幷州(并州)平定後の曹操の功臣への封爵と、その後の烏丸征伐、袁尚・袁煕兄弟の死についてまとめています。
スポンサーリンク
曹操が功臣に報いる
曹操の東征
高幹を討ち幷州(并州)を平定した曹操は、建安11年(206年)8月、東に進軍して青州・北海国・淳于県に駐屯し、楽進と李典に海賊の管承を、于禁に徐州・東海郡の昌豨を征討させました。
管承は海中の島に逃げ込み、昌豨は于禁に降伏しますが、法に則って処刑されました。
関連記事
曹操が功臣に報いる
建安12年(207年)春2月、曹操は青州・北海国・淳于県から冀州・魏郡・鄴県に帰還しました。
功臣に爵位を与える
帰還した曹操は「功臣に爵位を与える」ことを伝える布告を出します。
曹操の布告・全文
タップ(クリック)すると開きます。
儂は義兵を挙げて暴乱を罰し、現在19年を経過したが、征伐した相手に必ず勝てたのは、これは儂の功績なのだろうか。それこそ賢明なる士大夫の力である。天下は未だ完全には平定されていないが、儂は必ず賢明なる士大夫と共にそれを平定できるに違いない。
ところがその功労の報酬をただ1人享受するとなると、儂はどうして落ち着いていられようか。よって、急いで功績を決定し、封爵を行え。
その結果、功臣20余人がみな列侯に取り立てられました。
その他の者はそれぞれ功績の順序に従って封爵を受け、さらに戦死者の孤児にもそれぞれ軽重の差をつけて特別待遇を与えました。
豆知識
『魏書』武帝紀が注に引く『魏書』に、別の布告が載せられています。
曹操の布告・全文
タップ(クリック)すると開きます。
昔、趙奢(戦国時代の趙の名将)と竇嬰(前漢の外戚)が将となった時、千金の下賜を受けながら、一朝にしてそれを分け与えた。そのためによく大功を成就し、いついつまでも名声を残したのである。儂は彼らについて書いた文章を読む度に、その人柄を思慕しないではいられなかった。
諸将・士大夫と共に軍事に携わりながら、幸いにも賢人はその謀を出し惜しみせず、士人たちはその力を余さずに働いてくれた。そのお陰で危難を一掃し、動乱を討ち平らげることができたのである。
それなのに、儂は大きな恩賞を盗んで3万戸の領邑を頂戴している。竇嬰(前漢の外戚)が金をばらまいた義心を追慕し、今受け取っている税を分けて、諸将・掾属及び、かつて陳と蔡を守備した者たちに与えよう。
みなの労苦に報いて大きな恩恵を1人占めにしないことを願うものである。戦死者の孤児に等級をつけ、税として取り立てた穀物を彼らに与えよ。もし作物が豊かに実り、入用を充分まかなうことができ、租税・献上物がすべて入るならば、皆の者全部と共に大いにそれを享受しよう。
荀彧の功績を上表する
3月、曹操はまた、万歳亭侯・荀彧が、
- 「官渡の戦い」において、撤退しようとする曹操を止めたこと
- 「官渡の戦い」の勝利後に、劉表を討伐しようとした曹操を止めたこと
を常ならざる功績と賞し、領邑の加増を求める上表をして、荀彧に千戸を加封します。
曹操の上表・全文
タップ(クリック)すると開きます。
昔、袁紹が畿内に侵入し、官渡で戦闘が行われました。
その当時、我が方は軍勢少なく食料も底をついたため、許[豫州(予州)・潁川郡・許県]に帰りたいと考え、手紙を送って荀彧に相談いたしましたところ、荀彧は私の考えに反対いたしました。彼は留まる場合の有利さを示し、進撃の計を授け、改めて私の心を奮い立たせ、愚かな考え方を変えてくれました。
かくして、私は大逆無道の悪人を打ち砕き、その軍勢を撃ち破って降伏させたのでございます。これこそ荀彧が勝敗の分かれ目を読み取り、世に稀なる智略の士である証拠です。
袁紹が敗北した時には、我が方の兵糧もまた底をついておりましたので、河北平定をはかるのはまだ容易でないと考えまして、南下して劉表を討伐しようと思いました。すると荀彧がまたも私を引き止め、その利害得失を説明してくれましたため、私は旗を翻し、結局悪人の一族を呑み込み、4つの州[冀州・青州・幽州・幷州(并州)]を平定したのでございます。
