正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧⑭(夏侯恩かこうおん夏侯咸かこうかん夏侯傑かこうけつ夏侯献かこうけん夏侯纂かこうさん夏侯氏かこうし夏侯承かこうしょう)です。

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凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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か⑭

夏侯(かこう)

夏侯恩かこうおん

三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物。第41回に登場する。曹操そうそう随身ずいしん(主君のそば近くに仕える者)。

建安けんあん13年(208年)の「長坂坡ちょうはんはの戦い」でのこと。曹操そうそう軍は、十数万の民を引き連れて江陵こうりょうに向かう劉備りゅうび軍を追撃していたが、夏侯恩かこうおんおのれの武勇をたのみに曹操そうそうそばを離れて略奪に出た。

この時思いもかけず、糜夫人びふじん阿斗あとを探しに引き返して来た趙雲ちょううんった夏侯恩かこうおんは、言葉をわす間もなくひとやりに突き殺された。

曹操そうそうふたふりの宝剣を所有し、ひとふりを「倚天いてん」と呼び、ひとふりを「青釭せいこう」と呼んだ。鉄をどろのように切ることができるたぐいない切れ味の宝剣で、倚天いてんの剣は自分の腰につけ、青釭せいこうの剣は夏侯恩かこうおんに持たせていた。

夏侯恩かこうおんが背負った剣を手に取った趙雲ちょううんは、そのつかにある金象眼きんぞうがんほどこされた「青釭せいこう」の2文字を見て宝剣だとさとり、その剣を背負うと再び曹操そうそう軍の包囲の中に斬り込んでいった。


夏侯咸かこうかん

生没年不詳。鍾会しょうかい司馬しば鍾会しょうかいの上奏文の中に名前が登場する。

景元けいげん4年(263年)秋、鄧艾とうがい諸葛緒しょかつしょ鍾会しょうかいらに「しょくへの侵攻」を命じる詔勅しょうちょくが下り、夏侯咸かこうかん鍾会しょうかいに従ってしょく征伐に従軍した。

鍾会しょうかいしょく姜維きょういが立てもる剣閣けんかくを落とせずにいたが、綿竹めんちくでの大会戦の結果、鄧艾とうがい諸葛瞻しょかつせんを斬ると、姜維きょういは部下をひきいて東に向かいに入った。そこで鍾会しょうかいは、胡烈これつ田続でんぞく龐会ほうかいらに姜維きょういを追撃させる。

その後鄧艾とうがい成都せいとに迫ると、蜀帝しょくてい劉禅りゅうぜん鄧艾とうがいの元におもむいて降伏。使者を派遣して姜維きょういらに命じ、鍾会しょうかいに降伏させた。


鍾会しょうかいの上奏文に、

賊徒ぞくと姜維きょうい張翼ちょうよく廖化りょうか董厥とうけつらは命からがら逃走し、成都せいとに向かおうといたしました。わたくし鍾会しょうかい)はすぐさま司馬しば夏侯咸かこうかん護軍ごぐん胡烈これつらを派遣し、真っぐに剣閣けんかくを通って新都しんと大渡だいとへと出て敵の前方をさえぎらせ、(後略)」

と、夏侯咸かこうかんが逃走する姜維きょういらの行く手をさえぎったことがしるされている。


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夏侯傑かこうけつ

三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物。第42回に登場する。曹操そうそう随身ずいしん(主君のそば近くに仕える者)。

建安けんあん13年(208年)の「長坂坡ちょうはんはの戦い」でのこと。曹操そうそう軍は、十数万の民を引き連れて江陵こうりょうに向かう劉備りゅうび軍を追撃していた。

景山けいざんの頂上から戦況を見下ろしていた曹操そうそうは、軍中を無人の野を行くがごとく斬り進む1人の敵将を見てその名をたずね、「って来い」と命じた。この敵将こそ、常山じょうざん趙子龍ちょうしりょう趙雲ちょううん)である。ただでさえ手にえぬ男を、生きて捕らえるとなるとさらに難しい。趙雲ちょううんけ続け、長坂橋ちょうはんきょうを渡ってしまった。

