正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧⑩、沛国夏侯氏①(夏侯嬰・夏侯惇・夏侯廉・夏侯充・夏侯楙・夏侯子臧・夏侯子江・夏侯廙・夏侯佐・夏侯劭)です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
沛国夏侯氏①系図
沛国夏侯氏①系図
※親が同一人物の場合、左側が年長。
『魏書』夏侯惇伝に「(夏侯惇の死後)子の夏侯充が後を継いだ。文帝(曹丕)は夏侯惇の功績を思い起こして『子孫のすべてを侯にしてやりたい』と考え、夏侯惇の領邑のうち千戸を分割して、その7人の息子と2人の孫に分与し、みなに関内侯の爵号を賜った」とあります。
この7人の息子を、夏侯惇の後を継いだ夏侯充と、すでに列侯に封ぜられていた夏侯楙を除いた数だと解釈した場合、夏侯惇の子は9人ということになります。
この記事では沛国夏侯氏①の人物、
についてまとめています。
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お⑩(沛国夏侯氏①)
第0世代(夏侯嬰)
夏侯嬰
生年不詳〜前漢の文帝9年(紀元前172年)没。泗水郡・沛県の人。
はじめ夏侯嬰は沛の厩司御(馬屋係)となったが、使者や賓客を送るごとに泗上亭に立ち寄って、劉邦と日が暮れるまで語り合った。その後、県吏として仮採用されたが、やはり劉邦と仲が良かった。
劉邦が戯れて夏侯嬰を傷つけたことがあり、ある人が劉邦を告訴した。
当時、官吏が人を傷つけることは重罪とされていたので、亭長であった劉邦はこれを否定し、夏侯嬰も劉邦を庇う証言をしたが、偽証により劉邦に連座して1年余りも獄に繋がれた。その間、夏侯嬰は数百回も笞打たれたが、最後まで白状しなかったので、劉邦は罪を免れることができた。
劉邦が初めて仲間と共に沛を攻めようとした時、県令史であった夏侯嬰は使者の役目を果たして1日で沛を降伏させる。劉邦が沛公となると、夏侯嬰に七大夫の爵位を与えて太僕に任命した。
その後夏侯嬰は、胡陵攻撃に従軍して蕭何と共に泗水の軍監・平を胡陵ごと降伏させ、五大夫の爵位を賜った。
また、従軍して碭の東で秦軍を撃ち、済陽を攻めて戸牖を降伏させ、雍丘の城下で李由の軍を破った。この時、兵車を操って急行・激戦したことから執帛の爵位を賜った。
常に太僕として沛公・劉邦の車を御し、従軍して東阿・濮陽の城下で章邯の軍を撃ち、執珪の爵位を賜った。
従軍して趙賁の軍を開封に、楊熊の軍を曲遇に撃ち、夏侯嬰は68人を捕虜にし、卒850人を降伏させ、1匱の印を得た。また従軍して雒陽(洛陽)の東で秦軍を撃ち、爵封を賜って滕公となる。また従軍して南陽を攻め、藍田・芷陽で戦い、覇上に至った。
項羽が到着して秦を滅ぼすと、劉邦を漢王に立てた。この時、劉邦は夏侯嬰に列侯の爵位を与え、昭平侯と号した。夏侯嬰は再び太僕となり、劉邦に従って蜀・漢に入った。
引き返して三秦(雍・塞・翟の3国)を平定し、劉邦に従って彭城で項籍(項羽)と戦ったが、劉邦は大いに敗れて逃げ去った。
その途上、劉邦は子の劉盈(孝恵帝)と魯元公主を見かけて車に乗せたが、馬は疲れ、敵が後ろに迫って来たので、劉邦は2人の子を車から蹴り落とそうとした。
夏侯嬰はその度に拾い上げて車に乗せ、2人の子を抱き抱えたまま馳せ続けた。劉邦は怒り、道中10数回に渡って夏侯嬰を斬ろうとしたが、ついに敵から逃げ切ることができ、2人の子を豊に送り届けた。その後、滎陽に到着した劉邦は、離散した兵を集めて再び勢力を盛り返すと、夏侯嬰に食邑として祈陽を与えた。
その後また劉邦に従軍して項籍(項羽)を撃ち、追撃して陳に至るとついに楚を平定し、魯に至った。食邑として茲氏を加えられた。
漢王・劉邦が皇帝に即位した前漢の高祖5年(紀元前202年)秋、燕王・臧荼が謀反を起こすと、夏侯嬰は太僕として従軍し、臧荼を撃った。翌年、従軍して陳に至り、楚王・韓信(韓王信)を捕らえ、食邑として茲氏を加えられ、割符を剖き与えられて、代々の世襲を許された。
