正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㉜、「王」から始まる人物の一覧㉛王駘・王度・王旦・王稚・王沖・王忠(司隷・右扶風の人)・王直・王蠋・王定(兗州・済陰郡の人)です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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お㉜(王㉛)
王(おう)
王駘
生没年不詳。春秋時代の魯国の兀者(刑罰で足の筋を切られた者)。『荘子』徳充符篇に次のような話があり「明鏡止水」の語源となった。
当時、王駘には孔子に匹敵するほどの門弟がいたが、彼は特別なことは何もしていないのに、訪れた者はみな何かを得て帰っていった。
これを不思議に思った常季が孔子に尋ねると、孔子は王駘がいかに立派な人物 であるかを説き聞かせ、
「あの方には何物にも動かされることのない心の静かさがある。自分の姿を水に映して見ようとする場合には、流れる水ではなく静かに止まっている水を鏡とするであろう。それと同じように、何事にも動じない心を保つ者だけが、他人に心の安らぎを与え、その求めるものを与えることができるのだ」
と言ったという。
魏王・曹丕が漢の献帝から天下を譲る詔勅を下されると、これを辞退した曹丕に多くの者がこれを受けるように上書した。それらに対する曹丕の布令の中の一節に、
「激情の士は名声に身を投げだし、正義の士は清潔さを高しとし、粗末な食物を摂り瓢簞から水を飲みながらもその生活を楽しんだ。それだからこそ仲尼(孔子)は王駘を師とし、鄭国の子産は申徒(申徒嘉)を称えたのである」
と名前が登場する。(『魏書』文帝紀)
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王度
生没年不詳。兗州・東郡・東阿県の県丞。
光和7年(184年)、黄巾の乱が起こると、王度は朝廷に背いて彼らに呼応し、倉庫を焼き払った。
県令は城壁を乗り越えて逃げ、官吏・県民は老人や幼児を背負って東方の渠丘山に奔ったが、王度はがら空きの城を得たものの守ることができず、城を出て西方へ5〜6里(約2.15km〜2.58km)行ったところに駐屯した。
ところがこの時非難した県民の中にいた程昱は、県民を煽動して城に引き返し、県令を探し出して城を守備した。
王度らは城を攻撃したが、陥すことができず立ち去ろうとしたところへ、官民を引き連れて城から撃って出た程昱の攻撃を受けて敗走した。
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王旦
生没年不詳。占師。
文帝(曹丕)の母・卞皇后は、漢の延熹3年(160年)12月、青州・斉郡(斉国)の白亭で生まれたが、この時何日も部屋中に黄気が充満した。
父の敬侯がこれを不審に思って、占師の王旦に尋ねると、王旦は「これはめでたい しるし ですぞ」と言った。
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王稚
生没年不詳。新附督(呉から魏に寝返った者たちで構成された部隊の隊長)。
呉の永安7年(264年)夏4月、魏の王稚が海から揚州・会稽郡・句章県に侵入してその地の長官を捕虜にし、財貨や男女2百余人を略奪したが、これを迎え撃った呉の将軍・孫越に船一隻を拿捕され、30人が捕虜となった。
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王沖
生没年不詳。益州・広漢郡の人。
牙門将となって江州の督・李厳の指揮下にあったが、李厳に憎まれ、罰せられることを恐れて魏に降伏し、魏によって楽陵太守に任命された。
魏に降伏した後のこと。同じく魏に降伏していた孟達に、
「[以前の孟達の去就(関羽を救援しなかったこと)について]諸葛亮は歯ぎしりして怒り、あなた(孟達)の妻子を処刑するおつもりだったが、幸いに劉備がお許しにならなかったのだ」
と話したが、孟達は「諸葛亮の判断は筋道だっている。絶対にそのようなことはない」と言って、王沖の言葉をまったく信用しなかった。
