正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㊼[郭正(法真の友)・郭政・郭石・郭祖・郭大賢・郭泰・郭逴・郭端・郭誕]です。
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凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
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か㊼
郭(かく)
郭正(法真の友)
生没年不詳。蜀の法正の祖父・法真の友。
蜀の法正の祖父・法真は字を高卿と言い、若い頃から五経に詳しく、讖緯の書物にも通暁しており、学問上決まった師はいなかったが秀才の誉れが高かった。
法真はたびたび召されたが、すべて就任しなかったので、友人の郭正らは彼を褒めて「玄徳先生*1」と呼んだ。
脚注
*1「玄徳」とは、奥深い隠れた徳、深遠な功徳のこと。
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郭政
生没年不詳。兗州・東郡・頓丘県の民。
蔣済(蒋済)が使者として曹操に目通りした時のこと。曹操に「胡通達(胡敏)は長者であったが、子孫があるかね?」と尋ねられた蔣済(蒋済)は、
「質という子がおります。品行と智謀では父に及びませんが、精密・忠実に事を処理する点では父以上です」
と答え、曹操は即座に胡質を召し出して兗州・東郡・頓丘県の県令に任命した。
この頃、頓丘県の民・郭政が従妹と密通してその夫・程他を殺害し、郭政と従妹に加え、郡吏の馮諒も投獄されてしまった。
郭政と従妹は鞭打ちに耐えて事実を隠し抵抗したが、馮諒は痛みに耐えきれず、偽りの自白をしてしまい、逆に郭政らの罰を受ける羽目となった。
この時、頓丘県の県令に着任した胡質は彼らの態度を見抜き、改めてその事実を詳しく取り調べ、検証を行って、郭政と従妹を罪に服させた。
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郭石
生没年不詳。荊州・零陵郡、桂陽郡で反乱を起こした賊。
中平4年(187年)10月、荊州・長沙郡で反乱を起こした区星は勝手に将軍を名乗り、1万余人の人数を集めて町々を包囲し攻撃を加えていたが、これに対処するため長沙太守に任命された孫堅は、1ヶ月も経たないうちに区星らを撃ち破った。
この時、周朝と郭石は区星と呼応して荊州・零陵郡、桂陽郡で反乱を起こしていたが、孫堅は長沙郡の境界を越えて討伐を行い、長沙郡、零陵郡、桂陽郡の3郡は完全に平穏となった。
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郭祖
生没年不詳。袁紹が任命した中郎将、海賊。
曹操が呂虔に泰山太守を兼任させた当時、兗州・泰山郡は山と海?に接しており、世の動乱によって民衆が多数逃げ隠れしていると言われていたが、袁紹が任命した中郎将の郭祖、公孫犢ら数十人の仲間が山に立て籠もって乱暴を働き、民衆は彼らに苦しめられていた。
呂虔は家兵を率いて泰山郡に到着すると、恩愛と信義を示したので、郭祖ら一党はすべて降伏し、山中に逃れ隠れていた者たちも出て来て土地や仕事に落ち着いた。
その後[建安13年(208年)以降]、郭祖は海賊となって青州の楽安国と済南国を荒らし回り、州郡を苦しめていた。
曹操は、何夔が以前長広太守に在任し、その地で権威と信頼を得ていたことから、彼を楽安太守に任命したところ、何夔は着任数ヶ月で諸城をすべて平定した。
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郭大賢
生没年不詳。黄巾の乱に呼応して蜂起した河北の賊(黒山賊、白波賊など)の頭目の1人。
霊帝は彼らを討伐することができず、頭目の1人である楊鳳に黒山校尉の官位を授けて諸山賊を取り締まらせ、孝廉と計吏を推薦する権利を与えた。
初平4年(193年)3月、冀州・魏郡の軍勢が黒山賊の于毒と結んで謀叛を起こすと、袁紹は朝歌県・鹿場山の蒼厳谷に侵攻して于毒と朝廷(李傕・郭汜)が任命した冀州牧・壺寿を斬り殺し、郭大賢らの砦をことごとく打ち壊して数万の首級をあげた。
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郭泰・林宗
永建3年(128年)〜建寧2年(169年)没。幷州(并州)・太原郡・界休県の人。
洛陽遊学
家は代々貧しかった。早くに父を失い、母は郭泰を県の役所の給事(雑用係)に出したいと考えていたが、郭泰は「大丈夫たる者が、どうして取るに足らない下役などに甘んじていられましょうか?」と言って辞退した。
司隷・河南尹・成皋県出身の屈伯彦に師事して3年で学業を終え、広く古典に通暁した。談論に優れ、その声と言葉の表現が美しかった。
その後、洛陽(雒陽)に遊学し、初めて河南尹の李膺と会見すると、李膺は郭泰を高く評価してお互いに友人となった。
これにより郭林宗の名は京師[洛陽(雒陽)]に鳴り響き、故郷に帰ろうとする時には、黄河の畔まで見送りに来た役人や儒者の車の数は数千両にもなっていた。郭泰は李膺と同じ船で黄河を渡ったが、見送りに来た賓客たちはこれを望み見て、神仙であるとした。
その後、司徒の黄瓊は郭泰を辟召し、太常の趙典は有道の科目に挙げた。またある者は郭泰に仕官するように勧めたが、郭泰は「私は夜には天文を観察し、昼には人事を観察している。天が廃そうとするものは、支えることができない*2」と言い、ついにどれにも応じなかった。
