正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧⑩、沛国(はいこく)夏侯氏(かこうし)①(夏侯嬰(かこうえい)・夏侯惇(かこうとん)・夏侯廉(かこうれん)・夏侯充(かこうじゅう)・夏侯楙(かこうぼう)・夏侯子臧(かこうしそう)・夏侯子江(かこうしこう)・夏侯廙(かこうよく)・夏侯佐(かこうさ)・夏侯劭(かこうしょう))です。

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系図

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

沛国夏侯氏①系図

沛国夏侯氏①系図

沛国(はいこく)夏侯氏(かこうし)①系図


※親が同一人物の場合、左側が年長。
『魏書(ぎしょ)』夏侯惇伝(かこうとんでん)に「(夏侯惇(かこうとん)の死後)子の夏侯充(かこうじゅう)が後を継いだ。文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は夏侯惇(かこうとん)の功績を思い起こして『子孫のすべてを侯(こう)にしてやりたい』と考え、夏侯惇(かこうとん)の領邑(りょうゆう)のうち千戸を分割して、その7人の息子と2人の孫に分与し、みなに関内侯(かんだいこう)の爵号を賜(たまわ)った」とあります。
この7人の息子を、夏侯惇(かこうとん)の後を継いだ夏侯充(かこうじゅう)と、すでに列侯(れっこう)に封ぜられていた夏侯楙(かこうぼう)を除いた数だと解釈した場合、夏侯惇(かこうとん)の子は9人ということになります。


この記事では沛国(はいこく)夏侯氏(かこうし)①の人物、

についてまとめています。

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お⑩(沛国夏侯氏①)

第0世代(夏侯嬰)

夏侯嬰(かこうえい)

生年不詳〜前漢(ぜんかん)の文帝(ぶんてい)9年(紀元前172年)没。泗水郡(しすいぐん)・沛県(はいけん)の人。

はじめ夏侯嬰(かこうえい)は沛(はい)の厩司御(きゅうしぎょ)(馬屋係)となったが、使者や賓客(ひんかく)を送るごとに泗上亭(しじょうてい)に立ち寄って、劉邦(りゅうほう)と日が暮れるまで語り合った。その後、県吏(けんり)として仮採用されたが、やはり劉邦(りゅうほう)と仲が良かった。

劉邦(りゅうほう)が戯(たわむ)れて夏侯嬰(かこうえい)を傷つけたことがあり、ある人が劉邦(りゅうほう)を告訴した。

当時、官吏が人を傷つけることは重罪とされていたので、亭長(ていちょう)であった劉邦(りゅうほう)はこれを否定し、夏侯嬰(かこうえい)も劉邦(りゅうほう)を庇(かば)う証言をしたが、偽証(ぎしょう)により劉邦(りゅうほう)に連座して1年余りも獄に繋(つな)がれた。その間、夏侯嬰(かこうえい)は数百回も笞(むち)打たれたが、最後まで白状しなかったので、劉邦(りゅうほう)は罪を免(まぬか)れることができた。


劉邦(りゅうほう)が初めて仲間と共に沛(はい)を攻めようとした時、県令史(けんれいし)であった夏侯嬰(かこうえい)は使者の役目を果たして1日で沛(はい)を降伏させる。劉邦(りゅうほう)が沛公(はいこう)となると、夏侯嬰(かこうえい)に七大夫(しちたいふ)の爵位を与えて太僕(たいぼく)に任命した。

その後夏侯嬰(かこうえい)は、胡陵(こりょう)攻撃に従軍して蕭何(しょうか)と共に泗水(しすい)の軍監(ぐんかん)・平(へい)を胡陵(こりょう)ごと降伏させ、五大夫(ごたいふ)の爵位を賜(たまわ)った。

また、従軍して碭(とう)の東で秦(しん)軍を撃ち、済陽(せいよう)を攻めて戸牖(こゆう)を降伏させ、雍丘(ようきゅう)の城下で李由(りゆう)の軍を破った。この時、兵車を操(あやつ)って急行・激戦したことから執帛(しっぱく)の爵位を賜(たまわ)った。

