正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧⑩、沛国はいこく夏侯氏かこうし①(夏侯嬰かこうえい夏侯惇かこうとん夏侯廉かこうれん夏侯充かこうじゅう夏侯楙かこうぼう夏侯子臧かこうしそう夏侯子江かこうしこう夏侯廙かこうよく夏侯佐かこうさ夏侯劭かこうしょう)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

沛国夏侯氏①系図

沛国夏侯氏①系図

沛国はいこく夏侯氏かこうし①系図


※左側が年長。
魏書ぎしょ夏侯惇伝かこうとんでんに「(夏侯惇かこうとんの死後)子の夏侯充かこうじゅうが後を継いだ。文帝ぶんてい曹丕そうひ)は夏侯惇かこうとんの功績を思い起こして『子孫のすべてをこうにしてやりたい』と考え、夏侯惇かこうとん領邑りょうゆうのうち千戸を分割して、その7人の息子と2人の孫に分与し、みなに関内侯かんだいこうの爵号をたまわった」とあります。
この7人の息子を、夏侯惇かこうとんの後を継いだ夏侯充かこうじゅうと、すでに列侯れっこうに封ぜられていた夏侯楙かこうぼうを除いた数だと解釈した場合、夏侯惇かこうとんの子は9人ということになります。


この記事では沛国はいこく夏侯氏かこうし①の人物、

についてまとめています。


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お⑩(沛国夏侯氏①)

第0世代(夏侯嬰)

夏侯嬰かこうえい

生年不詳〜前漢ぜんかん文帝ぶんてい9年(紀元前172年)没。泗水郡しすいぐん沛県はいけんの人。

はじめ夏侯嬰かこうえいはい厩司御きゅうしぎょ(馬屋係)となったが、使者や賓客ひんかくを送るごとに泗上亭しじょうていに立ち寄って、劉邦りゅうほうと日が暮れるまで語り合った。その後、県吏けんりとして仮採用されたが、やはり劉邦りゅうほうと仲が良かった。

劉邦りゅうほうたわむれて夏侯嬰かこうえいを傷つけたことがあり、ある人が劉邦りゅうほうを告訴した。

当時、官吏が人を傷つけることは重罪とされていたので、亭長ていちょうであった劉邦りゅうほうはこれを否定し、夏侯嬰かこうえい劉邦りゅうほうかばう証言をしたが、偽証ぎしょうにより劉邦りゅうほうに連座して1年余りも獄につながれた。その間、夏侯嬰かこうえいは数百回もむち打たれたが、最後まで白状しなかったので、劉邦りゅうほうは罪をまぬかれることができた。


劉邦りゅうほうが初めて仲間と共にはいを攻めようとした時、県令史けんれいしであった夏侯嬰かこうえいは使者の役目を果たして1日ではいを降伏させる。劉邦りゅうほう沛公はいこうとなると、夏侯嬰かこうえい七大夫しちたいふの爵位を与えて太僕たいぼくに任命した。

その後夏侯嬰かこうえいは、胡陵こりょう攻撃に従軍して蕭何しょうかと共に泗水しすい軍監ぐんかんへい胡陵こりょうごと降伏させ、五大夫ごたいふの爵位をたまわった。

また、従軍してとうの東でしん軍を撃ち、済陽せいようを攻めて戸牖こゆうを降伏させ、雍丘ようきゅうの城下で李由りゆうの軍を破った。この時、兵車をあやつって急行・激戦したことから執帛しっぱくの爵位をたまわった。

常に太僕たいぼくとして沛公はいこう劉邦りゅうほうの車をぎょし、従軍して東阿とうあ濮陽ぼくようの城下で章邯しょうかんの軍を撃ち、執珪しっけいの爵位をたまわった。

従軍して趙賁ちょうほんの軍を開封かいほうに、楊熊ようゆうの軍を曲遇くぐうに撃ち、夏侯嬰かこうえいは68人を捕虜にし、そつ850人を降伏させ、1はこの印を得た。また従軍して雒陽らくよう洛陽らくよう)の東でしん軍を撃ち、爵封しゃくほうたまわって滕公とうこうとなる。また従軍して南陽なんようを攻め、藍田らんでん芷陽しようで戦い、覇上はじょうに至った。


