正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉛(隗禧かいき隗渠かいきょ隗囂かいごう)です。

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凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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か㉛

隗(かい)

隗禧かいき子牙しが

生没年不詳。司隷しれい京兆尹けいちょういんの人。

代々勢力のない貧しい家であったが、若い頃から学問が好きだった。

初平しょへい年間(190年〜193年)になって三輔さんぽ*1に動乱が起こると、隗禧かいきは南に行き荊州けいしゅうに仮住まいしたが、荒廃こうはい騒動そうどうを理由になまけることなく、常に経書をたずさえて、生活のために稲を刈る合間にそれを暗記した。

曹操そうそう荊州けいしゅうを平定すると、し出されて軍謀掾ぐんぼうえんに任命され、黄初こうしょ年間(220年〜226年)に譙王しょうおう曹林そうりん)の郎中ろうちゅうとなった。

譙王しょうおう曹林そうりん)は、かねてから隗禧かいき儒者じゅしゃであると聞いていたので、常に彼から学ぶ姿勢を忘れず、隗禧かいきもまた敬意をもって教授したので多くの贈り物をたまわった。

その後、病気のため都にかえり、郎中ろうちゅうに任命された。

80余歳で老齢のため官を辞して家に暮らしたが、彼について学ぶ者は大変多かった。

隗禧かいきは経書に明るく、またよく星の動きを見た。ある時、隗禧かいきは天文をあおぎ見ると、嘆息たんそくして、魚豢ぎょかんに向かって「天下の兵火はまだまだまない。どうすれば良いのか」と言った。

魚豢ぎょかんもまた、隗禧かいき左氏伝さしでんについて質問したことがあったが、隗禧かいきは答えて、

幽微ゆうび(深遠で微妙)なことを知りたければ、えきに勝るものはない。人倫じんりん(人間の実践すべき道義)のおきてらいに勝るものはない。山川草木の名を多く知るのは詩経しきょうに勝るものはない。左氏伝さしでんはただ切り貼りの書物に過ぎない。真面目に学ぶ程のものではない」

と言った。

魚豢ぎょかんはついでに詩経しきょうについて質問すると、隗禧かいきせいかんもうの4家の学説を説明したが、書物を手に取らず、まるで朗誦ろうしょうしているようだった。

また隗禧かいきは種々の経書の解釈数十万字を著述したが、浄書する前に耳が聞こえなくなり、数年後に病没した。


魏略ぎりゃくは、董遇とうぐう賈洪かこう邯鄲淳かんたんじゅん薛夏せつか隗禧かいき蘇林そりん楽詳がくしょうら7人を儒学じゅがくの宗家としている。

脚注

*1長安県ちょうあんけんを中心とする地域。京兆尹けいちょういん左馮翊さひょうよく右扶風ゆうふふうの3郡。


隗禧かいき」の関連記事

隗渠かいきょ

生没年不詳。益州えきしゅう越巂郡えっすいぐん蘇祁県そじけんの部族長・冬逢とうほうの弟。

しょく建興けんこう3年(225年)にしょく丞相じょうしょう諸葛亮しょかつりょう高定こうていを討伐してから後、越巂郡えっすいぐんでは叟族そうぞく度々たびたび反乱を起こして 太守たいしゅ龔禄きょうろく焦璜しょうこうを殺害した。

それ以降、太守たいしゅは郡に行く勇気はなく、郡から8百余里(約344km)離れた安定県あんていけん(安定した県?)に住んだので、越巂郡えっすいぐんはただ名のみの存在となった。

延熙えんき3年(240年)に張嶷ちょうぎ張嶷ちょうぎょく)が越巂太守えっすいたいしゅに任命されると、張嶷ちょうぎ張嶷ちょうぎょく)は配下の兵をひきいて郡に赴任し、恩愛と信義をもってまねき寄せたので、蛮族ばんぞくはみな服従した。