常に太僕(たいぼく)として沛公(はいこう)・劉邦(りゅうほう)の車を御(ぎょ)し、従軍して東阿(とうあ)・濮陽(ぼくよう)の城下で章邯(しょうかん)の軍を撃ち、執珪(しっけい)の爵位を賜(たまわ)った。

従軍して趙賁(ちょうほん)の軍を開封(かいほう)に、楊熊(ようゆう)の軍を曲遇(くぐう)に撃ち、夏侯嬰(かこうえい)は68人を捕虜にし、卒(そつ)850人を降伏させ、1匱(はこ)の印を得た。また従軍して雒陽(らくよう)(洛陽(らくよう))の東で秦(しん)軍を撃ち、爵封(しゃくほう)を賜(たまわ)って滕公(とうこう)となる。また従軍して南陽(なんよう)を攻め、藍田(らんでん)・芷陽(しよう)で戦い、覇上(はじょう)に至った。


項羽(こうう)が到着して秦(しん)を滅ぼすと、劉邦(りゅうほう)を漢王(かんおう)に立てた。この時、劉邦(りゅうほう)は夏侯嬰(かこうえい)に列侯(れっこう)の爵位を与え、昭平侯(しょうへいこう)と号した。夏侯嬰(かこうえい)は再び太僕(たいぼく)となり、劉邦(りゅうほう)に従って蜀(しょく)・漢(かん)に入った。

引き返して三秦(さんしん)(雍(よう)・塞(さい)・翟(てき)の3国)を平定し、劉邦(りゅうほう)に従って彭城(ほうじょう)で項籍(こうせき)(項羽(こうう))と戦ったが、劉邦(りゅうほう)は大いに敗れて逃げ去った。

その途上、劉邦(りゅうほう)は子の劉盈(りゅうえい)(孝恵帝(こうけいてい))と魯元公主(ろげんこうしゅ)を見かけて車に乗せたが、馬は疲れ、敵が後ろに迫(せま)って来たので、劉邦(りゅうほう)は2人の子を車から蹴(け)り落とそうとした。

夏侯嬰(かこうえい)はその度(たび)に拾(ひろ)い上げて車に乗せ、2人の子を抱(だ)き抱(かか)えたまま馳(は)せ続けた。劉邦(りゅうほう)は怒り、道中10数回に渡って夏侯嬰(かこうえい)を斬ろうとしたが、ついに敵から逃げ切ることができ、2人の子を豊(ほう)に送り届けた。その後、滎陽(けいよう)に到着した劉邦(りゅうほう)は、離散した兵を集めて再び勢力を盛り返すと、夏侯嬰(かこうえい)に食邑(しょくゆう)として祈陽(きよう)を与えた。

その後また劉邦(りゅうほう)に従軍して項籍(こうせき)(項羽(こうう))を撃ち、追撃して陳(ちん)に至るとついに楚(そ)を平定し、魯(ろ)に至った。食邑(しょくゆう)として茲氏(じし)を加えられた。


漢王(かんおう)・劉邦(りゅうほう)が皇帝に即位した前漢(ぜんかん)の高祖(こうそ)5年(紀元前202年)秋、燕王(えんおう)・臧荼(ぞうと)が謀反(むほん)を起こすと、夏侯嬰(かこうえい)は太僕(たいぼく)として従軍し、臧荼(ぞうと)を撃った。翌年、従軍して陳(ちん)に至り、楚王(そおう)・韓信(かんしん)(韓王信(かんおうしん))を捕らえ、食邑(しょくゆう)として茲氏(じし)を加えられ、割符(わりふ)を剖(さ)き与えられて、代々の世襲(せしゅう)を許された。

太僕(たいぼく)として従軍して代(だい)を撃ち、武泉(ぶせん)・雲中(うんちゅう)に至り、食邑(しょくゆう)・千戸を加えられた。

また従軍して韓信(かんしん)(韓王信(かんおうしん))軍の胡騎(こき)(匈奴(きょうど)の騎兵)を晋陽(しんよう)付近で撃ち、大いにこれを破った。逃げる敵を追って平城(へいじょう)に至ったが、胡(こ)(匈奴(きょうど))に包囲されて7日間味方と連絡ができなかった。高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))が閼氏(あつし)に使者を送って厚く贈り物すると、冒頓(ぼくとつ)単于(ぜんう)は包囲の一角を開けた。

