正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧⑦(何儀・何顒・何氏・何祗・何定・何禎・何典)です。
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凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
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か⑦
何(か)
何儀
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡、潁川郡の黄巾。
建安元年(196年)春正月、汝南郡・潁川郡の黄巾、
- 何儀
- 劉辟
- 黄邵
- 何曼
らがそれぞれ数万の軍勢を擁し、最初は袁術に味方していたが、今度は孫堅に近づいていた。
2月、曹操は軍を進めて彼らを撃破。劉辟・黄邵らを斬り、何儀とその軍兵はすべて降伏した。
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何顒・伯求
生年不詳〜初平元年(190年)没。荊州・南陽郡・襄郷県の人。
若い時、郭泰・賈彪らと洛陽に遊学し、郭泰らは彼と同じ気質・好みを持っていた。
何顒は太学で名を揚げたため、朝廷の名臣たち、太傅の陳蕃、司隷校尉の李膺らはみな彼と深くつき合った。
友人の虞偉高が父の仇討ちを果たせぬまま重い病気で臨終を迎えようとしていたので、何顒は虞偉高のために仇討ちを果たし、その首を彼の墓に捧げて酒を注いで祀った。
陳蕃・李膺が宦官に敗れ、党錮の禁*1が起こると、何顒もまたその対象とされた。そこで何顒は姓名を変え、豫州(予州)・汝南郡の辺りに逃亡して身を潜め、行く先々でその地の豪傑たちと交際し、荊州と豫州(予州)の地域で名声を得た。
曹操が若い頃、世間に彼を評価する者はまったくいなかったが、ただ梁国の橋玄と何顒だけが彼に注目し、また何顒は若い頃の荀彧を特別に評価して、「王者を補佐する才能を持っている」と言った。
袁紹が何顒の人となりを愛したので、その気持ちに応えて「奔走の友*2」として交わりを結んだ。
この当時、天下の士大夫の多くが(第2次)党錮の禁*1に遭っていたので、何顒は毎年2、3度洛陽に潜入して袁紹の元で計画を練り、多くの追い詰められた士人たちを苦難から救い出してやった。
一方、袁術もまた豪侠の士として袁紹と名声を競っていたが、何顒は袁術の元に常時出入りしなかったので、袁術に深く恨まれた。
その後、(第2次)党錮の禁*1が解除されると、何顒は司空府に辟召かれた。三府(三公の府)の属官たちの会議がもたれる度に、何顒の滾々と湧き出る計策に、論者たちはみな到底及びもつかないと考えた。
北軍中候に栄転したところ、董卓は彼を長吏(議郎)に任じた*3。この時何顒は、侍中の周毖、城門校尉の伍瓊らと共に、冀州に逃亡した袁紹を庇って勃海太守に任命するように進言した。
董卓が長安に遷都すると、
- 黄門侍郎の荀攸
- 議郎の鄭泰
- 侍中の种輯
- 越騎校尉の伍瓊
らと「董卓暗殺」の謀議をこらしたが、計画実行の直前になって事が露見し、何顒と荀攸は逮捕・投獄され、何顒は心配と恐怖のあまり自殺した*4。
後年、荀彧は尚書令となると、人を遣って叔父の司空・荀爽の遺体を引き取り、同時に何顒の遺体も安置して、荀爽の墓の側に埋葬した。
脚注
*1後漢末期、宦官の専横に反対した名臣たちが官吏資格を剥奪された事件。
*2心を許し合い危難に駆けつける仲間。何顒の他に、張孟卓(張邈)・呉子卿(諱不明)・許子遠(許攸)・伍徳瑜(伍瓊)がいる。
*3『後漢書』党錮伝・何顒伝では「病と称して就任しなかった」とある。
