正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧⑰。巴郡王氏(王平・王訓)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
巴郡王氏系図
巴郡王氏系図
この記事では巴郡王氏の人物、
についてまとめています。
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お⑰(巴郡王氏)
第1世代(王平)
王平・子均
生年不詳〜蜀の延熙11年(248年)没。益州・巴郡・宕渠県の人。子に王訓。
もとは母方の何氏に養われて何平と名乗ったが、後に王姓に戻った。
建安20年(215年)9月、巴郡の7豪族の内、蛮王の杜濩と賨邑侯の朴胡は、巴郡の蛮人と賨邑の住民を引き連れて曹操に帰順した。この時王平も彼らに連れられて洛陽に行き、校尉の官を与えられて曹操の漢中征伐に従ったが、劉備に降伏して牙門将・裨将軍に任命された。
蜀の建興6年(228年)、参軍・馬謖の先鋒隊に所属して街亭の守備にあたったが、馬謖は水路を捨て山に登って陣を構え、彼の指示は煩雑(面倒なまでに混み入っていること)を極めた。王平は何度も馬謖を諫めたが馬謖は聞き入れず、大敗を喫して軍兵はことごとく四散した。
この時、ただ王平が指揮する千人だけは陣太鼓を打ち鳴らして踏みこたえたので、魏の大将・張郃は伏兵の存在を疑って近づこうとしなかった。そこで王平は徐々に諸営の残留兵を収容し、将兵を率いて帰還した。
丞相の諸葛亮は、馬謖と将軍の張休と李盛を処刑し、将軍・黄襲らの兵を取り上げたが、王平だけには特別に敬意を払い、参軍の官を加えて五部の兵を統率させ、討寇将軍・亭侯に封じた。
蜀の建興9年(231年)、諸葛亮がまたも出撃して祁山を包囲すると(第4次北伐)、魏の明帝(曹叡)は司馬懿を長安に駐屯させ、張郃・費曜・戴陵・郭淮らを指揮させた。
諸葛亮は、上邽を守る費曜・戴陵を撃破してその地の麦を刈り取ったが、司馬懿が要害に立て籠もって戦おうとしないため引き揚げた。司馬懿はこれを追うも、到着するとやはり山上に登って塹壕を掘り、戦おうとしなかったが、諸将の出撃要請に悩まされた。
5月、司馬懿は張郃に、祁山を囲んで南に陣取る無当監(蜀の精鋭軍の指揮官)・王平を攻撃させ、自らは真ん中の道から諸葛亮に向かった。
王平は守りを固めて動かず、諸葛亮は魏延・高翔・呉班を防衛に送り、これを大いに破って、3千級の首、5千領の玄の鎧、3,100張の弩を獲得した。司馬懿は陣に帰って立て籠もった。
蜀の建興12年(234年)、第5次北伐の陣中で諸葛亮が亡くなると、魏延は諸葛亮の遺命に背いて戦闘の継続を主張し、諸葛亮の遺命に従って撤退を始めた楊儀らの先回りをして南谷口に陣を敷いた。
魏延は兵を派遣して楊儀らを迎え撃たせたが、楊儀らは何平を前方に置いて魏延を防がせた。
何平は魏延の先陣を怒鳴りつけ、「公(諸葛亮)が亡くなられ、その身体がまだ冷たくならないうちに、お前たちはどうして平気でこんなことをするのだっ!?」と言った。
魏延の士卒は、非は魏延の方にあることを分かっていたので、命令に従う者はなく、軍兵はみな四散した。
その後後典軍・安漢将軍に昇進し、車騎将軍・呉懿(呉壱)の副将として漢中に留まり、漢中太守を兼任。建興15年(237年)には安漢侯に爵位を上げられ呉懿(呉壱)に代わって漢中の総指揮官となった。
延熙元年(238年)、大将軍・蔣琬が沔陽県に駐留した時、王平は改めて前護軍となり、蔣琬の幕府(大将軍府)の事務を取り仕切った。
延熙6年(243年)、蔣琬が帰途につき、病気が悪化したため広漢郡・涪県に滞留した時、王平を前監軍・鎮北将軍に任命し、漢中の指揮をとらせた。
蜀の延熙7年(244年)春、魏の大将・曹爽が歩兵・騎兵合わせて10余万を率いて漢川に向かい、先鋒は早くも駱谷に押し寄せた。
この時、漢中の守備兵は3万に満たなかったため諸将は非常に慌てた。ある者は、
「現在の力では的を防ぐのに不充分です。敵の進むのに任せて漢・楽の2城を固守すべきかと存じます。たとえ賊軍を侵入させても、そうこうしている間に涪県にいる本隊は充分関城(俗名・張魯城)を救援できましょう」
と言ったが、王平は、
「それは違う。漢中は涪県から千里(約430km)近い距離にある。賊軍がもし関城を手に入れるようなことになれば、それこそ禍の種となるであろう。今はまず劉護軍(劉敏)と杜参軍(杜祺)を派遣して興勢山に立て籠もらせ、私が後方の備えに当たるのが良い。もし賊軍が兵を分けて黄金谷に向かって来るならば、私が千人を率いて自らこれに当たろう。その間に涪県の本隊も到着するはずだ。これこそ上計である」
と言い、護軍の劉敏だけが王平に賛同して即刻行動に移すと、やがて涪県の諸軍と大将軍・費禕が成都から相継いで到着し、魏軍は引き揚げていった。この時、鄧芝が東方(江州)に、馬忠が南方(建寧)に、王平が北境にあっていずれも優れた功績を挙げた。
王平は戦陣の中で成長したため字が書けず、知っている文字は10個足らずだったので、口頭で文書を作成したが、すべて筋が通っていた。人に『史記』や『漢書』の本紀・列伝を読ませて、全体的な話の筋は充分知っており、時々その2書について論評したが、本質から外れていなかった。
法律・規則を遵守して冗談の類は一切口にせず、朝から晩まで1日中きちんと座り、まるで武将の感じはしなかった。しかしながら性質が偏狭で疑い深く、軽はずみな人柄で、それが欠点となっていた。
蜀の延熙11年(248年)に亡くなった。
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