正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㉛、「おう」から始まる人物の一覧㉚王羨おうせん王潜おうせん王選おうせん王遷おうせん王祚おうそ王双おうそう諸葛亮しょかつりょうに殺されたの将)・王双おうそう朱桓しゅかんに捕らえられたの将)・王則おうそく王族おうぞく王尊おうそん王孫圉おうそんぎょ王孫満おうそんまんです。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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お㉛(王㉚)

王(おう)

王羨おうせん

生没年不詳。

満寵まんちょうの子・満偉まんい大将軍だいしょうぐん司馬昭しばしょう)のえんとして閶闔しょうこうしん国の宮門)の掖門えきもん(両側の小門)を守っていたが、この門は晋公しんこう司馬昭しばしょうの住まいに近く、みな通ることをけていた。

ある時、参軍さんぐん王羨おうせんはこの門を通ろうとしたが許されなかった。これを根に持った王羨おうせんは、後に文王ぶんおう曹丕そうひ)の側近を通じて「満掾まんえん満偉まんい)が門を遮断しゃだんして人を入れない。追求すべきである」と文王ぶんおう曹丕そうひ)に言上した。


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王潜おうせん

生没年不詳。の臣下。北方()からの投降者。

歩騭ほしつの上表の中に名前が登場する。

「北方()からの投降者の王潜おうせんらの申しますところでは、北方()では隊伍たいごを整えて東方()への進出を意図し、布の袋を大量に作ってそれに砂を入れて大江(長江ちょうこう)をき止め、大挙して荊州けいしゅうに向かおうとしておるとのことでございます。

前もって備えをもうけておかねば、急な事態に対応することができません。どうか防備をお備えくださいますよう」

この歩騭ほしつの上表に孫権そんけんは、

「あいつらは落ち目であって、なんで大事をくわだてたりできよう。決してやって来たりはせぬ。もし私の言葉がはずれたら、牛千頭をほふってあなたにご馳走をして進ぜよう」

と言って取り合わなかった。


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王選おうせん

生没年不詳。曹操そうそう配下。

建安けんあん18年(213年)5月、献帝けんていは「曹操そうそう魏公ぎこうに任命する」辞令書を下したが、曹操そうそうは前後3度にわたって辞退した。

この時、曹操そうそうに受諾することを勧めた30人の中に「祭酒さいしゅ王選おうせん」の名前がある。


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王遷おうせん

生没年不詳。雍州ようしゅう天水郡てんすいぐんの人。

亡くなった敦煌太守とんこうたいしゅ燉煌太守とんこうたいしゅ)・倉慈そうじの後を受けて交代し、彼の治績に従ったが、追いつくことができなかった。


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王祚おうそ

生没年不詳。将軍しょうぐん

甘露かんろ2年(257年)5月、諸葛誕しょかつたんは反乱を起こして揚州刺史ようしゅうしし楽綝がくりん楽綝がくちん)を殺害し、淮南わいなん淮北わいほくの屯田兵・10余万と新たに従属した精兵4、5万を手中におさめ、1年間支えるに充分な穀物こくもつを集めてに救援を求めた。

ではこれを大変喜んで、将軍しょうぐん全懌ぜんえき全端ぜんたん唐咨とうし王祚おうそらの指揮する3万の軍勢を派遣し、ひそかに文欽ぶんきんと共に諸葛誕しょかつたんに呼応させたが、6月になって大将軍だいしょうぐん司馬昭しばしょうが26万兵で討伐を開始すると、全懌ぜんえき全端ぜんたんらは部下数千人を引き連れてに降伏する。

甘露かんろ3年(258年)正月、諸葛誕しょかつたんいさかいから文欽ぶんきんを殺害。追いめられた諸葛誕しょかつたんは、単身馬に乗り、旗下の兵で小城の門を突破して撃って出て討ち死にした。

諸葛誕しょかつたんの旗下の兵・数百人はみな「諸葛公しょかつこう諸葛誕しょかつたん)のために死ぬのだ。心残りはない」と言って斬られたが、唐咨とうし王祚おうそやその裨将ひしょうたちは、みなみずからを後ろ手にしばって降伏した。

