正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉛(隗禧(かいき)・隗渠(かいきょ)・隗囂(かいごう))です。

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凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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か㉛

隗(かい)

隗禧(かいき)・子牙(しが)

生没年不詳。司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)の人。

代々勢力のない貧しい家であったが、若い頃から学問が好きだった。

初平(しょへい)年間(190年〜193年)になって三輔(さんぽ)*1に動乱が起こると、隗禧(かいき)は南に行き荊州(けいしゅう)に仮住まいしたが、荒廃(こうはい)と騒動(そうどう)を理由に怠(なま)けることなく、常に経書を携(たずさ)えて、生活のために稲を刈る合間にそれを暗記した。

曹操(そうそう)が荊州(けいしゅう)を平定すると、召(め)し出されて軍謀掾(ぐんぼうえん)に任命され、黄初(こうしょ)年間(220年〜226年)に譙王(しょうおう)(曹林(そうりん))の郎中(ろうちゅう)となった。

譙王(しょうおう)(曹林(そうりん))は、かねてから隗禧(かいき)が儒者(じゅしゃ)であると聞いていたので、常に彼から学ぶ姿勢を忘れず、隗禧(かいき)もまた敬意をもって教授したので多くの贈り物を賜(たまわ)った。

その後、病気のため都に還(かえ)り、郎中(ろうちゅう)に任命された。

80余歳で老齢のため官を辞して家に暮らしたが、彼について学ぶ者は大変多かった。

隗禧(かいき)は経書に明るく、またよく星の動きを見た。ある時、隗禧(かいき)は天文を仰(あお)ぎ見ると、嘆息(たんそく)して、魚豢(ぎょかん)に向かって「天下の兵火はまだまだ止(や)まない。どうすれば良いのか」と言った。

魚豢(ぎょかん)もまた、隗禧(かいき)に『左氏伝(さしでん)』について質問したことがあったが、隗禧(かいき)は答えて、

「幽微(ゆうび)(深遠で微妙)なことを知りたければ、『易(えき)』に勝るものはない。人倫(じんりん)(人間の実践すべき道義)の掟(おきて)は『礼(らい)』に勝るものはない。山川草木の名を多く知るのは『詩経(しきょう)』に勝るものはない。『左氏伝(さしでん)』はただ切り貼りの書物に過ぎない。真面目に学ぶ程のものではない」

と言った。

魚豢(ぎょかん)はついでに『詩経(しきょう)』について質問すると、隗禧(かいき)は斉(せい)・韓(かん)・魯(ろ)・毛(もう)の4家の学説を説明したが、書物を手に取らず、まるで朗誦(ろうしょう)しているようだった。

また隗禧(かいき)は種々の経書の解釈数十万字を著述したが、浄書する前に耳が聞こえなくなり、数年後に病没した。


『魏略(ぎりゃく)』は、董遇(とうぐう)・賈洪(かこう)・邯鄲淳(かんたんじゅん)・薛夏(せつか)・隗禧(かいき)・蘇林(そりん)・楽詳(がくしょう)ら7人を儒学(じゅがく)の宗家としている。

脚注

*1長安県(ちょうあんけん)を中心とする地域。京兆尹(けいちょういん)・左馮翊(さひょうよく)・右扶風(ゆうふふう)の3郡。


「隗禧(かいき)」の関連記事

隗渠(かいきょ)

生没年不詳。益州(えきしゅう)・越巂郡(えっすいぐん)・蘇祁県(そじけん)の部族長・冬逢(とうほう)の弟。

蜀(しょく)の建興(けんこう)3年(225年)に蜀(しょく)の丞相(じょうしょう)・諸葛亮(しょかつりょう)が高定(こうてい)を討伐してから後、越巂郡(えっすいぐん)では叟族(そうぞく)が度々(たびたび)反乱を起こして 太守(たいしゅ)の龔禄(きょうろく)・焦璜(しょうこう)を殺害した。

それ以降、太守(たいしゅ)は郡に行く勇気はなく、郡から8百余里(約344km)離れた安定県(あんていけん)(安定した県?)に住んだので、越巂郡(えっすいぐん)はただ名のみの存在となった。

