建安けんあん12年(207年)、劉備りゅうび諸葛亮しょかつりょうを配下に迎えた「三顧さんこれい」と、そこで諸葛亮しょかつりょう披露ひろうした戦略「隆中対りゅうちゅうたい」についてまとめています。

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曹操の烏丸征伐と劉表

曹操の烏丸征伐

建安けんあん12年(207年)、曹操そうそう塞外さいがい(国境の外)で袁尚えんしょう袁煕えんき兄弟をかくま烏丸うがん征伐に出陣しました。

この時、劉備りゅうび劉表りゅうひょうに、豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけんを襲撃するように説得しましたが、劉表りゅうひょうは彼の進言を採用することができませんでした。

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劉表の後悔

曹操そうそう幽州ゆうしゅう遼西郡りょうせいぐん柳城りゅうじょうから許県きょけんに帰還すると、劉表りゅうひょうやんで、


「君の進言を採用しなかったために、大きな好機をのがしてしまった…」


劉備りゅうびに言いました。ですが劉備りゅうびは、


「今、天下は分裂しており、毎日が戦争の連続です。どうしてこれが最後の機会だということがありましょうか。もし今後、機会に応じることができますならば、今回のことは残念がる程のことではありません」


と答えました。


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諸葛亮を知る

隆中の諸葛亮

この頃、徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく陽都県ようとけん出身の諸葛亮しょかつりょうは、荊州けいしゅう南郡なんぐん襄陽県じょうようけんの西方20里(約8.6km)、荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん隆中りゅうちゅう*1に住んでみずから農耕にたずさわり、好んで梁父吟りょうほぎん(隠者のうたう歌)を歌って暮らしていました。


荊州・南陽郡・鄧県(隆中)

荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん鄧県とうけん隆中りゅうちゅう


身長は8尺(約192.8cm)もあり、諸葛亮しょかつりょうは常に自分を管仲かんちゅう春秋しゅんじゅう時代、せい桓公かんこう宰相さいしょう)・楽毅がくき戦国せんごく時代、えん桓公かんこうの名将)になぞらえていました。

当時の人々の中にそれを認める者はいませんでしたが、

  • 冀州きしゅう博陵郡はくりょうぐん出身の崔州平さいしゅうへい
  • 豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん出身の徐庶じょしょ

の2人は諸葛亮しょかつりょうの才能を認め、彼と親交を結んでいました。

脚注

*1漢晋春秋かんしんしゅんじゅうに言う。諸葛亮しょかつりょう荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん鄧県とうけんに住んだが、そこは襄陽城じょうようじょうの西方20里(約8.6km)にあり、隆中りゅうちゅうと称していた。

臥竜と鳳雛

ある時劉備りゅうびは、司馬徳操しばとくそう司馬徽しばき)に世間のことについてたずねました。

すると司馬徳操しばとくそう司馬徽しばき)は、


儒学者じゅがくしゃ俗人ぞくじんどもに、いったい時局の要務ようむ(重要な職務・任務)が分かりましょうか。時局の要務ようむる者こそ英傑えいけつです。この辺りには以前から臥竜がりょうしている竜)と鳳雛ほうすう鳳凰ほうおうひな)がおります」


と答えます。

そして劉備りゅうびがまた、「それは誰か」とたずねると、司馬徳操しばとくそう司馬徽しばき)は言いました。


諸葛孔明しょかつこうめい諸葛亮しょかつりょう)と龐士元ほうしげん龐統ほうとう)です」

豆知識

豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん出身の司馬徳操しばとくそう司馬徽しばき)は、清潔で温雅おんがおだやかで上品なこと)な人で、人物を見分ける鑑識眼かんしきがんを持っていました。


また、

  • 諸葛孔明しょかつこうめい諸葛亮しょかつりょう)を「臥竜がりょう
  • 龐士元ほうしげん龐統ほうとう)を「鳳雛ほうすう
  • 司馬徳操しばとくそう司馬徽しばき)を「水鏡すいきょう

と呼びならわしたのは、荊州けいしゅう襄陽郡じょうようぐん出身の龐徳公ほうとくこうが初めで、諸葛孔明しょかつこうめい諸葛亮しょかつりょう)は彼の家をおとずれると、いつもただ1人寝台の下にぬかずいて挨拶あいさつしましたが、龐徳公ほうとくこうはそれをまったく止めようとはしませんでした。


龐士元ほうしげん龐統ほうとう)は龐徳公ほうとくこう従子おいで、まだ誰にも評価されなかった若い頃、龐徳公ほうとくこうだけが彼を重んじ、彼が18歳*2の時に司馬徳操しばとくそう司馬徽しばき)に会いに行かせると、司馬徳操しばとくそう司馬徽しばき)は彼を大変高く評価して「龐統ほうとう南州なんしゅうの士人中、第一人者になるだろう」とたたえました。


また、司馬徳操しばとくそう司馬徽しばき)は龐徳公ほうとくこうより10歳年少だったので、彼に兄事して龐公ほうこうと呼んでいました。

脚注

*2蜀書しょくしょ龐統伝ほうとうでんが注に引く襄陽記じょうようきによる。蜀書しょくしょ龐統伝ほうとうでんの本文では20歳。

徐庶の推薦

ある日劉備りゅうびは、駐屯していた荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん新野県しんやけん徐庶じょしょと出会い、彼を有能な人物だと思いました。

