正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧⑮(夏侯勝(かこうしょう)・夏侯存(かこうそん)・夏侯陟(かこうちょく)・夏侯徳(かこうとく)・夏侯博(かこうはく)・夏侯蘭(かこうらん))です。

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凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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か⑮

夏侯(かこう)

夏侯勝(かこうしょう)・長公(ちょうこう)

生没年不詳。兗州(えんしゅう)・東平国(とうへいこく)の人。前漢(ぜんかん)の宣帝(せんてい)期の長信少傅(ちょうしんしょうふ)。子に夏侯兼(かこうけん)。孫に夏侯堯(かこうぎょう)。

出自

初め魯(ろ)の恭王(きょうおう)の時、魯国(ろこく)西部の寧郷(ねいきょう)を分けて、そこに子の節侯(せつこう)を封じ、また別れて大河郡(たいがぐん)に属し、大河郡(たいがぐん)は後に東平国(とうへいこく)と改称された。故(ゆえ)に夏侯勝(かこうしょう)は東平国(とうへいこく)の人である。

夏侯勝(かこうしょう)は若くして孤児となったが、学問を好み、夏侯始昌(かこうししょう)に師事して『尚書(しょうしょ)』と『洪範(こうはん)五行伝(ごぎょうでん)』を伝授され、天災地異を説(と)いた。後に蕑卿(かんけい)に仕えて学び、また欧陽氏(おうようし)について学を問(と)うなど学び問(と)うことに熱心で、1人の師につくだけに留(とど)まらず、善(よ)く『礼(らい)』の服喪(ふくも)を説(と)いた。徵(め)されて博士(はくし)・光禄大夫(こうろくたいふ)となった。

廃立の謀議への参与

たまたま昭帝(しょうてい)が崩御(ほうぎょ)すると、昌邑王(しょうゆうおう)が後を嗣(つ)いで即位して、しばしば外出して遊んだ。すると夏侯勝(かこうしょう)は、乗輿(じょうよ)(天子(てんし))の車前に出て「久しく天(そら)が陰(くも)って雨が降(ふ)らないのは、臣下の中に上に対して陰謀を図(はか)る者がいるからです。陛下には外出してどこに行こうとなされますか」と諫(いさ)めたが、怒った昌邑王(しょうゆうおう)は夏侯勝(かこうしょう)を「妖言(ようげん)を言いふらす者」だとし、縛って役人に引き渡した。役人がこれを大将軍(だいしょうぐん)・霍光(かくこう)に告げたが、霍光(かくこう)は夏侯勝(かこうしょう)を罪に問(と)わなかった。

当時霍光(かくこう)は、車騎将軍(しゃきしょうぐん)・張安世(ちょうあんせい)と謀(はか)って昌邑王(しょうゆうおう)を廃しようとしていたが、霍光(かくこう)は「張安世(ちょうあんせい)が秘密を漏(も)らした」と彼を責(せ)めたが、張安世(ちょうあんせい)は漏(も)らしていなかった。そこで霍光(かくこう)は夏侯勝(かこうしょう)を召(め)して問(と)うと、夏侯勝(かこうしょう)は「『洪範伝(こうはんでん)』に『皇(みかど)の不極(ふきょく)(中正の道に外れること)なるはその罰常に陰(くも)る。時に則(すなわ)ち下人の上に代わる者あり』とあります。察々(あからさま)に言うことを忌(い)み、それ故(ゆえ)臣下に陰謀を図(はか)る者がいると申したのです」と言った。霍光(かくこう)と張安世(ちょうあんせい)は大いに驚き、このことで益々(ますます)「経術(けいじゅつ)(儒教による統治法)の士」を重んじた。

それから十余日の後、霍光(かくこう)はついに張安世(ちょうあんせい)と共に太后(たいこう)に申し上げて昌邑王(しょうゆうおう)を廃し、宣帝(せんてい)を尊立した。霍光(かくこう)は群臣が事を東宮(とうきゅう)*1に奏上し、太后(たいこう)が政(まつりごと)を省(み)るのだから、経術(けいじゅつ)に通じていなければならないと考えて、その由(よし)を申し上げて夏侯勝(かこうしょう)に命じ、太后(たいこう)に『尚書(しょうしょ)』を伝授させた。