先の場合、もしも私が官渡から引き退いておりましたならば、袁紹は必ず軍鼓を打ち鳴らして進撃し、我が軍は破滅の状況に追い込まれて、勝利を得る形勢を得られなかったでありましょう。
後の場合、もしも南方征伐を行い、兗州と豫州(予州)を放置しておりましたならば、勝利を求めることが難しかった上に、本拠を失う結果を招いたでありましょう。
荀彧の2つの計策は、滅亡を存立に変え、禍を福に転じたもので、その謀は傑出し、功績は非常なもので、とても私の及ぶところではございません。
だからこそ過去の帝王は、獲物の足跡を指摘する人間の功績を尊重され、実際に獲物を捕らえる犬の恩賞を軽くされたのでございます。古人は軍幕の中で立てる策略を尊び、戦闘における勝利を低く見なしました。
先に下賜され記録されました爵位は、荀彧のずば抜けた勲功にふさわしくありません。どうか重ねて公平に論定なされて、彼の領邑を古人なみにしてくださいますように。
ですが、荀彧はこれを深く辞退したため、曹操は彼を説得し、荀彧を三公に任命しようとしましたが、荀彧は荀攸を使者に立てて深く辞退し、それが10数回にも及んだため、曹操はやっと取りやめにしました。
曹操の説得の言葉・全文
タップ(クリック)すると開きます。
君の策謀は、上奏した2つの事柄にとどまらない。
何度も辞退するのは、魯仲連先生(戦国時代の斉の弁士)を慕うお考えか。そのような態度は、人の生き方をわきまえた聖人の尊重するものではない。
昔、介之推(春秋時代、晋の文公が放浪していた時の臣)の言葉に「人の財産を盗む者でも、なおこれを”盗人”という」とある。君が辞退すると、私は君の功績を盗んだことになる。ましてや君が人に知られぬ策謀を立てて民衆を安全に導き、私を栄誉の光に輝かせてくれたことは、3桁の数にのぼるではないか。
2つの事柄だけを考えて再度辞退するなど、謙虚な態度をとること、どうしてかくも甚だしいのだ。
荀彧は、建安8年(203年)に万歳亭侯に封ぜられた際にもこれを固辞し、曹操の説得を受けて、ようやく爵位を受けていました。
スポンサーリンク
曹操の烏丸征伐
曹操の出陣
その後曹操は、北方の国境の外に赴いて3郡の烏丸(蹋頓・蘇僕延・烏延)を征討しようとします。
すると諸将はみな、
「袁尚は逃亡者に過ぎません。蛮族は貪欲で親愛の念を持ちません。どうしてよく袁尚のために働きましょう。今、敵地深く侵入して征討すれば、劉備が劉表を説き伏せて許[豫州(予州)・潁川郡・許県]を襲撃するに違いありません。万一変事が起これば、事態は後悔しても済みませんぞ」
と言いますが、ただ郭嘉だけが「劉表は劉備を任用できないに違いない」と判断して曹操に遠征を勧め、曹操は彼の意見に従い出陣しました。
郭嘉の進言
タップ(クリック)すると開きます。
公(曹操)は天下に威勢を鳴り響かせているとは申せ、蛮族は自分たちが遠隔の地にいるのを良いことに、きっと防備を設けていないでしょう。その彼らの油断につけ込んで突如これを攻撃すれば、撃破して滅ぼすことができます。
それに袁紹は、漢の住民や蛮人に恩を施しておりまして、その子の袁尚・袁煕兄弟は生存しているのです。今、公(曹操)は4州[冀州・青州・幽州・幷州(并州)]の民を、ただ威勢をもって従えておられるだけで、徳の恵みを施すには至っておりません。
それを放置して南征すれば、袁尚は烏丸の資金力を利用し、主君のために死ぬ決意の臣下を招き寄せます。蛮人が一度行動を起こせば、漢の住民やその他の蛮族は共に呼応し、それに従って蹋頓の反抗心を呼び起こし、高望みの計画まで成り立たせてしまいましょう。そうなれば、おそらく青州・冀州は我が方の領有ではなくなるでしょう。
劉表はただ座って議論している人物に過ぎません。自分で劉備を統御するだけの才能がないことをわきまえております。彼を重く任用すれば、おそらく制御できないでしょうし、軽く任用すれば、劉備は働こうとしないでしょう。国を空にして遠征しましても、公(曹操)には心配がございません。
兵は神速を貴ぶ
曹操が冀州・河間国・易県まで来ると、郭嘉はまた曹操に進言します。
