正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧⑨[夏育・夏逸・夏栄・夏黄公・夏氏(野王君)・夏舎・夏恂・夏昭・夏大夫・夏父(夏父弗忌)・夏牟]です。
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凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
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か⑨
夏(か)
夏育(戦国時代の勇士)
生没年不詳。戦国時代の勇士。
古の勇士の例えとして、正史『三国志』に度々名前が登場する。
『魏書』袁紹伝・注・『魏氏春秋』
陳琳の檄文の中に名前が登場する。
「幕府(袁紹)は漢朝の御稜威(御威光)を奉じ、天下四方に使者を出し、百万の長戟の士、千隊の胡人の騎兵、中黄・夏育・烏獲の如き勇士を奮い立たせ、(以下略)」
『魏書』曹仁伝・注・『傅子』
曹大司馬(曹仁)の武勇は、孟賁や夏育にも引けを取らない。張遼は彼の次に位する。
『魏書』袁渙伝
文帝(曹丕)は袁渙の従弟・袁敏に「袁渙の勇気はどのようだったか」と尋ねた。
袁敏は「渙は、容貌は柔和に見えましたが、大義にかかわる状況に直面し、危難に身を置いたときには、孟賁と夏育でさえも超えられない程でした」と答えた。
『魏書』程昱伝
官渡の戦いの初め、袁紹軍が南に渡河する動きを見せると、曹操は黄河南岸の鄄城県に増援を送ろうとしたが、鄄城県を守る程昱は「兵が少ないのを見れば、敵は敢えて攻めては来ないはずです。逆に兵を増やせば攻撃せずにはおかないでしょう」と言い、無駄に兵を損なわぬよう増援を断った。
曹操は程昱の言葉に従い、はたして袁紹は「程昱の兵が少ない」と聞いて鄄城県を攻撃目標としなかったので、曹操は賈詡に「程昱の胆は孟賁・夏育以上だな…」と言った。
『呉書』張紘伝
孫権の合肥の遠征の時のこと。長史の張紘は、自ら先頭に立って敵にぶつかって行こうとする孫権を諫めて「願わくは、孟賁や夏育といった連中と同様の勇猛な心はお抑えくださり、お心に覇王としての計略をお持ちいただきますように」と言った。
『呉書』薛綜伝
呉の黄龍3年(231年)、1度は呉に降った遼東の公孫淵が叛くと、孫権はひどく腹を立てて「自ら公孫淵を討伐する」と言い出した。
薛綜はこれを諫めて「遼東を討伐するべきでない」理由を3つ挙げ、その2つ目に「海の危険の前には、孟賁や夏育のような勇力があったとしても、その力を発揮する所がありません」と言った。
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夏育(護烏丸校尉)
生没年不詳。霊帝期の仮司馬・北地太守・護烏丸校尉・護羌校尉。
仮司馬
建寧2年(169年)、当時仮司馬であった夏育は、破羌将軍・段熲に従って羌族を討伐し、この年の7月、射虎塞の外谷で先零羌を破り、東羌を平定した。
北地太守
熹平3年(174年)12月、鮮卑が涼州・北地郡に侵入すると、当時北地太守であった夏育は、屠各*1を率いてこれを破り、護烏丸校尉に遷された。
護烏丸校尉
熹平6年(177年)4月、鮮卑が3方向から侵寇すると、夏育は鮮卑討伐を上書した。
これを受け、中常侍の王甫は、破鮮卑中郎将・田晏と護烏丸校尉・夏育に討伐させることを提案。これに蔡邕は「その2人では力不足だ」と反対するが、霊帝は蔡邕の言葉を聞き入れなかった。
8月、朝廷は夏育を幽州・代郡・高柳県から、田晏を幷州(并州)・雲中郡から、匈奴中郎将・臧旻を幷州(并州)・鴈門郡から、それぞれ1万騎を率いて2千余里(約860km)に渡る遠征を行ったが、夏育らは大敗して逃げ帰り、その7〜8割の兵が戦死した。
3将は敗戦の罪により獄に下され、庶人に落とされることで罪を贖った。
護羌校尉
光和7年(184年)、当時護羌校尉であった夏育は、畜官で叛乱した羌族に包囲された。
この時、漢陽長史の蓋勲が州郡の軍兵を糾合して夏育の救援に向かったが、狐槃まで来たところで羌族に敗れてしまった。
脚注
*1匈奴の部落名。屠各・休屠各・屠各胡・休屠各胡・休著屠各は同じ部族。