その後夏侯勝(かこうしょう)は、長信少府(ちょうしんしょうふ)に遷(うつ)って関内侯(かんだいこう)の爵位を賜(たまわ)り、「廃立の謀議(ぼうぎ)に参与し、国策を定(さだ)め宗廟(そうびょう)を安(やす)んじた功績」によって、食邑(しょくゆう)千戸を加えられた。

脚注

*1漢(かん)代に皇太后(こうたいごう)がいた所。長信宮(ちょうしんきゅう)をいう。未央宮(びおうきゅう)の東にあるため東宮(とうきゅう)と言う。

獄に繋がれる

宣帝(せんてい)は即位した当初、先帝(せんてい)を褒(ほ)めたいと思い、丞相(じょうしょう)と御史大夫(ぎょしたいふ)に詔(みことのり)して「武帝(ぶてい)の業績を称(たた)えた上で、廟楽(びょうがく)が立てられていないことに心を痛め、列侯(れっこう)・二千石(にせんせき)(太守(たいしゅ))・博士(はくし)らに議論せよ」と命じた。

宣帝の詔書・全文
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朕(ちん)(私)は眇身(びょうしん)*2ながら、先帝(せんてい)のご遺徳(いとく)を被(こうむ)って聖業を承(う)け継ぎ、宗廟(そうびょう)を奉戴(ほうたい)して、朝夕(あさゆう)思念(しねん)している。
孝武皇帝(こうぶこうてい)は自(みずか)ら仁義を実践され、威武を励まし、北に匈奴(きょうど)を征伐して単于(ぜんう)を遠ざけ、南に氐(てい)・羌(きょう)・昆明(こんめい)・甌駱(おうらく)・両越(りょうえつ)(東越(とうえつ)と南越(なつえつ))を平らげ、東に薉(わい)・貉(はく)・朝鮮(ちょうせん)を定め、地を廓(ひろ)め境を斥(とおざ)けて郡県を立て、百蛮は服従し、辺境の塞(とりで)の門を款(たた)いて自(みずか)ら投降して珍奇の貢物を宗廟(そうびょう)に陳(つら)ね、また音律を協和し楽歌をつくって上帝(じょうてい)に供(そな)え薦(すす)め、太山(たいざん)を封じて明堂(めいどう)*3を立て、正朔(こよみ)を改め服色を易(か)え、また聖業を開明し、賢を尊(とうと)び功を顕(あら)わし、滅族を興(おこ)し絶家を継がせ、周(しゅう)の後裔(こうえい)を褒(ほ)め、また天地の礼を備え、道術(道徳・学問)の路(みち)を広められた。上天(じょうてん)はこれに報賜(ほうし)し、瑞祥(ずいしょう)の符(しるし)が並んでこれに応(こた)え、宝鼎(ほうてい)が出現し、白麟(はくりん)が獲(と)られ、海は大魚を致(おく)り、神人が並んで現れ、山は万歳を称(とな)えた。功徳の盛大なこと、これらを宣(の)べ尽くすことはできない。しかし、宗廟(そうびょう)の音楽がまだこれに称(かな)っていないことを、朕(ちん)(私)は甚(はなは)だ心痛している。これを列侯(れっこう)・二千石(にせんせき)(太守(たいしゅ))・博士(はくし)らと共に議せよ。

脚注

*2小さい体。また、天子(てんし)が自分を謙(へりくだ)っていう時に用(もち)いる語。 眇躯(びょうく)。

*3天子(てんし)が政教を行う御殿。


そこで群臣は廷中(ていちゅう)で大議論をし、その結果、みなが「詔書(しょうしょ)に仰(おお)せられた通りにすべきであります」と答えた。

ところがこの時、ひとり長信少府(ちょうしんしょうふ)の夏侯勝(かこうしょう)だけは「武帝(ぶてい)の功労を認めた上で、その弊害(へいがい)から回復していないことを指摘して、廟楽(びょうがく)を立てるべきではない」と主張した。