くだったの兵は1万を数え、奪われた武器や軍需品は山のように積み重なっていた。


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王双おうそう王雙おうそう諸葛亮しょかつりょうに殺されたの将)

生没年不詳。の将

太和たいわ2年(228年・しょく建興けんこう6年)春、しょく諸葛亮しょかつりょうが出兵して祁山きざんを攻撃したが、勝利を得られなかった。

同年冬、諸葛亮しょかつりょうは再び散関さんかんを出て陳倉県ちんそうけんを包囲したが、曹真そうしんがこれを防ぎ、兵糧が尽きたため諸葛亮しょかつりょう漢中かんちゅうに撤退を開始する。この時、の将・王双おうそうが騎兵をひきいて追撃したが、諸葛亮しょかつりょうに撃破され、王双おうそうはこの合戦で斬られた。


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王双おうそう王雙おうそう朱桓しゅかんに捕らえられたの将)

生没年不詳。の将

黄初こうしょ3年(222年・黄武こうぶ元年)、大司馬だいしば曹仁そうじんに命じ、歩兵・騎兵数万をひきいて濡須口じゅしゅこうに向かわせたが、濡須じゅしゅとく朱桓しゅかんは、軍旗を立てず戦鼓せんこも鳴らさずにいかにも弱体であるかのように見せていた。

そこで曹仁そうじんは息子の曹泰そうたい濡須城じゅしゅじょうを攻撃させ、将軍しょうぐん常雕じょうちょう諸葛虔しょかつけん王双おうそうを指揮させて別働隊とし、油船ゆせん(油引きのほろのついた船)に乗って各個に中洲なかすを襲わせると、みずからは1万の兵をひきいて橐皋たくこうとどまって曹泰そうたいらの後方を固めた。

これに朱桓しゅかんは、配下の部将たちに油船ゆせんを攻撃して拿捕だほさせ、また別に常雕じょうちょうらに攻撃をかけさせると、朱桓しゅかんみずからは他の者たちと共に曹泰そうたいと対陣し、その軍営に焼き討ちをかけて軍を引いた。

その結果、朱桓しゅかん常雕じょうちょうの首を斬り、王双おうそうを生け捕りにして武昌ぶしょうに送った。この戦闘の中で首を斬られたり溺死できしした者の人数は千余人にものぼった。


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王則おうそく

生没年不詳。曹操そうそう配下の奉車都尉ほうしゃとい

呂布りょふ徐州じょしゅうを治めていたときのこと。曹操そうそう呂布りょふねんごろに慰労いろうし「天子てんし献帝けんてい)を迎えて天下平定に当たる」という意向をべた。

呂布りょふが感謝の意を伝えてくると、曹操そうそうは改めて奉車都尉ほうしゃとい王則おうそくを使者として派遣し、詔書しょうしょたずさえさせた上に、平東将軍へいとうしょうぐん印綬いんじゅを持たせて、任地で呂布りょふを任命した。

この時曹操そうそうが手ずから手紙を書いて「国家に紫のひもがなかったので、自分が身につけている紫綬しじゅはずして心をあらわすしるしとした」ことを伝えると、呂布りょふ陳登ちんとうに上書を持たせて感謝の意を表明させ、同時に1本の上質のひもを送って曹操そうそうへの返礼とした。


以上は魏書ぎしょ呂布伝りょふでんが注に引く英雄記えいゆうきによる。魏書ぎしょ呂布伝りょふでんの本文では「曹操そうそう左将軍さしょうぐんに任命された呂布りょふは大いに喜んで、陳登ちんとうささぶみを持たせて感謝の意を表明させた」とある。


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王族おうぞく

生没年不詳。天紀てんき3年(279年)に広州こうしゅうで反乱を起こした郭馬かくばの部将(部隊長)。

郭馬かくばは元々合浦太守がっぽたいしゅ脩允しゅういん配下の私兵の隊長であったが、脩允しゅういんの死後、兵士たちが分割されて別々の所に配属させられることになり、そのことを不満に思っていた。

