正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉝蒯聵(衛の荘公)です。
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凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
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か㉝
蒯聵(かいかい)
蒯聵(衛の荘公)
生没年不詳。春秋時代の衛の第31代国君・荘公。
霊公39年(紀元前496年)、霊公の太子・蒯聵は、霊公の夫人・南子と折り合いが悪く、南子を殺そうとした。
蒯聵は一味の戯陽遫を使い、夫人・南子に朝礼する時を狙って彼女を殺害させようと謀ったが、戯陽遫が躊躇していたので、蒯聵はしきりに目配せして早く実行するように促した。
これを察した夫人・南子は、恐れて「太子(蒯聵)が私を殺そうとしていますっ!」と大声で叫んだので、霊公は怒り、太子・蒯聵は宋に出奔し、次いで晋の趙氏を頼った。
霊公42年(紀元前493年)春、霊公は末子の郢(字は子南)に「そなたを太子に立てるつもりだ」と言ったが、郢は辞退し、霊公はその年の夏に亡くなった。
夫人・南子は「霊公の命令である」として郢に太子となるように命じたが、郢はまたも辞退し、太子・蒯聵の子・輒が国君となった。これが衛の出公である。
6月、晋の趙簡子(趙鞅)は蒯聵を衛に入れようとして、晋に亡命中の陽虎の詐謀を用い、蒯聵に従って晋に来ていた衛人10余人に喪服を着させ、霊公の喪により衛から迎えに来たように装って蒯聵を帰国させた。
ところが、これを聞きつけた衛は出兵して迎え撃ったので、蒯聵は入国することができなかった。蒯聵が宿に入って立て籠もると、衛の方でも戦いをやめた。
これより以前、孔文子(孔圉・衛の卿)は太子・蒯聵の姉(伯姫)を娶り、孔悝が生まれた。
出公13年(紀元前480年)、孔文子(孔圉)の死後、美男子であった孔氏の侍童(小姓)・渾良夫が伯姫と密通した。
蒯聵が宿にいたので、伯姫は渾良夫を蒯聵の元に遣わした。蒯聵は渾良夫に「もし儂を国(衛)に入れるようにしてくれたなら、君を大夫とし、君が死罪を犯しても3度までは赦そう」と誓約し、伯姫を妻とすることを許した。
その年の閏月、渾良夫は蒯聵と共に孔家の外園に忍び入ると、2人は夕刻を待って、巾を被り女装して車に乗った。宦官の羅が車を御して孔氏の邸に入ったところで、孔氏の家老・欒甯に訊問されたが、孔氏の姻戚の妾の名を名乗ってついに邸に入り、伯姫の部屋に行った。
食事を終えると伯姫が戈を杖ついて先導し、蒯聵と武装した5人の者が、その血を啜って誓うための牡豚を担いで後に従った。伯姫は孔悝を崖に追い詰め、脅迫して蒯聵を国君に立てることを誓わせ、台に登って群臣を集めさせた。
この時、欒甯は酒を飲もうと肉を炙っていたが、まだよく焼けないうちに騒動を聞いて、邑宰の仲由(孔子の弟子・子路)に報告し、召獲に命じて乗車に馬を繋がせると、一気に酒を流し込み、生焼けの炙り肉を食らい、出公(輒)を奉じて魯に出奔した。
欒甯の報告を受けた仲由(子路)は孔氏の邸に入ると「太子(蒯聵)には孔悝を捕らえておく必要などございますまい。たとえ孔悝を殺したとしても、必ずこれに継ぐ者がおりましょう」と叫び、また衆人に向かって「太子(蒯聵)は勇気のない方です。もし台を焼けば、必ず孔叔(孔悝)を赦すでしょう」と叫んだ。
蒯聵はこの言葉を聞いて恐れ、一味の石乞・盂黶を台より降ろして仲由(子路)に立ち向かわせた。2人は戈で仲由(子路)を撃ち、仲由(子路)の冠の紐を断ち切ったが、仲由(子路)は「君子は死んでも冠を地に落とさない」と言い、紐を結んで死んだ。
孔悝はついに太子・蒯聵を国君に立てた。これが衛の荘公である。
荘公(蒯聵)は自分が亡命していた時、迎え立ててくれる大夫がいなかったことを恨んでいた。
荘公元年(紀元前480年)、荘公(蒯聵)は大臣たちをことごとく誅殺しようと思い、「儂は永らく国外にいて艱難辛苦した。君たちもそのことは聞いておろう」と言ったが、群臣が乱を起こそうとしたので取りやめた。
荘公3年(紀元前478年)、荘公(蒯聵)は城に登り、戎州*1を眺め見て「戎虜ごときを戎州*1におらせてどうするのか。滅ぼしてしまえ」と言った。
10月、戎州*1の者がこれを晋の趙簡子(趙鞅)に告げたので、趙簡子(趙鞅)は衛を包囲した。
11月、荘公(蒯聵)は出奔し、衛国人は公子・斑師(衛の第28代国君・襄公の孫)を衛の国君に立てた。
脚注
*1衛の邑。西戎の住む山東・曹県の東南の邑。
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