人柄
郭泰は人を知ることに明るく、好んで人士を励まし教訓を与えた。身長は8尺(約184.8cm)、その容貌は魁偉(顔や体が人並み外れていかついさま)で、ゆったりとした衣服に幅広の帯を締め、諸国を周遊した。
かつて陳・梁の辺りで雨に遭い、郭泰の頭巾の片方の角がくぼんでしまった。これを見た当時の人々は、故意に頭巾の片方の角を折り、これを「林宗巾」と呼んだ。郭泰が人々から慕われる様子はみなこのようであった。
ある人が豫州(予州)・汝南郡出身の范滂に「郭林宗はどのような人ですか?」と尋ねた。
すると范滂は「隠遁していても親を見捨てず、節操正しいが世俗との関わりを絶たず、天子も臣下とすることができず、諸侯も友人とすることができない人物である。私はその他は知らない」と言った。
その後母を亡くし、悲しみの余り血を吐き病となるほどであったので、至孝と称された。
第一次党錮の禁
郭泰は人物鑑定に優れていたが、過激で政治の中核に触れるような論評はしなかったので、宦官たちが政権を壟断(利益・権利を独り占めにすること)しても、郭泰を傷つけることはできなかった。
延熹9年(166年)に「第一次党錮の禁」が起こると、名を知られていた名士の多くはその害を受けたが、ただ郭泰と豫州(予州)・汝南郡出身の袁閎だけは難を逃れることができた。
郭泰はついに邸宅の門を閉ざして人々に教え、弟子は千の単位で数えられた。
第二次党錮の禁
建寧元年(168年)、太傅の陳蕃と大将軍の竇武が宦官によって殺害されると、郭泰は荒野で慟哭し、嘆いて言った。
「『(優れた)人はここに亡くなられ、国は滅んでゆく*3』、『ここで烏が止まる場所を見ているが、どこの屋根に止まるか分からない*4』と聞くっ!」
翌年の建寧2年(169年)春、郭泰は家で亡くなった。享年42歳。四方の士・千余人がみな葬儀に参列し、志を同じくする者は共に石を刻んで石碑を建て、蔡邕が銘文を作成した。
その後蔡邕は、幽州・涿郡出身の盧植に、
「私は碑の銘文を作ることが多いが、みな徳に恥じるところがあるものだ。だが、郭有道碑の銘文だけは恥じるところがない」
と言った。
郭泰が見込んで推薦・抜擢した人士は、みな彼が見込んだ通りであった。
脚注
*2『春秋左氏伝』にある晋の汝叔寛(女叔寛)の言葉。郭泰の言う「天が廃そうとするもの」とは、後漢のことと思われる。
*3『詩経』大雅の言葉(詞)。
*4『詩経』小雅の言葉(詞)。王業が一体どこに帰するのか分からないことを言っている。
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郭逴
生没年不詳。呉の臣下。陸凱の上陳の中に名前が登場する。
呉の建衡元年(269年)、左丞相・陸凱の病が篤くなると、孫晧(孫皓)は中書令の董朝を遣わして、陸凱に申し述べたいことがないかを尋ねさせた。
その上陳の中で陸凱は、重要問題について意見を求めるべき人物の1人として郭逴の名前を挙げている。
陸凱の上陳・全文
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郭端
生没年不詳。幽州・代郡の大官。
曹操が荊州を平定した建安13年(208年)頃、幽州・代郡は大いに乱れ、烏丸王とその大人(部族長)合わせて3人がそれぞれ勝手に単于と称して郡の政治を支配しており、当時の代郡太守は彼らを取り締まることができず、あろうことか郡の大官・郝温、郭端らは単于に与していた。
曹操は司隷・河東郡・聞喜県出身の裴潜に精鋭の軍を与え、彼らを討伐して鎮圧させようと考えたが、裴潜は「軍威をもって圧力をかけるべきではありません」と言い、1台の車だけで代郡に赴いて彼らを慰撫した。
すると単于たちは驚喜して、冠を外し額を地面に擦りつけ、前後にわたって掠奪した婦女子・財物をすべて返還した。
裴潜は郡内の大官のうち単于たちと一体となっていた郝温・郭端ら10余人を取り調べて処刑した。これにより北の国境地帯は大いに震え戦き、民衆は心から帰服した。
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郭誕
生没年不詳。
呉の孫晧(孫皓)の鳳皇3年(274年)、揚州・会稽郡で「章安侯の孫奮が天子になるであろう」との妖言が囁かれ、臨海太守の奚熙は、会稽太守の郭誕に書簡を送り、国政を非難した。
この時郭誕は、奚熙の書簡のことは上言したが、妖言については上言しなかったので、罪に問われることとなった。
郭誕は逮捕されると、気が動転して自らの無実を明らかにすることができなかった。
郭誕の功曹・邵疇は、郭誕に接見して、
「ただ今すべては私の責任ということにいたしますので、太守さまには心配はご無用です」
と言うと、すぐさま役人の元に出頭し、「妖言について上言しなかったのは自分の処置によるものであり、太守の罪ではない」と、進んで陳述した。
役人は邵疇の言った通りに上聞したが、孫晧(孫皓)の怒りは一向に収まらなかった。
邵疇は、このままでは郭誕も死を免れないであろうことを慮り、自らの罪を証らかにする遺書を遺して自害した。
死体を検分して邵疇の遺書を見つけた役人が孫晧(孫皓)に報告した結果、郭誕は死刑を免れて、揚州・建安郡に送られて船を作る労役に従わされることとなった。
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