正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉜南郡蒯氏(蒯通・蒯良・蒯越・蒯祺・蒯鈞・蒯欽・蒯氏)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
南郡蒯氏系図
南郡蒯氏系図
※蒯良・蒯越・蒯祺・蒯欽の世代と同族であるかどうかは不明。同族である可能性が高いため、ここにまとめて紹介します。
この記事では南郡蒯氏の人物、
についてまとめています。
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か㉜(南郡蒯氏)
第0世代(蒯通)
蒯通(蒯徹)
生没年不詳。幽州・涿郡・范陽県の人。元の諱は徹。武帝の諱を避けて、同じ意味の通に改めた。
楚・漢が起こった当初、陳勝の将軍・武臣が趙の地を攻略・平定して武臣君と号した。蒯通は范陽県の県令・徐公の使者となり、武臣に「徐公の降伏を受け容れて手厚く遇すれば、辺境の地は必ず相継いで降伏してくるでしょう」と説いた。武臣が車百乗・2百騎・侯爵の印をもって徐公を迎えると、燕・趙の30余城が降伏し、蒯通の方策の通りとなった。
その後、漢の将軍・韓信が魏王(魏豹)を虜にし、趙・代を破り燕を降してこの3国を平定し、兵を率いて東に向かい斉を撃とうとした。
ところが、韓信がまだ平原の津を渡らぬうちに、漢王(劉邦)が派遣した酈食其が斉を説得して降伏させてしまったので、韓信は斉を撃つのを止めようとした。
すると蒯通は「将軍(韓信)は詔を奉じて斉を撃とうとしておられるのに、漢が勝手に間使(お忍びの使者)を送り込んで斉を降伏させたのです。何と詔を下して将軍(韓信)を止められましょうか。どうして軍を進めないでおられましょうか。ともあれ酈生(酈食其)は一介の士に過ぎず、軾*1に伏し、三寸の舌を振るって斉の70余城を降したのに、将軍(韓信)は数万の衆を率いて、僅かに趙の50余城を降したに過ぎません。将軍となって数年にもなるのに、かえって一小僧っ子儒者の功績に及ばないで良いものでしょうか」と言い、韓信は蒯通の計に従って黄河を渡り、ついに斉の都・臨菑県に迫った。
斉王(田広)は「欺かれた」として酈食其を煮殺して敗走。韓信は斉の地を平定し、自立して斉の仮王となった。
この頃、漢は滎陽で苦戦していたので、張良を遣わして韓信を斉王とし、項王(項羽)もまた武渉を遣わして和親連合しようとした。
蒯通は「漢(劉邦)・楚(項羽)の運命は足下の一身に懸かっております。足下が漢に与すれば漢が勝ち、楚に与すれば楚が勝ちます。今、足下のために計るに、2王(劉邦・項羽)を両立させて天下を3分し、徳をもって諸侯を手懐け、手を高く拱いて恭しく謙るならば、天下の君主たちは相率いて斉に参朝することでしょう」と韓信に独立を勧め、また「今足下が主を震わせる威名を戴いて楚に帰属しても楚人には信用されず、漢に帰属しても漢人は震え恐れるばかりでしょう」と、どちらに帰属しても粛清の危険性があることを説いたが、ついに韓信は聞き入れなかった。
蒯通は自説が聞き入れられなかったため、後難を恐れて狂人と偽り巫を装った。
天下が平定されると、韓信は罪をもって王位を廃されて淮南侯となり、謀叛を謀って誅殺されたが、死に臨み嘆いて「蒯通の言葉を聞き入れず、女子の手にかかり殺されるに至ったのが残念だ」と言った。
すると高帝(劉邦)は「それは斉の弁士・蒯通のことだ」と言い、斉に詔して蒯通を召し出して煮殺そうとしたが、その時、「汝が韓信に謀叛させようとしたのはどうしてか?」と問うた。
