正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧⑧(何武かぶ何平かへい何茂かぼう何曼かまん何雄かゆう)です。

スポンサーリンク

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


スポンサーリンク


 か⑧

何(か)

何武かぶ君公くんこう

生年不詳〜元始げんし3年(3年)没。益州えきしゅう蜀郡しょくぐん郫県ひけんの人。

前漢ぜんかん宣帝せんていの時代、天下は平和で四夷しい*1は服従し、神爵しんしゃく五鳳ごほう年間(紀元前61年〜紀元前54年)にしばしば瑞祥ずいしょうがあらわれた。そこで益州刺史えきしゅうしし王襄おうじょうは、聡慧そうけい能弁の士・王襃おうほうに命じ、かん朝の徳をたたえて中和ちゅうわ』『楽職がくしょく』『宣布せんぷという頌詩ほめうた3篇を作らせた。

何武かぶは14、5歳の頃、成都せいと楊覆衆ようふくしゅうらと共にこの詩を習い歌った。当時、宣帝せんてい武帝ぶていの前例にならって「学問に通達し、才能の優れた士」を集め、何武かぶらを宣室せんしつ未央宮びおうきゅう前殿の正室)に召見しょうけんした。

主上しゅじょうは「こうしたことは盛徳の王者のすることで、どうしてわしがこれに当たる資格があろうか」と言い、王襃おうほう待詔たいしょうに任じ、何武かぶらにきぬ下賜かしして帰らせた。


何武かぶ博士官はくしかんに行って学業を受け、えきを治めた。射策せきさく甲科こうかでの成績優秀をもってろうとなり、翟方進てきほうしんと志を同じくし、お互いを友とした。何武かぶは、光禄勲こうろくくん質樸しつぼく敦厚とんこう遜譲そんじょう行義こうぎ四行しこうをもって推挙され、鄠県令こけんれいとなったが、法にして罷免ひめんされ郷里に帰った。

その後、太僕たいぼく王音おうおん賢良けんりょう方正ほうせいの推挙を受け、諌大夫かんたいふに任命され揚州刺史ようしゅうししうつった。

九江太守きゅうこうたいしゅ戴聖たいせいは、礼経らいきょうでは「小戴しょうたい」と号称される儒者じゅしゃであり、その品行治政には不法が多かったが、前の刺史しし戴聖たいせい大儒たいじゅであることから彼に手厚く寛容だった。

何武かぶ刺史ししとなると、(管轄区域)を巡行して囚徒しゅうとを記録し、検挙してただすべき者があれば、これを郡に委属いしょくした。戴聖たいせいは「後進の書生に何が分かろう。そのくせ人の治法を乱そうとする」と言ってことごとく決済しなかった。

何武かぶ従事じゅうじに命じて戴聖たいせいの罪を察挙させたので、戴聖たいせいは恐れてみずから職をした。後に博士はくしとなると、何武かぶのことを朝廷にそしったが、何武かぶはそのことを知っても、ついにその悪事をあばかなかった。

その後、戴聖たいせいの子とその食客が群盗となり、捕らえられて揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐんの獄につながれた時、戴聖たいせいは「我が子は必ず殺されるだろう」と覚悟をしていた。ところが何武かぶは公平にこれをさばいたので、戴聖たいせいの子は死なずに済んだ。それ以降、戴聖たいせいは心にじて何武かぶに心服し、何武かぶが事を奏するため京師けいしに至るたびにその門をおとずれ、恩を感謝しないことがなかった。

何武かぶがまだ郡の役人であった時、太守たいしゅ何寿かじゅに仕え厚遇されたが、「私情で人事を行うことがあってはならない」と言って、廬江郡ろこうぐん長吏ちょうりであった何寿かじゅの兄の子を引き立てることはなかった。