「軍事は神の如き迅速さを尊びます(兵は神速を貴ぶ)。今、千里(約430km)の彼方に敵を襲撃しようとしておりますが、輜重が多く、迅速さの利を得られません。その上、奴らがこのことを聞けば、必ず防備いたします。輜重を留め置いて軽装の兵のみで急行し、奴らの不意を突くのがよろしいでしょう」
曹操はこれに従い、夏5月、曹操軍は幽州・右北平郡・無終県に到達します。
田疇と邢顒
元劉虞配下の田疇
かつて袁紹は、幽州・右北平郡の徐無山に勢力を保っていた田疇に度々使者を派遣して招聘・命令し、また将軍の印を授け、田疇が統率している人々を落ち着かせ、懐かせようとしましたが、田疇はそれらすべてを拒否して受けませんでした。
田疇の客・邢顒
曹操が冀州を平定すると、田疇の客・邢顒は、
「黄巾の乱が起こってから20余年、四海の内は鼎の中が沸き立つ如く乱れ、民衆は流浪しています。今、聞くところでは『曹操の法令は厳正である』とか。民は騒乱に飽き飽きしています。騒乱が行き着くところまで行けば平和が訪れましょう。私が率先して曹操に仕えたいと存じます」
と言い、旅支度をして郷里(冀州・河間国・鄚県)に帰ったので、田疇は邢顒を評して「民の先覚者(先駆者)である」と言いました。
こうして邢顒は曹操に目通りすると、「先導となって柳城に撃ち勝つ」ことを願い出ます。
すると曹操は、邢顒を召し寄せて冀州の従事とし、当時の人々は「徳行、堂々たる邢子昂(子昂は邢顒の字)」と彼を称えました。
曹操に招かれる
烏丸と鮮卑は共にそれぞれ田疇に使節・通訳を派遣して、貢ぎ物や贈り物を届けており、田疇はすべて慰撫して受納し、侵略しないように命じていました。
ですが田疇は、烏丸が昔、右北平郡の高官を多数殺害したことを、今でも根に持っていましたが、彼らを討伐するにはまだ力不足でした。
そんなところへ、烏丸征伐に赴く曹操が使者を派遣して田疇を招くと、田疇はその家臣に言いつけて旅装を整えるように促しました。
この時、田疇の家臣は、
「昔、袁公(袁紹)があなたを慕って、礼を尽くした命令が5回も来ましたが、あなたは道義を盾に屈服されませんでした。今、曹公(曹操)は1回訪れただけなのに、あなたは間に合わないことを心配している様子なのは、一体なぜでしょうか」
と尋ねますが、田疇は笑って、
「このことは、君の分かることではない」
と答えました。
こうして田疇は、曹操の使者について曹操の軍営に到着します。
曹操は、田疇を司空の戸曹掾に任命しましたが、「田子泰(子泰は田疇の字)は儂が下役として良い男ではない」と言い、すぐさま茂才(秀才)に推挙して冀州・勃海郡・蓨県(脩県)の県令に任命します。
ですが、田疇は任地の蓨県(脩県)に行かず、軍に随行して無終県に宿営しました。
スポンサーリンク
白狼山の戦い
田疇の助言
時節はちょうど夏の雨期にあたり、しかも海岸沿いの低地はぬかるんで水が溜まっていたので、道が通れなくなっていました。また、敵も細い道の要所を遮断して守備していたので、軍は進むことができません。
そこで曹操が田疇に相談すると、田疇は次のように言いました。
「この道は、秋と夏はいつも水に浸かっています。浅くても車や馬は通れず、深くても舟を浮かべられず、長い間難儀してまいりました。
昔、(幽州・)北平郡(右北平郡)の治所(郡庁所在地)は平岡県にございまして、街道は盧龍塞に出て柳城に達していましたが、建武(後漢の光武帝の年号)以来、崩れ落ちて断絶し、200年になろうとしています。しかし、それでもごく細い小道があって、そこを辿って行くことができます。
今、敵は我が大軍が無終県を出てから進むことができず、撤退すると思っているので、気を抜いて備えをしていないでしょう。
もし、秘かに軍を転じて盧龍塞の入り口から白檀県の険を越え、無防備な土地に出たならば、道は近い上に便利です。彼らの不意を襲いますれば、蹋頓の首は戦わずして我が物となるでしょう」
これを聞いた曹操は「よし」と頷きました。
曹操の奇襲
田疇の助言を得た曹操は、軍を率いて引き返すと、水辺の道端に、
「現在夏の盛りで、道路は不通である。しばらく秋冬の時節を待って、再び軍を進める」
と記した大きな木の立て札を立てます。