高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))は包囲から出ると馳(は)せ去ろうとしたが、夏侯嬰(かこうえい)は弩(ど)を構えゆっくりと進み、ついに脱出することができた。食邑(しょくゆう)として細陽(さいよう)の千戸を加えられた。

夏侯嬰(かこうえい)はまた太僕(たいぼく)として従軍し、句注山(こうちゅうざん)の北で胡騎(こき)(匈奴(きょうど)の騎兵)を撃ち、大いにこれを破った。また平城(へいじょう)の南で胡騎(こき)(匈奴(きょうど)の騎兵)を撃ち、3度敵陣を落とすなど功績が多かったので、奪った邑(ゆう)の5百戸を賜(たま)わった。

太僕(たいぼく)として陳豨(ちんき)・黥布(げいふ)の軍を撃ち、敵陣を落として敵を退(しりぞ)けたので、千戸を加えられた。改めて汝陰(じょいん)の6,900戸を食邑(しょくゆう)として賜(たま)わり、先に食邑(しょくゆう)とした所は除かれた。


夏侯嬰(かこうえい)は、高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))が初めて沛(はい)で挙兵した時から崩御(ほうぎょ)するまで常に太僕(たいぼく)であったが、次の孝恵帝(こうけいてい)(劉盈(りゅうえい))にも太僕(たいぼく)として仕えた。

孝恵帝(こうけいてい)(劉盈(りゅうえい))と高后(こうこう)(劉邦(りゅうほう)の妻・呂雉(りょち))は、夏侯嬰(かこうえい)が以前、「劉盈(りゅうえい)(孝恵帝(こうけいてい))と魯元公主(ろげんこうしゅ)を下邑(かゆう)の付近で救ったこと」を徳であるとして、夏侯嬰(かこうえい)に県の北第(ほくだい)第一(だいいち)(宮殿の北門に近い最上級の邸宅)を賜(たま)わり、特別に敬(うやま)われた。

孝恵帝(こうけいてい)(劉盈(りゅうえい))が崩御(ほうぎょ)すると、夏侯嬰(かこうえい)はまた太僕(たいぼく)として高后(こうこう)(呂雉(りょち))に仕えた。

高后(こうこう)(呂雉(りょち))が崩御(ほうぎょ)して代王(だいおう)(後の孝文帝(こうぶんてい))が来ると、夏侯嬰(かこうえい)は太僕(たいぼく)として東牟侯(とうぼうこう)と共に少帝(しょうてい)(劉弘(りゅうこう))を宮中から追放して廃位し、天子(てんし)の法駕(ほうが)(車駕(しゃが))をもって代王(だいおう)(孝文帝(こうぶんてい))を迎え、大臣と共に孝文帝(こうぶんてい)(劉恒(りゅうこう))を擁立(ようりつ)した。

また太僕(たいぼく)となったが、その8年後に亡くなり、文侯(ぶんこう)と諡(おくりな)された。


子の夷侯(いこう)・夏侯竈(かこうそう)が後を継いだが7年で亡くなり、その子の共侯(きょうこう)・夏侯賜(かこうし)が後を継いだが31年で亡くなった。その子の侯(こう)・夏侯頗(かこうは)は平陽公主(へいようこうしゅ)(第7代・孝武帝(こうぶてい)の姉)を娶(めと)ったが、後を継いで19年、元鼎(げんてい)2年(紀元前115年)に父の御婢(ぎょひ)(側妾(そくしょう))と姦通した罪に問われて自殺し、国も除かれた。


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第1世代(夏侯惇・夏侯廉)

夏侯惇(かこうとん)・元譲(げんじょう)

