正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉛(隗禧・隗渠・隗囂)です。
スポンサーリンク
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
スポンサーリンク
か㉛
隗(かい)
隗禧・子牙
生没年不詳。司隷・京兆尹の人。
代々勢力のない貧しい家であったが、若い頃から学問が好きだった。
初平年間(190年〜193年)になって三輔*1に動乱が起こると、隗禧は南に行き荊州に仮住まいしたが、荒廃と騒動を理由に怠けることなく、常に経書を携えて、生活のために稲を刈る合間にそれを暗記した。
曹操が荊州を平定すると、召し出されて軍謀掾に任命され、黄初年間(220年〜226年)に譙王(曹林)の郎中となった。
譙王(曹林)は、かねてから隗禧が儒者であると聞いていたので、常に彼から学ぶ姿勢を忘れず、隗禧もまた敬意をもって教授したので多くの贈り物を賜った。
その後、病気のため都に還り、郎中に任命された。
80余歳で老齢のため官を辞して家に暮らしたが、彼について学ぶ者は大変多かった。
隗禧は経書に明るく、またよく星の動きを見た。ある時、隗禧は天文を仰ぎ見ると、嘆息して、魚豢に向かって「天下の兵火はまだまだ止まない。どうすれば良いのか」と言った。
魚豢もまた、隗禧に『左氏伝』について質問したことがあったが、隗禧は答えて、
「幽微(深遠で微妙)なことを知りたければ、『易』に勝るものはない。人倫(人間の実践すべき道義)の掟は『礼』に勝るものはない。山川草木の名を多く知るのは『詩経』に勝るものはない。『左氏伝』はただ切り貼りの書物に過ぎない。真面目に学ぶ程のものではない」
と言った。
魚豢はついでに『詩経』について質問すると、隗禧は斉・韓・魯・毛の4家の学説を説明したが、書物を手に取らず、まるで朗誦しているようだった。
また隗禧は種々の経書の解釈数十万字を著述したが、浄書する前に耳が聞こえなくなり、数年後に病没した。
『魏略』は、董遇・賈洪・邯鄲淳・薛夏・隗禧・蘇林・楽詳ら7人を儒学の宗家としている。
脚注
*1長安県を中心とする地域。京兆尹・左馮翊・右扶風の3郡。
「隗禧」の関連記事
隗渠
生没年不詳。益州・越巂郡・蘇祁県の部族長・冬逢の弟。
蜀の建興3年(225年)に蜀の丞相・諸葛亮が高定を討伐してから後、越巂郡では叟族が度々反乱を起こして 太守の龔禄・焦璜を殺害した。
それ以降、太守は郡に行く勇気はなく、郡から8百余里(約344km)離れた安定県(安定した県?)に住んだので、越巂郡はただ名のみの存在となった。
延熙3年(240年)に張嶷(張嶷)が越巂太守に任命されると、張嶷(張嶷)は配下の兵を率いて郡に赴任し、恩愛と信義をもって招き寄せたので、蛮族はみな服従した。
益州・越巂郡・蘇祁県の部族長・冬逢と彼の弟・隗渠らは、一旦降伏したものの、再び叛旗を翻した。
張嶷(張嶷)は冬逢を誅殺したが、冬逢の妻は旄牛王の娘だったので、張嶷(張嶷)は計略上、彼女を許して罰しなかった。
一方、隗渠は逃亡して西方の国境地帯に入り込んだ。隗渠は剛猛捷悍で諸部族から非常に畏れ憚られていたが、側近の2人を偽って張嶷(張嶷)に降伏させ、彼らから情報を得ていた。
それを見抜いた張嶷(張嶷)は、彼らに厚い恩賞を約束して逆に情報を提供させたので、2人は共謀して隗渠を殺害した。
隗渠が死ぬと、諸部族はみな安定した。
隗囂・季孟
生年不詳〜建武9年(33年)没。天水郡・成紀県の人。
挙兵
若くして州郡に仕え、王莽の国師・劉歆に抜擢されて士となったが、劉歆が亡くなると郷里に帰った。