すると、敵軍の斥候の騎兵がそれを見て「本当に大軍が去るのだ」と思い込みました。
そこで曹操は、田疇にその手勢を引き連れて先導させ、徐無山を登り盧龍塞を出ると、塞の外は道が断絶して通れませんでした。そこで山を掘り谷を埋めて、5百余里(約215km)に亘って道をつくり、白檀県を通って平岡県を過ぎると、鮮卑族の領土を横切って東方の柳城を目指します。
関連地図
- ●は盧龍塞
- 徐無山の位置は『中国歴史地図集』による。『資治通鑑』胡三省注によると「徐無山は徐無県の西北」とあり、上記地図では無終県と●の中間にあたる。
その結果、柳城から2百余里(約86km)離れたところで、敵軍は初めて曹操軍の存在に気づきました。
曹操軍を発見した袁尚と袁煕(袁熙)は、
- 幽州・遼西郡の大人・蹋頓(蹋頓)
- 幽州・遼西郡の単于・楼班*1
- 幽州・右北平郡の単于・能臣抵之
らと共に、数万の騎兵を率いて曹操軍を迎え撃ちます。
脚注
*1中平4年(187年)、張純の乱に呼応し、その後幽州牧・劉虞に恭順した幽州・遼西郡の烏丸族の大人・丘力居の子。
白狼山の戦い
8月、曹操軍は白狼山に登ったところで突然敵と遭遇。後方の輜重車には鎧を身につけている者は少なく、敵の軍勢の勢いが甚だ盛んなのを見て、周りの者はみな恐怖しました。
ですが、高みに登って敵陣が整っていないことを確認した曹操は、張遼を先鋒として攻撃をしかけます。すると敵の軍勢は総崩れとなり、蹋頓と名王以下の主立った者を斬りました。
蛮族・漢族の降伏者は20余万人にのぼり、逃亡する者を追いかけて柳城まで迫ります。
白狼山の戦い
幽州・遼東郡の単于・速僕丸(蘇僕延)や遼西郡、右北平郡の酋長たちは、同族を見捨て、袁尚・袁煕と共に幽州・遼東郡に逃亡しましたが、まだ数千騎の軍勢を保有していました。
袁尚・袁煕の死
当時、遼東太守の公孫康は、都から遠く離れていたため朝廷に服従していませんでした。
9月、曹操が烏丸を撃ち破ると、
「このまま彼(公孫康)を征討すれば、袁尚兄弟を擒にできるでしょう」
と進言する者がありました。すると曹操は、
「今に公孫康が袁尚と袁煕の首を送ってくる。兵を煩わせる必要はない」
と言い、そのまま兵を率いて柳城から帰途につきます。
すると公孫康は、即座に袁尚、袁煕、速僕丸(蘇僕延)らを斬り、その首を送って寄越しました。
この時、曹操の諸将の中に、
「公(曹操)が帰途につかれると、公孫康が袁尚・袁煕の首を斬って寄越したのは、なぜでしょうか」
と質問した者がありました。すると曹操は、
「奴(公孫康)はかねてから袁尚らを恐れていた。もし儂が厳しい態度をとれば力を合わせるであろう。逆に態度を緩めれば自分で始末をつける。我らの勢いがそうさせたのだ」
と答えました。
そして11月、曹操が易水に到着すると、
- 幽州・代郡の烏丸族の単于代行・普富盧
- 幷州(并州)・上郡の烏丸族の単于代行・那楼
らが、その配下の名王を引き連れて祝賀に来ました。
豆知識
袁尚と袁煕の最期について、『魏書』袁紹伝が注に引く『典略』には次のように記されています。
「袁尚は生まれつき武勇に優れており、『公孫康の軍勢を奪い取ろう』と考え、袁煕と相談して、『今行けば、公孫康は必ず会うだろう。兄者(袁煕)と一緒に彼をこの手で討とうと思う。遼東(幽州・遼東郡)を支配すれば、まだ余裕を持つことができます』と言った。
一方、公孫康の方でも内心計略を立て、『今、袁煕と袁尚を討たなければ、国家(天子)に申し訳が立たぬ』と考えて、あらかじめ精鋭の士を厩舎に潜ませておき、その後で袁煕と袁尚を招いた。
袁煕と袁尚が中に入ると、公孫康の伏兵が躍り出て彼らを縛り上げ、凍てついた地面に座らせた。袁尚が寒がって蓆を求めたところ、袁煕は『首が万里の旅に出掛ける時になって、なんで蓆がいるのか』と言い、こうして2人は斬られた」
『後漢書』孝献帝紀には「11月、遼東太守の公孫康が袁尚と袁煕を殺した」とありますので、曹操が、
「奴(公孫康)はかねてから袁尚らを恐れていた。もし儂が厳しい態度をとれば力を合わせるであろう。逆に態度を緩めれば自分で始末をつける。我らの勢いがそうさせたのだ」