生年不詳〜延康(えんこう)元年(220年)没。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。子に夏侯充(かこうじゅう)、夏侯楙(かこうぼう)、夏侯子臧(かこうしそう)、夏侯子江(かこうしこう)。他に3人(または5人)の子がいる。前漢(ぜんかん)の高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう))の将軍(しょうぐん)・夏侯嬰(かこうえい)の後裔(こうえい)。

夏侯惇(かこうとん)が14歳の時、学問を学んだ先生を侮辱(ぶじょく)した男がいたので、その男を殺害した。この事件により、夏侯惇(かこうとん)は激しい気性の持ち主として有名になった。

夏侯惇(かこうとん)は、曹操(そうそう)が兵を挙(あ)げた当初から裨将(ひしょう)として征伐につき従い、曹操(そうそう)が行奮武将軍(こうふんぶしょうぐん)になった初平(しょへい)元年(190年)に司馬(しば)に任命され、初平(しょへい)3年(192年)に曹操(そうそう)が兗州牧(えんしゅうぼく)となると、折衝校尉(せっしょうこうい)に昇進して兗州(えんしゅう)・東郡(とうぐん)・白馬県(はくばけん)に駐屯し、東郡太守(とうぐんたいしゅ)の役を受け持った。


興平(こうへい)元年(194年)、曹操(そうそう)が徐州(じょしゅう)の陶謙(とうけん)征伐を行った時、夏侯惇(かこうとん)は兗州(えんしゅう)に残って東郡(とうぐん)・濮陽県(ぼくようけん)を守備した。

張邈(ちょうばく)が謀叛(むほん)して呂布(りょふ)を迎え入れると、夏侯惇(かこうとん)は曹操(そうそう)の家族を救うため鄄城県(けんじょうけん)に急行した。その途上、呂布(りょふ)の軍勢と遭遇(そうぐう)して交戦する羽目になったが、呂布(りょふ)は撤退してそのまま濮陽県(ぼくようけん)に入城し、夏侯惇(かこうとん)軍の輜重(しちょう)を襲撃した。

その後呂布(りょふ)は、将を派遣して降伏すると見せかけ、夏侯惇(かこうとん)を捕らえて人質にすることに成功するが、夏侯惇(かこうとん)の将・韓浩(かんこう)は相手の要求を一切受け容(い)れず敵に撃ちかからせたので、敵は恐れて夏侯惇(かこうとん)を解放した。


曹操(そうそう)が徐州(じょしゅう)から帰還すると、夏侯惇(かこうとん)は呂布(りょふ)征伐に従軍し、流れ矢にあたって左眼を負傷した。以降、軍中では夏侯淵(かこうえん)と区別するために彼を「盲夏侯(もうかこう)」と呼んだが、夏侯惇(かこうとん)はこれを嫌がり、鏡を見る度(たび)に腹を立てて鏡を地面に投げつけたという。

その後は再び陳留(ちんりゅう)・済陰(せいいん)の太守(たいしゅ)を受け持ち、建武将軍(けんぶしょうぐん)の号を付加され、高安郷侯(こうあんきょうこう)に封ぜられた。当時、大旱魃(かんばつ)と蝗(いなご)による虫害が起こったので、夏侯惇(かこうとん)は太寿(たいじゅ)の河を堰(せ)き止めるための提(つつみ)を築き、自(みずか)ら土を担(かつ)いで働き、将校士卒を率(ひき)いて稲を植えるように指導した。

その後河南尹(かなんいん)に転任し、曹操(そうそう)が河北(かほく)を平定した時には大軍の後詰(ごづ)めとして働いた。冀州(きしゅう)・魏郡(ぎぐん)・鄴県(ぎょうけん)が陥落すると、伏波将軍(ふくはしょうぐん)に昇進し、河南尹(かなんいん)を領することは元のままとされ、法令に拘束(こうそく)されず、自己の判断で適宜(てきぎ)処置することを許された。

建安(けんあん)12年(207年)、朝廷で夏侯惇(かこうとん)の前後にわたる功績が取り上げられ、1,800戸を加増し、合計2,500戸とされた。

建安(けんあん)21年(216年)、孫権(そんけん)征伐に随従(ずいじゅう)し、帰還の途上、26軍の総司令官として揚州(ようしゅう)・廬江郡(ろこうぐん)・居巣国(きょそうこく)に駐屯した。また曹操(そうそう)は、布令を発して夏侯惇(かこうとん)に楽人(がくじん)と歌妓(かぎ)を賜与(しよ)した。