益州えきしゅう越巂郡えっすいぐん蘇祁県そじけんの部族長・冬逢とうほうと彼の弟・隗渠かいきょらは、一旦降伏したものの、再び叛旗はんきひるがえした。

張嶷ちょうぎ張嶷ちょうぎょく)は冬逢とうほう誅殺ちゅうさつしたが、冬逢とうほうの妻は旄牛王ぼうぎゅうおうの娘だったので、張嶷ちょうぎ張嶷ちょうぎょく)は計略上、彼女を許して罰しなかった。

一方、隗渠かいきょは逃亡して西方の国境地帯に入り込んだ。隗渠かいきょごうもうせいかんで諸部族から非常におそはばかられていたが、側近の2人をいつわって張嶷ちょうぎ張嶷ちょうぎょく)に降伏させ、彼らから情報を得ていた。

それを見抜いた張嶷ちょうぎ張嶷ちょうぎょく)は、彼らにあつい恩賞を約束して逆に情報を提供させたので、2人は共謀して隗渠かいきょを殺害した。

隗渠かいきょが死ぬと、諸部族はみな安定した。


隗囂かいごう季孟きもう

生年不詳〜建武けんぶ9年(33年)没。天水郡てんすいぐん成紀県せいきけんの人。

挙兵

若くして州郡に仕え、王莽おうもう国師こくし劉歆りゅうきんばってきされてとなったが、劉歆りゅうきんが亡くなると郷里に帰った。

季父きふ叔父おじ)の隗崔かいさいは性格が豪快で俠気おとこぎがあり、人々の心をよく得ていた。

更始帝こうしてい劉玄りゅうげん)が即位して王莽おうもうの兵が連敗していることを聞くと、隗崔かいさいは兄の隗義かいぎ上邽県じょうけいけん出身の楊廣ようこう冀県きけん出身の周宗しゅうそうらと共に兵を起こしてかんに応じようとした。

隗囂かいごうは「そもそも兵は凶事です。宗族そうぞくにどんなつみ(罪)があるというのですかっ!」とこれを止めたが、隗崔かいさいは耳を貸さず、ついに部下数千人を集めて平襄県へいじょうけんを攻め、王莽おうもう鎮戎大尹ちんじゅうたいいんしん天水太守てんすいたいしゅ)を殺害した。

隗崔かいさい楊廣ようこうらは「事をげるには、盟主を立てて人々の心を1つにしなければならない」と思い、隗囂かいごうが以前から名声があり、経書を好んでいたことを思い出し、隗囂かいごう推戴すいたいして上将軍じょうしょうぐんにしようとした。

隗囂かいごうは辞退しきれず、そこで「皆様方は私を買いかぶっておられます。必ず私の言うことを聞くというのならば、えて命令に従いましょう」と言い、人々はみな承諾した。


隗囂かいごう上将軍じょうしょうぐんとなると、使者を派遣して平陵県へいりょうけん出身の方望ほうぼう招聘しょうへいし、軍師ぐんしとした。

すると方望ほうぼうは「足下あなたは天命をけ民心にしたがおうと考え、かんたすけるためにたれました。しかし今、かんの復興をかかげて立っている者(更始帝こうしてい)が南陽なんようにおり、王莽おうもうもまだ長安ちょうあんを拠点として勢力をたもっています。かん匡輔きょうほ(助けること)を名分となさるならば、どうか急いで高廟こうびょうを立て、臣と称してかんの諸皇帝をまつるべきです」と言った。

すると隗囂かいごうは、すぐさま彼の進言に従ってむらの東に高廟こうびょうを立て、高祖こうそ劉邦りゅうほう)・太宗たいそう文帝ぶんてい)・世宗せそう武帝ぶてい)をまつり、31将・16姓と盟約を結んだ。

高廟こうびょう祭祀さいしと盟約の事が終わると、王莽おうもう弾劾だんがいし、かん祭祀さいしを継ぐ意思を表明する檄文げきぶんを発して郡国に宣言した。


そこで隗囂かいごうは、10万の兵を整え、雍州牧ようしゅうぼく陳慶ちんけいを攻撃して殺害し、さらに安定郡あんていぐんを攻めようとした。

安定大尹あんていたいいん王向おうきょう王莽おうもう従弟いとこであり、平阿侯へいあこう王譚おうたんの子で、安定郡あんていぐんだけは威令がよく行われ、属県はみなそむくことがなかった。隗囂かいごう王向おうきょうに書簡を送って繰り返しさとし示したが、あくまでも従おうとしなかった。

