幷州へいしゅう并州へいしゅう)平定後の曹操そうそうの功臣への封爵ほうしゃくと、その後の烏丸うがん征伐、袁尚えんしょう袁煕えんき兄弟の死についてまとめています。

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曹操が功臣に報いる

曹操の東征

高幹こうかんを討ち幷州へいしゅう并州へいしゅう)を平定した曹操そうそうは、建安けんあん11年(206年)8月、東に進軍して青州せいしゅう北海国ほっかいこく淳于県じゅんうけんに駐屯し、楽進がくしん李典りてんに海賊の管承かんしょうを、于禁うきん徐州じょしゅう東海郡とうかいぐん昌豨しょうきを征討させました。

管承かんしょうは海中の島に逃げ込み、昌豨しょうき于禁うきんに降伏しますが、法にのっとって処刑されました。

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曹操が功臣に報いる

建安けんあん12年(207年)春2月、曹操そうそう青州せいしゅう北海国ほっかいこく淳于県じゅんうけんから冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに帰還しました。

功臣に爵位を与える

帰還した曹操そうそうは「功臣に爵位を与える」ことを伝える布告を出します。

曹操の布告・全文
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わしは義兵をげて暴乱を罰し、現在19年を経過したが、征伐した相手に必ず勝てたのは、これはわしの功績なのだろうか。それこそ賢明なる士大夫したいふの力である。天下はいまだ完全には平定されていないが、わしは必ず賢明なる士大夫したいふと共にそれを平定できるに違いない。

ところがその功労の報酬をただ1人享受きょうじゅするとなると、わしはどうして落ち着いていられようか。よって、急いで功績を決定し、封爵ほうしゃくを行え。


その結果、功臣20余人がみな列侯れっこうに取り立てられました。

その他の者はそれぞれ功績の順序に従って封爵ほうしゃくを受け、さらに戦死者の孤児こじにもそれぞれ軽重の差をつけて特別待遇を与えました。

豆知識

魏書ぎしょ武帝紀ぶていぎが注に引く魏書ぎしょに、別の布告がせられています。

曹操の布告・全文
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昔、趙奢ちょうしゃ戦国せんごく時代のちょうの名将)と竇嬰とうえい前漢ぜんかん外戚がいせき)が将となった時、千金の下賜かしを受けながら、一朝にしてそれを分け与えた。そのためによく大功を成就じょうじゅし、いついつまでも名声を残したのである。わしは彼らについて書いた文章を読むたびに、その人柄を思慕しぼしないではいられなかった。

諸将・士大夫したいふと共に軍事にたずさわりながら、幸いにも賢人はそのはかりごとを出ししみせず、士人たちはその力を余さずに働いてくれた。そのお陰で危難を一掃し、動乱を討ち平らげることができたのである。

それなのに、わしは大きな恩賞を盗んで3万戸の領邑りょうゆうを頂戴している。竇嬰とうえい前漢ぜんかん外戚がいせき)が金をばらまいた義心を追慕ついぼし、今受け取っている税を分けて、諸将・掾属えんぞく及び、かつてちんさいを守備した者たちに与えよう。

みなの労苦にむくいて大きな恩恵を1人めにしないことを願うものである。戦死者の孤児こじに等級をつけ、税として取り立てた穀物を彼らに与えよ。もし作物が豊かに実り、入用を充分まかなうことができ、租税・献上物がすべて入るならば、みなの者全部と共に大いにそれを享受きょうじゅしよう。

荀彧じゅんいくの功績を上表する

3月、曹操そうそうはまた、万歳亭侯ばんざいていこう荀彧じゅんいくが、

  • 官渡かんとの戦い」において、撤退しようとする曹操そうそうを止めたこと
  • 官渡かんとの戦い」の勝利後に、劉表りゅうひょうを討伐しようとした曹操そうそうを止めたこと

つねならざる功績と賞し、領邑りょうゆうの加増を求める上表をして、荀彧じゅんいくに千戸を加封します。

曹操の上表・全文
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昔、袁紹えんしょうが畿内に侵入し、官渡かんとで戦闘が行われました。