建安(けんあん)24年(219年)、曹操(そうそう)は摩陂(まひ)に陣を張った際、夏侯惇(かこうとん)を召(め)し寄せて、常に同じ車に乗って出掛け、特別に親愛と尊重の意を示し、寝室の中まで出入りさせた。諸将のうち、彼に比肩(ひけん)する者はいなかった。

当時、諸侯はみな魏(ぎ)からの官号を受けていたが、夏侯惇(かこうとん)だけは「不臣の礼(臣下として扱わない特別待遇)」として漢(かん)王朝の官であった。夏侯惇(かこうとん)は、自分は「不臣の礼に該当(がいとう)する程の人間ではない」と強く要請したので、前将軍(ぜんしょうぐん)に任命され、諸軍を指揮して揚州(ようしゅう)・九江郡(きゅうこうぐん)・寿春県(じゅしゅんけん)に帰還し、召陵(しょうりょう)に軍営を移動させた。


文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))が王位につくと、夏侯惇(かこうとん)は大将軍(だいしょうぐん)に任命されたが、数ヶ月後に亡くなった。

夏侯惇(かこうとん)は軍中にありながらも、先生を迎えて親しく講義を聴(き)いていた。性格は清潔で慎(つつ)ましやか、余分な財貨がある場合にはいつも人々に分け与え、不足の場合には役所から支給を受け、財産作りに努めなかった。忠侯(ちゅうこう)と諡(おくりな)され、子の夏侯充(かこうじゅう)が後を継いだ。


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夏侯廉(かこうれん)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。兄は夏侯惇(かこうとん)。

兄・夏侯惇(かこうとん)の生前に列侯(れっこう)に封ぜられていた。


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第2世代(夏侯充・夏侯楙・夏侯子臧・夏侯子江)

夏侯充(かこうじゅう)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。父は夏侯惇(かこうとん)。子に夏侯廙(かこうよく)。弟に夏侯楙(かこうぼう)、夏侯子臧(かこうしそう)、夏侯子江(かこうしこう)。

父・夏侯惇(かこうとん)の死後、その後を継いだ。


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夏侯楙(かこうぼう)・子林(しりん)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。父は夏侯惇(かこうとん)。兄に夏侯充(かこうじゅう)。弟に夏侯子臧(かこうしそう)、夏侯子江(かこうしこう)。

曹操(そうそう)は五官将(ごかんしょう)(曹丕(そうひ))の勧めに従って、自分の娘(清河公主(せいかこうしゅ))を夏侯楙(かこうぼう)に娶(めあわ)せた。また、父・夏侯惇(かこうとん)の生前に列侯(れっこう)に封ぜられていた。


文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は若い頃から夏侯楙(かこうぼう)と親しく、即位するに及んで彼を安西将軍(あんせいしょうぐん)・持節(じせつ)*1に任命し、戦死した夏侯淵(かこうえん)の持ち場を引き継がせて関中(かんちゅう)(函谷関(かんこくかん)の西側の地域)の軍を指揮させたが、夏侯楙(かこうぼう)は生まれつき武略がない上に、金儲(かねもう)けが好きだった。

太和(たいわ)2年(228年)の蜀(しょく)の北伐の際、夏侯楙(かこうぼう)は長安(ちょうあん)の鎮守(ちんじゅ)に当たっていたが、明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))が西方征伐に赴(おもむ)いた折(おり)、夏侯楙(かこうぼう)の能力について言上する者がいたため、都へ召(め)し返して尚書(しょうしょ)に任命した。


夏侯楙(かこうぼう)は西方(関中(かんちゅう))に在任中、多くの家妓(かぎ)・側妾(そくしょう)を抱(かか)えており、その事が原因で妻の清河公主(せいかこうしゅ)と不仲になった。