すると隗囂かいごうは、兵を進めて王向おうきょうを捕虜にし、自分に従わない者がどうなるかを人々に見せつけて殺害すると、安定郡あんていぐんはことごとく降伏した。

その頃、長安ちょうあんの中で兵が起こって王莽おうもう誅殺ちゅうさつされた。そこで隗囂かいごうは、諸将を分けて隴西郡ろうせいぐん武都郡ぶとぐん金城郡きんじょうぐん武威郡ぶいぐん張掖郡ちょうえきぐん酒泉郡しゅせんぐん敦煌郡とんこうぐんを攻めさせ、みなこれらを降伏させた。

更始帝(劉玄)配下として

更始こうし2年(24年)、更始帝こうしてい劉玄りゅうげん)は使者を派遣して隗囂かいごう隗崔かいさい隗義かいぎたちを徴召ちょうしょうし、配下にしようとした。

隗囂かいごうが行こうとすると、方望ほうぼうは「更始帝こうしていはまだどうなるか分からない」と考え、これを固く止めたが、隗囂かいごうは聞かなかったので、手紙を残して隗囂かいごうもとを去った。

隗囂かいごうたちが長安ちょうあんに至ると、更始帝こうしてい劉玄りゅうげん)は隗囂かいごう右将軍ゆうしょうぐんとし、白虎将軍びゃっこしょうぐん隗崔かいさい左将軍さしょうぐん隗義かいぎはみなそれまで自称していた称号にかせた。

その冬、隗崔かいさい隗義かいぎは相談して更始帝こうしてい劉玄りゅうげん)にそむいて帰ろうと考えた。隗囂かいごうわざわいに巻き込まれることを恐れ、すぐに事件としてこのことを告げたため、隗崔かいさい隗義かいぎ誅殺ちゅうさつされた。

更始帝こうしてい劉玄りゅうげん)は隗囂かいごうの忠義に感心して御史大夫ぎょしたいふとした。


翌年の夏、更始帝こうしてい劉玄りゅうげん)の打倒をかかげた赤眉せきび軍が関中かんちゅうに入り、三輔さんぽ*1擾乱じょうらんした。

河北かほく光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)が即位したことを伝え聞くと、隗囂かいごうただちに更始帝こうしてい劉玄りゅうげん)に「政治を光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)の叔父おじである国三老こくさんろう劉良りゅうりょうに任せるように」といたが、更始帝こうしてい劉玄りゅうげん)は聞かなかった。

諸将は更始帝こうしてい劉玄りゅうげん)をおどして東に帰ろうと考え、隗囂かいごうもまたその謀略に加わった。事が発覚し、更始帝こうしてい劉玄りゅうげん)は使者を派遣して隗囂かいごうしたが、隗囂かいごうは病気と称して入朝しなかった。

さらに隗囂かいごうは、客の王遵おうじゅん周宗しゅうそうたちを集めて兵を整えみずからを守ろうとした。

これに更始帝こうしてい劉玄りゅうげん)は、執金吾しつきんご鄧曄とうように兵をひきいて隗囂かいごうを包囲させたので、隗囂かいごうは門を閉じて防ぎ守ったが、夕暮れ時に至ってついに包囲を突破して数十騎と共に夜に平城門へいじょうもんの門番を斬り、逃亡して天水郡てんすいぐんに帰った。