その当時、我が方は軍勢少なく食料も底をついたため、きょ豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけん]に帰りたいと考え、手紙を送って荀彧じゅんいくに相談いたしましたところ、荀彧じゅんいくは私の考えに反対いたしました。彼はとどまる場合の有利さを示し、進撃のはかりごとさずけ、改めて私の心を奮い立たせ、愚かな考え方を変えてくれました。

かくして、私は大逆無道の悪人を打ち砕き、その軍勢を撃ち破って降伏させたのでございます。これこそ荀彧じゅんいくが勝敗の分かれ目を読み取り、世にまれなる智略の士である証拠です。


袁紹えんしょうが敗北した時には、我が方の兵糧もまた底をついておりましたので、河北かほく平定をはかるのはまだ容易でないと考えまして、南下して劉表りゅうひょうを討伐しようと思いました。すると荀彧じゅんいくがまたも私を引き止め、その利害得失を説明してくれましたため、私は旗をひるがえし、結局悪人の一族をみ込み、4つの州[冀州きしゅう青州せいしゅう幽州ゆうしゅう幷州へいしゅう并州へいしゅう)]を平定したのでございます。

先の場合、もしも私が官渡かんとから引き退いておりましたならば、袁紹えんしょうは必ず軍鼓を打ち鳴らして進撃し、我が軍は破滅の状況に追い込まれて、勝利を得る形勢を得られなかったでありましょう。

後の場合、もしも南方征伐を行い、兗州えんしゅう豫州よしゅう予州よしゅう)を放置しておりましたならば、勝利を求めることが難しかった上に、本拠を失う結果をまねいたでありましょう。


荀彧じゅんいくの2つの計策は、滅亡を存立そんりつに変え、わざわいを福に転じたもので、そのはかりごと傑出けっしゅつし、功績は非常なもので、とても私の及ぶところではございません。

だからこそ過去の帝王は、獲物の足跡を指摘する人間の功績を尊重され、実際に獲物を捕らえる犬の恩賞を軽くされたのでございます。古人は軍幕の中で立てる策略を尊び、戦闘における勝利を低く見なしました。

先に下賜かしされ記録されました爵位は、荀彧じゅんいくのずば抜けた勲功にふさわしくありません。どうか重ねて公平に論定なされて、彼の領邑りょうゆうを古人なみにしてくださいますように。


ですが、荀彧じゅんいくはこれを深く辞退したため、曹操そうそうは彼を説得し、荀彧じゅんいく三公さんこうに任命しようとしましたが、荀彧じゅんいく荀攸じゅんゆうを使者に立てて深く辞退し、それが10数回にも及んだため、曹操そうそうはやっと取りやめにしました。

曹操の説得の言葉・全文
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君の策謀は、上奏した2つの事柄にとどまらない。

何度も辞退するのは、魯仲連ろちゅうれん先生(戦国せんごく時代のせいの弁士)をしたうお考えか。そのような態度は、人の生き方をわきまえた聖人の尊重するものではない。

昔、介之推かいしすい春秋しゅんじゅう時代、しん文公ぶんこうが放浪していた時の臣)の言葉に「人の財産を盗む者でも、なおこれを”盗人ぬすびと”という」とある。君が辞退すると、私は君の功績を盗んだことになる。ましてや君が人に知られぬ策謀を立てて民衆を安全に導き、私を栄誉の光に輝かせてくれたことは、3桁の数にのぼるではないか。

2つの事柄だけを考えて再度辞退するなど、謙虚な態度をとること、どうしてかくもはなはだしいのだ。


荀彧じゅんいくは、建安けんあん8年(203年)に万歳亭侯ばんざいていこうに封ぜられた際にもこれを固辞し、曹操そうそうの説得を受けて、ようやく爵位を受けていました。


