正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧⑮(夏侯勝・夏侯存・夏侯陟・夏侯徳・夏侯博・夏侯蘭)です。
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凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
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か⑮
夏侯(かこう)
夏侯勝・長公
生没年不詳。兗州・東平国の人。前漢の宣帝期の長信少傅。子に夏侯兼。孫に夏侯堯。
出自
初め魯の恭王の時、魯国西部の寧郷を分けて、そこに子の節侯を封じ、また別れて大河郡に属し、大河郡は後に東平国と改称された。故に夏侯勝は東平国の人である。
夏侯勝は若くして孤児となったが、学問を好み、夏侯始昌に師事して『尚書』と『洪範五行伝』を伝授され、天災地異を説いた。後に蕑卿に仕えて学び、また欧陽氏について学を問うなど学び問うことに熱心で、1人の師につくだけに留まらず、善く『礼』の服喪を説いた。徵されて博士・光禄大夫となった。
廃立の謀議への参与
たまたま昭帝が崩御すると、昌邑王が後を嗣いで即位して、しばしば外出して遊んだ。すると夏侯勝は、乗輿(天子)の車前に出て「久しく天が陰って雨が降らないのは、臣下の中に上に対して陰謀を図る者がいるからです。陛下には外出してどこに行こうとなされますか」と諫めたが、怒った昌邑王は夏侯勝を「妖言を言いふらす者」だとし、縛って役人に引き渡した。役人がこれを大将軍・霍光に告げたが、霍光は夏侯勝を罪に問わなかった。
当時霍光は、車騎将軍・張安世と謀って昌邑王を廃しようとしていたが、霍光は「張安世が秘密を漏らした」と彼を責めたが、張安世は漏らしていなかった。そこで霍光は夏侯勝を召して問うと、夏侯勝は「『洪範伝』に『皇の不極(中正の道に外れること)なるはその罰常に陰る。時に則ち下人の上に代わる者あり』とあります。察々に言うことを忌み、それ故臣下に陰謀を図る者がいると申したのです」と言った。霍光と張安世は大いに驚き、このことで益々「経術(儒教による統治法)の士」を重んじた。
それから十余日の後、霍光はついに張安世と共に太后に申し上げて昌邑王を廃し、宣帝を尊立した。霍光は群臣が事を東宮*1に奏上し、太后が政を省るのだから、経術に通じていなければならないと考えて、その由を申し上げて夏侯勝に命じ、太后に『尚書』を伝授させた。
その後夏侯勝は、長信少府に遷って関内侯の爵位を賜り、「廃立の謀議に参与し、国策を定め宗廟を安んじた功績」によって、食邑千戸を加えられた。
脚注
*1漢代に皇太后がいた所。長信宮をいう。未央宮の東にあるため東宮と言う。
獄に繋がれる
宣帝は即位した当初、先帝を褒めたいと思い、丞相と御史大夫に詔して「武帝の業績を称えた上で、廟楽が立てられていないことに心を痛め、列侯・二千石(太守)・博士らに議論せよ」と命じた。
宣帝の詔書・全文
そこで群臣は廷中で大議論をし、その結果、みなが「詔書に仰せられた通りにすべきであります」と答えた。
ところがこの時、ひとり長信少府の夏侯勝だけは「武帝の功労を認めた上で、その弊害から回復していないことを指摘して、廟楽を立てるべきではない」と主張した。
夏侯勝の返答・全文
すると公卿たちは「これは詔書の趣き(宣帝の意思)でありますぞっ!」と夏侯勝を非難したが、夏侯勝は「詔書を言い訳にしてはなりません。人臣たる者の義として直言正論すべきであり、軽々しく上意におもねり聖旨に順うなど、あってはならないこと。これを口にしたからには、たとえ殺されようと後悔いたしません」と答えた。
そこで丞相の蔡義と御史大夫の田広明は「夏侯勝は詔書を非難し、先帝を謗った不道である」と弾劾の上奏をしたが、丞相の長史・黄覇は夏侯勝におもねって弾劾しなかったので、共に獄に下った。
結局役人たちは、宣帝に請うて孝武帝の廟を「世宗廟」と尊称し、『盛徳』『文始』『五行』の舞楽を奏して、天下は世々これを献納して武帝の盛徳を明らかにした。また、武帝が巡狩・行幸した49の郡国すべてに廟を立て、高祖(劉邦)・太宗(文帝)と同様にした。
夏侯勝と黄覇は獄に繋がれることすでに久しく、黄覇は夏侯勝に経書(儒教の経典)を伝授して欲しいと望んだが、夏侯勝は「罪死する身だから」と辞退した。それでも黄覇は「朝に道を聞いて夕べに死んでも構わない」と言うので、夏侯勝はその言葉を「賢」としてついに伝授し、獄に繋がれて二冬を経たが、その間、2人は議論を怠らなかった。
4年目の夏、関東の49郡にわたる地震があり、所によっては山が崩れて城郭・家屋を壊し、6千余人が死んだ。そこで宣帝は喪服をつけて正殿を避け、使者を遣わして吏民を弔問させ、死者に棺料として銭を下賜した。また詔を下して、
