんぐんに流した。


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【三国志人物伝】総索引