その後、弟たちに「礼」を踏(ふ)み外した振る舞いがあったため、夏侯楙(かこうぼう)はしばしば厳しく叱責(しっせき)した。弟たちは処分されることを恐れ、共謀して夏侯楙(かこうぼう)の罪を捏造(ねつぞう)して誹謗(ひぼう)し、清河公主(せいかこうしゅ)に罪状を上奏させたので、夏侯楙(かこうぼう)は逮捕された。

明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))は内心、彼を殺してしまおうと思い、長水校尉(ちょうすいこうい)の段黙(だんもく)に意見を求めた。

すると段黙(だんもく)は「これは夏侯楙(かこうぼう)と不仲な清河公主(せいかこうしゅ)が捏造(ねつぞう)したものに違いありません。その上、伏波将軍(ふくはしょうぐん)(夏侯惇(かこうとん))は、先帝様と共に天下を平定した功績のあるお方でありますゆえ、慎重にご考慮くださいますように」と答えたので、明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))の気持ちは解(ほぐ)れ、詔勅(しょうちょく)を発して「誰が清河公主(せいかこうしゅ)のために上奏文を書いたのか」を調査したところ、案の定、弟の夏侯子臧(かこうしそう)と夏侯子江(かこうしこう)がでっち上げたものであった。

脚注

*1『魏書(ぎしょ)』夏侯惇伝(かこうとんでん)が注に引く『魏略(ぎりゃく)』より。『魏書(ぎしょ)』夏侯惇伝(かこうとんでん)の本文では「夏侯楙(かこうぼう)は侍中(じちゅう)、尚書(しょうしょ)、安西将軍(あんせいしょうぐん)、鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)を歴任し、仮節(かせつ)であった」とある。


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夏侯子臧(かこうしそう)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。父は夏侯惇(かこうとん)。兄に夏侯充(かこうじゅう)、夏侯楙(かこうぼう)。弟に夏侯子江(かこうしこう)。

文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は夏侯惇(かこうとん)の功績を思い起こして「子孫のすべてを侯(こう)にしてやりたい」と考え、夏侯惇(かこうとん)の領邑(りょうゆう)のうち千戸を分割して、その7人の息子と2人の孫に分与し、みなに関内侯(かんだいこう)の爵号を賜(たまわ)った。


弟・夏侯子江(かこうしこう)と共に「礼」を踏(ふ)み外した振る舞いがあったため、兄・夏侯楙(かこうぼう)にしばしば厳しく叱責(しっせき)された。

夏侯子臧(かこうしそう)と夏侯子江(かこうしこう)は処分されることを恐れ、共謀して夏侯楙(かこうぼう)の罪を捏造(ねつぞう)して誹謗(ひぼう)し、当時夏侯楙(かこうぼう)と仲が悪かった彼の妻・清河公主(せいかこうしゅ)に罪状を上奏させた。

夏侯楙(かこうぼう)は逮捕されたが、その後の調査により夏侯子臧(かこうしそう)と夏侯子江(かこうしこう)がでっち上げたことが分かり、許された。

その後、夏侯子臧(かこうしそう)と夏侯子江(かこうしこう)がどのような処分を受けたのかは記(しる)されていない。


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夏侯子江(かこうしこう)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。父は夏侯惇(かこうとん)。兄に夏侯充(かこうじゅう)、夏侯楙(かこうぼう)、夏侯子臧(かこうしそう)。

文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は夏侯惇(かこうとん)の功績を思い起こして「子孫のすべてを侯(こう)にしてやりたい」と考え、夏侯惇(かこうとん)の領邑(りょうゆう)のうち千戸を分割して、その7人の息子と2人の孫に分与し、みなに関内侯(かんだいこう)の爵号を賜(たまわ)った。


夏侯子臧(かこうしそう)と共に「礼」を踏(ふ)み外した振る舞いがあったため、夏侯楙(かこうぼう)にしばしば厳しく叱責(しっせき)された。

夏侯子江(かこうしこう)と夏侯子臧(かこうしそう)は処分されることを恐れ、共謀して夏侯楙(かこうぼう)の罪を捏造(ねつぞう)して誹謗(ひぼう)し、当時夏侯楙(かこうぼう)と仲が悪かった彼の妻・清河公主(せいかこうしゅ)に罪状を上奏させた。