項羽こううが到着してしんを滅ぼすと、劉邦りゅうほう漢王かんおうに立てた。この時、劉邦りゅうほう夏侯嬰かこうえい列侯れっこうの爵位を与え、昭平侯しょうへいこうと号した。夏侯嬰かこうえいは再び太僕たいぼくとなり、劉邦りゅうほうに従ってしょくかんに入った。

引き返して三秦さんしんようさいてきの3国)を平定し、劉邦りゅうほうに従って彭城ほうじょう項籍こうせき項羽こうう)と戦ったが、劉邦りゅうほうは大いに敗れて逃げ去った。

その途上、劉邦りゅうほうは子の劉盈りゅうえい孝恵帝こうけいてい)と魯元公主ろげんこうしゅを見かけて車に乗せたが、馬は疲れ、敵が後ろにせまって来たので、劉邦りゅうほうは2人の子を車からり落とそうとした。

夏侯嬰かこうえいはそのたびひろい上げて車に乗せ、2人の子をかかえたまませ続けた。劉邦りゅうほうは怒り、道中10数回に渡って夏侯嬰かこうえいを斬ろうとしたが、ついに敵から逃げ切ることができ、2人の子をほうに送り届けた。その後、滎陽けいように到着した劉邦りゅうほうは、離散した兵を集めて再び勢力を盛り返すと、夏侯嬰かこうえい食邑しょくゆうとして祈陽きようを与えた。

その後また劉邦りゅうほうに従軍して項籍こうせき項羽こうう)を撃ち、追撃してちんに至るとついにを平定し、に至った。食邑しょくゆうとして茲氏じしを加えられた。


漢王かんおう劉邦りゅうほうが皇帝に即位した前漢ぜんかん高祖こうそ5年(紀元前202年)秋、燕王えんおう臧荼ぞうと謀反むほんを起こすと、夏侯嬰かこうえい太僕たいぼくとして従軍し、臧荼ぞうとを撃った。翌年、従軍してちんに至り、楚王そおう韓信かんしん韓王信かんおうしん)を捕らえ、食邑しょくゆうとして茲氏じしを加えられ、割符わりふき与えられて、代々の世襲せしゅうを許された。

太僕たいぼくとして従軍してだいを撃ち、武泉ぶせん雲中うんちゅうに至り、食邑しょくゆう・千戸を加えられた。

また従軍して韓信かんしん韓王信かんおうしん)軍の胡騎こき匈奴きょうどの騎兵)を晋陽しんよう付近で撃ち、大いにこれを破った。逃げる敵を追って平城へいじょうに至ったが、匈奴きょうど)に包囲されて7日間味方と連絡ができなかった。高帝こうてい劉邦りゅうほう)が閼氏あつしに使者を送って厚く贈り物すると、冒頓ぼくとつ単于ぜんうは包囲の一角を開けた。

高帝こうてい劉邦りゅうほう)は包囲から出るとせ去ろうとしたが、夏侯嬰かこうえいを構えゆっくりと進み、ついに脱出することができた。食邑しょくゆうとして細陽さいようの千戸を加えられた。

夏侯嬰かこうえいはまた太僕たいぼくとして従軍し、句注山こうちゅうざんの北で胡騎こき匈奴きょうどの騎兵)を撃ち、大いにこれを破った。また平城へいじょうの南で胡騎こき匈奴きょうどの騎兵)を撃ち、3度敵陣を落とすなど功績が多かったので、奪ったゆうの5百戸をたまわった。

太僕たいぼくとして陳豨ちんき黥布げいふの軍を撃ち、敵陣を落として敵を退しりぞけたので、千戸を加えられた。改めて汝陰じょいんの6,900戸を食邑しょくゆうとしてたまわり、先に食邑しょくゆうとした所は除かれた。


夏侯嬰かこうえいは、高帝こうてい劉邦りゅうほう)が初めてはいで挙兵した時から崩御ほうぎょするまで常に太僕たいぼくであったが、次の孝恵帝こうけいてい劉盈りゅうえい)にも太僕たいぼくとして仕えた。