揚州刺史ようしゅうししとなって5年、朝廷に入って丞相じょうしょう司直しちょくとなり、丞相じょうしょう薛宣せつせんに敬重された。その後また地方に出て清河太守せいがたいしゅとなったが、郡中に災害が多発したことから、数年で罪にして罷免ひめんされた。

しばらくして、大司馬だいしば曲陽侯きょくようこう王根おうこんに推薦されて再び諌大夫かんたいふとなり、兗州刺史えんしゅうしし司隷校尉しれいこうい京兆尹けいちょういんに移った。2年して、推挙した人物の罪にして内史ないし左遷させんされ、沛郡太守はいぐんたいしゅうつり、また朝廷に入って廷尉ていいとなった。

綏和すいわ元年(紀元前8年)、御史大夫ぎょしたいふ孔光こうこう廷尉ていい左遷させんされると、何武かぶ御史大夫ぎょしたいふとなった。成帝せいてい辟雍へきようを修復して三公さんこうの官を開置しようとしていたので、ただちに御史大夫ぎょしたいふを改めて大司空だいしくうとした。何武かぶは改めて大司空だいしくうとなり、氾郷侯はんきょうこうに封ぜられ、封邑ほうゆう千戸を与えられた。

何武かぶ公卿こうけいとなると、両龔りょうきょう龔勝きょうしょう龔舎きょうしゃ)、両唐りょうとう唐林とうりん唐尊とうそん)を朝廷に推薦した。

御史大夫ぎょしたいふ司空しくうとなるに及び、丞相じょうしょう翟方進てきほうしんと共に奏上して内史ないし中尉ちゅういに改め、刺史ししを廃止して州牧しゅうぼくを置いたが、後にまたすべて元に戻された。

何武かぶ弾劾だんがい奏上することが多く人々にけむたがられ、また継母ままははに対して孝行が足りないとそしる者がおり、哀帝あいていが即位すると大司空だいしくう罷免ひめんされたが、5年後、諌大夫かんたいふ鮑宣ほうせん丞相じょうしょう王嘉おうか高安侯こうあんこう董賢とうけんらの推薦によって再び御史大夫ぎょしたいふとなり、1ヶ月余りで前将軍ぜんしょうぐん遷任せんにんされた。


哀帝あいていみことのりをもって太常たいじょうになるべき人物を推挙させると、新都侯しんとこう王莽おうもうは、秘かに何武かぶに自分を推挙するように求めたが、何武かぶは推挙しようとしなかった。

数ヶ月後、哀帝あいていが崩御。太后たいこう王莽おうもう伯母おば)が即日王莽おうもうを引き入れ、大司馬だいしば董賢とうけん印綬いんじゅを取り上げて大司馬だいしばになるべき人物を推挙させると、人々は王莽おうもうめて賢人とし、大司徒だいしと孔光こうこう以下、朝廷をげてみなが王莽おうもうを推薦した。

この時、何武かぶ左将軍さしょうぐん公孫禄こうそんろくは、古来、外戚がいせき社稷しゃしょくあやうくしたことから、相談してお互いを推薦したが、結局王莽おうもう大司馬だいしばとなり、何武かぶ公孫禄こうそんろく弾劾だんがいされて罷免ひめんされた。


元始げんし3年(3年)、呂寛りょかんらの事件が起こると、王莽おうもうの意をんだ大司空だいしくう甄豊けんぽうは、鮑宣ほうせん彭偉ほうい杜公子とこうしに連座させ郡国の豪傑・数百人を処刑。何武かぶにも大理正だいりせいの監車を差し向けたので、何武かぶは自殺した。

しかし、「何武かぶ冤罪えんざいだ」と言う者が多かったので、王莽おうもうは批判を避けるため何武かぶの子・何況かきょうに後を継がせて列侯れっこうとし、何武かぶには「剌侯らつこう」とおくりなした。王莽おうもうは帝位を簒奪さんだつすると何況かきょう罷免ひめんして庶民とした。