延熙(えんき)3年(240年)に張嶷(ちょうぎ)(張嶷(ちょうぎょく))が越巂太守(えっすいたいしゅ)に任命されると、張嶷(ちょうぎ)(張嶷(ちょうぎょく))は配下の兵を率(ひき)いて郡に赴任し、恩愛と信義をもって招(まね)き寄せたので、蛮族(ばんぞく)はみな服従した。


益州(えきしゅう)・越巂郡(えっすいぐん)・蘇祁県(そじけん)の部族長・冬逢(とうほう)と彼の弟・隗渠(かいきょ)らは、一旦降伏したものの、再び叛旗(はんき)を翻(ひるがえ)した。

張嶷(ちょうぎ)(張嶷(ちょうぎょく))は冬逢(とうほう)を誅殺(ちゅうさつ)したが、冬逢(とうほう)の妻は旄牛王(ぼうぎゅうおう)の娘だったので、張嶷(ちょうぎ)(張嶷(ちょうぎょく))は計略上、彼女を許して罰しなかった。

一方、隗渠(かいきょ)は逃亡して西方の国境地帯に入り込んだ。隗渠(かいきょ)は剛(ごう)猛(もう)捷(せい)悍(かん)で諸部族から非常に畏(おそ)れ憚(はばか)られていたが、側近の2人を偽(いつわ)って張嶷(ちょうぎ)(張嶷(ちょうぎょく))に降伏させ、彼らから情報を得ていた。

それを見抜いた張嶷(ちょうぎ)(張嶷(ちょうぎょく))は、彼らに厚(あつ)い恩賞を約束して逆に情報を提供させたので、2人は共謀して隗渠(かいきょ)を殺害した。

隗渠(かいきょ)が死ぬと、諸部族はみな安定した。


隗囂(かいごう)・季孟(きもう)

生年不詳〜建武(けんぶ)9年(33年)没。天水郡(てんすいぐん)・成紀県(せいきけん)の人。

挙兵

若くして州郡に仕え、王莽(おうもう)の国師(こくし)・劉歆(りゅうきん)に抜(ばっ)擢(てき)されて士(し)となったが、劉歆(りゅうきん)が亡くなると郷里に帰った。

季父(きふ)(叔父(おじ))の隗崔(かいさい)は性格が豪快で俠気(おとこぎ)があり、人々の心をよく得ていた。

更始帝(こうしてい)(劉玄(りゅうげん))が即位して王莽(おうもう)の兵が連敗していることを聞くと、隗崔(かいさい)は兄の隗義(かいぎ)、上邽県(じょうけいけん)出身の楊廣(ようこう)、冀県(きけん)出身の周宗(しゅうそう)らと共に兵を起こして漢(かん)に応じようとした。

隗囂(かいごう)は「そもそも兵は凶事です。宗族(そうぞく)にどんな辜(つみ)(罪)があるというのですかっ!」とこれを止めたが、隗崔(かいさい)は耳を貸さず、ついに部下数千人を集めて平襄県(へいじょうけん)を攻め、王莽(おうもう)の鎮戎大尹(ちんじゅうたいいん)(新(しん)の天水太守(てんすいたいしゅ))を殺害した。

隗崔(かいさい)や楊廣(ようこう)らは「事を挙(あ)げるには、盟主を立てて人々の心を1つにしなければならない」と思い、隗囂(かいごう)が以前から名声があり、経書を好んでいたことを思い出し、隗囂(かいごう)を推戴(すいたい)して上将軍(じょうしょうぐん)にしようとした。

隗囂(かいごう)は辞退しきれず、そこで「皆様方は私を買いかぶっておられます。必ず私の言うことを聞くというのならば、敢(あ)えて命令に従いましょう」と言い、人々はみな承諾した。


隗囂(かいごう)は上将軍(じょうしょうぐん)となると、使者を派遣して平陵県(へいりょうけん)出身の方望(ほうぼう)を招聘(しょうへい)し、軍師(ぐんし)とした。

すると方望(ほうぼう)は「足下(あなた)は天命を承(う)け民心に順(したが)おうと考え、漢(かん)を輔(たす)けるために起(た)たれました。しかし今、漢(かん)の復興を掲(かか)げて立っている者(更始帝(こうしてい))が南陽(なんよう)におり、王莽(おうもう)もまだ長安(ちょうあん)を拠点として勢力を保(たも)っています。漢(かん)の匡輔(きょうほ)(助けること)を名分となさるならば、どうか急いで高廟(こうびょう)を立て、臣と称して漢(かん)の諸皇帝を祀(まつ)るべきです」と言った。