「思うに災異というものは、天地の戒めである。朕(私)は大業を承け継ぎ、士民の上に託されているが、まだ民草を安んずることができていない。今回の地震によって北海郡・琅邪郡の祖宗廟が壊れ、朕(私)は甚だ恐懼している。
列侯・中二千石と共に広く術士に問う。この変に応じる方法があるのならば、朕(私)の欠けている所を補ってほしい。忌み憚ることのないように」と言った。
これにより大赦が下り、夏侯勝は赦されて諫大夫となって宮中で給事し、黄覇は揚州刺史となった。
宣帝の信頼を得る
夏侯勝は人柄が質樸で正義を守り、万事に簡易で威儀がなかった。謁見する時、宣帝を君と呼び、宣帝もふざけて「字を誤って呼び合う」など、夏侯勝を信愛して信用した。
かつて夏侯勝は、宣帝の言葉を外部の者に漏らしたことがあった。宣帝がこれを責めたところ、夏侯勝は、
「陛下のおっしゃることが素晴らしいので、臣は殊更にその御言葉を褒め称えたのです。堯の言葉は天下にあまねく広がり、今に至るまで口ずさまれております。臣は伝えるべきであると思いましたので、それを伝えただけであります」
と答えた。
朝廷で大評議がある度に、宣帝は夏侯勝が率直であることを知り、「先生(夏侯勝)は正論を述べ、前の事件に懲りることがない」と言った。
夏侯勝は再び長信少府となり、太子太傅に遷った。詔を受けて『尚書』『論語説』を選述し、黄金百斤を賜った。
90歳で在官のまま亡くなると、夏侯勝は冢塋(墳墓の地)を賜り、平陵に葬られた。太后は2百万銭を下賜し、夏侯勝のために喪服をつけて師傅の恩に報いたため、儒者はそれを誉れとした。
夏侯氏と『尚書』
夏侯勝はその祖先が夏侯都尉で、かつて済南郡の張生から『尚書』を受け、それを同族の子・夏侯始昌に伝授し、夏侯始昌は夏侯勝に伝授した。
夏侯勝はまた、同郡出身の蕑卿に師事した。蕑卿は倪寛の門人である。夏侯勝は従兄の子・夏侯健に伝授し、夏侯健はまた欧陽高に師事した。夏侯勝は長信少傅に至り、夏侯健は太子太傅に至った。
それ以来、『尚書』には大小夏侯(夏侯勝・夏侯健)の学があった。
『魏書』高堂隆伝では、蘇林・秦静らの学問を伝える者がいなくなることを心配した明帝(曹叡)がその詔書の中で、
「士は経術(儒教による統治法)に明るくないことを欠点とする。仮に経術にさえ明るければ、青紫(卿大夫の服色)の服を取って卿大夫となるのは、俯いて地上の芥を拾うように容易いことだ。経書(儒教の経典)を学んでこれに精通することができないくらいなら、郷里に帰って田を耕す方がマシである」
という夏侯勝の言葉を引用している他、『魏書』王朗伝では、毌丘倹と文欽が反乱を起こした際、司馬師は「霍光は夏侯勝の言葉に心を動かされ、初めて儒学の士を重んじたそうだが、真にもっともなことだ。国家を安定させ 君主を安寧に導くその方法は、どこにあるのか」と言っている。
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夏侯存
『三国志演義』にのみ登場する架空の人物。第73回に登場する。曹仁の部将。
建安24年(219年)秋7月、劉備が漢中王に即位すると、曹操は「孫権に荊州を攻めさせて、劉備が援軍を差し向けた隙を突いて漢中を攻める」という司馬懿の献策を実行に移した。するとこの曹操の思惑に気づいた孫権は「まず樊城に駐屯する曹仁に、陸路から荊州を攻める」ように要請する。
この報告を受けた劉備が慌てて孔明(諸葛亮)に相談すると、この動きを予測していた孔明は「機先を制して関羽に樊城を攻めさせれば、敵は肝を冷やし、彼らの企みも自ずと崩れるでしょう」と言った。
こうして関羽が出陣すると、曹仁の軍中では翟元が迎撃を主張し、満寵は城の守りを固めるべきと主張した。すると旗本の夏侯存が進み出て、
「それはいかにも書生の引っ込み思案。『水が来れば土で覆い、敵将至らば兵をもって迎え撃つ』と言うではござらぬか。我が軍は『逸をもって労を待つ(待ち受けて、行軍で疲労した敵を討つ)』もの。勝利は我らのものです」
と言った。その言葉に同意した曹仁は満寵に樊城を守らせると、自らは襄陽を離れて関羽を迎え撃つべく出陣する。
翟元は廖化と、夏侯存は関平と戦って敵を20里(8.6km)退かせ、翌日また敵が挑んで来ると、2人は一斉に撃って出てまたもや荊州軍を撃ち破り、勝ちに乗じて20里余り追撃した。
その時、にわかに鬨の声が上がったかと思うと、背後で笛と太鼓の音が一斉に鳴り響いた。これまでの敗走は関羽の計略だったのである。曹仁は慌てて先鋒に退却を命じたが、関平・廖化の手勢が押し寄せて大混乱となり、曹仁は一手の軍勢を率いて襄陽へと急いだ。
そして、襄陽まであと数里という時、関羽がその行く手を阻んだ。曹仁には戦う気力もなく横道を逃げ出したが、関羽はその後を追おうともしなかった。