長坂橋ちょうはんきょうの上にはただ1騎、張飛ちょうひが立ちはだかっており、これを「諸葛孔明しょかつこうめい諸葛亮しょかつりょう)のわな」だと疑った曹仁そうじんらは、早馬で曹操そうそうに報告。報告を受けた曹操そうそうは、取るものも取りあえず馬に乗って陣に向かい、夏侯傑かこうけつもこれに従った。

陣の後ろに曹操そうそうが来たことに気づいた張飛ちょうひが「我こそは燕人えんひと張飛ちょうひなりっ!俺と勝負する者はいないかっ!?」と呼ばわると、曹操そうそうの軍兵は震えおののき、以前関羽かんうから張飛ちょうひの武勇を聞いていた曹操そうそうは戦うことを禁じる。

そして張飛ちょうひがまた、「我こそは燕人えんひと張飛ちょうひなりっ!俺と勝負する者はいないかっ!?」と呼ばわると、曹操そうそうはその剣幕に恐れをなして退却することを考えた。

敵陣の後方の隊列が移動し始めたのを見た張飛ちょうひほこを構え、またもや「戦うのか戦わぬのか、それとも逃げせるのか!?」と呼ばわると、その声の終わらぬうちに、曹操そうそうの身近にいた夏侯傑かこうけつは肝をつぶして落馬した。

備考

岩波文庫いわなみぶんこ完訳かんやく三国志さんごくしでは、夏侯傑かこうけつではなく夏侯覇かこうはが落馬している。

岩波文庫いわなみぶんこ完訳かんやく三国志さんごくしの巻末の解説には「毛本もうほん毛宗崗本もうそうこうぼん)を底本ていほん*1とした」とあるが、下記原文を確認するに、翻訳者の小川環樹おがわたまき氏が他の版本に合わせて修正したものと思われる。

原文:毛宗崗もうそうこう批評本ひひょうぼん三國演義さんごくえんぎ』第四十二回

張飛睜目又喝曰:「燕人張翼德在此!誰敢來決死戰?」其聲愈猛。曹操見張飛如此氣概,頗有退心。又在曹操眼中寫一張飛。飛望見曹操後軍陣腳移動,第二喝又喝退了曹操後軍。乃挺矛又喝曰:「戰又不戰,退又不退,卻是何故?」此一喝更極嘲笑。喊聲未絕,曹操身邊夏侯傑,驚得肝膽碎裂,倒撞於馬下。


三国志演義さんごくしえんぎには複数の版本が存在し、それぞれ内容が微妙に異なっています。この場面で夏侯傑かこうけつが落馬するのは「毛宗崗本もうそうこうぼん」と呼ばれる版本のみで、その他の版本では夏侯覇かこうはとなっているらしいです。(私自身は確認作業を行っておりません)

参考サイト様
脚注

*1翻訳・校訂などのもとにした本のこと。


夏侯献かこうけん

生没年不詳。中領軍ちゅうりょうぐん領軍将軍りょうぐんしょうぐん

遼東太守りょうとうたいしゅ公孫淵こうそんえんが、これまでよしみを通じていたの使者の首を送ってきた時、中領軍ちゅうりょうぐんであった夏侯献かこうけんは「今こそ公孫淵こうそんえんに利害をいて懐柔かいじゅうするべき時です」と言い、その使者に奉車都尉ほうしゃとい鬷弘そうこうを推薦する上奏をした。


景初けいしょ2年(238年)9月、やまいとこについた明帝めいてい曹叡そうえい)は、燕王えんおう曹宇そうう大将軍だいしょうぐんに任命し、領軍将軍りょうぐんしょうぐん夏侯献かこうけん武衛将軍ぶえいしょうぐん曹爽そうそう屯騎校尉とんきこうい曹肇そうちょう驍騎将軍ぎょうきしょうぐん秦朗しんろうらと並んで政治を補佐させたが、劉放りゅうほう孫資そんしらの讒言ざんげんにより罷免ひめんされた。