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曹操の烏丸征伐

曹操の出陣

その後曹操そうそうは、北方の国境の外におもむいて3郡の烏丸うがん蹋頓とうとつ蘇僕延そぼくえん烏延うえん)を征討しようとします。

すると諸将はみな、


袁尚えんしょうは逃亡者に過ぎません。蛮族ばんぞく貪欲どんよくで親愛の念を持ちません。どうしてよく袁尚えんしょうのために働きましょう。今、敵地深く侵入して征討すれば、劉備りゅうび劉表りゅうひょうき伏せてきょ豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけん]を襲撃するに違いありません。万一変事が起これば、事態は後悔しても済みませんぞ」


と言いますが、ただ郭嘉かくかだけが「劉表りゅうひょう劉備りゅうびを任用できないに違いない」と判断して曹操そうそうに遠征を勧め、曹操そうそうは彼の意見に従い出陣しました。

郭嘉の進言
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との曹操そうそう)は天下に威勢を鳴り響かせているとは申せ、蛮族ばんぞくは自分たちが遠隔の地にいるのを良いことに、きっと防備をもうけていないでしょう。その彼らの油断につけ込んで突如これを攻撃すれば、撃破して滅ぼすことができます。

それに袁紹えんしょうは、かんの住民や蛮人ばんじんに恩をほどこしておりまして、その子の袁尚えんしょう袁煕えんき兄弟は生存しているのです。今、との曹操そうそう)は4州[冀州きしゅう青州せいしゅう幽州ゆうしゅう幷州へいしゅう并州へいしゅう)]の民を、ただ威勢をもって従えておられるだけで、徳の恵みをほどこすには至っておりません。

それを放置して南征すれば、袁尚えんしょう烏丸うがんの資金力を利用し、主君のために死ぬ決意の臣下をまねき寄せます。蛮人ばんじん一度ひとたび行動を起こせば、かんの住民やその他の蛮族ばんぞくは共に呼応し、それに従って蹋頓とうとつの反抗心を呼び起こし、高望みの計画まで成り立たせてしまいましょう。そうなれば、おそらく青州せいしゅう冀州きしゅうは我が方の領有ではなくなるでしょう。

劉表りゅうひょうはただ座って議論している人物に過ぎません。自分で劉備りゅうびを統御するだけの才能がないことをわきまえております。彼を重く任用すれば、おそらく制御できないでしょうし、軽く任用すれば、劉備りゅうびは働こうとしないでしょう。国を空にして遠征しましても、との曹操そうそう)には心配がございません。

兵は神速を貴ぶ

曹操そうそう冀州きしゅう河間国かかんこく易県えきけんまで来ると、郭嘉かくかはまた曹操そうそうに進言します。


「軍事は神のごと迅速じんそくさをとうとびます(兵は神速しんそくたっとぶ)。今、千里(約430km)の彼方かなたに敵を襲撃しようとしておりますが、輜重しちょうが多く、迅速じんそくさの利を得られません。その上、奴らがこのことを聞けば、必ず防備いたします。輜重しちょうめ置いて軽装の兵のみで急行し、奴らの不意を突くのがよろしいでしょう」


曹操そうそうはこれに従い、夏5月、曹操そうそう軍は幽州ゆうしゅう右北平郡ゆうほくへいぐん無終県むしゅうけんに到達します。

田疇と邢顒

劉虞りゅうぐ配下の田疇でんちゅう

かつて袁紹えんしょうは、幽州ゆうしゅう右北平郡ゆうほくへいぐん徐無山じょむさんに勢力を保っていた田疇でんちゅう度々たびたび使者を派遣して招聘しょうへい・命令し、また将軍しょうぐんの印をさずけ、田疇でんちゅうが統率している人々を落ち着かせ、なつかせようとしましたが、田疇でんちゅうはそれらすべてを拒否して受けませんでした。

田疇でんちゅうの客・邢顒けいぎょう

曹操そうそう冀州きしゅうを平定すると、田疇でんちゅうの客・邢顒けいぎょうは、


黄巾こうきんの乱が起こってから20余年、四海の内はかなえの中がき立つごとく乱れ、民衆は流浪しています。今、聞くところでは『曹操そうそうの法令は厳正である』とか。民は騒乱にきしています。騒乱が行き着くところまで行けば平和がおとずれましょう。私が率先そっせんして曹操そうそうに仕えたいと存じます」


