正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧⑯、平原国華氏①(華歆・華緝・華表・華博・華周)です。
スポンサーリンク
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
平原華氏系図
平原国華氏系図
※左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。
この記事では平原国華氏①の人物、
についてまとめています。
関連記事
スポンサーリンク
か⑯(平原華氏①)
第1世代(華歆・華緝)
華歆・子魚
永寿3年(157年)〜太和5年(231年)没。青州・平原国・高唐県の人。弟は華緝。子に華表、華博、華周。
華歆は青州・北海国出身の邴原・管寧と共に遊学した。3人は仲が良く、当時の人は3人を「一龍」と呼んだ。華歆を龍の頭、邴原を龍の腹、管寧を龍の尾と考えたのである。
斉地方の名高い都市である高唐県では盛り場を遊び歩かない官吏はいなかったが、華歆は役人となっても、役所を退出すると家に帰って門を閉ざした。また、彼の議論は常に公平で、絶対に他人を傷つけなかった。
中平5年(188年)、冀州刺史の王芬らが霊帝の廃位を計画した時、王芬は秘かに華歆と陶丘洪を誘ったが、華歆は出かけようとする陶丘洪を引き止めた。後に王芬の計画が失敗すると、陶丘洪は感服した。孝廉に推挙されて郎中となったが、病気のため辞職した。
中平6年(189年)、霊帝が崩御すると、華歆は鄭泰・荀攸と共に大将軍・何進に召し出され、尚書郎となった。
董卓が天子(献帝)を長安に遷すと、華歆は下邽県令になりたいと願い出たが、病気で任地に行けなかった。
結局、藍田を通って荊州・南陽郡に向かったが、当時南陽郡・穣県にいた袁術に引き留められた。華歆は袁術に「軍を集めて董卓を討伐する」ように進言したが、袁術は採用することができなかったので、見切りをつけて去ろうと考えた。
ちょうどその頃、献帝が関東(函谷関以東)を安定させるために太傅の馬日磾を派遣したので、華歆は馬日磾に召し出されて掾(属官)となり、馬日磾に従って東の徐州までやって来ると、詔勅によりその場で豫章太守に任命された。華歆の政治はすっきりと落ち着いていたことから官民は彼を愛した。
建安3年(198年)、揚州刺史・劉繇が亡くなると、その配下にあった民衆は華歆を主に仰ごうとしたが、「人臣の踏むべき『義』に外れる」と判断し、結局引き受けなかった。
建安4年(199年)に孫策が江東の地を攻略すると、華歆は孫策が戦巧者であることから、隠士の頭巾を被って孫策を迎え、孫策も彼を上客に対する礼をもって待遇した。
翌年、孫策が亡くなると、当時官渡にいた曹操が華歆を召し出すように上奏した。当初孫権は行かせまいとしたが、華歆が「曹操陣営の中にあって孫呉のために尽くすこと」の利益を説くと、孫権は喜んで彼を送り出した。
華歆を見送る賓客・旧友たちは千余人、餞別は数百金にのぼったが、華歆はそれらに印をつけておいた。出発する時になると、華歆は「財宝を持っていることが災難となるかもしれない」と言ってそれらをみな返却したので、賓客たちは彼の徳義に感服した。
到着すると華歆は議郎に任命され、司空の軍事に参与した。その後、中央に入って尚書となり、侍中に転任し、荀彧に代わって尚書令となった。
曹操は孫権を征討した時、華歆を軍師として申請した。魏国が建国された後、御史大夫となり、曹丕が王位に就くと相国に任命され、安楽郷侯に封ぜられた。文帝(曹丕)が天子の位に登ると、位を改められて司徒となった。
文帝(曹丕)は、当時三公を務めた太尉の鍾繇、司徒の華歆、司空の王朗を指して「この三公こそ、一代の傑物である。後の時代に彼らの後を継ぐことは難しかろうな」と言った。
華歆は平素から清貧に甘んじ、俸禄と下賜品は親戚・旧知に振る舞ってやり、家にはわずかの貯えもなかった。ある時、公卿たち全員に官有の女奴隷(犯罪人の家族)を賜ったことがあったが、華歆だけは彼女らを解放して他家に嫁がせてやった。文帝(曹丕)はこれに感嘆して特別に御衣を賜り、さらにその妻子や一族の男女全員のために衣服を作ってやった。