間もなくしてやって来た夏侯存は、行く手を遮る関羽を見ると大いに怒って打ちかかったが、たった1合で斬り落とされてしまった。
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夏侯陟
生没年不詳。西晋の荊州刺史・劉弘の女婿。
かつて曹操が揚州刺史に任命した、劉馥の孫の劉弘は、西晋の武帝(司馬炎)と同い年で、同じ里[洛陽(雒陽)の永安里]に住んだことがあることから、昔の誼で度々高い位に昇った。
西晋の末期、劉弘は車騎大将軍開府・荊州刺史・仮節都督荊交広州諸軍事となり、新城郡公に封ぜられたが、彼が長江・漢水地帯に在任している時、王室は大変な困難に直面していた。
当時、帝は長安にいたが、劉弘に配下の首長を選び起用することを認める命令を下した。
そこで劉弘は、
- 高尚な生き方をしている武陵出身の徴士・伍朝を零陵太守
- 長江・漢水地域で勲功があった牙門将・皮初を襄陽太守
に取り立てるよう上書したが、詔書が下り、「襄陽は重要な郡であるのに対して、皮初の資質・名声が軽すぎるから、劉弘の婿の夏侯陟に襄陽を治めさせよ」とあった。
劉弘は、
「そもそも天下を統治する者は、天下と心を1つにしなければならず、1国を治める者は1国のために内実ある者を推挙しなければならない。儂は荊州の10郡を統治しているが『10人の女婿ができてから初めて治めることができる』などということが、どうしてあるだろうか」
と言い、そこで、
「夏侯陟は親戚でありますから、旧来の制度からいって上司として監督することができないはずです。皮初は勲功からいって当然報われるべきです」
と上奏した。返答があって、それは聴許された。
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夏侯徳
『三国志演義』にのみ登場する架空の人物。第70回に登場する。夏侯尚の兄。
建安23年(218年)、「益州の劉備が、張飛・馬超を遣わして漢中を狙っている」という報告を受けた曹操は、曹洪に5万の兵を与え、漢中の夏侯淵・張郃を助けさせた。
漢中に着いた曹洪は、夏侯淵・張郃に要害を守らせ、自らも敵に当たることとなった。
この時、張飛は巴西に、馬超は下辨(下弁)にいたが、曹洪が止めるのも聞かず、張郃が張飛の陣を攻撃して大敗北を喫し、3万の兵を失って10人余りで逃げ帰ってきた。曹洪は張郃の首を打つつもりであったが、張郃は曹操のお気に入りのため、孟達と霍峻が守る葭萌関を攻めさせることにした。
これに孔明(諸葛亮)は、老将・黄忠と厳顔を派遣。またも張郃は敗れ、曹洪が増援に寄越した夏侯尚と韓浩も黄忠の計略の前に敗れた。
そこで張郃ら3人は、夏侯尚の兄・夏侯徳が守る天蕩山に身を寄せたが、そこへも黄忠が攻め寄せて来る。張郃は固く守ることを主張するも、夏侯徳は韓浩に3千の兵を与えて迎え撃たせた。
黄忠が一刀のもとに韓浩を斬って落とすと、蜀兵は鬨の声を上げて攻め登ってくる。そして、張郃と夏侯尚が急いで応戦しようとした時、にわかに山の後ろから鬨の声をが上がり、一面が天を焦がさんばかりの炎に包まれた。
驚いた夏侯徳が火を消そうと兵を率いて駆け出たところ、老将・厳顔が現れて刀を振り上げると、見る間に夏侯徳は斬り落とされていた。
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夏侯博
生没年不詳。劉備配下の将。
建安4年(199年)、曹操が「袁術討伐」に向かわせた劉備が、徐州刺史・車冑を殺害して独立する。曹操は司空長史・劉岱と中郎将・王忠に劉備を攻撃させるが、徐州を奪い返すことはできなかった。
建安5年(200年)春正月、董承らの「曹操誅殺」計画が漏洩。この計画に参画した者たちの中には「劉備」の名もあった。
曹操は計画に参画した者たち全員を処刑すると、自ら劉備を攻撃してこれを破り、劉備の将・夏侯博を生け捕りにした。
劉備は袁紹の下に逃亡し、曹操は彼の妻子を捕らえた。
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夏侯蘭
生没年不詳。冀州・常山郡(常山国)・真定県の人。
劉備が博望で夏侯惇と戦った時、趙雲は夏侯蘭を生け捕りにした。
夏侯蘭は趙雲と同郷[冀州・常山郡(常山国)・真定県]で、幼少の頃からの知り合いであったので、趙雲は劉備に申し上げて夏侯蘭の命を助けてやった。
また趙雲は、夏侯蘭を「法律に詳しい者」と推薦して軍正にしたが、以後、趙雲は自分から彼に接近しようとしなかった。趙雲の慎重な配慮はこのようなものであった。
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