すると隗囂(かいごう)は、すぐさま彼の進言に従って邑(むら)の東に高廟(こうびょう)を立て、高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう))・太宗(たいそう)(文帝(ぶんてい))・世宗(せそう)(武帝(ぶてい))を祀(まつ)り、31将・16姓と盟約を結んだ。

高廟(こうびょう)の祭祀(さいし)と盟約の事が終わると、王莽(おうもう)を弾劾(だんがい)し、漢(かん)の祭祀(さいし)を継ぐ意思を表明する檄文(げきぶん)を発して郡国に宣言した。


そこで隗囂(かいごう)は、10万の兵を整え、雍州牧(ようしゅうぼく)・陳慶(ちんけい)を攻撃して殺害し、さらに安定郡(あんていぐん)を攻めようとした。

安定大尹(あんていたいいん)・王向(おうきょう)は王莽(おうもう)の従弟(いとこ)であり、平阿侯(へいあこう)・王譚(おうたん)の子で、安定郡(あんていぐん)だけは威令がよく行われ、属県はみな叛(そむ)くことがなかった。隗囂(かいごう)は王向(おうきょう)に書簡を送って繰り返し諭(さと)し示したが、あくまでも従おうとしなかった。

すると隗囂(かいごう)は、兵を進めて王向(おうきょう)を捕虜にし、自分に従わない者がどうなるかを人々に見せつけて殺害すると、安定郡(あんていぐん)はことごとく降伏した。

その頃、長安(ちょうあん)の中で兵が起こって王莽(おうもう)が誅殺(ちゅうさつ)された。そこで隗囂(かいごう)は、諸将を分けて隴西郡(ろうせいぐん)・武都郡(ぶとぐん)・金城郡(きんじょうぐん)・武威郡(ぶいぐん)・張掖郡(ちょうえきぐん)・酒泉郡(しゅせんぐん)・敦煌郡(とんこうぐん)を攻めさせ、みなこれらを降伏させた。

更始帝(劉玄)配下として

更始(こうし)2年(24年)、更始帝(こうしてい)(劉玄(りゅうげん))は使者を派遣して隗囂(かいごう)・隗崔(かいさい)・隗義(かいぎ)たちを徴召(ちょうしょう)し、配下にしようとした。

隗囂(かいごう)が行こうとすると、方望(ほうぼう)は「更始帝(こうしてい)はまだどうなるか分からない」と考え、これを固く止めたが、隗囂(かいごう)は聞かなかったので、手紙を残して隗囂(かいごう)の下(もと)を去った。

隗囂(かいごう)たちが長安(ちょうあん)に至ると、更始帝(こうしてい)(劉玄(りゅうげん))は隗囂(かいごう)を右将軍(ゆうしょうぐん)とし、白虎将軍(びゃっこしょうぐん)・隗崔(かいさい)と左将軍(さしょうぐん)・隗義(かいぎ)はみなそれまで自称していた称号に即(つ)かせた。

その冬、隗崔(かいさい)と隗義(かいぎ)は相談して更始帝(こうしてい)(劉玄(りゅうげん))に叛(そむ)いて帰ろうと考えた。隗囂(かいごう)は禍(わざわい)に巻き込まれることを恐れ、すぐに事件としてこのことを告げたため、隗崔(かいさい)と隗義(かいぎ)は誅殺(ちゅうさつ)された。

更始帝(こうしてい)(劉玄(りゅうげん))は隗囂(かいごう)の忠義に感心して御史大夫(ぎょしたいふ)とした。


翌年の夏、更始帝(こうしてい)(劉玄(りゅうげん))の打倒を掲(かか)げた赤眉(せきび)軍が関中(かんちゅう)に入り、三輔(さんぽ)*1は擾乱(じょうらん)した。

河北(かほく)で光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))が即位したことを伝え聞くと、隗囂(かいごう)は直(ただ)ちに更始帝(こうしてい)(劉玄(りゅうげん))に「政治を光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))の叔父(おじ)である国三老(こくさんろう)の劉良(りゅうりょう)に任せるように」と説(と)いたが、更始帝(こうしてい)(劉玄(りゅうげん))は聞かなかった。