隗囂かいごうは、再びかつて自分に従っていた勢力を招集し、天水郡てんすいぐんを拠点として西州上将軍せいしゅうじょうしょうぐんを自称した。


更始帝こうしてい劉玄りゅうげん)が敗れると、三輔さんぽ*1の長老や士大夫したいふはみな隗囂かいごうに帰順した。

隗囂かいごうは元々謙恭けんきょうへりくだってうやうやしくすること)で士を愛し、身を傾けてまねき接して身分に捕らわれないまじわりを持つような人物であった。

そこで、元王莽おうもう平河大尹へいがたいいんであった長安ちょうあん出身の谷恭こくきょう掌野大夫しょうやたいふとし、平陵県へいりょうけん出身の範逡はんしゅん師友しゆうとし、趙秉ちょうへい蘇衡そこう鄭興ていこう祭酒さいしゅとし、申屠剛しんとごう杜林とりん持書じしょ侍御史じぎょし)とし、楊廣ようこう王遵おうじゅん周宗しゅうそう平襄県へいじょうけん出身の行巡こうじゅん阿陽県あようけん出身の王捷おうしょう長陵県ちょうりょうけん出身の王元おうげん大将軍だいしょうぐんとし、杜陵とりょう金丹きんたんたちを賓客ひんかくとした。

これにより隗囂かいごうの名声は西州せいしゅうふるい、山東さんとうにまで聞こえた。

光武帝(劉秀)との盟友関係

建武けんぶ2年(26年)、大司徒だいしと鄧禹とううは西に向かい赤眉せきび軍を撃ち、雲陽県うんようけんに駐屯した。この時、鄧禹とうう裨将軍ひしょうぐん馮愔ふういんが兵をひきいて鄧禹とううそむき、西の天水郡てんすいぐんに向かったので、鄧禹とううはこれを迎え撃って馮愔ふういん高平県こうへいけんに破り、輜重しちょうをすべて奪った。

そこで鄧禹とううは使者にせつを持たせ、承制しょうせい*2により隗囂かいごう西州大将軍せいしゅうだいしょうぐんに任命し、涼州りょうしゅう朔方さくほうを取り仕切らせた。

赤眉せきび軍が長安ちょうあんを去って西に向かい隴県ろうけんのぼろうとしたので、隗囂かいごう将軍しょうぐん楊廣ようこうを派遣して赤眉せきび軍を破らせ、さらに追撃して烏氏県うしけん涇陽県けいようけんの間で赤眉せきび軍を撃ち破った。


隗囂かいごうはすでにかんに対して(馮愔ふういんを討ち赤眉せきび軍を破ったという)功績があり、また鄧禹とううから爵位を受けてその腹心を官職につけていたので、幕僚の多くは使者を京師けいしに通じさせることを勧めた。

建武けんぶ3年(27年)、隗囂かいごうが上書して宮殿に至ると、光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)はかねてからその評判を聞いていたので、隗囂かいごうの功績にむくいるために特別な「礼」で迎え、あざなを呼んで語り、対等の国への「儀」をもちいるなど、非常に手厚く待遇した。

この時、陳倉県ちんそうけん出身の呂鮪りょいが数万の勢力をようし、公孫述こうそんじゅつと通じて三輔さんぽ*1を荒らしていたので、隗囂かいごうは再び兵を派遣して征西大将軍せいせいだいしょうぐん馮異ふういを助けてこれを討ち、呂鮪りょいを敗走させ、状況を上奏した。

これに光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)は「これまでの功績に感謝し、たがいに手を結ぶことを希望する」内容の親書で応え、恩礼は益々あつくなった。


その後、公孫述こうそんじゅつはしばしば漢中かんちゅうに出兵し、使者を派遣して隗囂かいごう大司空だいしくう扶安王ふあんおう印綬いんじゅさずけた。隗囂かいごうは「自分が公孫述こうそんじゅつと対等の国であるのに、おう印綬いんじゅを与えられて家臣と扱われた」ことを恥じてその使者を斬り、兵を出して公孫述こうそんじゅつを攻撃した。

隗囂かいごう公孫述こうそんじゅつの軍を次々に破ったので、しょく兵(公孫述こうそんじゅつ)は再び北に出て来なくなった。

この時、関中かんちゅう将帥しょうすいたちはしばしば上書し「しょく公孫述こうそんじゅつ)を撃つべきである」と言ったので、光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)はそれを隗囂かいごうに示し、隗囂かいごうしょく兵(公孫述こうそんじゅつ)を討伐させてその「信」を問おうとした。