孝恵帝こうけいてい劉盈りゅうえい)と高后こうこう劉邦りゅうほうの妻・呂雉りょち)は、夏侯嬰かこうえいが以前、「劉盈りゅうえい孝恵帝こうけいてい)と魯元公主ろげんこうしゅ下邑かゆうの付近で救ったこと」を徳であるとして、夏侯嬰かこうえいに県の北第ほくだい第一だいいち(宮殿の北門に近い最上級の邸宅)をたまわり、特別にうやまわれた。

孝恵帝こうけいてい劉盈りゅうえい)が崩御ほうぎょすると、夏侯嬰かこうえいはまた太僕たいぼくとして高后こうこう呂雉りょち)に仕えた。

高后こうこう呂雉りょち)が崩御ほうぎょして代王だいおう(後の孝文帝こうぶんてい)が来ると、夏侯嬰かこうえい太僕たいぼくとして東牟侯とうぼうこうと共に少帝しょうてい劉弘りゅうこう)を宮中から追放して廃位し、天子てんし法駕ほうが車駕しゃが)をもって代王だいおう孝文帝こうぶんてい)を迎え、大臣と共に孝文帝こうぶんてい劉恒りゅうこう)を擁立ようりつした。

また太僕たいぼくとなったが、その8年後に亡くなり、文侯ぶんこうおくりなされた。


子の夷侯いこう夏侯竈かこうそうが後を継いだが7年で亡くなり、その子の共侯きょうこう夏侯賜かこうしが後を継いだが31年で亡くなった。その子のこう夏侯頗かこうは平陽公主へいようこうしゅ(第7代・孝武帝こうぶていの姉)をめとったが、後を継いで19年、元鼎げんてい2年(紀元前115年)に父の御婢ぎょひ側妾そくしょう)と姦通した罪に問われて自殺し、国も除かれた。


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第1世代(夏侯惇・夏侯廉)

夏侯惇かこうとん元譲げんじょう

生年不詳〜延康えんこう元年(220年)没。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。子に夏侯充かこうじゅう夏侯楙かこうぼう夏侯子臧かこうしそう夏侯子江かこうしこう。他に3人(または5人)の子がいる。前漢ぜんかん高祖こうそ劉邦りゅうほう)の将軍しょうぐん夏侯嬰かこうえい後裔こうえい

夏侯惇かこうとんが14歳の時、学問を学んだ先生を侮辱ぶじょくした男がいたので、その男を殺害した。この事件により、夏侯惇かこうとんは激しい気性の持ち主として有名になった。

夏侯惇かこうとんは、曹操そうそうが兵をげた当初から裨将ひしょうとして征伐につき従い、曹操そうそう行奮武将軍こうふんぶしょうぐんになった初平しょへい元年(190年)に司馬しばに任命され、初平しょへい3年(192年)に曹操そうそう兗州牧えんしゅうぼくとなると、折衝校尉せっしょうこういに昇進して兗州えんしゅう東郡とうぐん白馬県はくばけんに駐屯し、東郡太守とうぐんたいしゅの役を受け持った。


曹操そうそう徐州じょしゅう陶謙とうけん征伐を行った時、夏侯惇かこうとん兗州えんしゅうに残って東郡とうぐん濮陽県ぼくようけんを守備した。

張邈ちょうばく謀叛むほんして呂布りょふを迎え入れると、夏侯惇かこうとん曹操そうそうの家族を救うため鄄城県けんじょうけんに急行するが、その途上、呂布りょふの軍勢と遭遇そうぐうし交戦。呂布りょふは撤退して濮陽県ぼくようけんに入城し、夏侯惇かこうとん軍の輜重しちょうを襲撃する。

その後呂布りょふは、降伏すると見せかけて夏侯惇かこうとんを捕らえ、人質にすることに成功するが、夏侯惇かこうとんの将・韓浩かんこうは相手の要求を一切受けれず敵に撃ちかからせたので、敵は恐れて夏侯惇かこうとんを解放した。