と言い、旅支度をして郷里(冀州きしゅう河間国かかんこく鄚県ばくけん)に帰ったので、田疇でんちゅう邢顒けいぎょうを評して「民の先覚者せんかくしゃ先駆者せんくしゃ)である」と言いました。

こうして邢顒けいぎょう曹操そうそうに目通りすると、「先導となって柳城りゅうじょうに撃ち勝つ」ことを願い出ます。

すると曹操そうそうは、邢顒けいぎょうし寄せて冀州きしゅう従事じゅうじとし、当時の人々は「徳行、堂々たる邢子昂けいしこう子昂しこう邢顒けいぎょうあざな)」と彼をたたえました。

曹操そうそうまねかれる

烏丸うがん鮮卑せんぴは共にそれぞれ田疇でんちゅうに使節・通訳を派遣して、貢ぎ物や贈り物を届けており、田疇でんちゅうはすべて慰撫いぶして受納し、侵略しないように命じていました。

ですが田疇でんちゅうは、烏丸うがんが昔、右北平郡ゆうほくへいぐんの高官を多数殺害したことを、今でも根に持っていましたが、彼らを討伐するにはまだ力不足でした。

そんなところへ、烏丸うがん征伐におもむ曹操そうそうが使者を派遣して田疇でんちゅうまねくと、田疇でんちゅうはその家臣に言いつけて旅装を整えるようにうながしました。

この時、田疇でんちゅうの家臣は、


「昔、袁公えんこう袁紹えんしょう)があなたをしたって、礼を尽くした命令が5回も来ましたが、あなたは道義を盾に屈服されませんでした。今、曹公そうこう曹操そうそう)は1回おとずれただけなのに、あなたは間に合わないことを心配している様子なのは、一体なぜでしょうか」


たずねますが、田疇でんちゅうは笑って、


「このことは、君の分かることではない」


と答えました。

こうして田疇でんちゅうは、曹操そうそうの使者について曹操そうそうの軍営に到着します。


曹操そうそうは、田疇でんちゅう司空しくう戸曹掾こそうえんに任命しましたが、「田子泰でんしたい子泰したい田疇でんちゅうあざな)はわしが下役として良い男ではない」と言い、すぐさま茂才もさい(秀才)に推挙して冀州きしゅう勃海郡ぼっかいぐん蓨県じょうけん脩県しゅうけん)の県令けんれいに任命します。

ですが、田疇でんちゅうは任地の蓨県じょうけん脩県しゅうけん)に行かず、軍に随行して無終県むしゅうけんに宿営しました。


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白狼山の戦い

田疇の助言

時節はちょうど夏の雨期にあたり、しかも海岸沿いの低地はぬかるんで水がまっていたので、道が通れなくなっていました。また、敵も細い道の要所を遮断して守備していたので、軍は進むことができません。

そこで曹操そうそう田疇でんちゅうに相談すると、田疇でんちゅうは次のように言いました。


「この道は、秋と夏はいつも水にかっています。浅くても車や馬は通れず、深くても舟を浮かべられず、長い間難儀してまいりました。

昔、(幽州ゆうしゅう・)北平郡ほくへいぐん右北平郡ゆうほくへいぐん)の治所(郡庁所在地)は平岡県へいこうけんにございまして、街道は盧龍塞ろりょうさいに出て柳城りゅうじょうに達していましたが、建武けんぶ後漢ごかん光武帝こうぶていの年号)以来、くずれ落ちて断絶し、200年になろうとしています。しかし、それでもごく細い小道があって、そこを辿たどって行くことができます。

今、敵は我が大軍が無終県むしゅうけんを出てから進むことができず、撤退すると思っているので、気を抜いて備えをしていないでしょう。

もし、秘かに軍を転じて盧龍塞ろりょうさいの入り口から白檀県びゃくだんけんの険を越え、無防備な土地に出たならば、道は近い上に便利です。彼らの不意を襲いますれば、蹋頓とうとつの首は戦わずして我が物となるでしょう」