魏書ぎしょ武宣卞皇后伝ぶせんべんこうごうでんが注に引く魏書ぎしょでは「賛歌さんか頌詩ほめうた)を歌って下賜かしの品をさずけられた」ことで、蜀書しょくしょ秦宓伝しんみつでんでは「龔勝きょうしょう龔舎きょうしゃを推挙したこと」で名前が登場する。

脚注

*1四方の異民族。東夷とうい南蛮なんばん西戎せいじゅう北狄ほくてきの総称。


何平かへい

王平おうへい子均しきんの別名。もとは母方の何氏かしに養われて何平かへいと名乗ったが、後におう姓に戻った。

 → 王平おうへい子均しきん


何茂かぼう

生没年不詳。袁紹えんしょう将軍しょうぐん

建安けんあん5年(200年)、曹操そうそう官渡かんと袁紹えんしょうと対峙していた時、曹操そうそう于禁うきん楽進がくしんに歩兵・騎兵合わせて5千を指揮させて、袁紹えんしょうの別の陣営を攻撃させた。

于禁うきん楽進がくしん延津えんしんから西南に向かい、黄河こうが沿って司隷しれい河内郡かだいぐん汲県きゅうけん獲嘉国かくかこくの2県まで行き、30余ヶ所の守備地を焼き払った。

斬った首の数と捕虜の数はそれぞれ数千、袁紹えんしょう将軍しょうぐん何茂かぼう王摩おうまら20余人を降伏させた。


何茂かぼう」の関連記事

何曼かまん

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん潁川郡えいせんぐん黄巾こうきん

建安けんあん元年(196年)春正月、汝南郡じょなんぐん潁川郡えいせんぐん黄巾こうきん

  • 何儀かぎ
  • 劉辟りゅうへき
  • 黄邵こうしょう
  • 何曼かまん

らがそれぞれ数万の軍勢をようし、最初は袁術えんじゅつに味方していたが、今度は孫堅そんけんに近づいていた。

2月、曹操そうそうは軍を進めて彼らを撃破。劉辟りゅうへき黄邵こうしょうらを斬り、何儀かぎとその軍兵はすべて降伏した。何曼かまんが斬られたのか、降伏したのかは不明。


何曼かまん」の関連記事

何雄かゆう

生没年不詳。張雅ちょうが女婿むすめむこ

建安けんあん元年(196年)、孫策そんさく太守たいしゅとして揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐんを治めることになると、侯官県長こうかんけんちょう商升しょうしょう東冶県とうやけんに逃げ込んだ王朗おうろうのために孫策そんさく討伐の兵を起こした。

商升しょうしょう孫策そんさくが派遣した南部都尉なんぶとい韓晏かんあんを撃ち破ったものの、代わりに南部都尉なんぶといの職務に当たった賀斉がせいの威声におそれをなし、印綬いんじゅを差し出して降伏を願い出た。

すると商升しょうしょうがたの頭目・張雅ちょうが詹彊せんきょうらは、商升しょうしょうが降伏することに不満をいだき、共謀して商升しょうしょうを殺害し、張雅ちょうが無上将軍ぶじょうしょうぐんを、詹彊せんきょう会稽太守かいけいたいしゅを名乗って徹底抗戦の構えを示した。


賀斉がせいは「敵方の勢いが盛んなのに対して、味方の兵は少なく討伐を行うには十分でない」ことから、軍をとどめたまま兵士たちを休養させた。

そうするうちに、張雅ちょうが女婿むすめむこ何雄かゆうと勢力を争い2人の仲が悪くなると、賀斉がせい山越さんえつの者たちをたきつけて、両者の反目はんもくに乗じて内部抗争を起こさせたので、1度の戦いで散々に敵を撃ち破った。張雅ちょうが詹彊せんきょうの一味はふるえ上がり、部下たちを引き連れて軍門にくだった。


何雄かゆう」の関連記事


スポンサーリンク


【三国志人物伝】総索引