季父(叔父)の隗崔は性格が豪快で俠気があり、人々の心をよく得ていた。
更始帝(劉玄)が即位して王莽の兵が連敗していることを聞くと、隗崔は兄の隗義、上邽県出身の楊廣、冀県出身の周宗らと共に兵を起こして漢に応じようとした。
隗囂は「そもそも兵は凶事です。宗族にどんな辜(罪)があるというのですかっ!」とこれを止めたが、隗崔は耳を貸さず、ついに部下数千人を集めて平襄県を攻め、王莽の鎮戎大尹(新の天水太守)を殺害した。
隗崔や楊廣らは「事を挙げるには、盟主を立てて人々の心を1つにしなければならない」と思い、隗囂が以前から名声があり、経書を好んでいたことを思い出し、隗囂を推戴して上将軍にしようとした。
隗囂は辞退しきれず、そこで「皆様方は私を買いかぶっておられます。必ず私の言うことを聞くというのならば、敢えて命令に従いましょう」と言い、人々はみな承諾した。
隗囂は上将軍となると、使者を派遣して平陵県出身の方望を招聘し、軍師とした。
すると方望は「足下は天命を承け民心に順おうと考え、漢を輔けるために起たれました。しかし今、漢の復興を掲げて立っている者(更始帝)が南陽におり、王莽もまだ長安を拠点として勢力を保っています。漢の匡輔(助けること)を名分となさるならば、どうか急いで高廟を立て、臣と称して漢の諸皇帝を祀るべきです」と言った。
すると隗囂は、すぐさま彼の進言に従って邑の東に高廟を立て、高祖(劉邦)・太宗(文帝)・世宗(武帝)を祀り、31将・16姓と盟約を結んだ。
高廟の祭祀と盟約の事が終わると、王莽を弾劾し、漢の祭祀を継ぐ意思を表明する檄文を発して郡国に宣言した。
そこで隗囂は、10万の兵を整え、雍州牧・陳慶を攻撃して殺害し、さらに安定郡を攻めようとした。
安定大尹・王向は王莽の従弟であり、平阿侯・王譚の子で、安定郡だけは威令がよく行われ、属県はみな叛くことがなかった。隗囂は王向に書簡を送って繰り返し諭し示したが、あくまでも従おうとしなかった。
すると隗囂は、兵を進めて王向を捕虜にし、自分に従わない者がどうなるかを人々に見せつけて殺害すると、安定郡はことごとく降伏した。
その頃、長安の中で兵が起こって王莽が誅殺された。そこで隗囂は、諸将を分けて隴西郡・武都郡・金城郡・武威郡・張掖郡・酒泉郡・敦煌郡を攻めさせ、みなこれらを降伏させた。
更始帝(劉玄)配下として
更始2年(24年)、更始帝(劉玄)は使者を派遣して隗囂・隗崔・隗義たちを徴召し、配下にしようとした。
隗囂が行こうとすると、方望は「更始帝はまだどうなるか分からない」と考え、これを固く止めたが、隗囂は聞かなかったので、手紙を残して隗囂の下を去った。
隗囂たちが長安に至ると、更始帝(劉玄)は隗囂を右将軍とし、白虎将軍・隗崔と左将軍・隗義はみなそれまで自称していた称号に即かせた。
その冬、隗崔と隗義は相談して更始帝(劉玄)に叛いて帰ろうと考えた。隗囂は禍に巻き込まれることを恐れ、すぐに事件としてこのことを告げたため、隗崔と隗義は誅殺された。
更始帝(劉玄)は隗囂の忠義に感心して御史大夫とした。
翌年の夏、更始帝(劉玄)の打倒を掲げた赤眉軍が関中に入り、三輔*1は擾乱した。
河北で光武帝(劉秀)が即位したことを伝え聞くと、隗囂は直ちに更始帝(劉玄)に「政治を光武帝(劉秀)の叔父である国三老の劉良に任せるように」と説いたが、更始帝(劉玄)は聞かなかった。
諸将は更始帝(劉玄)を脅して東に帰ろうと考え、隗囂もまたその謀略に加わった。事が発覚し、更始帝(劉玄)は使者を派遣して隗囂を召したが、隗囂は病気と称して入朝しなかった。