夏侯勝の返答・全文
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武帝(ぶてい)は四方の夷狄(いてき)を攘(はら)い、領土を広げ国境を遠ざけた功労はありますものの、一方で士衆を多く殺し、民の財力を枯渇(こかつ)させ、奢侈(しゃし)に法度がありませんでした。そのため、天下は消耗して空虚になり、百姓(たみ)は流浪離散し、過半数の者が死にました。蝗虫(いなご)が大発生して五穀(ごこく)の苗(なえ)のない土地が数千里にわたり、あるいは民衆が共食いし、今に至るまで穀物の蓄積は回復しておりません。民への徳沢を失っていますので、武帝(ぶてい)のために廟楽(びょうがく)を立てるべきではありません。


すると公卿(こうけい)たちは「これは詔書(しょうしょ)の趣(おもむ)き(宣帝(せんてい)の意思)でありますぞっ!」と夏侯勝(かこうしょう)を非難したが、夏侯勝(かこうしょう)は「詔書(しょうしょ)を言い訳にしてはなりません。人臣たる者の義として直言正論すべきであり、軽々しく上意におもねり聖旨(せいし)に順(したが)うなど、あってはならないこと。これを口にしたからには、たとえ殺されようと後悔いたしません」と答えた。

そこで丞相(じょうしょう)の蔡義(さいぎ)と御史大夫(ぎょしたいふ)の田広明(でんこうめい)は「夏侯勝(かこうしょう)は詔書(しょうしょ)を非難し、先帝(せんてい)を謗(そし)った不道である」と弾劾(だんがい)の上奏をしたが、丞相(じょうしょう)の長史(ちょうし)・黄覇(こうは)は夏侯勝(かこうしょう)におもねって弾劾(だんがい)しなかったので、共に獄に下(くだ)った。

結局役人たちは、宣帝(せんてい)に請(こ)うて孝武帝(こうぶてい)の廟(びょう)を「世宗廟(せいそうびょう)」と尊称し、『盛徳(せいとく)』『文始(ぶんし)』『五行(ごぎょう)』の舞楽(ぶがく)を奏して、天下は世々これを献納して武帝(ぶてい)の盛徳を明らかにした。また、武帝(ぶてい)が巡狩(じゅんしゅ)・行幸(ぎょうこう)した49の郡国すべてに廟(びょう)を立て、高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう))・太宗(たいそう)(文帝(ぶんてい))と同様にした。


夏侯勝(かこうしょう)と黄覇(こうは)は獄に繋(つな)がれることすでに久しく、黄覇(こうは)は夏侯勝(かこうしょう)に経書(けいしょ)(儒教(じゅきょう)の経典)を伝授して欲しいと望んだが、夏侯勝(かこうしょう)は「罪死する身だから」と辞退した。それでも黄覇(こうは)は「朝に道を聞いて夕(ゆう)べに死んでも構わない」と言うので、夏侯勝(かこうしょう)はその言葉を「賢」としてついに伝授し、獄に繋(つな)がれて二冬(ふたふゆ)を経(へ)たが、その間、2人は議論を怠(おこた)らなかった。


4年目の夏、関東(かんとう)の49郡にわたる地震があり、所によっては山が崩れて城郭・家屋を壊し、6千余人が死んだ。そこで宣帝(せんてい)は喪服(もふく)をつけて正殿を避け、使者を遣(つか)わして吏民を弔問(ちょうもん)させ、死者に棺(かんおけ)料として銭を下賜(かし)した。また詔(みことのり)を下して、