蒯通が「狗というものは主人でない者に吠えるものです。当時、臣はただ斉王・韓信しか知らず、陛下(劉邦)を存じませんでした。秦は鹿(帝位)を失い、天下がみなこれを逐いましたが、才能高き者が真っ先に手に入れたのです。天下は騒がしく争って、陛下(劉邦)のなされたことをしようとしたまでのこと。思うに力が足りなかったからであり、それをことごとく誅すことができるものでしょうか」と答えると、高帝(劉邦)は蒯通を赦した。
斉の悼恵王の時、相国となった曹参は、礼儀をもって賢人に謙った。
蒯通は請われてその賓客となり、斉王・田栄が敗れて以降、隠棲していた斉の俊秀・東郭先生と梁石君を推挙した。
蒯通は戦国時代の遊説の士の、その場に適した計を論じ、また自らその説を述べて、都合81首にまとめ、『雋永』と名付けた。
また、初め蒯通は斉の人・安其生(安期生)と親しく、安其生(安期生)はかつて項羽に見えて求めたが、項羽はその方策を用いることができなかった。後に項羽はこの2人を封じようとしたが、2人は受けようとしなかったという。
脚注
*1車前の横木。車上で敬礼する際に伏して手をつくところ。
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第1世代(蒯良・蒯越・蒯祺)
蒯良・子柔
生没年不詳。荊州・南郡・中盧国の人。子に蒯鈞。同郷の蒯越との関係は不明。
劉表が荊州刺史となった初平元年(190年)の荊州は、南陽郡・魯陽県に袁術が駐屯し、江南では宗賊の勢いが盛んであった。
蒯良は蒯越・蔡瑁らと共に劉表に招かれて、主に仁義を重視する方策によって劉表の荊州平定を補佐した。
『世説新語』惑溺が注に引く『晋陽秋』には「蒯良は吏部尚書であった」とあり、おそらく蒯良は、その後蒯越らと共に曹操に帰順し、吏部尚書に任命されたものと思われる。
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蒯越・異度
生年不詳〜建安19年(214年)没。荊州・南郡・中盧国の人。同郷の蒯良との関係は不明。
何進配下
蒯越は前漢の蒯通の後裔であり、人柄は公正そのもので、有り余る英知を持った、逞しい身体つきの堂々たる風貌をしていた。
その名声を聞き知った大将軍・何進に辟召かれて東曹掾に任命された。蒯越は宦官を誅殺するよう何進に進言したが、何進は躊躇して決断しなかった。蒯越は何進が敗北するに違いないと悟り、自ら求めて豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の県令に転出した。
劉表・劉琮配下
劉表が荊州刺史となった初平元年(190年)の荊州は、南陽郡・魯陽県に袁術が駐屯し、江南では宗賊の勢いが盛んであった。
蒯越は蒯良・蔡瑁らと共に劉表に招かれて、主に権謀術数を用いて劉表の荊州平定を補佐し、詔によって章陵太守に任命され、樊亭侯に封ぜられた。
建安4年(199年)、曹操と袁紹が官渡で対峙すると、劉表は袁紹と手を結んだが、蒯越は韓嵩・劉先らと共に曹操に従うことを勧め、建安13年(208年)に劉琮が後を継ぐと、再び韓嵩・傅巽らと共に曹操に帰順するように勧めた。
曹操配下
曹操によって荊州が平定されると、光禄勲に任命された。
曹操は荀彧に手紙を送って「荊州を手に入れたのは嬉しくないが、蒯異度(蒯越)を手に入れたのがうれしい」と言ったという。
建安19年(214年)に亡くなった。臨終に際して曹操に手紙を送り「死者が生き返ったとしても、生者は(死者に対して)気が引けないようにするものだ。儂は推挙した人物こそ少ないが、それ(遺族の面倒をみること)を実行したことは多い。もし霊魂が存在するならば、儂のこの言葉を聞いてくれるだろう」と言った。