さらに隗囂は、客の王遵や周宗たちを集めて兵を整え自らを守ろうとした。
これに更始帝(劉玄)は、執金吾の鄧曄に兵を率いて隗囂を包囲させたので、隗囂は門を閉じて防ぎ守ったが、夕暮れ時に至ってついに包囲を突破して数十騎と共に夜に平城門の門番を斬り、逃亡して天水郡に帰った。
隗囂は、再びかつて自分に従っていた勢力を招集し、天水郡を拠点として西州上将軍を自称した。
更始帝(劉玄)が敗れると、三輔*1の長老や士大夫はみな隗囂に帰順した。
隗囂は元々謙恭(謙って恭しくすること)で士を愛し、身を傾けて招き接して身分に捕らわれない交わりを持つような人物であった。
そこで、元王莽の平河大尹であった長安出身の谷恭を掌野大夫とし、平陵県出身の範逡を師友とし、趙秉・蘇衡・鄭興を祭酒とし、申屠剛・杜林を持書(侍御史)とし、楊廣・王遵・周宗と平襄県出身の行巡、阿陽県出身の王捷、長陵県出身の王元を大将軍とし、杜陵や金丹たちを賓客とした。
これにより隗囂の名声は西州に震い、山東にまで聞こえた。
光武帝(劉秀)との盟友関係
建武2年(26年)、大司徒の鄧禹は西に向かい赤眉軍を撃ち、雲陽県に駐屯した。この時、鄧禹の裨将軍・馮愔が兵を率いて鄧禹に叛き、西の天水郡に向かったので、鄧禹はこれを迎え撃って馮愔を高平県に破り、輜重をすべて奪った。
そこで鄧禹は使者に節を持たせ、承制*2により隗囂を西州大将軍に任命し、涼州と朔方を取り仕切らせた。
赤眉軍が長安を去って西に向かい隴県に上ろうとしたので、隗囂は将軍の楊廣を派遣して赤眉軍を破らせ、さらに追撃して烏氏県と涇陽県の間で赤眉軍を撃ち破った。
隗囂はすでに漢に対して(馮愔を討ち赤眉軍を破ったという)功績があり、また鄧禹から爵位を受けてその腹心を官職につけていたので、幕僚の多くは使者を京師に通じさせることを勧めた。
建武3年(27年)、隗囂が上書して宮殿に至ると、光武帝(劉秀)はかねてからその評判を聞いていたので、隗囂の功績に報いるために特別な「礼」で迎え、字を呼んで語り、対等の国への「儀」を用いるなど、非常に手厚く待遇した。
この時、陳倉県出身の呂鮪が数万の勢力を擁し、公孫述と通じて三輔*1を荒らしていたので、隗囂は再び兵を派遣して征西大将軍の馮異を助けてこれを討ち、呂鮪を敗走させ、状況を上奏した。
これに光武帝(劉秀)は「これまでの功績に感謝し、互いに手を結ぶことを希望する」内容の親書で応え、恩礼は益々篤くなった。
その後、公孫述はしばしば漢中に出兵し、使者を派遣して隗囂に大司空・扶安王の印綬を授けた。隗囂は「自分が公孫述と対等の国であるのに、王の印綬を与えられて家臣と扱われた」ことを恥じてその使者を斬り、兵を出して公孫述を攻撃した。
隗囂が公孫述の軍を次々に破ったので、蜀兵(公孫述)は再び北に出て来なくなった。
この時、関中の将帥たちはしばしば上書し「蜀(公孫述)を撃つべきである」と言ったので、光武帝(劉秀)はそれを隗囂に示し、隗囂に蜀兵(公孫述)を討伐させてその「信」を問おうとした。
すると隗囂は長史を派遣して上書して「今、三輔*1は孤立していて弱く、辺境には劉文伯(盧芳)がいるので、まだ蜀を謀るべきではない」と訴えた。
光武帝(劉秀)は「隗囂がどっちつかずの立場を維持することを欲し、天下が統一されることを願っていない」ことを知り、これまでの対等の国への儀をやめ、君臣の儀に改めた。
光武帝(劉秀)との決裂
これより先、隗囂は来歙と馬援と互いに親しくしていたので、光武帝(劉秀)はしばしば来歙と馬援を派遣して隗囂に入朝を勧めて高い官爵を許そうとしていた。
しかし隗囂は入朝することを希望せず、何度も使者を派遣して深く謙譲の言葉を述べた。