諸将は更始帝(こうしてい)(劉玄(りゅうげん))を脅(おど)して東に帰ろうと考え、隗囂(かいごう)もまたその謀略に加わった。事が発覚し、更始帝(こうしてい)(劉玄(りゅうげん))は使者を派遣して隗囂(かいごう)を召(め)したが、隗囂(かいごう)は病気と称して入朝しなかった。

さらに隗囂(かいごう)は、客の王遵(おうじゅん)や周宗(しゅうそう)たちを集めて兵を整え自(みずか)らを守ろうとした。

これに更始帝(こうしてい)(劉玄(りゅうげん))は、執金吾(しつきんご)の鄧曄(とうよう)に兵を率(ひき)いて隗囂(かいごう)を包囲させたので、隗囂(かいごう)は門を閉じて防ぎ守ったが、夕暮れ時に至ってついに包囲を突破して数十騎と共に夜に平城門(へいじょうもん)の門番を斬り、逃亡して天水郡(てんすいぐん)に帰った。

隗囂(かいごう)は、再びかつて自分に従っていた勢力を招集し、天水郡(てんすいぐん)を拠点として西州上将軍(せいしゅうじょうしょうぐん)を自称した。


更始帝(こうしてい)(劉玄(りゅうげん))が敗れると、三輔(さんぽ)*1の長老や士大夫(したいふ)はみな隗囂(かいごう)に帰順した。

隗囂(かいごう)は元々謙恭(けんきょう)(謙(へりくだ)って恭(うやうや)しくすること)で士を愛し、身を傾けて招(まね)き接して身分に捕らわれない交(まじ)わりを持つような人物であった。

そこで、元王莽(おうもう)の平河大尹(へいがたいいん)であった長安(ちょうあん)出身の谷恭(こくきょう)を掌野大夫(しょうやたいふ)とし、平陵県(へいりょうけん)出身の範逡(はんしゅん)を師友(しゆう)とし、趙秉(ちょうへい)・蘇衡(そこう)・鄭興(ていこう)を祭酒(さいしゅ)とし、申屠剛(しんとごう)・杜林(とりん)を持書(じしょ)(侍御史(じぎょし))とし、楊廣(ようこう)・王遵(おうじゅん)・周宗(しゅうそう)と平襄県(へいじょうけん)出身の行巡(こうじゅん)、阿陽県(あようけん)出身の王捷(おうしょう)、長陵県(ちょうりょうけん)出身の王元(おうげん)を大将軍(だいしょうぐん)とし、杜陵(とりょう)や金丹(きんたん)たちを賓客(ひんかく)とした。

これにより隗囂(かいごう)の名声は西州(せいしゅう)に震(ふる)い、山東(さんとう)にまで聞こえた。

光武帝(劉秀)との盟友関係

建武(けんぶ)2年(26年)、大司徒(だいしと)の鄧禹(とうう)は西に向かい赤眉(せきび)軍を撃ち、雲陽県(うんようけん)に駐屯した。この時、鄧禹(とうう)の裨将軍(ひしょうぐん)・馮愔(ふういん)が兵を率(ひき)いて鄧禹(とうう)に叛(そむ)き、西の天水郡(てんすいぐん)に向かったので、鄧禹(とうう)はこれを迎え撃って馮愔(ふういん)を高平県(こうへいけん)に破り、輜重(しちょう)をすべて奪った。

そこで鄧禹(とうう)は使者に節(せつ)を持たせ、承制(しょうせい)*2により隗囂(かいごう)を西州大将軍(せいしゅうだいしょうぐん)に任命し、涼州(りょうしゅう)と朔方(さくほう)を取り仕切らせた。

赤眉(せきび)軍が長安(ちょうあん)を去って西に向かい隴県(ろうけん)に上(のぼ)ろうとしたので、隗囂(かいごう)は将軍(しょうぐん)の楊廣(ようこう)を派遣して赤眉(せきび)軍を破らせ、さらに追撃して烏氏県(うしけん)と涇陽県(けいようけん)の間で赤眉(せきび)軍を撃ち破った。


隗囂(かいごう)はすでに漢(かん)に対して(馮愔(ふういん)を討ち赤眉(せきび)軍を破ったという)功績があり、また鄧禹(とうう)から爵位を受けてその腹心を官職につけていたので、幕僚の多くは使者を京師(けいし)に通じさせることを勧めた。