燕王えんおう曹宇そうう曹肇そうちょう夏侯献かこうけん秦朗しんろうらは互いに涙を流しながら屋敷に帰り、代わって曹爽そうそう大将軍だいしょうぐんに任命され、太尉たいい司馬懿しばいが参与することになった。


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夏侯纂かこうさん

生没年不詳。劉備りゅうび配下の広漢太守こうかんたいしゅ

劉備りゅうび益州えきしゅうを平定した後、広漢太守こうかんたいしゅに任命された夏侯纂かこうさんが、秦宓しんみつ招聘しょうへいして師友祭酒しゆうさいしゅとし、五官掾ごかんえんを兼ねさせたが、秦宓しんみつは病気と称してやしきせっていた。

夏侯纂かこうさん功曹こうそう古朴こぼく主簿しゅぼ王普おうふを連れ、食膳しょくぜんを持ち込んで秦宓しんみつやしきおとずれたが、やはり秦宓しんみつは横になったままであった。

そこで夏侯纂かこうさんは、古朴こぼくに「君の州(益州えきしゅう)が産出する生活必需品は他の州と比べて素晴らしいが、士人については他の州と比べてどうかね?」とたずねると、古朴こぼくは「前漢ぜんかん以来、爵位についた者は他の州に及ばないかもしれませんが、書物を著述ちょじゅつしての手本となった者では他の州に引けを取りません」と答えた。

次に夏侯纂かこうさんが「仲父ちゅうほ*2はどう思うかね?」と秦宓しんみつたずねると、秦宓しんみつ簿ほおを叩きながら「どうか明府との夏侯纂かこうさん)には、私のような田舎者いなかもの仲父ちゅうほ*2などとおっしゃらないでください」と断ると、「明府との夏侯纂かこうさん)のためにこの国(益州えきしゅう)の大筋を説明したいと思います」と言い、

  • 益州えきしゅう汶阜ぶんふ岷山びんざん)から流れ出る長江ちょうこうのお陰で、千里にわたって肥沃ひよくな大地が広がったこと。
  • 益州えきしゅう石紐せきちゅう汶山郡ぶんざんぐん)で生まれたが、治水により大洪水をのぞき去り、民衆を救ったこと。
  • 天帝てんていしんばつ益州えきしゅうに対応する星座)を見て政策を決定していたこと。

げ、「明府との夏侯纂かこうさん)の御心みこころで判断なされると、天下の諸地方に比べてどう思われますか」とたずねた。

僻地へきち益州えきしゅうに対してマウントを取ろうとしていた夏侯纂かこうさんは、これに言葉を返すことができず、秦宓しんみつを任官させることもできなかった。

脚注

*2春秋しゅんじゅう時代・せい桓公かんこう管仲かんちゅうとうとんで「仲父ちゅうほ」と呼んだことから、後に優れた臣下に対する尊称となった。


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夏侯氏かこうし単固ぜんこの母)

生没年不詳。単固ぜんこの母。

兗州えんしゅう山陽郡さんようぐん出身の単固ぜんこあざな恭夏きょうかと言い、器量のそなわった質実な人柄だった。

正始せいし年間(240年〜249年)、兗州刺史えんしゅうしし令狐愚れいこぐは、単固ぜんこの父・単伯龍ぜんはくりゅうと仲が良かったことから、単固ぜんこし寄せて別駕べつがに任命しようとしたが、単固ぜんこは州の役人になることを喜ばず、病気を理由に断った。その後も令狐愚れいこぐ単固ぜんこへの礼遇と意向は一層手厚さを増したが、単固ぜんこにはそれにこたえる気はなかった。