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夏育(郭汜の徒党)
生没年不詳。郭汜の党羽(徒党)
興平2年(195年)10月、長安を脱出した献帝が洛陽(雒陽)を目指していた時のこと。
郭汜の徒党・夏育、高碩、伍習らが反乱を起こして献帝の行く手を阻んだが、献帝を守護する楊定・楊奉らに撃ち破られた。
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夏逸
生没年不詳。守長。
建安年間(196年〜220年)の末、守長の夏逸は督郵(郡の行政監察官)から無実の罪に陥れられたが、冀州・趙郡出身の主簿・張登が拷問を引き受け、夏逸の罪を正しく処理させた。
夏栄
生没年不詳。王和平の弟子。
光和年間(178年〜184年)、青州・北海郡の王和平がまた道術を好み、「自分は仙人になるのだ」と称した。
青州・済南国の孫邕が若い時から彼に仕え、師と共に京師[洛陽(雒陽)]にやって来た。たまたま王和平が病気で死んでしまうと、孫邕はそのまま東陶の地に遺骸を葬り、書物が百余巻、薬が数袋あったのも、みな一緒に棺に収めて埋めた。
後に弟子の夏栄が「王和平は尸解*2したのだ」と述べた。
孫邕は、今に至るまで貴重な書物と仙薬を自分のものとしなかったことを悔やんでいる。
脚注
*2仙人になるに際し、竹杖などを身替わりにして、外見的には死んだと見せかけて仙去するのを尸解と言う。白日昇天などの方途で仙人になるよりも劣るとされる。
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夏黄公
生没年不詳。揚州・会稽郡・鄞県・大里の人(諸説有り)。秦・漢代の隠者。
秦末に乱を避けて商山に隠居した4人の老人、
- 東園公
- 夏黄公
- 甪里先生
- 綺里季
の1人。みな鬚眉(ヒゲと眉)が白かったので「四皓(商山四皓・商老)」と呼ばれた。
暴虐な秦の世にあって己を潔く保ち、漢の高祖(劉邦)が即位した時、しばしば彼を召したが1度も招き寄せることができず、恵帝が恭み礼を低くして招いた時、初めて出仕して天下の危難を救った。
『魏書』管寧伝では、正始2年(241年)に、
- 太僕の陶丘一
- 永寧宮の衛尉である孟観
- 侍中の孫邕
- 中書侍郎の王基
らが管寧を推薦して述べた言葉の中に名前が登場し、
『呉書』虞翻伝では、虞翻(虞翻)が会稽太守に赴任した王朗に「会稽郡の立派な人物や婦人たちの名を詳しく聞かせてくれまいか」と尋ねられた際、「上古の時代に立派な事跡を残し、あるいは節操を貫き通した人物」として挙げた人物たちの中に名前がある。
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夏氏(野王君)
生没年不詳。益州・蜀郡・郫県の人。
東宮の女官から明帝(曹叡)の皇后となった毛皇后(明悼毛皇后)の母。
魏の青龍4年(236年)に野王君の称号を追贈された。
夏舎
生年不詳〜魏の太和2年(228年)没。魏の護鮮卑校尉・田豫が派遣した通訳。
建安年間(196年〜220年)に漢への朝貢と叛逆を繰り返していた鮮卑の大人・軻比能は、文帝(曹丕)が即位して以降、魏と良好な関係を続けていた。
黄初5年(224年)、軻比能が護鮮卑校尉・田豫の調停を破って、再び東部鮮卑の大人・素利に攻撃を加えると、田豫は背後から軻比能軍の小隊長・瑣奴を攻撃して敗走させた。
その後、軻比能が輔国将軍・鮮于輔を通じてこれを非難すると、文帝(曹丕)は田豫に軻比能と友好関係を結ぶように命じた。
魏の太和2年(228年)、田豫は通訳の夏舎を派遣して、軻比能の女婿・鬱築鞬の部族を訪問させたが、夏舎は鬱築鞬に殺害されてしまった。
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夏恂
『三国志演義』にのみ登場する架空の人物。第83回に登場する。呉の部将。
蜀の章武元年(221年)、劉備は義弟・関羽の仇討ちのため呉に攻め込んだが、翌年の春正月、老将・黄忠が呉の馬忠の放った矢を受けて戦死した。
2月中旬、劉備は御林軍を率いて猇亭まで行くと、全軍を8手に分けて水陸より進軍し、水軍は黄権に統率させ、自らは大軍を率いて陸路を進んだ。