建武(けんぶ)3年(27年)、隗囂(かいごう)が上書して宮殿に至ると、光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))はかねてからその評判を聞いていたので、隗囂(かいごう)の功績に報(むく)いるために特別な「礼」で迎え、字(あざな)を呼んで語り、対等の国への「儀」を用(もち)いるなど、非常に手厚く待遇した。

この時、陳倉県(ちんそうけん)出身の呂鮪(りょい)が数万の勢力を擁(よう)し、公孫述(こうそんじゅつ)と通じて三輔(さんぽ)*1を荒らしていたので、隗囂(かいごう)は再び兵を派遣して征西大将軍(せいせいだいしょうぐん)の馮異(ふうい)を助けてこれを討ち、呂鮪(りょい)を敗走させ、状況を上奏した。

これに光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))は「これまでの功績に感謝し、互(たが)いに手を結ぶことを希望する」内容の親書で応え、恩礼は益々篤(あつ)くなった。


その後、公孫述(こうそんじゅつ)はしばしば漢中(かんちゅう)に出兵し、使者を派遣して隗囂(かいごう)に大司空(だいしくう)・扶安王(ふあんおう)の印綬(いんじゅ)を授(さず)けた。隗囂(かいごう)は「自分が公孫述(こうそんじゅつ)と対等の国であるのに、王(おう)の印綬(いんじゅ)を与えられて家臣と扱われた」ことを恥じてその使者を斬り、兵を出して公孫述(こうそんじゅつ)を攻撃した。

隗囂(かいごう)が公孫述(こうそんじゅつ)の軍を次々に破ったので、蜀(しょく)兵(公孫述(こうそんじゅつ))は再び北に出て来なくなった。

この時、関中(かんちゅう)の将帥(しょうすい)たちはしばしば上書し「蜀(しょく)(公孫述(こうそんじゅつ))を撃つべきである」と言ったので、光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))はそれを隗囂(かいごう)に示し、隗囂(かいごう)に蜀(しょく)兵(公孫述(こうそんじゅつ))を討伐させてその「信」を問おうとした。

すると隗囂(かいごう)は長史(ちょうし)を派遣して上書して「今、三輔(さんぽ)*1は孤立していて弱く、辺境には劉文伯(りゅうぶんはく)(盧芳(ろほう))がいるので、まだ蜀(しょく)を謀(はか)るべきではない」と訴(うった)えた。

光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))は「隗囂(かいごう)がどっちつかずの立場を維持することを欲(ほっ)し、天下が統一されることを願っていない」ことを知り、これまでの対等の国への儀(ぎ)をやめ、君臣の儀(ぎ)に改めた。

光武帝(劉秀)との決裂

これより先、隗囂(かいごう)は来歙(らいきゅう)と馬援(ばえん)と互いに親しくしていたので、光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))はしばしば来歙(らいきゅう)と馬援(ばえん)を派遣して隗囂(かいごう)に入朝を勧めて高い官爵を許そうとしていた。

しかし隗囂(かいごう)は入朝することを希望せず、何度も使者を派遣して深く謙譲(けんじょう)の言葉を述(の)べた。

建武(けんぶ)5年(29年)、光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))はまた来歙(らいきゅう)を派遣して、隗囂(かいごう)の子を光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))に仕えさせるように説(と)いた。

この時隗囂(かいごう)は、劉永(りゅうえい)と鼓寵(ほうちょう)が共に光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))に敗れて破滅したことを聞いていたので、仕方なく長子の隗恂(かいじゅん)を送り来歙(らいきゅう)に従って宮殿に詣(まい)らせ、光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))は隗恂(かいじゅん)を胡騎校尉(こきこうい)とし、鐫羌侯(せんきょうこう)に封じた。

ところが、隗囂(かいごう)の将軍(しょうぐん)・王元(おうげん)と王捷(おうしょう)は「天下の勝敗はまだ分からない」として、光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))に仕えることを願わなかった。隗囂(かいごう)も「子を人質にした」と言っても、土地の険(けわ)しさを頼んで勢力を保(たも)とうと思っていたので、遊説家(ゆうぜいか)や長者たちは徐々に隗囂(かいごう)の下(もと)を去って行った。