すると単固ぜんこの母・夏侯氏かこうしは「使君しくん令狐愚れいこぐ)はお前の父と長い間親しくされました。だからお前にいつまでもお命じになるのです。だからお前の方も仕官するのが当然です。自分から出掛けなければいけなせん」と言ったので、単固ぜんこはやむを得ず出掛けることとなり、兼治中従事ちちゅうじゅうじ楊康ようこうと並んで令狐愚れいこぐの腹心となった。

その後曹爽そうそうが失脚し、太傅たいふ司馬懿しばいが権力を握るようになった。令狐愚れいこぐ叔父おじ王淩おうりょうと共謀し、「若年の曹芳そうほうに代えて楚王そおう曹彪そうひょう擁立ようりつしよう」とのたくらみをいだいたが、楊康ようこう単固ぜんこはその計画をすべて知っていた。たまたま令狐愚れいこぐが病気にかかり、楊康ようこう司徒しと招聘しょうへいに応じて洛陽らくようおもむいたので、単固ぜんこも病気を理由に職を離れた。

ところが楊康ようこう洛陽らくようでこの事件をバラしたため、司馬懿しばい王淩おうりょうを捕らえ、単固ぜんこにも「おんみ(あなた)はこの事件を知っているか」とたずねた。単固ぜんこは「存じません」と応えたが、楊康ようこうの自白では、事件はすべて単固ぜんこと関係していたため、単固ぜんことその家族は逮捕され、全員廷尉ていいの獄につながれた。

当時の慣例では、死刑該当がいとう者はみなその母や妻子との会見を許されたが、単固ぜんこは母と会っても顔を上げて見られなかった。夏侯氏かこうしは、息子が恥じていると分かったので「恭夏きょうか単固ぜんこあざな)よ、お前は元々州郡のおしに応じたくなかったのに、私が無理いしたからこうなったのです。お前は人の役人となったのだから、当然ああするより仕方がなかった。これで一門はおとろえるでしょうが、私は残念とも思わない。お前は本当の気持ちを私に話しておくれ」と語りかけた。

単固ぜんこは最後まで顔を上げず、また話もせず、そのまま死んでいった。


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夏侯承かこうしょう

生没年不詳。の臣下。

孫権そんけんが皇帝を称するようになった黄龍こうりゅう元年(229年)頃、孫権そんけん太子たいし孫登そんとうは、荊州けいしゅう江夏郡こうかぐん武昌県ぶしょうけんに留まっていたが、歩騭ほしつに手紙を送って、

「そもそも賢者・君子と呼ばれる人々は、政治教化を盛んにし、目前の政治的課題を処理するのに力を貸すことのできる者のことであります。私は天性暗愚あんぐであって、物事の道理に通じておりません。
一生懸命に心を尽くして立派な徳のある人物にすべてを任せたいと願ってはおりますが、それぞれの土地にどのような人材がおり、そうした人々をどのような序列で待遇すれば良いのでしょうか」

たずねた。

歩騭ほしつはこの手紙を受け取ると、当時、荊州けいしゅうの領域で仕事に手腕を発揮している者として、

  • 諸葛瑾しょかつきん
  • 陸遜りくそん
  • 朱然しゅぜん
  • 程普ていふ
  • 潘濬はんしゅん
  • 裴玄はいげん
  • 夏侯承かこうしょう
  • 衛旌えいせい
  • 李粛りしゅく
  • 周条しゅうじょう
  • 石幹せきかん

ら11人を箇条書きにし、それぞれの平素の行いの特徴ある点を区別してしるすと、それに上疏文じょうそぶんをつけて献上し、孫登そんとうを励まして、

わたくし歩騭ほしつ)が聞き及びますに『主君たる者はみずか小事しょうじに手を染めることなく、百官や役人たちにそれぞれの職務を任せられるのだ』とのことでございます。まこと英雄を手中におさめ、俊傑しゅんけつ抜擢ばってきし、賢者を任用すべき時なのでございます。願わくは太子たいしさまがこのことにさらにお心をおそそぎいただけますならば、天下の者にこれ以上の幸せはございません」

と言った。


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【三国志人物伝】総索引