すると隗囂かいごう長史ちょうしを派遣して上書して「今、三輔さんぽ*1は孤立していて弱く、辺境には劉文伯りゅうぶんはく盧芳ろほう)がいるので、まだしょくはかるべきではない」とうったえた。

光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)は「隗囂かいごうがどっちつかずの立場を維持することをほっし、天下が統一されることを願っていない」ことを知り、これまでの対等の国へのをやめ、君臣のに改めた。

光武帝(劉秀)との決裂

これより先、隗囂かいごう来歙らいきゅう馬援ばえんと互いに親しくしていたので、光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)はしばしば来歙らいきゅう馬援ばえんを派遣して隗囂かいごうに入朝を勧めて高い官爵を許そうとしていた。

しかし隗囂かいごうは入朝することを希望せず、何度も使者を派遣して深く謙譲けんじょうの言葉をべた。

建武けんぶ5年(29年)、光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)はまた来歙らいきゅうを派遣して、隗囂かいごうの子を光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)に仕えさせるようにいた。

この時隗囂かいごうは、劉永りゅうえい鼓寵ほうちょうが共に光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)に敗れて破滅したことを聞いていたので、仕方なく長子の隗恂かいじゅんを送り来歙らいきゅうに従って宮殿にまいらせ、光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)は隗恂かいじゅん胡騎校尉こきこういとし、鐫羌侯せんきょうこうに封じた。

ところが、隗囂かいごう将軍しょうぐん王元おうげん王捷おうしょうは「天下の勝敗はまだ分からない」として、光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)に仕えることを願わなかった。隗囂かいごうも「子を人質にした」と言っても、土地のけわしさを頼んで勢力をたもとうと思っていたので、遊説家ゆうぜいかや長者たちは徐々に隗囂かいごうもとを去って行った。


建武けんぶ6年(30年)、関東かんとうはことごとく平定されたが、光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)は長らくいくさに苦しんだため、諸将に「しばらくは隗囂かいごう公孫述こうそんじゅつのことは考えないでおこう」と言い、たびたび隴西ろうせい隗囂かいごうしょく公孫述こうそんじゅつに書簡を送って降伏しなかった場合と降伏した場合の禍福かふくを告げ示した。

隗囂かいごう周遊しゅうゆうを派遣し、周遊しゅうゆうはまず馮異ふういの軍営に行ったが、そこで周遊しゅうゆうかたきに殺されてしまった。そこで光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)は、衛尉えいい銚期ちょうきめずらしい宝や美しいきぬを持たせ、隗囂かいごう下賜かししようととしたが、銚期ちょうきていに至ったところで盗賊にい、財物を失ってしまった。

光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)は常に隗囂かいごうを「長者」と称し、つとめて彼を招きたいと考えていたが、それを聞くとため息をついて「わたし隗囂かいごうと協調して事を成すことはできないのだろうな。使者が来ると殺され、賜物しぶつを用意しても道中で失ってしまうのだから」と言った。


公孫述こうそんじゅつが兵を派遣して南郡なんぐんを攻撃すると、光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)は公孫述こうそんじゅつの中心拠点をつぶそうと考え、隗囂かいごうに「天水郡てんすいぐんからしょくを攻撃せよ」とみことのりしたが、隗囂かいごうはまた、上書して「兵を進める上での多くの障害」をげた。

光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)は「結局、隗囂かいごうには命令に従う気がない」ことをさとり、ついに隗囂かいごうを討伐しようと考え、西方の長安ちょうあん行幸ぎょうこうし、来歙らいきゅう璽書じしょを奉じて勅旨ちょくしさとさせると、建威大将軍けんいだいしょうぐん耿弇こうえんら7人の将軍しょうぐんを派遣して隴道ろうどうからしょくを攻撃させた。

すると隗囂かいごうは疑いおそれ、すぐに兵を整えて王元おうげん隴坻ろうていに駐屯させ、木をって道をふさいで来歙らいきゅうを謀殺しようとしたが、来歙らいきゅうのがれて帰ることができた。


光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)の諸将は隗囂かいごうに大敗し、それぞれ兵をひきいて退しりぞいた。