建武(けんぶ)6年(30年)、関東(かんとう)はことごとく平定されたが、光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))は長らく戦(いくさ)に苦しんだため、諸将に「しばらくは隗囂(かいごう)と公孫述(こうそんじゅつ)のことは考えないでおこう」と言い、度(たび)々(たび)隴西(ろうせい)の隗囂(かいごう)と蜀(しょく)の公孫述(こうそんじゅつ)に書簡を送って降伏しなかった場合と降伏した場合の禍福(かふく)を告げ示した。

隗囂(かいごう)は周遊(しゅうゆう)を派遣し、周遊(しゅうゆう)はまず馮異(ふうい)の軍営に行ったが、そこで周遊(しゅうゆう)は仇(かたき)に殺されてしまった。そこで光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))は、衛尉(えいい)の銚期(ちょうき)に珍(めずら)しい宝や美しい帛(きぬ)を持たせ、隗囂(かいごう)に下賜(かし)しようととしたが、銚期(ちょうき)は鄭(てい)に至ったところで盗賊に遭(あ)い、財物を失ってしまった。

光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))は常に隗囂(かいごう)を「長者」と称し、努(つと)めて彼を招きたいと考えていたが、それを聞くとため息をついて「吾(わたし)は隗囂(かいごう)と協調して事を成すことはできないのだろうな。使者が来ると殺され、賜物(しぶつ)を用意しても道中で失ってしまうのだから」と言った。


公孫述(こうそんじゅつ)が兵を派遣して南郡(なんぐん)を攻撃すると、光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))は公孫述(こうそんじゅつ)の中心拠点を潰(つぶ)そうと考え、隗囂(かいごう)に「天水郡(てんすいぐん)から蜀(しょく)を攻撃せよ」と詔(みことのり)したが、隗囂(かいごう)はまた、上書して「兵を進める上での多くの障害」を挙(あ)げた。

光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))は「結局、隗囂(かいごう)には命令に従う気がない」ことを悟(さと)り、ついに隗囂(かいごう)を討伐しようと考え、西方の長安(ちょうあん)に行幸(ぎょうこう)し、来歙(らいきゅう)に璽書(じしょ)を奉じて勅旨(ちょくし)を諭(さと)させると、建威大将軍(けんいだいしょうぐん)の耿弇(こうえん)ら7人の将軍(しょうぐん)を派遣して隴道(ろうどう)から蜀(しょく)を攻撃させた。

すると隗囂(かいごう)は疑い懼(おそ)れ、すぐに兵を整えて王元(おうげん)を隴坻(ろうてい)に駐屯させ、木を伐(き)って道を塞(ふさ)いで来歙(らいきゅう)を謀殺しようとしたが、来歙(らいきゅう)は逃(のが)れて帰ることができた。


光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))の諸将は隗囂(かいごう)に大敗し、それぞれ兵を率(ひき)いて退(しりぞ)いた。

そこで隗囂(かいごう)は王元(おうげん)と行巡(こうじゅん)を三輔(さんぽ)*1に侵入させたが、征西大将軍(せいせいだいしょうぐん)の馮異(ふうい)と征虜将軍(せいりょしょうぐん)の祭遵(さいじゅん)らがこれを撃破した。

ここに来て隗囂(かいごう)は、光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))に上疏(じょうそ)して謝罪し、降伏を申し出た。

担当の役人はその隗囂(かいごう)の文言が驕(おご)っていることから、人質としている隗囂(かいごう)の子・隗恂(かいじゅん)を誅殺(ちゅうさつ)することを求めたが、光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))は隗恂(かいじゅん)を殺すのは忍びないと思い、再び来歙(らいきゅう)を汧県(けんけん)に行かせ、隗囂(かいごう)に書簡を賜(たまわ)って「これ以上手を出さず、さらに隗恂(かいじゅん)の弟を(人質として)朝廷に来させるのであれば、爵禄(しゃくろく)はこれまで通りとし、大いなる福があるだろう。浮ついた意味のない言葉には飽(あ)きた。(人質を増やして服従することを)欲(ほっ)しないのならば、返事は不要だ」と伝えた。

隗囂(かいごう)は「光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))が自分の詐(いつわり)の気持ちを見通している」と知り、ついに光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))に対抗するため公孫述(こうそんじゅつ)に臣従した。