夏侯楙(かこうぼう)は逮捕されたが、その後の調査により夏侯子江(かこうしこう)と夏侯子臧(かこうしそう)がでっち上げたことが分かり、許された。

その後、夏侯子江(かこうしこう)と夏侯子臧(かこうしそう)がどのような処分を受けたのかは記(しる)されていない。


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第3世代(夏侯廙・夏侯佐)

夏侯廙(かこうよく)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。父は夏侯充(かこうじゅう)。子に夏侯劭(かこうしょう)。祖父に夏侯惇(かこうとん)。

文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は夏侯惇(かこうとん)の功績を思い起こして「子孫のすべてを侯(こう)にしてやりたい」と考え、夏侯惇(かこうとん)の領邑(りょうゆう)のうち千戸を分割して、その7人の息子と2人の孫に分与し、みなに関内侯(かんだいこう)の爵号を賜(たまわ)った。

父・夏侯充(かこうじゅう)の死後、その後を継いだ。


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夏侯佐(かこうさ)

生年不詳〜晋(しん)の泰始(たいし)2年(266年)没。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。父は不明。祖父に夏侯惇(かこうとん)。

文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は夏侯惇(かこうとん)の功績を思い起こして「子孫のすべてを侯(こう)にしてやりたい」と考え、夏侯惇(かこうとん)の領邑(りょうゆう)のうち千戸を分割して、その7人の息子と2人の孫に分与し、みなに関内侯(かんだいこう)の爵号を賜(たまわ)った。

『晋陽秋』

晋(しん)の泰始(たいし)2年(266年)、夏侯惇(かこうとん)の孫の高安郷侯(こうあんきょうこう)・夏侯佐(かこうさ)が亡くなると、夏侯惇(かこうとん)の後継ぎは絶えた。詔勅(しょうちょく)が出され、

「夏侯惇(かこうとん)は魏(ぎ)の元勲(げんくん)(大きな功績があった者)であり、その勲功(くんこう)は竹帛(ちくはく)に記(しる)されている。昔(古代)、庭堅(ていけん)(舜(しゅん)の臣・皋陶(こうよう)の字(あざな))が子孫の祭祀(さいし)を受けなかっただけでも、哀しみ悼(いた)む人物がいたのだ。まして、朕(ちん)は魏(ぎ)王朝から禅譲(ぜんじょう)を受けたのであるから、どうしてその功臣を粗略にすることができようか。夏侯惇(かこうとん)の近親である夏侯劭(かこうしょう)を選んで爵位を与えよ」

と述(の)べられた。


※高安郷侯(こうあんきょうこう)は夏侯惇(かこうとん)の爵位。『魏書(ぎしょ)』夏侯惇伝(かこうとんでん)の本文には「(夏侯惇(かこうとん)の)子の夏侯充(かこうじゅう)が後を継いだ。夏侯充(かこうじゅう)が逝去(せいきょ)すると、その子の夏侯廙(かこうよく)が後を継ぎ、夏侯廙(かこうよく)が逝去(せいきょ)すると、その子の夏侯劭(かこうしょう)が後を継いだ」とあり、夏侯佐(かこうさ)の名は見えない。


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第4世代(夏侯劭)

夏侯劭(かこうしょう)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。父は夏侯廙(かこうよく)。

父・夏侯廙(かこうよく)の死後、その後を継いだ。


※『魏書(ぎしょ)』夏侯惇伝(かこうとんでん)が注に引く『晋陽秋(しんようしゅう)』には「晋(しん)の泰始(たいし)2年(266年)、夏侯惇(かこうとん)の孫の高安郷侯(こうあんきょうこう)・夏侯佐(かこうさ)が逝去(せいきょ)すると後継ぎが絶えたので、『夏侯惇(かこうとん)の近親である夏侯劭(かこうしょう)を選んで爵位を与えよ』という詔勅(しょうちょく)が出された」とある。


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