「思うに災異というものは、天地の戒(いまし)めである。朕(ちん)(私)は大業を承(う)け継ぎ、士民の上に託(たく)されているが、まだ民草を安んずることができていない。今回の地震によって北海郡(ほっかいぐん)・琅邪郡(ろうやぐん)の祖宗廟(そそうびょう)が壊れ、朕(ちん)(私)は甚(はなは)だ恐懼(きょうく)している。
列侯(れっこう)・中二千石(ちゅうにせんせき)と共に広く術士に問(と)う。この変に応じる方法があるのならば、朕(ちん)(私)の欠けている所を補ってほしい。忌(い)み憚(はばか)ることのないように」と言った。

これにより大赦(たいしゃ)が下り、夏侯勝(かこうしょう)は赦(ゆる)されて諫大夫(かんたいふ)となって宮中で給事し、黄覇(こうは)は揚州刺史(ようしゅうしし)となった。

宣帝の信頼を得る

夏侯勝(かこうしょう)は人柄が質樸で正義を守り、万事に簡易で威儀がなかった。謁見(えっけん)する時、宣帝(せんてい)を君と呼び、宣帝(せんてい)もふざけて「字(あざな)を誤(あやま)って呼び合う」など、夏侯勝(かこうしょう)を信愛して信用した。

かつて夏侯勝(かこうしょう)は、宣帝(せんてい)の言葉を外部の者に漏(も)らしたことがあった。宣帝(せんてい)がこれを責めたところ、夏侯勝(かこうしょう)は、

「陛下のおっしゃることが素晴らしいので、臣(わたくし)は殊更(ことさら)にその御言葉を褒(ほ)め称(たた)えたのです。堯(ぎょう)の言葉は天下にあまねく広がり、今に至るまで口ずさまれております。臣(わたくし)は伝えるべきであると思いましたので、それを伝えただけであります」

と答えた。

朝廷で大評議がある度(たび)に、宣帝(せんてい)は夏侯勝(かこうしょう)が率直であることを知り、「先生(夏侯勝(かこうしょう))は正論を述(の)べ、前(さき)の事件に懲(こ)りることがない」と言った。


夏侯勝(かこうしょう)は再び長信少府(ちょうしんしょうふ)となり、太子太傅(たいしたいふ)に遷(うつ)った。詔(みことのり)を受けて『尚書(しょうしょ)』『論語説(ろんごせつ)』を選述し、黄金百斤(きん)を賜(たまわ)った。

90歳で在官のまま亡くなると、夏侯勝(かこうしょう)は冢塋(ちょうえい)(墳墓(ふんぼ)の地)を賜(たまわ)り、平陵(へいりょう)に葬(ほうむ)られた。太后(たいこう)は2百万銭を下賜(かし)し、夏侯勝(かこうしょう)のために喪服(もふく)をつけて師傅(しふ)の恩に報(むく)いたため、儒者(じゅしゃ)はそれを誉(ほま)れとした。

夏侯氏と『尚書』

夏侯勝(かこうしょう)はその祖先が夏侯(かこう)都尉(とい)で、かつて済南郡(せいなんぐん)の張生(ちょうせい)から『尚書(しょうしょ)』を受け、それを同族の子・夏侯始昌(かこうししょう)に伝授し、夏侯始昌(かこうししょう)は夏侯勝(かこうしょう)に伝授した。

夏侯勝(かこうしょう)はまた、同郡出身の蕑卿(かんけい)に師事した。蕑卿(かんけい)は倪寛(げいかん)の門人である。夏侯勝(かこうしょう)は従兄の子・夏侯健(かこうけん)に伝授し、夏侯健(かこうけん)はまた欧陽高(おうようこう)に師事した。夏侯勝(かこうしょう)は長信少傅(ちょうしんしょうふ)に至り、夏侯健(かこうけん)は太子太傅(たいしたいふ)に至った。

それ以来、『尚書(しょうしょ)』には大小夏侯(かこう)(夏侯勝(かこうしょう)・夏侯健(かこうけん))の学があった。


『魏書(ぎしょ)』高堂隆伝(こうどうりゅうでん)では、蘇林(そりん)・秦静(しんせい)らの学問を伝える者がいなくなることを心配した明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))がその詔書(しょうしょ)の中で、