太僕として従軍して代を撃ち、武泉・雲中に至り、食邑・千戸を加えられた。
また従軍して韓信(韓王信)軍の胡騎(匈奴の騎兵)を晋陽付近で撃ち、大いにこれを破った。逃げる敵を追って平城に至ったが、胡(匈奴)に包囲されて7日間味方と連絡ができなかった。高帝(劉邦)が閼氏に使者を送って厚く贈り物すると、冒頓単于は包囲の一角を開けた。
高帝(劉邦)は包囲から出ると馳せ去ろうとしたが、夏侯嬰は弩を構えゆっくりと進み、ついに脱出することができた。食邑として細陽の千戸を加えられた。
夏侯嬰はまた太僕として従軍し、句注山の北で胡騎(匈奴の騎兵)を撃ち、大いにこれを破った。また平城の南で胡騎(匈奴の騎兵)を撃ち、3度敵陣を落とすなど功績が多かったので、奪った邑の5百戸を賜わった。
太僕として陳豨・黥布の軍を撃ち、敵陣を落として敵を退けたので、千戸を加えられた。改めて汝陰の6,900戸を食邑として賜わり、先に食邑とした所は除かれた。
夏侯嬰は、高帝(劉邦)が初めて沛で挙兵した時から崩御するまで常に太僕であったが、次の孝恵帝(劉盈)にも太僕として仕えた。
孝恵帝(劉盈)と高后(劉邦の妻・呂雉)は、夏侯嬰が以前、「劉盈(孝恵帝)と魯元公主を下邑の付近で救ったこと」を徳であるとして、夏侯嬰に県の北第第一(宮殿の北門に近い最上級の邸宅)を賜わり、特別に敬われた。
孝恵帝(劉盈)が崩御すると、夏侯嬰はまた太僕として高后(呂雉)に仕えた。
高后(呂雉)が崩御して代王(後の孝文帝)が来ると、夏侯嬰は太僕として東牟侯と共に少帝(劉弘)を宮中から追放して廃位し、天子の法駕(車駕)をもって代王(孝文帝)を迎え、大臣と共に孝文帝(劉恒)を擁立した。
また太僕となったが、その8年後に亡くなり、文侯と諡された。
子の夷侯・夏侯竈が後を継いだが7年で亡くなり、その子の共侯・夏侯賜が後を継いだが31年で亡くなった。その子の侯・夏侯頗は平陽公主(第7代・孝武帝の姉)を娶ったが、後を継いで19年、元鼎2年(紀元前115年)に父の御婢(側妾)と姦通した罪に問われて自殺し、国も除かれた。
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第1世代(夏侯惇・夏侯廉)
夏侯惇・元譲
生年不詳〜延康元年(220年)没。豫州(予州)・沛国・譙県の人。子に夏侯充、夏侯楙、夏侯子臧、夏侯子江。他に3人(または5人)の子がいる。前漢の高祖(劉邦)の将軍・夏侯嬰の後裔。
夏侯惇が14歳の時、学問を学んだ先生を侮辱した男がいたので、その男を殺害した。この事件により、夏侯惇は激しい気性の持ち主として有名になった。
夏侯惇は、曹操が兵を挙げた当初から裨将として征伐につき従い、曹操が行奮武将軍になった初平元年(190年)に司馬に任命され、初平3年(192年)に曹操が兗州牧となると、折衝校尉に昇進して兗州・東郡・白馬県に駐屯し、東郡太守の役を受け持った。
興平元年(194年)、曹操が徐州の陶謙征伐を行った時、夏侯惇は兗州に残って東郡・濮陽県を守備した。
張邈が謀叛して呂布を迎え入れると、夏侯惇は曹操の家族を救うため鄄城県に急行した。その途上、呂布の軍勢と遭遇して交戦する羽目になったが、呂布は撤退してそのまま濮陽県に入城し、夏侯惇軍の輜重を襲撃した。
その後呂布は、将を派遣して降伏すると見せかけ、夏侯惇を捕らえて人質にすることに成功するが、夏侯惇の将・韓浩は相手の要求を一切受け容れず敵に撃ちかからせたので、敵は恐れて夏侯惇を解放した。
曹操が徐州から帰還すると、夏侯惇は呂布征伐に従軍し、流れ矢にあたって左眼を負傷した。以降、軍中では夏侯淵と区別するために彼を「盲夏侯」と呼んだが、夏侯惇はこれを嫌がり、鏡を見る度に腹を立てて鏡を地面に投げつけたという。