これを聞いた曹操そうそうは「よし」とうなずきました。

曹操の奇襲

田疇でんちゅうの助言を得た曹操そうそうは、軍をひきいて引き返すと、水辺の道端みちばたに、


「現在夏の盛りで、道路は不通である。しばらく秋冬の時節を待って、再び軍を進める」


しるした大きな木の立て札を立てます。

すると、敵軍の斥候せっこうの騎兵がそれを見て「本当に大軍が去るのだ」と思い込みました。


そこで曹操そうそうは、田疇でんちゅうにその手勢を引き連れて先導させ、徐無山じょむさんを登り盧龍塞ろりょうさいを出ると、とりでの外は道が断絶して通れませんでした。そこで山を掘り谷をめて、5百余里(約215km)にわたって道をつくり、白檀県びゃくだんけんを通って平岡県へいこうけんを過ぎると、鮮卑せんぴ族の領土を横切って東方の柳城りゅうじょうを目指します。


関連地図

関連地図

  • 盧龍塞ろりょうさい
  • 徐無山じょむさんの位置は中国歴史地図集ちゅうごくれきしちずしゅうによる。資治通鑑しじつがん胡三省こさんせい注によると「徐無山じょむさん徐無県じょむけんの西北」とあり、上記地図では無終県むしゅうけんの中間にあたる。

その結果、柳城りゅうじょうから2百余里(約86km)離れたところで、敵軍は初めて曹操そうそう軍の存在に気づきました。


曹操そうそう軍を発見した袁尚えんしょう袁煕えんき袁熙えんき)は、

  • 幽州ゆうしゅう遼西郡りょうせいぐん大人たいじん蹋頓とうとつ蹋頓とうとん
  • 幽州ゆうしゅう遼西郡りょうせいぐん単于ぜんう楼班ろうはん*1
  • 幽州ゆうしゅう右北平郡ゆうほくへいぐん単于ぜんう能臣抵之のうしんていし

らと共に、数万の騎兵をひきいて曹操そうそう軍を迎え撃ちます。

脚注

*1中平ちゅうへい4年(187年)、張純ちょうじゅんの乱に呼応し、その後幽州牧ゆうしゅうぼく劉虞りゅうぐに恭順した幽州ゆうしゅう遼西郡りょうせいぐん烏丸うがん族の大人たいじん丘力居きゅうりききょの子。

白狼山の戦い

8月、曹操そうそう軍は白狼山はくろうざんに登ったところで突然敵と遭遇。後方の輜重しちょう車には鎧を身につけている者は少なく、敵の軍勢の勢いがはなはだ盛んなのを見て、まわりの者はみな恐怖しました。

ですが、高みに登って敵陣が整っていないことを確認した曹操そうそうは、張遼ちょうりょうを先鋒として攻撃をしかけます。すると敵の軍勢は総崩れとなり、蹋頓とうとつ名王めいおう以下のおもった者を斬りました。

蛮族ばんぞく漢族かんぞくの降伏者は20余万人にのぼり、逃亡する者を追いかけて柳城りゅうじょうまで迫ります。


白狼山の戦い

白狼山はくろうざんの戦い


幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐん単于ぜんう速僕丸そくぼくまる蘇僕延そくぼくえん)や遼西郡りょうせいぐん右北平郡ゆうほくへいぐん酋長しゅうちょうたちは、同族を見捨て、袁尚えんしょう袁煕えんきと共に幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんに逃亡しましたが、まだ数千騎の軍勢を保有していました。

袁尚・袁煕の死

当時、遼東太守りょうとうたいしゅ公孫康こうそんこうは、みやこから遠く離れていたため朝廷に服従していませんでした。

9月、曹操そうそう烏丸うがんを撃ち破ると、


「このまま彼(公孫康こうそんこう)を征討すれば、袁尚えんしょう兄弟をとりこにできるでしょう」


と進言する者がありました。すると曹操そうそうは、


「今に公孫康こうそんこう袁尚えんしょう袁煕えんきの首を送ってくる。兵をわずらわせる必要はない」


と言い、そのまま兵をひきいて柳城りゅうじょうから帰途につきます。

すると公孫康こうそんこうは、即座に袁尚えんしょう袁煕えんき速僕丸そくぼくまる蘇僕延そくぼくえん)らを斬り、その首を送ってしました。

この時、曹操そうそうの諸将の中に、


との曹操そうそう)が帰途につかれると、公孫康こうそんこう袁尚えんしょう袁煕えんきの首を斬ってしたのは、なぜでしょうか」


と質問した者がありました。すると曹操そうそうは、


「奴(公孫康こうそんこう)はかねてから袁尚えんしょうらを恐れていた。もしわしが厳しい態度をとれば力を合わせるであろう。逆に態度をゆるめれば自分で始末をつける。我らの勢いがそうさせたのだ」