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蒯祺
生没年不詳。荊州・南郡・中盧国の人。曹操配下の房陵太守。妻は諸葛亮の上の姉。
建安24年(219年)、劉備は宜都太守・孟達に命じて荊州・宜都郡・秭帰県から北方に向かい、荊州・房陵郡を攻撃させた。
房陵太守・蒯祺は孟達の兵によって殺害された。
備考
房陵県は元は益州・漢中郡に属していた。荊州・房陵郡の設置年は不明。
『資治通鑑』胡三省注に「この郡(房陵郡)は恐らく劉表が置いて蒯祺に守らせたか、蒯祺が自立したのだろう」とある。
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第2世代(蒯鈞)
蒯鈞
生没年不詳。荊州・南郡・中盧国の人。父は蒯良。妻は王朗の子・王粛の娘。娘の蒯氏は呉の皇族・孫秀(字は彦才)の妻。晋の武帝(司馬炎)の姨丈(母の姉妹の夫)にあたる。
魏の南陽太守となった。
蒯欽
生没年不詳。荊州・南郡・中盧国の人。従祖父*2に蒯祺。
恵帝(司馬衷)が即位した時、次のような童謡が流行った。
〽2つの火が地に落ちて、哀しいかな秋蘭
形は街郵に帰り、最後には人に嘆かれる
また、司隷・河内郡・温県の狂人のような者が、次のように書いた。
〽光々なる文長、戟をもって墻(壁・垣根)となす
毒薬は直ちに効果を現し、刃はかえって自ら傷つけん
楊済が蒯欽にこれらの意味を尋ねると、蒯欽は涙を流しながら言った。
「皇太后の字は『季蘭』です。そして2つの火というのは武皇帝(司馬炎)の諱『炎』を現しています」
つまり、武皇帝(司馬炎)が崩御した後、皇太后が権威を失い、大きな禍と辱めに見舞われて、終始 道に外れた扱いを受け続け、帝陵に葬られることもかなわず、あらぬ所に葬られることを言っているのである。
楊済の兄・楊駿(字は文長)の娘である楊太后が滅ぼされた時、街郵亭に葬られ、みな彼の言葉通りになった。
脚注
*2父母の従兄弟。または祖父の兄弟。
第3世代(蒯氏)
蒯氏
生没年不詳。荊州・南郡・中盧国*3の人。父は蒯鈞。呉の皇族・孫秀(字は彦才)の妻。
建衡2年(270年)、呉の前将軍・夏口督の孫秀が、妻子や子飼いの兵士数百人を連れて晋に降って来ると、晋の武帝(司馬炎)は彼を寵遇して、妻の姨妹*4である蒯氏を娶せ、驃騎将軍・儀同三司・会稽公に封じ、交州牧とした。
孫秀と蒯氏はとても仲が良かったが、ある時、嫉妬した蒯氏が孫秀に「貉子*5」と罵ったことがあり、それ以降、孫秀は蒯氏の部屋に寄りつかなくなってしまった。
蒯氏はとても後悔し、武帝(司馬炎)に救いを求めた。
ちょうど大赦があり群臣が一堂に会したが、みなが退出する時、武帝(司馬炎)は1人、孫秀を呼び止めて、「今、大赦により天下の人々は広々とした気持ちでいるが、蒯夫人(蒯氏)は、大赦の恩恵にあずかることはできないのかね?」と言った。
これにより孫秀は蒯氏を許し、2人の仲は元通りとなった。
脚注
*3『世説新語』惑溺が注に引く『晋陽秋』には「襄陽の人」とあるが、荊州・南郡・中盧国(中盧県)は建安13年(208年)に新設された襄陽郡に編入されたため、「襄陽郡の人」となっていると解釈した。
*4姨妹には、叔母・母方の叔母・妻の妹などの意味がある。
*5小さな貉(タヌキ・アナグマ)。人を罵る言葉。
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