黄初年間(220年〜226年)、公卿に詔勅を下して「独行の君子*1」を推挙させた。華歆は旧友の管寧を推挙し、文帝(曹丕)は安車を用意して彼を召し出したが、管寧は隠遁して辞退した。
明帝(曹叡)が即位すると、華歆は昇進して博平侯に封ぜられ、500戸を加増されて合計1,300戸となり、太尉に転任した。この時華歆は病気を理由に辞退し、管寧に地位を譲りたいと願い出たが、明帝(曹叡)はこれを許さず、大会議を開くに当たって散騎常侍の繆襲を派遣し、詔勅を下して聖旨を諭させたので、華歆は仕方なく出仕した。
太和年間(227年〜233年)、明帝(曹叡)は曹真を派遣し、子午街道を通って蜀を討伐させ、御車(曹叡)は東方の許昌に行幸したが、華歆は上奏して、
「国を治める者は民をもって基本とし、民は衣食をもって根本といたします。中国に饑寒の災難がなく、民衆に故郷を離れる気持ちを起こさせなければ、天下の幸甚でありまして、二賊(蜀・呉)につけ込む隙は、じっと待っていれば良いでしょう。
臣は宰相の地位に就いているだけで、老いと病が日に日に酷く、おそらくは2度と御車(曹叡)の幌を仰ぎ見ることはできないと思われますので、敢えて臣下としての感懐を尽くさない訳にはまいりません。
どうか陛下には、ご判断、ご考察くださいますように」
と出兵に反対した。
明帝(曹叡)はこの諫言を真摯に受け止め、「軍威を誇示して彼ら(蜀)の隙を窺うのだ」と言ったが、ちょうど秋に大雨が降ったため、曹真に詔勅を下して帰還させた。
太和5年(231年)、華歆は75歳で亡くなり、敬侯と諡された。
脚注
*1世俗に左右されない立派な人物のこと。
「華歆」の関連記事
第2世代(華表・華博・華周)
華表・偉容
建安9年(204年)〜晋の咸寧元年(275年)没。青州・平原国・高唐県の人。父は華歆。弟に華博、華周。
20歳で散騎侍郎となり、昇進を重ねて侍中に遷った。
散騎侍郎の時、同僚の諸郎と共に尚書の事務を担当したが、同僚たちは年少であったので、みな互いにしのぎを削り、名声栄誉を追い求めた。
同僚たちは、文書の中に不都合な部分があっても故意に見過ごしておき、後になって内容に立ち入って反対論を述べるような有り様だったが、華表だけは違って、文書の中に不都合な点があれば、その都度尚書と共に議論し、その考えを充分に申し立てた。担当者が固執してやむを得ない場合、初めて共同で意見書を具申した。司空の陳羣らは、このことにより華表を称えた。
魏の正元初年(254年)、石苞が来朝して高貴郷公(曹髦)を大いに称賛して「高貴郷公(曹髦)を魏武(曹操)の生まれ変わり」と言った。これを聞いた者は、冷や汗で背中を濡らした。華表は禍を招くことを懼れ、病気と称して帰ったので、大難を免れることができた。
咸熙年間(264年〜265年)に父・華歆の後を継ぎ、尚書となった。五等官が建てられると観陽伯に封ぜられたが、親族の罪に連座して罷免された。
晋に仕え、泰始年間(265年〜274年)に太子少傅、光禄勲、太常を歴任したが、病気を理由に辞職し、光禄大夫に任命された。性格は清潔淡泊で、常に公的な引退理念を頭に置いていた。
司徒の李胤、司隷校尉の王宏らは常に華表を称賛して「このような人物は、貴い身分にしようとしてもできないし、賎しい身分にしようとしてもできない。近しい間柄にしようとしてもできないし、疎遠にしようとしてもできない」と言った。
晋の咸寧元年(275年)8月、72歳で亡くなり、康と諡され、詔により朝服を賜った。
「華表」の関連記事
華博
生没年不詳。青州・平原国・高唐県の人。父は華歆。兄に華表。弟に華周。
3つの県の内史を歴任し、優れた治績をあげた。
華周
生没年不詳。青州・平原国・高唐県の人。父は華歆。兄に華表、華博。
黄門侍郎、常山太守となった。
博学で文学的ひらめきがあったが、中年に病気にかかり、退職して家で亡くなった。
スポンサーリンク