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王忠(司隷・右扶風の人)
生没年不詳。司隷・右扶風の人。
若い頃に亭長となり、三輔が動乱に陥った時、王忠は飢えに苦しんで人を食べたことがあった。
その後、仲間を連れて南方の武関に向かった時のこと。ちょうど婁子伯(婁圭)が荊州を治めており、北方から来る者を配下に加えようと王忠らを出迎えたが、王忠は彼の下につきたくなかったので、仲間たちを引き連れて婁子伯(婁圭)を迎え撃ち、その兵器を奪って千余人の軍兵を集め、曹操に帰順する。
建安4年(199年)夏4月、劉備が背き、車冑を殺害して徐州を乗っ取ったことを知った曹操は、
- 司空長史の劉岱
- 中郎将の王忠
を派遣して劉備を攻撃させたが、彼らでは劉備に勝つことができず、劉備は劉岱・王忠に向かって、
「お前たちが百人来たとしても儂をどうすることもできぬ。曹公(曹操)が自身で来るなら、どうなるか分からぬがなっ!」
と言い放った。
また、当時五官中郎将であった曹丕は、以前王忠が「人を食べたことがある」ことを知っていたので、曹操のお供をして外に出た時、芸人に命じて墓場に転がっている髑髏を取って来させ、王忠の馬の鞍に結びつけて笑いの種にしたという。
曹操に魏公就任を勧める30名の連名の中に「揚武将軍・都亭侯・王忠」の名前がある。
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王直
生没年不詳。呉の部将。
戯口の守備にあたっていた呉の部将の晋宗が、同じ部将の王直を殺し、部下を引き連れて魏に寝返った。
時期不明。呉の黄武2年(223年)6月に孫権配下の賀斉が率いる糜芳・劉邵らの攻撃を受けて、晋宗が劉邵らに生け捕りにされているので、それ以前のことである。
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王蠋
生年不詳〜斉の湣王17年(紀元前284年)没。戦国時代、斉国・臨淄・画邑の人。
斉の湣王17年(紀元前284年)、燕の上将軍・楽毅は、斉国の都城・臨淄を攻撃して斉の湣王を莒に逃走させた。
この時、王蠋を敬慕していた楽毅は、軍中に「画邑の周囲30里(約12km)以内には立ち入ってはならない」との命令を出し、王蠋に使者を送って「斉人の多くはあなたの義を高く評価している。私はあなたを将軍に取り立てて、1万戸の徹侯に封じましょう」と言い、王蠋がこれを固辞すると、今度は「あなたが聞き入れないのであれば、私は三軍を率いて画邑を屠るでしょう」と言った。
すると王蠋は、
「『忠臣は二君に仕えず。貞女は二夫に見えず』と言います。斉王(湣王)が私の諫言を聞き入れてくださらなかったので、私は今、野に下り野を耕しているのです。
私の力及ばず、国はすでに破れ滅んでしまいましたが、脅されてあなたの将軍になることは、桀王を助けて暴虐を行うようなものです。生きて義を行えないのならば、私は煮殺されることを選びましょう」
と言い、その首を樹の枝にくくって自害した。
逃亡していた斉の大夫たちは「王蠋の死」を聞いて、「王蠋は無位無官の民である。その彼ですら義を重んじて燕に仕えなかったのだ。まして官位を持ち禄を食んでいる者なら、なおさら仕えるべきではない」と言い、互いに集まって莒に赴き、斉王(湣王)の太子を奉戴して斉の襄王とした。
正史『三国志』には、忠義者の例としてたびたび名前が登場する。
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王定
生没年不詳。兗州・済陰郡の人。
『魏書』公孫瓚伝が注に引く『呉書』に名前が登場する。
初平2年(191年)春正月、冀州牧・韓馥は袁術に書簡を送って「献帝の正当性を否定し、劉虞を天子に擁立する」べきことを説いたが、その中に、
「済陰郡の王定という男が玉印を見つけたところ、その文に『虞が天子となる』と書かれてあった」
とある。
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