翌年、公孫述(こうそんじゅつ)は隗囂(かいごう)を朔寧王(さくねいおう)に封じ、兵を派遣して往来させ、隗囂(かいごう)を支援する体勢を取った。

秋、隗囂(かいごう)は歩騎3万を率(ひき)いて安定郡(あんていぐん)に侵入し、陰槃県(いんばんけん)に至った。馮異(ふうい)は諸将を率(ひき)いてそれを拒(こば)んだ。隗囂(かいごう)はまた別働隊に隴道(ろうどう)を下(くだ)って、汧県(けんけん)にいた祭遵(さいじゅん)を攻めさせたが、どちらも利がなく引き揚(あ)げた。

そこで光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))は、来歙(らいきゅう)を派遣して隗囂(かいごう)配下の王遵(おうじゅん)を招(まね)くと、王遵(おうじゅん)は早速家族と共に東の京師(けいし)に向かい光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))に帰順したので、光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))は王遵(おうじゅん)を太中大夫(たいちゅうたいふ)に任命して向義侯(こうぎこう)に封じた。


建武(けんぶ)8年(32年)春、来歙(らいきゅう)は山道から襲撃して略陽城(りゃくようじょう)を得た。隗囂(かいごう)は来歙(らいきゅう)の軍が不意に現れたので、さらに大軍が来るのではないかと懼(おそ)れ、王元(おうげん)に隴坻(ろうてい)で防がせ、行巡(こうじゅん)に番須口(ばんしゅこう)を守らせ、王孟(おうもう)に雞頭道(けいとうどう)を塞(ふさ)がせ、牛邯(ぎゅうかん)を瓦亭(がてい)に駐屯させた。

そして隗囂(かいごう)は自(みずか)ら大軍をもって来歙(らいきゅう)を包囲し、公孫述(こうそんじゅつ)もまた将軍(しょうぐん)の李育(りいく)と田弇(でんえん)を派遣して略陽城(りゃくようじょう)を攻めさせたが、数ヶ月経(た)っても落とすことができなかった。

光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))は諸将を率(ひき)いて隗囂(かいごう)を西征しようとして、複数の道から隴(ろう)に攻め上がり、王遵(おうじゅん)に節(せつ)を持たせ、大司馬(だいしば)の呉漢(ごかん)を監督して長安(ちょうあん)に駐屯させた。


光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))に帰順した王遵(おうじゅん)は「隗囂(かいごう)が必ず敗れ滅亡する」と思っていた。王遵(おうじゅん)は昔なじみの牛邯(ぎゅうかん)に「漢(かん)に帰順する意思がある」ことを知ると、牛邯(ぎゅうかん)に書簡を送って教え諭(さと)し、有識者と相談するように説(と)いた。

すると牛邯(ぎゅうかん)は10日余り熟考し、洛陽(らくよう)の光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))に帰順して太中大夫(たいちゅうたいふ)に任命され、隗囂(かいごう)の大将13人、属県16県、兵卒10万余人はみな降伏した。

隗囂の死

隗囂(かいごう)の将軍(しょうぐん)・王元(おうげん)は蜀(しょく)に入って公孫述(こうそんじゅつ)に救援を求め、隗囂(かいごう)は妻子を連れて西城(せいじょう)に奔(はし)って楊廣(ようこう)に従い、田弇(でんえん)と李育(りいく)と上邽県(じょうけいけん)を守った。

ここに至り、光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))は隗囂(かいごう)に詔(みことのり)して「もし手を束(つか)ねて自(みずか)ら来る(降伏する)のであれば、父子が相(あい)見(まみ)えることができ、それ以上何もしないことを保証しよう。もし黥布(げいふ)のように(皇帝(こうてい)に)なろうと考えるのであれば、勝手にするがよい」と伝えたが、隗囂(かいごう)はついに降伏しなかった。

そこで光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))は、隗囂(かいごう)の子・隗恂(かいじゅん)を誅殺(ちゅうさつ)し、呉漢(ごかん)に征南大将軍(せいなんだいしょうぐん)の岑彭(しんほう)と共に西城(せいじょう)を包囲させ、耿弇(こうえん)に虎牙大将軍(こがだいしょうぐん)の蓋延(こうえん)と共に上邽県(じょうけいけん)を包囲させた。