と答えました。


そして11月、曹操そうそう易水えきすいに到着すると、

  • 幽州ゆうしゅう代郡だいぐん烏丸うがん族の単于ぜんう代行・普富盧ふふろ
  • 幷州へいしゅう并州へいしゅう)・上郡じょうぐん烏丸うがん族の単于ぜんう代行・那楼なろう

らが、その配下の名王めいおうを引き連れて祝賀に来ました。

豆知識

袁尚えんしょう袁煕えんきの最期について、魏書ぎしょ袁紹伝えんしょうでんが注に引く典略てんりゃくには次のようにしるされています。


袁尚えんしょうは生まれつき武勇にすぐれており、『公孫康こうそんこうの軍勢を奪い取ろう』と考え、袁煕えんきと相談して、『今行けば、公孫康こうそんこうは必ず会うだろう。兄者(袁煕えんき)と一緒に彼をこの手で討とうと思う。遼東りょうとう幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐん)を支配すれば、まだ余裕を持つことができます』と言った。

一方、公孫康こうそんこうの方でも内心計略を立て、『今、袁煕えんき袁尚えんしょうを討たなければ、国家(天子てんし)に申し訳が立たぬ』と考えて、あらかじめ精鋭の士を厩舎うまやひそませておき、その後で袁煕えんき袁尚えんしょうまねいた。

袁煕えんき袁尚えんしょうが中に入ると、公孫康こうそんこうの伏兵がおどり出て彼らをしばり上げ、てついた地面に座らせた。袁尚えんしょうが寒がってむしろを求めたところ、袁煕えんきは『首が万里の旅に出掛ける時になって、なんでむしろがいるのか』と言い、こうして2人は斬られた」


後漢書ごかんじょ孝献帝紀こうけんていぎには「11月、遼東太守りょうとうたいしゅ公孫康こうそんこう袁尚えんしょう袁煕えんきを殺した」とありますので、曹操そうそうが、

「奴(公孫康こうそんこう)はかねてから袁尚えんしょうらを恐れていた。もしわしが厳しい態度をとれば力を合わせるであろう。逆に態度をゆるめれば自分で始末をつける。我らの勢いがそうさせたのだ」

と言ったのは、後述の曹操そうそう冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに帰還した後のことだと思われます。

田疇の功績

軍が引きげてかんの国境に入ると、曹操そうそうは配下の功績を審査して封土を与え、田疇でんちゅう食邑しょくゆう5百戸の亭侯ていこうに取り立てました。

ですが田疇でんちゅうは「最初困難な状況に置かれたために(幽州牧ゆうしゅうぼく劉虞りゅうぐかたきを討つために)、大勢を引き連れて逃亡したのであって、希望も道理も成り立たないうちに、かえってそれを利用した結果となり、本来の意志にはずれる」からと、これを固く辞退します。

これに曹操そうそうは、田疇でんちゅうの真心を理解して彼の意志を尊重し、辞退することを許可しました。

豆知識

魏書ぎしょ田疇伝でんちゅうでんが注に引く先賢行状せんこうこうじょうに、田疇でんちゅうの功績を論じた曹操そうそうの上奏文がせられています。

曹操の上奏文・全文
タップ(クリック)すると開きます。

田疇でんちゅうは文雅豊かに備わり、忠節勇武もまたあきらかであります。下を可愛かわいがる場合は柔和にゅうわであり、上に仕える場合は慎重であります。時期をはかり、道理をおもんばかり、進退は道義に合致しております。