「士は経術(けいじゅつ)(儒教による統治法)に明るくないことを欠点とする。仮に経術(けいじゅつ)にさえ明るければ、青紫(せいし)(卿大夫(けいたいふ)の服色)の服を取って卿大夫(けいたいふ)となるのは、俯(うつむ)いて地上の芥(ごみ)を拾うように容易(たやす)いことだ。経書(けいしょ)(儒教(じゅきょう)の経典)を学んでこれに精通することができないくらいなら、郷里に帰って田を耕す方がマシである」

という夏侯勝(かこうしょう)の言葉を引用している他、『魏書(ぎしょ)』王朗伝(おうろうでん)では、毌丘倹(かんきゅうけん)と文欽(ぶんきん)が反乱を起こした際、司馬師(しばし)は「霍光(かくこう)は夏侯勝(かこうしょう)の言葉に心を動かされ、初めて儒学(じゅがく)の士を重んじたそうだが、真(まこと)にもっともなことだ。国家を安定させ 君主を安寧(あんねい)に導くその方法は、どこにあるのか」と言っている。


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夏侯存(かこうそん)

『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物。第73回に登場する。曹仁(そうじん)の部将。

建安(けんあん)24年(219年)秋7月、劉備(りゅうび)が漢中王(かんちゅうおう)に即位すると、曹操(そうそう)は「孫権(そんけん)に荊州(けいしゅう)を攻めさせて、劉備(りゅうび)が援軍を差し向けた隙(すき)を突いて漢中(かんちゅう)を攻める」という司馬懿(しばい)の献策を実行に移した。するとこの曹操(そうそう)の思惑に気づいた孫権(そんけん)は「まず樊城(はんじょう)に駐屯する曹仁(そうじん)に、陸路から荊州(けいしゅう)を攻める」ように要請する。

この報告を受けた劉備(りゅうび)が慌(あわ)てて孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))に相談すると、この動きを予測していた孔明(こうめい)は「機先を制して関羽(かんう)に樊城(はんじょう)を攻めさせれば、敵は肝(きも)を冷やし、彼らの企(たくら)みも自(おの)ずと崩(くず)れるでしょう」と言った。


こうして関羽(かんう)が出陣すると、曹仁(そうじん)の軍中では翟元(てきげん)が迎撃を主張し、満寵(まんちょう)は城の守りを固めるべきと主張した。すると旗本の夏侯存(かこうそん)が進み出て、

「それはいかにも書生の引っ込み思案。『水が来れば土で覆(おお)い、敵将至(いた)らば兵をもって迎え撃つ』と言うではござらぬか。我が軍は『逸(いつ)をもって労を待つ(待ち受けて、行軍で疲労した敵を討つ)』もの。勝利は我らのものです」

と言った。その言葉に同意した曹仁(そうじん)は満寵(まんちょう)に樊城(はんじょう)を守らせると、自(みずか)らは襄陽(じょうよう)を離れて関羽(かんう)を迎え撃つべく出陣する。

翟元(てきげん)は廖化(りょうか)と、夏侯存(かこうそん)は関平(かんぺい)と戦って敵を20里(8.6km)退(しりぞ)かせ、翌日また敵が挑(いど)んで来ると、2人は一斉に撃って出てまたもや荊州(けいしゅう)軍を撃ち破り、勝ちに乗じて20里余り追撃した。

その時、にわかに鬨(とき)の声が上がったかと思うと、背後で笛(ふえ)と太鼓の音が一斉に鳴り響いた。これまでの敗走は関羽(かんう)の計略だったのである。曹仁(そうじん)は慌(あわ)てて先鋒(せんぽう)に退却を命じたが、関平(かんぺい)・廖化(りょうか)の手勢が押し寄せて大混乱となり、曹仁(そうじん)は一手の軍勢を率(ひき)いて襄陽(じょうよう)へと急いだ。

そして、襄陽(じょうよう)まであと数里という時、関羽(かんう)がその行く手を阻(はば)んだ。曹仁(そうじん)には戦う気力もなく横道を逃げ出したが、関羽(かんう)はその後を追おうともしなかった。

