後漢末期に勃発し、三国時代の幕開けとされる黄巾の乱の討伐には、後に群雄となる若き英雄たちも多数参加しています。
黄巾の乱の討伐は、彼らのその後にとってどのような影響があったのでしょうか?
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目次
黄巾の乱鎮圧後の論功行賞
盧植(ろしょく)
張角を相手に善戦を続けていた盧植ですが、左豊の讒言によって官職を解かれて獄につながれてしまいます。
黄巾の乱の平定後、皇甫嵩が彼の無実と軍功を上奏したため、前職の尚書に復帰することができしました。
その後、朝廷で実権を掌握した董卓の怒りを買って免職、冀州牧となった袁紹に招かれて軍師となります。
皇甫嵩(こうほすう)
皇甫嵩は、黄巾の乱討伐の功によって左車騎将軍に任命されました。また、槐里侯(槐里県・美陽県の8,000戸)に封じられて冀州牧となっています。
黄巾の乱の翌年、辺章と韓遂が涼州で反乱を起こすとその鎮圧に向かったのですが、十常侍の趙忠、張譲らに讒言されて失脚。
その後も朝廷で実権を掌握した董卓と反目し不遇の時代を送ったが、董卓が殺されると王允・呂布体制のもとで太尉にまで昇りつめました。
朱儁(しゅしゅん)
豫州の黄巾賊を平定した段階で、皇甫嵩が朱儁の戦功として朝廷に上奏しました。これによって朱儁は鎮賊中郎将に任命され、西郷侯に封じられています。
また、南陽郡(宛県城)を平定して凱旋すると、右車騎将軍、光禄大夫に任命され、食邑5,000戸を加増されて銭塘侯に転封されました。
その後は朝廷で実権を掌握した董卓と反目。董卓の死後は献帝を守るために長安に留まるが、李傕と郭汜の争いに巻き込まれてて憤死してしまいます。
中郎将は比二千石(年俸1,200石)、車騎将軍は文官の三公に匹敵する万石(年俸4,200石)の秩石(俸禄)が与えられます。
また、列侯は爵位の1つで封土(食邑)を与えられて、その土地の租税を自分のものとすることができました。
董卓(とうたく)
東中郎将に任じられ、盧植の後任として広宗県の攻略に当たった董卓ですが、積極的に戦わなかったために解任されました。
ですが、翌年に起こった「辺章・韓遂の乱」の平定のために再び中郎将に任命される。
その後も続いた涼州の反乱が平定されると、朝廷に軍権を返すよう命じられますがこれを拒否。何進の招聘を待つことになります。
王允(おういん)
王允は黄巾の乱が起こると豫州刺史に任命され、皇甫嵩・朱儁と共に豫州の黄巾賊を平定しました。
ですが、賊徒が中常侍・張譲と内通していることを知ると、これを告発したため逆に罪を着せられて失脚してしまいます。
王允が司徒となるのは、董卓が相国となった後の190年になります。
曹操(そうそう)
曹操は20歳で孝廉に推挙されてから、郎を経て洛陽北部尉、頓丘の県令と昇進を重ねていました。
中央で議郎となっていた曹操は、黄巾の乱が起こると騎都尉に任命されて皇甫嵩と共に潁川郡の賊を討伐。戦功を認められて済南国の相に任命されました。
孫堅(そんけん)
孫堅は17歳の時に銭塘県で海賊を退治して勇名を馳せると、会稽郡・句章県で起こった「許昌の乱」の討伐に加わって戦功を立て、塩瀆県、盱眙県の丞を経て、下邳県の丞となっていました。
黄巾の乱が起こると朱儁に推挙されて佐軍司馬となり、朱儁麾下で戦功を立てて別部司馬となりました。
孫堅が長沙太守となるのは「辺章・韓遂の乱」の討伐を経て長沙で起こった「区星の乱」討伐の時になります。
劉備(りゅうび)
『蜀書』先主伝によると、劉備は「義勇兵を率いて校尉・鄒靖の下で黄巾賊を討伐、武功を立てて安熹県の県尉に任命された」とあります。
古代中国の軍隊組織においては、大隊を部、中隊を曲と言い、校尉は将軍の下で部を率いる階級にあたります。
ですが、この時鄒靖が誰の下で黄巾賊の討伐に参加していたのかは分かりません。当然その下で戦う劉備についても記録はありません。
何はともあれ劉備は黄巾の乱の戦功によって、安熹県の県尉になることができました。
曹操や孫堅も昇進はしていますが、黄巾の乱によって大きく躍進したとは言えないようです。
一方劉備は、黄巾の乱がなければ孝廉にも推挙されず、涿県で一生を終えていたかもしれません。黄巾の乱の勃発によって最も利益を得たのは劉備だと言えるかもしれません。
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黄巾の乱が与えた影響
支配体制の弱体化
張角、張宝、張梁の死と南陽郡の平定によって、黄巾の乱は一応の終息をみました。
ですが、これによって後漢の支配力の低下が露呈し、各地で反乱が相次ぐようになります。
このことは董卓、孫堅といった後の群雄たちに実戦経験と昇進の機会を与え、反董卓連合後の群雄割拠が始まるタイミングで名乗りを上げる下地となりました。
また、曹操の青州兵に代表されるように、降伏させた黄巾賊や流賊の残党を編入し、自軍を強化することで、既存の勢力に対抗できる軍事力を手に入れることができました。
州牧の設置
後漢末期の郡県制では、「県」に県令または県長を置き、いくつかの県をまとめた郡に太守を、いくつかの郡をまとめた州に州刺史を置いていました。
州刺史とは、州に所属する郡太守の汚職を摘発する監察官でしかなく、兵権や統治権は郡太守が握っていました。
秩石(俸禄)も郡太守が二千石、州刺史が六百石と州刺史の方が少なかったのです。
188年、黄巾の乱後も各地で反乱が相次いだため、霊帝は州刺史に兵権や統治権を与えた州牧(秩石・二千石)を設置し、劉焉を益州牧、劉虞を幽州牧、黃琬を豫州牧に任命しました。
州牧の設置は、郡太守を州牧の指揮下に置くことによって郡同士の連携を強め、反乱への対応を強化することが目的でした。
ですが、州牧の影響力の強化は、州牧を主君とする郡太守の家臣化が進み、地方の有力豪族が軍閥化する一因となったと言えます。