曹操そうそう徐州じょしゅうから帰還すると、夏侯惇かこうとん呂布りょふ征伐に従軍し、流れ矢にあたって左眼を負傷した。以降、軍中では夏侯淵かこうえんと区別するために彼を「盲夏侯もうかこう」と呼んだが、夏侯惇かこうとんはこれを嫌がり、鏡を見るたびに腹を立てて鏡を地面に投げつけたという。

その後は再び陳留ちんりゅう済陰せいいん太守たいしゅを受け持ち、建武将軍けんぶしょうぐんの号を付加され、高安郷侯こうあんきょうこうに封ぜられた。当時、大旱魃かんばついなごによる虫害が起こったので、夏侯惇かこうとん太寿たいじゅの河をき止めるためのつつみを築き、みずから土をかついで働き、将校士卒をひきいて稲を植えるように指導した。

その後河南尹かなんいんに転任し、曹操そうそう河北かほくを平定した時には大軍の後詰ごづめとして働いた。冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんが陥落すると、伏波将軍ふくはしょうぐんに昇進し、河南尹かなんいんを領することは元のままとされ、法令に拘束こうそくされず、自己の判断で適宜てきぎ処置することを許された。

建安けんあん12年(207年)、朝廷で夏侯惇かこうとんの前後にわたる功績が取り上げられ、1,800戸を加増し、合計2,500戸とされた。

建安けんあん21年(216年)、孫権そんけん征伐に随従ずいじゅうし、帰還の途上、26軍の総司令官として揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐん居巣国きょそうこくに駐屯した。また曹操そうそうは、布令を発して夏侯惇かこうとん楽人がくじん歌妓かぎ賜与しよした。

建安けんあん24年(219年)、曹操そうそう摩陂まひに陣を張った際、夏侯惇かこうとんし寄せて、常に同じ車に乗って出掛け、特別に親愛と尊重の意を示し、寝室の中まで出入りさせた。諸将のうち、彼に比肩ひけんする者はいなかった。

当時、諸侯はみなからの官号を受けていたが、夏侯惇かこうとんだけは「不臣の礼(臣下として扱わない特別待遇)」としてかん王朝の官であった。夏侯惇かこうとんは、自分は「不臣の礼に該当がいとうする程の人間ではない」と強く要請したので、前将軍ぜんしょうぐんに任命され、諸軍を指揮して揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん寿春県じゅしゅんけんに帰還し、召陵しょうりょうに軍営を移動させた。


文帝ぶんてい曹丕そうひ)が王位につくと、夏侯惇かこうとん大将軍だいしょうぐんに任命されたが、数ヶ月後に亡くなった。

夏侯惇かこうとんは軍中にありながらも、先生を迎えて親しく講義をいていた。性格は清潔でつつましやか、余分な財貨がある場合にはいつも人々に分け与え、不足の場合には役所から支給を受け、財産作りに努めなかった。忠侯ちゅうこうおくりなされ、子の夏侯充かこうじゅうが後を継いだ。

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夏侯廉かこうれん

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。兄は夏侯惇かこうとん

兄・夏侯惇かこうとんの生前に列侯れっこうに封ぜられていた。


第2世代(夏侯充・夏侯楙・夏侯子臧・夏侯子江)

夏侯充かこうじゅう

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。父は夏侯惇かこうとん。子に夏侯廙かこうよく。弟に夏侯楙かこうぼう夏侯子臧かこうしそう夏侯子江かこうしこう

父・夏侯惇かこうとんの死後、その後を継いだ。


夏侯楙かこうぼう子林しりん

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。父は夏侯惇かこうとん。兄に夏侯充かこうじゅう。弟に夏侯子臧かこうしそう夏侯子江かこうしこう

曹操そうそう五官将ごかんしょう曹丕そうひ)の勧めに従って、自分の娘(清河公主せいかこうしゅ)を夏侯楙かこうぼうめあわせた。また、父・夏侯惇かこうとんの生前に列侯れっこうに封ぜられていた。