そこで隗囂かいごう王元おうげん行巡こうじゅん三輔さんぽ*1に侵入させたが、征西大将軍せいせいだいしょうぐん馮異ふうい征虜将軍せいりょしょうぐん祭遵さいじゅんらがこれを撃破した。

ここに来て隗囂かいごうは、光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)に上疏じょうそして謝罪し、降伏を申し出た。

担当の役人はその隗囂かいごうの文言がおごっていることから、人質としている隗囂かいごうの子・隗恂かいじゅん誅殺ちゅうさつすることを求めたが、光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)は隗恂かいじゅんを殺すのは忍びないと思い、再び来歙らいきゅう汧県けんけんに行かせ、隗囂かいごうに書簡をたまわって「これ以上手を出さず、さらに隗恂かいじゅんの弟を(人質として)朝廷に来させるのであれば、爵禄しゃくろくはこれまで通りとし、大いなる福があるだろう。浮ついた意味のない言葉にはきた。(人質を増やして服従することを)ほっしないのならば、返事は不要だ」と伝えた。

隗囂かいごうは「光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)が自分のいつわりの気持ちを見通している」と知り、ついに光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)に対抗するため公孫述こうそんじゅつに臣従した。


翌年、公孫述こうそんじゅつ隗囂かいごう朔寧王さくねいおうに封じ、兵を派遣して往来させ、隗囂かいごうを支援する体勢を取った。

秋、隗囂かいごうは歩騎3万をひきいて安定郡あんていぐんに侵入し、陰槃県いんばんけんに至った。馮異ふういは諸将をひきいてそれをこばんだ。隗囂かいごうはまた別働隊に隴道ろうどうくだって、汧県けんけんにいた祭遵さいじゅんを攻めさせたが、どちらも利がなく引きげた。

そこで光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)は、来歙らいきゅうを派遣して隗囂かいごう配下の王遵おうじゅんまねくと、王遵おうじゅんは早速家族と共に東の京師けいしに向かい光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)に帰順したので、光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)は王遵おうじゅん太中大夫たいちゅうたいふに任命して向義侯こうぎこうに封じた。


建武けんぶ8年(32年)春、来歙らいきゅうは山道から襲撃して略陽城りゃくようじょうを得た。隗囂かいごう来歙らいきゅうの軍が不意に現れたので、さらに大軍が来るのではないかとおそれ、王元おうげん隴坻ろうていで防がせ、行巡こうじゅん番須口ばんしゅこうを守らせ、王孟おうもう雞頭道けいとうどうふさがせ、牛邯ぎゅうかん瓦亭がていに駐屯させた。

そして隗囂かいごうみずから大軍をもって来歙らいきゅうを包囲し、公孫述こうそんじゅつもまた将軍しょうぐん李育りいく田弇でんえんを派遣して略陽城りゃくようじょうを攻めさせたが、数ヶ月っても落とすことができなかった。

光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)は諸将をひきいて隗囂かいごうを西征しようとして、複数の道からろうに攻め上がり、王遵おうじゅんせつを持たせ、大司馬だいしば呉漢ごかんを監督して長安ちょうあんに駐屯させた。


光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)に帰順した王遵おうじゅんは「隗囂かいごうが必ず敗れ滅亡する」と思っていた。王遵おうじゅんは昔なじみの牛邯ぎゅうかんに「かんに帰順する意思がある」ことを知ると、牛邯ぎゅうかんに書簡を送って教えさとし、有識者と相談するようにいた。

すると牛邯ぎゅうかんは10日余り熟考し、洛陽らくよう光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)に帰順して太中大夫たいちゅうたいふに任命され、隗囂かいごうの大将13人、属県16県、兵卒10万余人はみな降伏した。

隗囂の死

隗囂かいごう将軍しょうぐん王元おうげんしょくに入って公孫述こうそんじゅつに救援を求め、隗囂かいごうは妻子を連れて西城せいじょうはしって楊廣ようこうに従い、田弇でんえん李育りいく上邽県じょうけいけんを守った。