間もなくしてやって来た夏侯存(かこうそん)は、行く手を遮(さえぎ)る関羽(かんう)を見ると大いに怒って打ちかかったが、たった1合(ごう)で斬り落とされてしまった。


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夏侯陟(かこうちょく)

生没年不詳。西晋(せいしん)の荊州刺史(けいしゅうしし)・劉弘(りゅうこう)の女婿(むすめむこ)。

かつて曹操(そうそう)が揚州刺史(ようしゅうしし)に任命した、劉馥(りゅうふく)の孫の劉弘(りゅうこう)は、西晋(せいしん)の武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))と同い年で、同じ里(まち)[洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))の永安里(えいあんり)]に住んだことがあることから、昔の誼(よしみ)で度々(たびたび)高い位に昇った。

西晋(せいしん)の末期、劉弘(りゅうこう)は車騎大将軍(しゃきだいしょうぐん)開府(かいふ)・荊州刺史(けいしゅうしし)・仮節(かせつ)都督(ととく)荊交広州(けいこうこうしゅう)諸軍事(しょぐんじ)となり、新城郡公(しんじょうぐんこう)に封ぜられたが、彼が長江(ちょうこう)・漢水(かんすい)地帯に在任している時、王室は大変な困難に直面していた。

当時、帝は長安(ちょうあん)にいたが、劉弘(りゅうこう)に配下の首長を選び起用することを認める命令を下した。

そこで劉弘(りゅうこう)は、

  • 高尚な生き方をしている武陵(ぶりょう)出身の徴士(ちょうし)・伍朝(ごちょう)を零陵太守(れいようたいしゅ)
  • 長江(ちょうこう)・漢水(かんすい)地域で勲功があった牙門将(がもんしょう)・皮初(ひしょ)を襄陽太守(じょうようたいしゅ)

に取り立てるよう上書したが、詔書(しょうしょ)が下り、「襄陽(じょうよう)は重要な郡であるのに対して、皮初(ひしょ)の資質・名声が軽すぎるから、劉弘(りゅうこう)の婿(むこ)の夏侯陟(かこうちょく)に襄陽(じょうよう)を治めさせよ」とあった。

劉弘(りゅうこう)は、

「そもそも天下を統治する者は、天下と心を1つにしなければならず、1国を治める者は1国のために内実ある者を推挙しなければならない。儂(わし)は荊州(けいしゅう)の10郡を統治しているが『10人の女婿(むすめむこ)ができてから初めて治めることができる』などということが、どうしてあるだろうか」

と言い、そこで、

「夏侯陟(かこうちょく)は親戚でありますから、旧来の制度からいって上司として監督することができないはずです。皮初(ひしょ)は勲功からいって当然報(むく)われるべきです」

と上奏した。返答があって、それは聴許(ちょうきょ)された。


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夏侯徳(かこうとく)

『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物。第70回に登場する。夏侯尚(かこうしょう)の兄。

建安(けんあん)23年(218年)、「益州(えきしゅう)の劉備(りゅうび)が、張飛(ちょうひ)・馬超(ばちょう)を遣(つか)わして漢中(かんちゅう)を狙っている」という報告を受けた曹操(そうそう)は、曹洪(そうこう)に5万の兵を与え、漢中(かんちゅう)の夏侯淵(かこうえん)・張郃(ちょうこう)を助けさせた。

漢中(かんちゅう)に着いた曹洪(そうこう)は、夏侯淵(かこうえん)・張郃(ちょうこう)に要害を守らせ、自(みずか)らも敵に当たることとなった。

この時、張飛(ちょうひ)は巴西(はせい)に、馬超(ばちょう)は下辨(かべん)(下弁(かべん))にいたが、曹洪(そうこう)が止めるのも聞かず、張郃(ちょうこう)が張飛(ちょうひ)の陣を攻撃して大敗北を喫(きっ)し、3万の兵を失って10人余りで逃げ帰ってきた。曹洪(そうこう)は張郃(ちょうこう)の首を打つつもりであったが、張郃(ちょうこう)は曹操(そうそう)のお気に入りのため、孟達(もうたつ)と霍峻(かくしゅん)が守る葭萌関(かぼうかん)を攻めさせることにした。