*4『後漢書』党錮伝・何顒伝では「司空の荀爽・司徒の王允たちと共に董卓の暗殺を謀った。たまたま荀爽が亡くなり、何顒は別件で董卓により獄に繋がれ、憂いと憤りを発して亡くなった」とある。
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何氏(張当が選んだ才人)
生没年不詳。
張当はこっそりと自分が選んだ才人(女官)の張氏・何氏らを曹爽に贈ったことがあったが、朝廷では何か不正があるのではないかと疑い、張当を逮捕して罪状を取り調べた。
すると張当は「曹爽が何晏らと反逆の陰謀をこらし、以前揃って兵士を訓練し、3月になるのを待ってクーデターを起こそうとしていた」と陳述した。
その結果、何晏らは逮捕・投獄された。
何氏(李密の母)
生没年不詳。
楊戯の同県(益州・犍為郡・武陽県)の後輩に李密、字を令伯という者がいた。
李密の祖父・李光は朱提太守となった。父は若死し、母の何氏が再婚したため、李密は祖母に養育された。
何祗・君粛
生没年不詳。益州・蜀郡の人。
若い頃は貧乏であったが、寛容で情に厚くさばけた人柄で、体格は大変立派であった。また、よく飲んで音楽と女色を好み、節度を保つことがなかったので、当時の人で彼を尊重する者は少なかった。
かつて井戸の中に桑が生えている夢を見たので、夢占いの趙直に尋ねると、
「桑は井戸の中のものではありませんから、必ず植え替えなければなりません。しかも桑の字(桒)は四十の下に八を書きます。あなたの齢は多分それ以上にはならないでしょう」
と言った。すると何祗は、笑って「それだけあれば充分だ」と言った。
初め郡に仕官し、後に督軍従事*5となった。当時、諸葛亮は非常に厳しく法を執行していたので、秘かに何祗が「遊蕩三昧に耽っていて職務に励まない」と聞くと、ある時不意を襲って牢獄を調査することにした。人々はみな何祗のために心配した。
何祗はそのことを秘かに聞くと、夜、燈火を点して囚人を見終わると、彼らの罪状書を読んだ。
諸葛亮が早朝に赴くと、何祗はすでにすべてを暗記していて、その応答・説明は流れるようだったので、諸葛亮は大いに彼を評価した。
外に出て成都の県令に任じられたが、当時、郫県の県令が欠員になっていたので、何祗が2県の県令を兼任した。
2県の人口はむやみに多く、都に近接しており悪事を働く者が多かった。人を取り調べる時はいつも居眠りし、心に悟るところがあるとすぐに誤魔化しを見つけ出した。人々はみな何祗の摘発を恐れ、ある者は術でも使うのかと考え、誤魔化そうとする者はいなくなった。
人に算盤を持たせておいて、何祗はその読み上げる声を聞きながら暗算し、少しも狂わなかった。彼の精密さはこれ程のものであった。
汶山の蛮人が不穏な動きを示した際、何祗を汶山太守に任命すると、漢民も蛮民も服従・信頼した。
広漢太守に転任した後、汶山の蛮人は反乱を起こし「前の何府君(何祗)に来ていただければ、我らを落ち着かせられる」と言い訳した。
当時、再び何祗を辺地に行かせることが難しかったので、何祗の一族の者を抜擢して汶山太守に任じたところ、汶山は再び落ち着きを取り戻した。
犍為太守に転任し48歳で亡くなった。趙直の言葉通りとなった。
逸話
初め楊洪は李厳の功曹であったが、李厳がまだ犍為太守の任にある間に、楊洪はすでに蜀郡太守となった。
楊洪は門下書佐の何祗を迎え、才知と能力があったので郡吏に推挙したところ、数年後に広漢太守となった。その時楊洪もまた依然として蜀郡太守であった。
そのため、西方の人々はみな、当代の人物の能力を充分に引き出したと、諸葛亮の人材起用に感服した。
張嶷が重病にかかった時、彼の家は平素より貧乏でどうにもならず、広漢太守の何祗が博愛の人との評判だったので、張嶷は長年疎遠にしていたものの、病を押して車に乗り何祗の元に赴いて、病気を治してくれるように頼み込んだ。
何祗が財産を傾けて医療に当たってくれたお陰で、数年の内にすっかり良くなった。
脚注
*5益州牧の属官。獄を司る?