ここに至り、光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)は隗囂かいごうみことのりして「もし手をつかねてみずから来る(降伏する)のであれば、父子があいまみえることができ、それ以上何もしないことを保証しよう。もし黥布げいふのように(皇帝こうていに)なろうと考えるのであれば、勝手にするがよい」と伝えたが、隗囂かいごうはついに降伏しなかった。

そこで光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)は、隗囂かいごうの子・隗恂かいじゅん誅殺ちゅうさつし、呉漢ごかん征南大将軍せいなんだいしょうぐん岑彭しんほうと共に西城せいじょうを包囲させ、耿弇こうえん虎牙大将軍こがだいしょうぐん蓋延こうえんと共に上邽県じょうけいけんを包囲させた。

潁川郡えいせんぐんぞく蜂起ほうきしたので光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)は東に戻ったが、1ヶ月余りして楊廣ようこうが死に、隗囂かいごう窮困きゅうこんした。隗囂かいごうの大将・王捷おうしょうは、かん軍に向け「隗王かいおう隗囂かいごう)のために城を守る者はみな必死の覚悟をして二心ふたごころいだく者はいない。願わくば諸軍はすみやかにあきらめよ。自殺してそのことを明らかにいたそうっ!」と叫び、みずかくびねて死んだ。

数ヶ月後、王元おうげん行巡こうじゅん周宗しゅうそうしょく公孫述こうそんじゅつの救援兵5千人余りをひきい、太鼓を打ち鳴らして大いに「百万の軍勢がやって来たぞっ!」と叫んだ。かん軍は大いに驚き、まだ陣形が整わないうちに王元おうげんたちは包囲を破って決死の覚悟で戦い、ついに城に入ることに成功し、隗囂かいごうを迎えて冀県きけんに帰った。

その後、呉漢ごかんらは兵糧が尽きて撤退したので、安定郡あんていぐん北地郡ほくちぐん天水郡てんすいぐん隴西郡ろうせいぐんは再び反逆して隗囂かいごうがわについた。

建武けんぶ9年(33年)春、隗囂かいごうは病気になり、えて糗糒きゅうび干飯ほしいい)を食べ、いきどおって死んだ。

隗囂の死後

王元おうげん周宗しゅうそうは、隗囂かいごうの末子である隗純かいじゅんを立てておうとした。

翌年、来歙らいきゅう耿弇こうえん蓋延こうえんたちは落門らくもんを攻めて破ったが、周宗しゅうそう行巡こうじゅん苟宇こうう趙恢ちょうかいらは隗純かいじゅんを連れて降伏した。周宗しゅうそう趙恢ちょうかい隗氏かいしの一族は京師けいし以東に分けて住まわされ、隗純かいじゅん行巡こうじゅん苟宇こううと一緒に弘農郡こうのうぐんに移された。

ただ王元おうげんだけはとどまってしょく公孫述こうそんじゅつの将となったが、輔威将軍ほいしょうぐん臧宮ぞうきゅう延岑えんしんを破ると、王元おうげんは部下と共に宮殿に至って降伏した。

王元おうげんあざな恵孟けいもうと言い、初め上蔡令じょうさいれいに任命され、東平相とうへいしょううつったが、墾田こんでんの申告が実際と異なっていた罪によってごくに下されて死んだ。

牛邯ぎゅうかんあざな孺卿じゅけいと言い、狄道てきどうの人である。勇力と才気があり、辺境で雄名があった。降伏に際して、大司徒だいしと司直しちょく杜林とりん太中大夫たいちゅうたいふ馬援ばえんは2人とも牛邯ぎゅうかんを推薦し、護羌校尉ごきょうこういとなって来歙らいきゅうと共に隴右ろうゆうを平定した。

建武けんぶ18年(42年)、隗純かいじゅん賓客ひんかく数十騎と共に逃亡しての地に入ったが、武威郡ぶいぐんに至ったところで捕らえられ誅殺ちゅうさつしされた。

脚注

*1長安県ちょうあんけんを中心とする地域。京兆尹けいちょういん左馮翊さひょうよく右扶風ゆうふふうの3郡。

*2事前に皇帝こうていに上奏することなく人事を行う権限のこと。


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【三国志人物伝】総索引