文帝ぶんてい曹丕そうひ)は若い頃から夏侯楙かこうぼうと親しく、即位するに及んで彼を安西将軍あんせいしょうぐん持節じせつ*1に任命し、戦死した夏侯淵かこうえんの持ち場を引き継がせて関中かんちゅう函谷関かんこくかんの西側の地域)の軍を指揮させたが、夏侯楙かこうぼうは生まれつき武略がない上に、金儲かねもうけが好きだった。

太和たいわ2年(228年)のしょくの北伐の際、夏侯楙かこうぼう長安ちょうあん鎮守ちんじゅに当たっていたが、明帝めいてい曹叡そうえい)が西方征伐におもむいたおり夏侯楙かこうぼうの能力について言上する者がいたため、都へし返して尚書しょうしょに任命した。


夏侯楙かこうぼうは西方(関中かんちゅう)に在任中、多くの家妓かぎ側妾そくしょうかかえており、その事が原因で妻の清河公主せいかこうしゅと不仲になった。

その後、弟たちに「礼」をみ外した振る舞いがあったため、夏侯楙かこうぼうはしばしば厳しく叱責しっせきした。弟たちは処分されることを恐れ、共謀して夏侯楙かこうぼうの罪を捏造ねつぞうして誹謗ひぼうし、清河公主せいかこうしゅに罪状を上奏させたので、夏侯楙かこうぼうは逮捕された。

明帝めいてい曹叡そうえい)は内心、彼を殺してしまおうと思い、長水校尉ちょうすいこうい段黙だんもくに意見を求めた。

すると段黙だんもくは「これは夏侯楙かこうぼうと不仲な清河公主せいかこうしゅ捏造ねつぞうしたものに違いありません。その上、伏波将軍ふくはしょうぐん夏侯惇かこうとん)は、先帝様と共に天下を平定した功績のあるお方でありますゆえ、慎重にご考慮くださいますように」と答えたので、明帝めいてい曹叡そうえい)の気持ちはほぐれ、詔勅しょうちょくを発して「誰が清河公主せいかこうしゅのために上奏文を書いたのか」を調査したところ、案の定、弟の夏侯子臧かこうしそう夏侯子江かこうしこうがでっち上げたものであった。

脚注

*1魏書ぎしょ夏侯惇伝かこうとんでんが注に引く魏略ぎりゃくより。魏書ぎしょ夏侯惇伝かこうとんでんの本文では「夏侯楙かこうぼう侍中じちゅう尚書しょうしょ安西将軍あんせいしょうぐん鎮東将軍ちんとうしょうぐんを歴任し、仮節かせつであった」とある。


夏侯子臧かこうしそう

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。父は夏侯惇かこうとん。兄に夏侯充かこうじゅう夏侯楙かこうぼう。弟に夏侯子江かこうしこう

文帝ぶんてい曹丕そうひ)は夏侯惇かこうとんの功績を思い起こして「子孫のすべてをこうにしてやりたい」と考え、夏侯惇かこうとん領邑りょうゆうのうち千戸を分割して、その7人の息子と2人の孫に分与し、みなに関内侯かんだいこうの爵号をたまわった。


弟・夏侯子江かこうしこうと共に「礼」をみ外した振る舞いがあったため、兄・夏侯楙かこうぼうにしばしば厳しく叱責しっせきされた。

夏侯子臧かこうしそう夏侯子江かこうしこうは処分されることを恐れ、共謀して夏侯楙かこうぼうの罪を捏造ねつぞうして誹謗ひぼうし、当時夏侯楙かこうぼうと仲が悪かった彼の妻・清河公主せいかこうしゅに罪状を上奏させた。

夏侯楙かこうぼうは逮捕されたが、その後の調査により夏侯子臧かこうしそう夏侯子江かこうしこうがでっち上げたことが分かり、許された。

その後、夏侯子臧かこうしそう夏侯子江かこうしこうがどのような処分を受けたのかはしるされていない。


夏侯子江かこうしこう

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。父は夏侯惇かこうとん。兄に夏侯充かこうじゅう夏侯楙かこうぼう夏侯子臧かこうしそう