その後は再び陳留・済陰の太守を受け持ち、建武将軍の号を付加され、高安郷侯に封ぜられた。当時、大旱魃と蝗による虫害が起こったので、夏侯惇は太寿の河を堰き止めるための提を築き、自ら土を担いで働き、将校士卒を率いて稲を植えるように指導した。
その後河南尹に転任し、曹操が河北を平定した時には大軍の後詰めとして働いた。冀州・魏郡・鄴県が陥落すると、伏波将軍に昇進し、河南尹を領することは元のままとされ、法令に拘束されず、自己の判断で適宜処置することを許された。
建安12年(207年)、朝廷で夏侯惇の前後にわたる功績が取り上げられ、1,800戸を加増し、合計2,500戸とされた。
建安21年(216年)、孫権征伐に随従し、帰還の途上、26軍の総司令官として揚州・廬江郡・居巣国に駐屯した。また曹操は、布令を発して夏侯惇に楽人と歌妓を賜与した。
建安24年(219年)、曹操は摩陂に陣を張った際、夏侯惇を召し寄せて、常に同じ車に乗って出掛け、特別に親愛と尊重の意を示し、寝室の中まで出入りさせた。諸将のうち、彼に比肩する者はいなかった。
当時、諸侯はみな魏からの官号を受けていたが、夏侯惇だけは「不臣の礼(臣下として扱わない特別待遇)」として漢王朝の官であった。夏侯惇は、自分は「不臣の礼に該当する程の人間ではない」と強く要請したので、前将軍に任命され、諸軍を指揮して揚州・九江郡・寿春県に帰還し、召陵に軍営を移動させた。
文帝(曹丕)が王位につくと、夏侯惇は大将軍に任命されたが、数ヶ月後に亡くなった。
夏侯惇は軍中にありながらも、先生を迎えて親しく講義を聴いていた。性格は清潔で慎ましやか、余分な財貨がある場合にはいつも人々に分け与え、不足の場合には役所から支給を受け、財産作りに努めなかった。忠侯と諡され、子の夏侯充が後を継いだ。
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第2世代(夏侯充・夏侯楙・夏侯子臧・夏侯子江)
夏侯楙・子林
生没年不詳。豫州(予州)・沛国・譙県の人。父は夏侯惇。兄に夏侯充。弟に夏侯子臧、夏侯子江。
曹操は五官将(曹丕)の勧めに従って、自分の娘(清河公主)を夏侯楙に娶せた。また、父・夏侯惇の生前に列侯に封ぜられていた。
文帝(曹丕)は若い頃から夏侯楙と親しく、即位するに及んで彼を安西将軍・持節*1に任命し、戦死した夏侯淵の持ち場を引き継がせて関中(函谷関の西側の地域)の軍を指揮させたが、夏侯楙は生まれつき武略がない上に、金儲けが好きだった。
太和2年(228年)の蜀の北伐の際、夏侯楙は長安の鎮守に当たっていたが、明帝(曹叡)が西方征伐に赴いた折、夏侯楙の能力について言上する者がいたため、都へ召し返して尚書に任命した。
夏侯楙は西方(関中)に在任中、多くの家妓・側妾を抱えており、その事が原因で妻の清河公主と不仲になった。
その後、弟たちに「礼」を踏み外した振る舞いがあったため、夏侯楙はしばしば厳しく叱責した。弟たちは処分されることを恐れ、共謀して夏侯楙の罪を捏造して誹謗し、清河公主に罪状を上奏させたので、夏侯楙は逮捕された。
明帝(曹叡)は内心、彼を殺してしまおうと思い、長水校尉の段黙に意見を求めた。
すると段黙は「これは夏侯楙と不仲な清河公主が捏造したものに違いありません。その上、伏波将軍(夏侯惇)は、先帝様と共に天下を平定した功績のあるお方でありますゆえ、慎重にご考慮くださいますように」と答えたので、明帝(曹叡)の気持ちは解れ、詔勅を発して「誰が清河公主のために上奏文を書いたのか」を調査したところ、案の定、弟の夏侯子臧と夏侯子江がでっち上げたものであった。
脚注
*1『魏書』夏侯惇伝が注に引く『魏略』より。『魏書』夏侯惇伝の本文では「夏侯楙は侍中、尚書、安西将軍、鎮東将軍を歴任し、仮節であった」とある。
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夏侯子臧
生没年不詳。豫州(予州)・沛国・譙県の人。父は夏侯惇。兄に夏侯充、夏侯楙。弟に夏侯子江。
