正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㊾陽平郡楽氏[楽進・楽綝(楽綝)・楽肇]です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
陽平郡楽氏系図
陽平郡楽氏系図
この記事では陽平郡楽氏の人物、
についてまとめています。
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か㊾(陽平楽氏)
第1世代(楽進)
楽進・文謙
生年不詳〜建安23年(218年)没。冀州・陽平郡・衛国の人。子に楽綝(楽綝)。
身体つきは小柄であったが、肝っ玉の激しさによって曹操につき従い、帳下の吏(記録係)となった。曹操の命令により郷里の陽平郡に帰って兵を募集し、千余人を手に入れて、軍の仮司馬・陷陣都尉となった。
- 兗州・東郡・濮陽県における呂布攻撃
- 兗州・陳留郡・雍丘県における張超攻撃
- 豫州(予州)・陳国・苦県における橋蕤攻撃
に参加し、すべて先陣を切って戦功を立てて広昌亭侯に封ぜられた。
その後は、
- 荊州・南陽郡・安衆国における張繡征討
- 徐州・下邳国・下邳県における呂布包囲
に参加して別将を撃ち破り、
- 司隷・河内郡の射犬聚における眭固攻撃
- 豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)における劉備攻撃
に参加してそれらをみな撃ち破り、討寇校尉に任命された。
黄河を渡って司隷・河内郡・獲嘉県の袁紹方の陣営を攻撃し、帰還すると官渡における袁紹攻撃に参加して力の限り戦い、袁紹の将軍・淳于瓊を斬った。
袁紹の死後は、冀州・魏郡・黎陽県における袁譚・袁尚攻撃に参加し、その大将・厳敬を斬って行遊擊将軍となり、また別軍として青州・楽安郡の黄巾賊を攻撃して撃ち破り、平定した。
その後は冀州・魏郡・鄴県の包囲に参加し、鄴県が平定されると、冀州・勃海郡・南皮県における袁譚攻撃に参加し、先陣を切って東門に突入した。袁譚が敗れると、別軍として幽州・漁陽郡・雍奴県を攻撃して撃ち破った。
建安11年(206年)、曹操は漢帝(献帝)に楽進・于禁・張遼を称る上奏文を奉り、その結果、于禁は虎威将軍に、楽進は折衝将軍に、張遼は蕩寇将軍に取り立てられた。
曹操の上奏文・全文
その後楽進は別軍として高幹を征討し、北道を通って幷州(并州)・上党郡に入り、迂回してその背後に出た。高幹らは引き返して壺関を守ったが、連戦して敵兵の首を斬った。高幹は固守して降らなかったが、曹操が自ら征討するに及んでやっと陥落させた。
曹操は管承の征討に向かうと青州・北海国・淳于県に陣を置き、楽進と李典に彼を攻撃させた。管承は敗走して海中の島に逃げ込み、海岸地帯は平定された。
その後は荆州平定のため豫州(予州)・潁川郡・陽翟県に派遣されて駐屯した。荆州平定の際には荊州・南郡・襄陽県に駐屯し、関羽・蘇非らを攻撃してみな敗走させると、南郡の山谷にいる蛮夷らが楽進の元に来て降伏した。また、劉備に属する臨沮県長・杜普と旌陽県長・梁大を討伐してみな大いに撃ち破った。
後に孫権征討に従軍して仮に節を与えられ、曹操は帰還する時、楽進を留めおき張遼・李典と共に揚州・九江郡・合肥国に駐屯させた。5百戸を加増され、前と合わせて1,200戸となった。多数の戦功を立てたことから、5百戸を分割して1子を列侯に取り立て、楽進は右将軍に昇進した。
建安23年(218年)に亡くなり、威侯と諡された。
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第2世代(楽綝)
楽綝(楽綝)
生年不詳〜魏の甘露2年(257年)5月没。冀州・陽平郡・衛国の人。父は楽進。子に楽肇。
父・楽進の後を継いだ。
楽綝(楽綝)は果断剛毅な人柄で父と同じ風格を持っており、官位は揚州刺史にまで昇った。
魏の甘露2年(257年)5月、反乱を起こした諸葛誕は、不意に襲撃して揚州刺史の楽綝(楽綝)を殺害した。
楽綝(楽綝)を悼む詔が下されて衛尉を追贈され、愍侯と諡された。
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