この時徐庶じょしょは、劉備りゅうびにこうたずねます。


諸葛孔明しょかつこうめい諸葛亮しょかつりょう)という男は、臥竜がりょうしている竜)です。将軍しょうぐん劉備りゅうび)は彼と会いたいと思われますか?」


劉備りゅうびが、


「君が連れてきてくれまいか」


と言うと徐庶じょしょは、


「この人はこちらから行けば会えますが、無理に連れてくることはできません。将軍しょうぐん劉備りゅうび)が車を出してみずから訪問するべきです」


と答えました。

またこれ以降、徐庶じょしょ劉備りゅうびに仕えることになります。


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三顧の礼

隆中対(天下三分の計)

徐庶じょしょの助言を得た劉備りゅうびは、彼の言葉に従ってみずか諸葛亮しょかつりょうたずね、3度目にしてようやく会うことができました。

そこで劉備りゅうびは、人払いをして諸葛亮しょかつりょうに言いました。


かん朝は傾き崩れ、姦臣かんしんが天命を盗み、天子てんしは都を離れておられる。私はみずからの徳や力を思慮しりょに入れず、天下に大義を浸透させようと願っているが、智恵も術策も不足しているため、結局つまずいて今日に至っている。

だがしかし、それでも私は、この志を今なお捨てきれずにいるのだ。君は、どのようなはかりごともちいるべきだとお思いか?」


すると諸葛亮しょかつりょうは「東方の孫権そんけんと手を結び、劉備りゅうび荊州けいしゅう益州えきしゅうを手に入れて、変事が起こるのを待って曹操そうそうを討つ」という方略を披露ひろうします。

諸葛亮の返答・全文
タップ(クリック)すると開きます。

董卓とうたくの乱以来、豪傑が次々と蜂起し、州にまたがり郡をつらね、のさばる者は数え切れないほどであります。

曹操そうそう袁紹えんしょうに比べますと、名声は小さく軍勢も少なかったのですが、結局曹操そうそう袁紹えんしょうに撃ち勝って弱者から強者になりおおせたのは、単に天の与える時節ばかりではなく、そもそも人間のす計略のお陰です。

今、曹操そうそうはすでに百万の軍勢をようし、天子てんし擁立ようりつして諸侯に命令を発しており、これは実際、対等に戦える相手ではありません。

孫権そんけん江東こうとうを支配して、すでに父の孫堅そんけん、兄の孫策そんさく以来3代をており、国家は堅固で民はなつき、賢能の士も彼の手足となって働いており、これは味方とすべきで敵対してはならない相手です。

荊州けいしゅうは、北方は漢水かんすい沔水べんすいにまたがり、経済的利益は南海なんかいにまで達し、東方はかい呉郡ごぐん会稽郡かいけいぐん)に連なり、西方はしょくに通じていて、これこそ武力を役立てるべき国であるのに、領主(劉表りゅうひょう)はとても持ちこたえることができません。これこそ天が将軍しょうぐん劉備りゅうび)に与えた土地と言えましょうが、将軍しょうぐん劉備りゅうび)にはその意志はございますか。

益州えきしゅうは、堅固な要塞の地であり、豊かな平野が千里も広がる天のくらとも言い得る土地であって、高祖こうそ劉邦りゅうほう)はここをもとに帝業を完成させました。

領主の劉璋りゅうしょう暗愚あんぐで、張魯ちょうろを北にひかえており、人口は多く、国は豊かであるにもかかわらず、福祉に心をくだかないので、智能ある人士は名君を得る事を願っております。

将軍しょうぐん劉備りゅうび)は皇室の後裔こうえいである上、信義が天下に聞こえ渡り、英雄たちを掌握しょうあくされて、のどかわいた者が水を欲しがるように賢者を渇望かつぼうしておられます。

もし荊州けいしゅう益州えきしゅうまたがって支配されてその要害をたもち、西方の諸蛮族ばんぞくなつけ、南方の異民族を慰撫いぶなさって、外は孫権そんけんよしみを結び、内は政治をおさめられ、天下に一旦いったん変事があれば、1人の上将じょうしょうに命じて荊州けいしゅうの軍勢をえんらく宛県えんけん洛陽らくよう)に向かわせ、将軍しょうぐん劉備りゅうび)ご自身は益州えきしゅうの軍勢をひきいて秦川しんせんに出撃するようになさったならば、すべての民衆は弁当と水筒をたずさえて将軍しょうぐん劉備りゅうび)を歓迎するでしょう。

まことにこのようになれば、覇業は成就じょうじゅし、かん王朝を復興させることができるでしょう。


諸葛亮しょかつりょうの、いわゆる「天下三分の計」を聞いた劉備りゅうびは、「よし」とうなずきました。

水魚の交わり

諸葛亮しょかつりょう劉備りゅうびに仕えるようになると、2人の交情(交際の親しみ)は日に日に親密になっていきました。

それを見た関羽かんう張飛ちょうひらは不機嫌な様子でしたが、劉備りゅうびなだめて、


「私に孔明こうめい諸葛亮しょかつりょう) が必要なのは、ちょうど魚に必要なようなものだ。諸君らはもう二度と文句を言わないで欲しい」


と言うと、関羽かんう張飛ちょうひはもう何も言わなくなりました。これがいわゆる「水魚のまじわり」です。


建安けんあん12年(207年)、荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうを頼って荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん新野県しんやけんに駐屯していた劉備りゅうびは、司馬徳操しばとくそう司馬徽しばき)からその存在を聞き、徐庶じょしょの推薦を受けて、3度の訪問のすえ、ついに諸葛孔明しょかつこうめい諸葛亮しょかつりょう)に会うことができました。

この時諸葛孔明しょかつこうめい諸葛亮しょかつりょう)は「東方の孫権そんけんと手を結んで荊州けいしゅう益州えきしゅうを手に入れ、変事が起こるのを待って曹操そうそうを討つ」という『天下三分の計』を披露ひろうして、劉備りゅうびに仕えました。