潁川郡(えいせんぐん)で賊(ぞく)が蜂起(ほうき)したので光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))は東に戻ったが、1ヶ月余りして楊廣(ようこう)が死に、隗囂(かいごう)は窮困(きゅうこん)した。隗囂(かいごう)の大将・王捷(おうしょう)は、漢(かん)軍に向け「隗王(かいおう)(隗囂(かいごう))のために城を守る者はみな必死の覚悟をして二心(ふたごころ)を抱(いだ)く者はいない。願わくば諸軍は速(すみ)やかに諦(あきら)めよ。自殺してそのことを明らかにいたそうっ!」と叫び、自(みずか)ら頸(くび)を刎(は)ねて死んだ。

数ヶ月後、王元(おうげん)・行巡(こうじゅん)・周宗(しゅうそう)は蜀(しょく)の公孫述(こうそんじゅつ)の救援兵5千人余りを率(ひき)い、太鼓を打ち鳴らして大いに「百万の軍勢がやって来たぞっ!」と叫んだ。漢(かん)軍は大いに驚き、まだ陣形が整わないうちに王元(おうげん)たちは包囲を破って決死の覚悟で戦い、ついに城に入ることに成功し、隗囂(かいごう)を迎えて冀県(きけん)に帰った。

その後、呉漢(ごかん)らは兵糧が尽きて撤退したので、安定郡(あんていぐん)・北地郡(ほくちぐん)・天水郡(てんすいぐん)・隴西郡(ろうせいぐん)は再び反逆して隗囂(かいごう)の側(がわ)についた。

建武(けんぶ)9年(33年)春、隗囂(かいごう)は病気になり、飢(う)えて糗糒(きゅうび)(干飯(ほしいい))を食べ、憤(いきどお)って死んだ。

隗囂の死後

王元(おうげん)と周宗(しゅうそう)は、隗囂(かいごう)の末子である隗純(かいじゅん)を立てて王(おう)とした。

翌年、来歙(らいきゅう)・耿弇(こうえん)・蓋延(こうえん)たちは落門(らくもん)を攻めて破ったが、周宗(しゅうそう)・行巡(こうじゅん)・苟宇(こうう)・趙恢(ちょうかい)らは隗純(かいじゅん)を連れて降伏した。周宗(しゅうそう)と趙恢(ちょうかい)、隗氏(かいし)の一族は京師(けいし)以東に分けて住まわされ、隗純(かいじゅん)は行巡(こうじゅん)・苟宇(こうう)と一緒に弘農郡(こうのうぐん)に移された。

ただ王元(おうげん)だけは留(とど)まって蜀(しょく)の公孫述(こうそんじゅつ)の将となったが、輔威将軍(ほいしょうぐん)の臧宮(ぞうきゅう)が延岑(えんしん)を破ると、王元(おうげん)は部下と共に宮殿に至って降伏した。

王元(おうげん)は字(あざな)を恵孟(けいもう)と言い、初め上蔡令(じょうさいれい)に任命され、東平相(とうへいしょう)に遷(うつ)ったが、墾田(こんでん)の申告が実際と異なっていた罪によって獄(ごく)に下されて死んだ。

牛邯(ぎゅうかん)は字(あざな)を孺卿(じゅけい)と言い、狄道(てきどう)の人である。勇力と才気があり、辺境で雄名があった。降伏に際して、大司徒(だいしと)司直(しちょく)の杜林(とりん)と太中大夫(たいちゅうたいふ)の馬援(ばえん)は2人とも牛邯(ぎゅうかん)を推薦し、護羌校尉(ごきょうこうい)となって来歙(らいきゅう)と共に隴右(ろうゆう)を平定した。

建武(けんぶ)18年(42年)、隗純(かいじゅん)は賓客(ひんかく)数十騎と共に逃亡して胡(こ)の地に入ったが、武威郡(ぶいぐん)に至ったところで捕らえられ誅殺(ちゅうさつ)しされた。

脚注

*1長安県(ちょうあんけん)を中心とする地域。京兆尹(けいちょういん)・左馮翊(さひょうよく)・右扶風(ゆうふふう)の3郡。

*2事前に皇帝(こうてい)に上奏することなく人事を行う権限のこと。


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