幽州ゆうしゅうは騒乱の当初、蛮族ばんぞくかん民族が入りじって群がり、一家離散して離れ離れの生活で、頼って行く場所もない有様でした。

田疇でんちゅうは一族の者どもを引き連れて無終山むしゅうざんに非難し、北方は盧龍塞ろりょうさいを防ぎ、南方は要害を守り、静謐せいひつつつましく、自分で耕作して生活を立てておりました。民衆は彼に教化されて服従し、みな一致して彼を助け奉戴ほうたいいたしました。

袁紹えんしょう父子の権威・圧力が北方地帯に加わると、遠く烏丸うがんと連合し、終始協力して対処しました。袁紹えんしょうは何度も田疇でんちゅうし寄せましたが、あくまでも頭を下げたりくじけたりしませんでした。

その後、私がご命令をかしこみ、易県えきけんで軍隊を宿営していました時、田疇でんちゅうはるか馬を駆ってみずからやって参り、ちょうど広武君こうぶくん韓信かんしんのためにえん対策を立て、薛公せつこう高祖こうそ劉邦りゅうほう)のために淮南王わいなんおう黥布げいふ)について考察したように、蛮族ばんぞく討伐の形勢をべました。

また、部下たちに私の公開布告を持たせて出発させ、蛮民ばんみんたちを誘わせました。かん民族の中にもそれを切っ掛けに逃亡して来る者がおりました。

烏丸うがんはそれを聞いてふるおののきました。皇軍(曹操そうそう軍)は国境を越え、山中に道を取って9百里(約387km)以上進みましたが、田疇でんちゅうは兵5百を引き連れて山谷の間を先導してくれ、かくて烏丸うがんを滅ぼし、国境の外の地帯を平定いたしました。

田疇でんちゅうの文武の才は効果をあげ、節義は評価にあたいします。まこと恩寵おんちょう・賞与を下し、その立派さを表彰すべきであります。

曹操の器量

牽招けんしょうを称える

曹操そうそう冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに帰還すると、幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐん公孫康こうそんこう)から袁尚えんしょうの首を送ってきたので、馬市にその首をけました。

かつて袁尚えんしょうに仕えていた護烏丸校尉ごうがんこうい牽招けんしょうは、それを見ると悲しみの感情がき起こり、敵将である袁尚えんしょうの首の下で祭祀さいしもうけましたが、曹操そうそうはそれを義気のある行為として評価し、推挙して茂才もさい(秀才)としました。

諫言かんげんを評価する

この烏丸うがん征伐の当時、気候は寒い上にひでりに襲われたため、2百里(約86km)にわたって水がなくなっていました。さらに、軍中で食糧が欠乏し、数千頭の馬を殺して食にあて、30余丈(約69.3m)も地面を掘って、やっと水を手に入れるような状況でした。


冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに帰還した後、曹操そうそうは今回の出陣をいさめた者たちの名前を書き並べて報告するように求めました。人々はその真意が分からず、みなおそれをいだきます。

ですが曹操そうそうは、彼らに手厚い恩賞を与えて、


わしの先の遠征は、幸運によって危険を乗り切ることができた。うまくいったのは、天が助けてくれたからこそだ。したがって、これを常例とするわけにはいかない。

諸君らの諫言かんげんは万全のはかりごとである。そのために恩賞を取らすのだ。今後、発言をひかえたりしないでくれ」


と言いました。


建安けんあん12年(207年)春2月、河北かほくを平定し冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに帰還した曹操そうそうは、これまでの功績に応じて功臣たちに封爵ほうしゃくを行うと、塞外さいがい(国境の外)で袁尚えんしょう袁煕えんき兄弟をかくま烏丸うがんの征伐に出陣します。

その後、田疇でんちゅうの先導により曹操そうそう軍が白狼山はくろうざんで敵を撃ち破ると、袁尚えんしょう袁煕えんき兄弟は幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんに逃亡しますが、遼東太守りょうとうたいしゅ公孫康こうそんこうによって斬られ、曹操そうそうの元に首が届けられました。これにより、袁紹えんしょうの勢力は滅亡したことになります。