建武5年(29年)、光武帝(劉秀)はまた来歙を派遣して、隗囂の子を光武帝(劉秀)に仕えさせるように説いた。
この時隗囂は、劉永と鼓寵が共に光武帝(劉秀)に敗れて破滅したことを聞いていたので、仕方なく長子の隗恂を送り来歙に従って宮殿に詣らせ、光武帝(劉秀)は隗恂を胡騎校尉とし、鐫羌侯に封じた。
ところが、隗囂の将軍・王元と王捷は「天下の勝敗はまだ分からない」として、光武帝(劉秀)に仕えることを願わなかった。隗囂も「子を人質にした」と言っても、土地の険しさを頼んで勢力を保とうと思っていたので、遊説家や長者たちは徐々に隗囂の下を去って行った。
建武6年(30年)、関東はことごとく平定されたが、光武帝(劉秀)は長らく戦に苦しんだため、諸将に「しばらくは隗囂と公孫述のことは考えないでおこう」と言い、度々隴西の隗囂と蜀の公孫述に書簡を送って降伏しなかった場合と降伏した場合の禍福を告げ示した。
隗囂は周遊を派遣し、周遊はまず馮異の軍営に行ったが、そこで周遊は仇に殺されてしまった。そこで光武帝(劉秀)は、衛尉の銚期に珍しい宝や美しい帛を持たせ、隗囂に下賜しようととしたが、銚期は鄭に至ったところで盗賊に遭い、財物を失ってしまった。
光武帝(劉秀)は常に隗囂を「長者」と称し、努めて彼を招きたいと考えていたが、それを聞くとため息をついて「吾は隗囂と協調して事を成すことはできないのだろうな。使者が来ると殺され、賜物を用意しても道中で失ってしまうのだから」と言った。
公孫述が兵を派遣して南郡を攻撃すると、光武帝(劉秀)は公孫述の中心拠点を潰そうと考え、隗囂に「天水郡から蜀を攻撃せよ」と詔したが、隗囂はまた、上書して「兵を進める上での多くの障害」を挙げた。
光武帝(劉秀)は「結局、隗囂には命令に従う気がない」ことを悟り、ついに隗囂を討伐しようと考え、西方の長安に行幸し、来歙に璽書を奉じて勅旨を諭させると、建威大将軍の耿弇ら7人の将軍を派遣して隴道から蜀を攻撃させた。
すると隗囂は疑い懼れ、すぐに兵を整えて王元を隴坻に駐屯させ、木を伐って道を塞いで来歙を謀殺しようとしたが、来歙は逃れて帰ることができた。
光武帝(劉秀)の諸将は隗囂に大敗し、それぞれ兵を率いて退いた。
そこで隗囂は王元と行巡を三輔*1に侵入させたが、征西大将軍の馮異と征虜将軍の祭遵らがこれを撃破した。
ここに来て隗囂は、光武帝(劉秀)に上疏して謝罪し、降伏を申し出た。
担当の役人はその隗囂の文言が驕っていることから、人質としている隗囂の子・隗恂を誅殺することを求めたが、光武帝(劉秀)は隗恂を殺すのは忍びないと思い、再び来歙を汧県に行かせ、隗囂に書簡を賜って「これ以上手を出さず、さらに隗恂の弟を(人質として)朝廷に来させるのであれば、爵禄はこれまで通りとし、大いなる福があるだろう。浮ついた意味のない言葉には飽きた。(人質を増やして服従することを)欲しないのならば、返事は不要だ」と伝えた。
隗囂は「光武帝(劉秀)が自分の詐の気持ちを見通している」と知り、ついに光武帝(劉秀)に対抗するため公孫述に臣従した。
翌年、公孫述は隗囂を朔寧王に封じ、兵を派遣して往来させ、隗囂を支援する体勢を取った。
秋、隗囂は歩騎3万を率いて安定郡に侵入し、陰槃県に至った。馮異は諸将を率いてそれを拒んだ。隗囂はまた別働隊に隴道を下って、汧県にいた祭遵を攻めさせたが、どちらも利がなく引き揚げた。
そこで光武帝(劉秀)は、来歙を派遣して隗囂配下の王遵を招くと、王遵は早速家族と共に東の京師に向かい光武帝(劉秀)に帰順したので、光武帝(劉秀)は王遵を太中大夫に任命して向義侯に封じた。