何定(何布)
生年不詳〜鳳凰元年(272年)没。豫州(予州)・汝南郡の人。
元々孫権の側仕えの者であったが、後に宮中の仕事をやめて小役人に当てられた。
何定はおべんちゃらを使って上の者に取り入ることに巧みで、自分は先帝(孫権)の下で使われていた者だと上表し、宮中の側仕えの役に戻りたいと希望した。
孫晧(孫皓)は何定を楼下都尉に任じ、酒や穀物の買い入れのことを司らせた。
何定は権力を笠に着て欲しいままに他人を害ったり、過分に目をかけたりしたが、孫晧(孫皓)は彼を信任し、多くの事柄をその裁量に任せた。
甘露元年(265年)当時、殿上に侍る何定が言葉巧みに主君に取り入り、寵愛を受けて政治を任されていたことから、陸凱は面と向かって何定を非難した。何定は陸凱をひどく恨み、彼を中傷しようと企てたが、陸凱はそうしたことを少しも意に介しなかった。
何定が「息子のために少府の李勗(李勖)の女を嫁に迎えたい」との話を持ち出したところ、李勗(李勖)は承諾しなかった。
何定はそのことを遺恨に思い、李勗(李勖)のことを孫晧(孫皓)に讒言した。孫晧(孫皓)は李勗(李勖)の一家を幼い子供まで含めて皆殺しにし、その死体を焼き捨てた。
[建衡2年(270年)4月、殿中列将の何定が「少府の李勗(李勖)はみだりに馮斐を殺し、勝手に軍を率いて帰還した」と上言し、李勗(李勖)と徐存の一家眷属はすべて誅殺された]
孫晧(孫皓)は、孫泰の息子の孫秀が地方にあって兵権を握っていることに不安を禁じ得なかった。
この年、孫晧(孫皓)は何定を派遣して、兵5千人を率いて長江を遡り、夏口で巻狩りを行わせた。以前から人々の間で「孫秀は罠に嵌るであろう」と広く囁かれており、何定がこんな遠方まで来たことから、孫秀は不安に駆られ、妻子や子飼いの兵士たち数百人を連れて晋に亡命した。
この当時、何定が権力を欲しいままにし、宦官たちが政治に口出しをしていたので、陸抗は「一国を開き一家の血統を子孫に伝えようとするならば、小人(つまらぬ連中)を任用してはならない」と上疏した。
建衡3年(271年)、何定が「聖谿に運河を掘って長江や淮水(一説に泰淮水)への水運が通じるようにしてはどうか」と建議をし、孫晧(孫皓)は薛瑩に命じ、1万人の人夫をつけて現地で監督に当たらせたが、大きな岩が多くて工事が進まず、結局中止して引き上げたので、薛瑩は地方に出されて武昌の左部督となった。
何定はまた部将たちに命じ、それぞれに立派な犬を献上させた。みな千里の遠方から犬を買い求めて、1匹の犬の値が縑数千匹にあたるまでになった。犬につけるつなぎ紐は1万銭の値段になり、1匹の犬に1人の兵士が配され、犬に食べさせるために兎を捕らえて宮中の台所で調理されて、兎がほとんど獲りつくされてしまった。
呉国の人々はこぞって「こうしたことはみな何定のためだ」と怨んだが、孫晧(孫皓)は忠勤に励む者として彼に列侯の爵位を賜った。
ある時賀斉の孫・賀邵は、暴虐を振るい驕り高ぶって政事に破綻を来した孫晧(孫皓)を諫めると、孫晧(孫皓)はひどく不愉快に思った。賀邵は公のために尽くし、正しい道を曲げようとしなかったため、何定をはじめとする孫晧(孫皓)の取り巻きたちは彼を煙たがっていたので、これを機に共謀して「賀邵は楼玄と共に国家を誹謗している」と讒言した。
鳳凰元年(272年)、言葉巧みに主君に取り入り権力を欲しいままにした何定も、ついに悪事が発覚して誅殺された。孫晧(孫皓)は、その悪事は張布の場合と似ているということで、死後、何定の名前を何布と改めさせた。
何定が誅殺されると、孫晧(孫皓)は「薛瑩の聖谿での失敗」を再び取り上げ、彼を裁判にかけ広州へ流罪としたが、右国史・華覈の上疏により左国史に復帰した。
何典
生没年不詳。呉の天紀3年(279年)に広州で反乱を起こした郭馬の部将(部隊長)。
郭馬は元々合浦太守・脩允配下の私兵の隊長であったが、脩允の死後、兵士たちが分割されて別々の所に配属させられることになり、そのことを不満に思っていた。
郭馬は孫皓が広州の戸籍を調べ直していることを利用して、部将の何典、王族、呉述、殷興らと共謀し、兵士や民衆たちの不安を煽って動揺させると、人数を集めて広州督の虞授を攻め殺した。この時何典は、蒼梧郡に兵を進めた。
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