文帝(曹丕)は夏侯惇の功績を思い起こして「子孫のすべてを侯にしてやりたい」と考え、夏侯惇の領邑のうち千戸を分割して、その7人の息子と2人の孫に分与し、みなに関内侯の爵号を賜った。
弟・夏侯子江と共に「礼」を踏み外した振る舞いがあったため、兄・夏侯楙にしばしば厳しく叱責された。
夏侯子臧と夏侯子江は処分されることを恐れ、共謀して夏侯楙の罪を捏造して誹謗し、当時夏侯楙と仲が悪かった彼の妻・清河公主に罪状を上奏させた。
夏侯楙は逮捕されたが、その後の調査により夏侯子臧と夏侯子江がでっち上げたことが分かり、許された。
その後、夏侯子臧と夏侯子江がどのような処分を受けたのかは記されていない。
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夏侯子江
生没年不詳。豫州(予州)・沛国・譙県の人。父は夏侯惇。兄に夏侯充、夏侯楙、夏侯子臧。
文帝(曹丕)は夏侯惇の功績を思い起こして「子孫のすべてを侯にしてやりたい」と考え、夏侯惇の領邑のうち千戸を分割して、その7人の息子と2人の孫に分与し、みなに関内侯の爵号を賜った。
夏侯子臧と共に「礼」を踏み外した振る舞いがあったため、夏侯楙にしばしば厳しく叱責された。
夏侯子江と夏侯子臧は処分されることを恐れ、共謀して夏侯楙の罪を捏造して誹謗し、当時夏侯楙と仲が悪かった彼の妻・清河公主に罪状を上奏させた。
夏侯楙は逮捕されたが、その後の調査により夏侯子江と夏侯子臧がでっち上げたことが分かり、許された。
その後、夏侯子江と夏侯子臧がどのような処分を受けたのかは記されていない。
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第3世代(夏侯廙・夏侯佐)
夏侯廙
生没年不詳。豫州(予州)・沛国・譙県の人。父は夏侯充。子に夏侯劭。祖父に夏侯惇。
文帝(曹丕)は夏侯惇の功績を思い起こして「子孫のすべてを侯にしてやりたい」と考え、夏侯惇の領邑のうち千戸を分割して、その7人の息子と2人の孫に分与し、みなに関内侯の爵号を賜った。
父・夏侯充の死後、その後を継いだ。
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夏侯佐
生年不詳〜晋の泰始2年(266年)没。豫州(予州)・沛国・譙県の人。父は不明。祖父に夏侯惇。
文帝(曹丕)は夏侯惇の功績を思い起こして「子孫のすべてを侯にしてやりたい」と考え、夏侯惇の領邑のうち千戸を分割して、その7人の息子と2人の孫に分与し、みなに関内侯の爵号を賜った。
『晋陽秋』
晋の泰始2年(266年)、夏侯惇の孫の高安郷侯・夏侯佐が亡くなると、夏侯惇の後継ぎは絶えた。詔勅が出され、
「夏侯惇は魏の元勲(大きな功績があった者)であり、その勲功は竹帛に記されている。昔(古代)、庭堅(舜の臣・皋陶の字)が子孫の祭祀を受けなかっただけでも、哀しみ悼む人物がいたのだ。まして、朕は魏王朝から禅譲を受けたのであるから、どうしてその功臣を粗略にすることができようか。夏侯惇の近親である夏侯劭を選んで爵位を与えよ」
と述べられた。
※高安郷侯は夏侯惇の爵位。『魏書』夏侯惇伝の本文には「(夏侯惇の)子の夏侯充が後を継いだ。夏侯充が逝去すると、その子の夏侯廙が後を継ぎ、夏侯廙が逝去すると、その子の夏侯劭が後を継いだ」とあり、夏侯佐の名は見えない。
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第4世代(夏侯劭)
夏侯劭
生没年不詳。豫州(予州)・沛国・譙県の人。父は夏侯廙。
父・夏侯廙の死後、その後を継いだ。
※『魏書』夏侯惇伝が注に引く『晋陽秋』には「晋の泰始2年(266年)、夏侯惇の孫の高安郷侯・夏侯佐が逝去すると後継ぎが絶えたので、『夏侯惇の近親である夏侯劭を選んで爵位を与えよ』という詔勅が出された」とある。
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