呉の韓当・周泰は「劉備が自ら出向いて来た」と聞いて、手勢を率いて迎え撃った。
韓当が将校たちを振り返って「誰か蜀の軍勢を駆け破る者はおらぬか!?」と言うと、その言葉も終わらぬうちに、部将の夏恂が槍を捻って馬を進めた。
すると劉備の背後から、張苞が丈八の矛を振り上げ馬を駆って乗り出すや、大声をあげながら夏恂に打ってかかると、夏恂はその雷の如く殺気みなぎる有り様を見て気後れし、逃げようとした。
これを助けようと、周泰の弟・周平が刀を振るい馬を馳せて乗り出したが、張苞が一声叫んで一槍に夏恂を突き落とすと、これに驚いた周平は、身構える間もなく刀を引っ下げて躍り出た関興に斬られた。
夏昭
生没年不詳。高幹配下の将。
建安10年(205年)、1度は曹操に降伏した幷州刺史・高幹が反乱を起こし、上党太守を捕らえて壺関の入り口を守った。
建安11年(206年)、曹操が自ら高幹討伐に出陣すると、高幹は部下の夏昭と鄧升を壺関城の守備に残し、自分は匈奴の単于(匈奴の首長)に救援を求めに行ったが、単于はこれを無視した。
曹操が壺関城を包囲すること3ヶ月、城は陥落し、高幹は劉表を頼って荊州に逃走するも、上洛都尉の王琰に捕らえられ斬り殺された。
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夏大夫
生没年不詳。管輅の舅(母の兄弟)。
正始9年(248年)、吏部尚書の何晏が管輅を招待し、管輅は何晏・鄧颺と語り合った。
管輅は宿舎に帰ると、舅氏(母の兄弟)の夏大夫にこの会見の模様を詳しく語った。夏大夫は管輅の言葉があけすけ過ぎたと非難したが、管輅は「死人と話しているのに、なんの畏れ憚ることがありましょうや」と言った。
翌年、何晏と鄧颺が揃って誅殺されると、夏大夫は管輅に「以前、何晏や鄧颺に会った時、もう凶気があったのか?」と尋ねた。
すると管輅は、
「禍ある人は、その人と会うことによって初めてその精神が錯乱していることが知られ、立派な人物もその人と親しむことによって、聖賢がいかに巧みに精妙なものを探知するかということが知られます。
鄧颺の歩きぶりと申せば、筋が骨と離れ、脈は肉を制御することができず、立った姿は不安定で、手足もあってないようなものでした。こうした有り様を『鬼躁(使者の錯乱)』と言います。
何晏の目つきと申せば、魂があるべき所を離れてしまい、血も澱んだ色で、精神は齟齬を来してふわふわと漂い、その容貌は枯れ木のようでした。こうした様子を『鬼幽(使者の不活発さ)』と言います。
もとより『鬼躁』の者は風に捕らえられ、『鬼幽』の者は火に焼かれるのが自然の成り行きであって、誰もそれを免れることはできないのです」
と答えた。
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夏父(夏父弗忌)
生没年不詳。魯の宗伯[宗廟の昭穆(父子長幼の序列)の礼を取り仕切る]。
文公2年(紀元前624年)秋8月、夏父弗忌は[僖公(釐公)の子である文公におもねって、]先代の僖公(釐公)を先々代の閔公(湣公)の上位に祭った。
宗伯の役人たちは、「昭穆(父子長幼の序列)の順に反する」とこれに反対したが、夏父弗忌は「(徳の)大なるを先にして(徳の)小なるを後にするは、順なり」と言って聞き入れず、ついに僖公(釐公)を上位に置いた。
夏父弗忌の死後、彼を埋葬しようとしたところ、突然棺から火が出て煙が天に達したと言う。
『魏書』明帝紀の魏の太和3年(229年)、元城王・曹礼、繁陽王・曹穆が相継いで亡くなった。秋7月、明帝(曹叡)は詔書を下し、「過去の時代の出来事を戒めとして、正しい血統をもって本家を継がせる」ことを念押ししたが、その中に「魯の文公は祭祀の順序をひっくり返したが、その罪は夏父(夏父弗忌)に由来している」とある。
夏牟
生没年不詳。霊帝が創設した西園八校尉の1人。
中平5年(188年)、天下が混乱していたので、霊帝は寵愛していた小黄門(宦官)の蹇碩を西園上軍校尉に任命し、首都・洛陽(雒陽)に駐屯させて四方を抑えたいと考えた。
そこで霊帝は天下の豪傑を召し寄せて蹇碩の副将に任命したが、この時夏牟は、その1人として左校尉に任命された。
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