と言ったのは、後述の曹操が冀州・魏郡・鄴県に帰還した後のことだと思われます。
田疇の功績
軍が引き揚げて漢の国境に入ると、曹操は配下の功績を審査して封土を与え、田疇を食邑5百戸の亭侯に取り立てました。
ですが田疇は「最初困難な状況に置かれたために(幽州牧・劉虞の仇を討つために)、大勢を引き連れて逃亡したのであって、希望も道理も成り立たないうちに、かえってそれを利用した結果となり、本来の意志に外れる」からと、これを固く辞退します。
これに曹操は、田疇の真心を理解して彼の意志を尊重し、辞退することを許可しました。
豆知識
『魏書』田疇伝が注に引く『先賢行状』に、田疇の功績を論じた曹操の上奏文が載せられています。
曹操の上奏文・全文
タップ(クリック)すると開きます。
田疇は文雅豊かに備わり、忠節勇武もまた顕かであります。下を可愛がる場合は柔和であり、上に仕える場合は慎重であります。時期を図り、道理を慮り、進退は道義に合致しております。
幽州は騒乱の当初、蛮族・漢民族が入り交じって群がり、一家離散して離れ離れの生活で、頼って行く場所もない有様でした。
田疇は一族の者どもを引き連れて無終山に非難し、北方は盧龍塞を防ぎ、南方は要害を守り、静謐で慎ましく、自分で耕作して生活を立てておりました。民衆は彼に教化されて服従し、みな一致して彼を助け奉戴いたしました。
袁紹父子の権威・圧力が北方地帯に加わると、遠く烏丸と連合し、終始協力して対処しました。袁紹は何度も田疇を召し寄せましたが、あくまでも頭を下げたり挫けたりしませんでした。
その後、私がご命令をかしこみ、易県で軍隊を宿営していました時、田疇は遙か馬を駆って自らやって参り、ちょうど広武君が韓信のために燕対策を立て、薛公が高祖(劉邦)のために淮南王(黥布)について考察したように、蛮族討伐の形勢を述べました。
また、部下たちに私の公開布告を持たせて出発させ、蛮民たちを誘わせました。漢民族の中にもそれを切っ掛けに逃亡して来る者がおりました。
烏丸はそれを聞いて震え戦きました。皇軍(曹操軍)は国境を越え、山中に道を取って9百里(約387km)以上進みましたが、田疇は兵5百を引き連れて山谷の間を先導してくれ、かくて烏丸を滅ぼし、国境の外の地帯を平定いたしました。
田疇の文武の才は効果をあげ、節義は評価に値します。真に恩寵・賞与を下し、その立派さを表彰すべきであります。
曹操の器量
牽招を称える
曹操が冀州・魏郡・鄴県に帰還すると、幽州・遼東郡(公孫康)から袁尚の首を送ってきたので、馬市にその首を懸けました。
かつて袁尚に仕えていた護烏丸校尉・牽招は、それを見ると悲しみの感情が湧き起こり、敵将である袁尚の首の下で祭祀を設けましたが、曹操はそれを義気のある行為として評価し、推挙して茂才(秀才)としました。
諫言を評価する
この烏丸征伐の当時、気候は寒い上に旱に襲われたため、2百里(約86km)に亘って水がなくなっていました。さらに、軍中で食糧が欠乏し、数千頭の馬を殺して食にあて、30余丈(約69.3m)も地面を掘って、やっと水を手に入れるような状況でした。
冀州・魏郡・鄴県に帰還した後、曹操は今回の出陣を諫めた者たちの名前を書き並べて報告するように求めました。人々はその真意が分からず、みな懼れを抱きます。
ですが曹操は、彼らに手厚い恩賞を与えて、
「儂の先の遠征は、幸運によって危険を乗り切ることができた。うまくいったのは、天が助けてくれたからこそだ。したがって、これを常例とするわけにはいかない。
諸君らの諫言は万全の計である。そのために恩賞を取らすのだ。今後、発言を控えたりしないでくれ」
と言いました。
建安12年(207年)春2月、河北を平定し冀州・魏郡・鄴県に帰還した曹操は、これまでの功績に応じて功臣たちに封爵を行うと、塞外(国境の外)で袁尚・袁煕兄弟を匿う烏丸の征伐に出陣します。
その後、田疇の先導により曹操軍が白狼山で敵を撃ち破ると、袁尚・袁煕兄弟は幽州・遼東郡に逃亡しますが、遼東太守・公孫康によって斬られ、曹操の元に首が届けられました。これにより、袁紹の勢力は滅亡したことになります。