文帝ぶんてい曹丕そうひ)は夏侯惇かこうとんの功績を思い起こして「子孫のすべてをこうにしてやりたい」と考え、夏侯惇かこうとん領邑りょうゆうのうち千戸を分割して、その7人の息子と2人の孫に分与し、みなに関内侯かんだいこうの爵号をたまわった。


夏侯子臧かこうしそうと共に「礼」をみ外した振る舞いがあったため、夏侯楙かこうぼうにしばしば厳しく叱責しっせきされた。

夏侯子江かこうしこう夏侯子臧かこうしそうは処分されることを恐れ、共謀して夏侯楙かこうぼうの罪を捏造ねつぞうして誹謗ひぼうし、当時夏侯楙かこうぼうと仲が悪かった彼の妻・清河公主せいかこうしゅに罪状を上奏させた。

夏侯楙かこうぼうは逮捕されたが、その後の調査により夏侯子江かこうしこう夏侯子臧かこうしそうがでっち上げたことが分かり、許された。

その後、夏侯子江かこうしこう夏侯子臧かこうしそうがどのような処分を受けたのかはしるされていない。


第3世代(夏侯廙・夏侯佐)

夏侯廙かこうよく

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。父は夏侯充かこうじゅう。子に夏侯劭かこうしょう。祖父に夏侯惇かこうとん

文帝ぶんてい曹丕そうひ)は夏侯惇かこうとんの功績を思い起こして「子孫のすべてをこうにしてやりたい」と考え、夏侯惇かこうとん領邑りょうゆうのうち千戸を分割して、その7人の息子と2人の孫に分与し、みなに関内侯かんだいこうの爵号をたまわった。

父・夏侯充かこうじゅうの死後、その後を継いだ。


夏侯佐かこうさ

生年不詳〜しん泰始たいし2年(266年)没。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。父は不明。祖父に夏侯惇かこうとん

文帝ぶんてい曹丕そうひ)は夏侯惇かこうとんの功績を思い起こして「子孫のすべてをこうにしてやりたい」と考え、夏侯惇かこうとん領邑りょうゆうのうち千戸を分割して、その7人の息子と2人の孫に分与し、みなに関内侯かんだいこうの爵号をたまわった。

『晋陽秋』

しん泰始たいし2年(266年)、夏侯惇かこうとんの孫の高安郷侯こうあんきょうこう夏侯佐かこうさが亡くなると、夏侯惇かこうとんの後継ぎは絶えた。詔勅しょうちょくが出され、

夏侯惇かこうとん元勲げんくん(大きな功績があった者)であり、その勲功くんこう竹帛ちくはくしるされている。昔(古代)、庭堅ていけんしゅんの臣・皋陶こうようあざな)が子孫の祭祀さいしを受けなかっただけでも、哀しみいたむ人物がいたのだ。まして、ちん王朝から禅譲ぜんじょうを受けたのであるから、どうしてその功臣を粗略にすることができようか。夏侯惇かこうとんの近親である夏侯劭かこうしょうを選んで爵位を与えよ」

べられた。


高安郷侯こうあんきょうこう夏侯惇かこうとんの爵位。魏書ぎしょ夏侯惇伝かこうとんでんの本文には「(夏侯惇かこうとんの)子の夏侯充かこうじゅうが後を継いだ。夏侯充かこうじゅう逝去せいきょすると、その子の夏侯廙かこうよくが後を継ぎ、夏侯廙かこうよく逝去せいきょすると、その子の夏侯劭かこうしょうが後を継いだ」とあり、夏侯佐かこうさの名は見えない。


第4世代(夏侯劭)

夏侯劭かこうしょう

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。父は夏侯廙かこうよく

父・夏侯廙かこうよくの死後、その後を継いだ。


魏書ぎしょ夏侯惇伝かこうとんでんが注に引く晋陽秋しんようしゅうには「しん泰始たいし2年(266年)、夏侯惇かこうとんの孫の高安郷侯こうあんきょうこう夏侯佐かこうさ逝去せいきょすると後継ぎが絶えたので、『夏侯惇かこうとんの近親である夏侯劭かこうしょうを選んで爵位を与えよ』という詔勅しょうちょくが出された」とある。



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【三国志人物伝】総索引