これに孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は、老将・黄忠(こうちゅう)と厳顔(げんがん)を派遣。またも張郃(ちょうこう)は敗れ、曹洪(そうこう)が増援に寄越した夏侯尚(かこうしょう)と韓浩(かんこう)も黄忠(こうちゅう)の計略の前に敗れた。

そこで張郃(ちょうこう)ら3人は、夏侯尚(かこうしょう)の兄・夏侯徳(かこうとく)が守る天蕩山(てんとうざん)に身を寄せたが、そこへも黄忠(こうちゅう)が攻め寄せて来る。張郃(ちょうこう)は固く守ることを主張するも、夏侯徳(かこうとく)は韓浩(かんこう)に3千の兵を与えて迎え撃たせた。

黄忠(こうちゅう)が一刀のもとに韓浩(かんこう)を斬って落とすと、蜀(しょく)兵は鬨(とき)の声を上げて攻め登ってくる。そして、張郃(ちょうこう)と夏侯尚(かこうしょう)が急いで応戦しようとした時、にわかに山の後ろから鬨(とき)の声をが上がり、一面が天を焦(こ)がさんばかりの炎に包まれた。

驚いた夏侯徳(かこうとく)が火を消そうと兵を率(ひき)いて駆け出たところ、老将・厳顔(げんがん)が現れて刀(かたな)を振り上げると、見る間に夏侯徳(かこうとく)は斬り落とされていた。


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夏侯博(かこうはく)

生没年不詳。劉備(りゅうび)配下の将。

建安(けんあん)4年(199年)、曹操(そうそう)が「袁術(えんじゅつ)討伐」に向かわせた劉備(りゅうび)が、徐州刺史(じょしゅうしし)・車冑(しゃちゅう)を殺害して独立する。曹操(そうそう)は司空(しくう)長史(ちょうし)・劉岱(りゅうたい)と中郎将(ちゅうろうしょう)・王忠(おうちゅう)に劉備(りゅうび)を攻撃させるが、徐州(じょしゅう)を奪い返すことはできなかった。

建安(けんあん)5年(200年)春正月、董承(とうしょう)らの「曹操(そうそう)誅殺(ちゅうさつ)」計画が漏洩(ろうえい)。この計画に参画した者たちの中には「劉備(りゅうび)」の名もあった。

曹操(そうそう)は計画に参画した者たち全員を処刑すると、自(みずか)ら劉備(りゅうび)を攻撃してこれを破り、劉備(りゅうび)の将・夏侯博(かこうはく)を生(い)け捕(ど)りにした。

劉備(りゅうび)は袁紹(えんしょう)の下(もと)に逃亡し、曹操(そうそう)は彼の妻子を捕らえた。


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夏侯蘭(かこうらん)

生没年不詳。冀州(きしゅう)・常山郡(じょうざんぐん)(常山国(じょうざんこく))・真定県(しんていけん)の人。

劉備(りゅうび)が博望(はくほう)で夏侯惇(かこうとん)と戦った時、趙雲(ちょううん)は夏侯蘭(かこうらん)を生(い)け捕(ど)りにした。

夏侯蘭(かこうらん)は趙雲(ちょううん)と同郷[冀州(きしゅう)・常山郡(じょうざんぐん)(常山国(じょうざんこく))・真定県(しんていけん)]で、幼少の頃からの知り合いであったので、趙雲(ちょううん)は劉備(りゅうび)に申し上げて夏侯蘭(かこうらん)の命を助けてやった。

また趙雲(ちょううん)は、夏侯蘭(かこうらん)を「法律に詳(くわ)しい者」と推薦して軍正(ぐんせい)にしたが、以後、趙雲(ちょううん)は自分から彼に接近しようとしなかった。趙雲(ちょううん)の慎重な配慮はこのようなものであった。


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