建武8年(32年)春、来歙は山道から襲撃して略陽城を得た。隗囂は来歙の軍が不意に現れたので、さらに大軍が来るのではないかと懼れ、王元に隴坻で防がせ、行巡に番須口を守らせ、王孟に雞頭道を塞がせ、牛邯を瓦亭に駐屯させた。
そして隗囂は自ら大軍をもって来歙を包囲し、公孫述もまた将軍の李育と田弇を派遣して略陽城を攻めさせたが、数ヶ月経っても落とすことができなかった。
光武帝(劉秀)は諸将を率いて隗囂を西征しようとして、複数の道から隴に攻め上がり、王遵に節を持たせ、大司馬の呉漢を監督して長安に駐屯させた。
光武帝(劉秀)に帰順した王遵は「隗囂が必ず敗れ滅亡する」と思っていた。王遵は昔なじみの牛邯に「漢に帰順する意思がある」ことを知ると、牛邯に書簡を送って教え諭し、有識者と相談するように説いた。
すると牛邯は10日余り熟考し、洛陽の光武帝(劉秀)に帰順して太中大夫に任命され、隗囂の大将13人、属県16県、兵卒10万余人はみな降伏した。
隗囂の死
隗囂の将軍・王元は蜀に入って公孫述に救援を求め、隗囂は妻子を連れて西城に奔って楊廣に従い、田弇と李育と上邽県を守った。
ここに至り、光武帝(劉秀)は隗囂に詔して「もし手を束ねて自ら来る(降伏する)のであれば、父子が相見えることができ、それ以上何もしないことを保証しよう。もし黥布のように(皇帝に)なろうと考えるのであれば、勝手にするがよい」と伝えたが、隗囂はついに降伏しなかった。
そこで光武帝(劉秀)は、隗囂の子・隗恂を誅殺し、呉漢に征南大将軍の岑彭と共に西城を包囲させ、耿弇に虎牙大将軍の蓋延と共に上邽県を包囲させた。
潁川郡で賊が蜂起したので光武帝(劉秀)は東に戻ったが、1ヶ月余りして楊廣が死に、隗囂は窮困した。隗囂の大将・王捷は、漢軍に向け「隗王(隗囂)のために城を守る者はみな必死の覚悟をして二心を抱く者はいない。願わくば諸軍は速やかに諦めよ。自殺してそのことを明らかにいたそうっ!」と叫び、自ら頸を刎ねて死んだ。
数ヶ月後、王元・行巡・周宗は蜀の公孫述の救援兵5千人余りを率い、太鼓を打ち鳴らして大いに「百万の軍勢がやって来たぞっ!」と叫んだ。漢軍は大いに驚き、まだ陣形が整わないうちに王元たちは包囲を破って決死の覚悟で戦い、ついに城に入ることに成功し、隗囂を迎えて冀県に帰った。
その後、呉漢らは兵糧が尽きて撤退したので、安定郡・北地郡・天水郡・隴西郡は再び反逆して隗囂の側についた。
建武9年(33年)春、隗囂は病気になり、飢えて糗糒(干飯)を食べ、憤って死んだ。
隗囂の死後
王元と周宗は、隗囂の末子である隗純を立てて王とした。
翌年、来歙・耿弇・蓋延たちは落門を攻めて破ったが、周宗・行巡・苟宇・趙恢らは隗純を連れて降伏した。周宗と趙恢、隗氏の一族は京師以東に分けて住まわされ、隗純は行巡・苟宇と一緒に弘農郡に移された。
ただ王元だけは留まって蜀の公孫述の将となったが、輔威将軍の臧宮が延岑を破ると、王元は部下と共に宮殿に至って降伏した。
王元は字を恵孟と言い、初め上蔡令に任命され、東平相に遷ったが、墾田の申告が実際と異なっていた罪によって獄に下されて死んだ。
牛邯は字を孺卿と言い、狄道の人である。勇力と才気があり、辺境で雄名があった。降伏に際して、大司徒司直の杜林と太中大夫の馬援は2人とも牛邯を推薦し、護羌校尉となって来歙と共に隴右を平定した。
建武18年(42年)、隗純は賓客数十騎と共に逃亡して胡の地に入ったが、武威郡に至ったところで捕らえられ誅殺しされた。
脚注
*1長安県を中心とする地域。京兆尹・左馮翊・右扶風の3郡。
*2事前に皇帝に上奏することなく人事を行う権限のこと。
「隗囂」の関連記事
スポンサーリンク