郭馬かくば孫皓そんこう広州こうしゅうの戸籍を調べ直していることを利用して、部将の何典かてん王族おうぞく呉述ごじゅつ殷興いんこうらと共謀し、兵士や民衆たちの不安をあおって動揺させると、人数を集めて広州督こうしゅうとく虞授ぐじゅを攻め殺した。この時王族おうぞく始興郡しこうぐんに兵を進めた。


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王尊おうそん子贛しこう

生没年不詳。幽州ゆうしゅう涿郡たくぐん高陽県こうようけんの人。前漢ぜんかん成帝せいてい期の京兆尹けいちょういん

趙広ちょうこう張敞ちょうしょう、3人の王氏おうし王尊おうそん王章おうしょう王駿おうしゅん)の5人は優れた京兆尹けいちょういんとしてたたえられた。

魏書ぎしょ劉馥伝りゅうふくでんに「劉靖りゅうせいの行政をたたえる例」として名前が登場する。


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王孫圉おうそんぎょ

生没年不詳。の臣下。

王孫圉おうそんぎょが使者としてしんおもむいた時のこと。

しん定公ていこうが開いた宴会の席上で、「白珩はくこう*2はまだありますかな?」と問われた王孫圉おうそんぎょは、「ございます」と答え、「その宝としての価値はいかほどか?」と問う趙簡子ちょうかんし趙鞅ちょうおう)に、次のように答えた。

「あれは宝とは申しません。が宝とするものは、まずは観射父かんえきほ。優れた訓辞を作って諸侯に行き渡らせていますので、寡君かくん*3がそしりを受けることはありません。

また、左史さし倚相いしょうがいます。彼は百の古典に精通し、一日中寡君かくん*3に過去の良い例と悪い例を示して先王せんおうの業績を忘れることがないようにし、また鬼神を喜ばせてその欲悪を正し、に神の怨痛えんつうが降りかかることを防いでいます。

(中略)

これらが楚国そこくの宝です。かの白珩はくこう*2のごとき物は、先王せんおう玩具なぐさみものに過ぎません。どうしてあんなものを宝と申しましょうか」


呉書ごしょ張温伝ちょうおんでんの「孫権そんけんに罪を問われた張温ちょうおんを取りなす駱統らくとうの上表」の中に名前が登場する。

上表の中で、張温ちょうおんしょくに派遣された時、「しょくの人々と共に同行した殷礼いんれいめそやしたこと」について王孫圉おうそんぎょの例をげ、「他国の重臣に向かって自国の臣下を賛嘆さんたんすることは、古典にも自国を輝かせるものだとしてめており、自国と勝手にまじわりを通じたとしてそしったりはしておりません」と言った。

脚注

*2に伝わる宝物。こうとは横長の佩玉はいぎょく(大帯にかける玉製の飾り)のことで、白珩はくこうはその純白のもの。

*3他国の人に対して自分の主君をへりくだって使う言葉。


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王孫満おうそんまん

生没年不詳。しゅうの臣下。

春秋しゅんじゅう時代・しゅう定王ていおう元年(紀元前606年)、領土を拡大して威勢を誇っていた荘王そうおうは、異民族を打ち破った勢いで、そのまましゅうの都・洛邑らくゆうの郊外に兵を進めた。

しゅう定王ていおうは、王孫満おうそんまんを派遣して荘王そうおうねぎらわせたが、荘王そうおうは彼に「九鼎きゅうていの大小軽重」を問うた。

九鼎きゅうていとは「禹王うおうが9つの州から金を貢上させてつくった」と伝わるかなえのことで、いんしゅうの3代に伝わる「王のあかし」であり、その重さを問うということは、それを持ち帰る(しゅうの王位を奪う)ことを意味する。

これに王孫満おうそんまんは、

「(王の資格というものは)『徳』の有無にあるのであって、かなえにあるのではありません。今、しゅうの『徳』がおとろえたとはいえ、天命はいまあらたまってはおらず、かなえの重さを問うことはできません」

と答えたので、荘王そうおうは返す言葉もなく兵を引いた。


この故事から「ある人の地位を奪おうとすること」または「ある人がその地位に相応ふさわしい能力があるか、ある地位が実質的な価値を持っているかを疑うこと」を例えて「かなえけいちょうを問う」という言葉が生まれた。


呉書ごしょ張昭伝ちょうしょうでんが注に引く風俗通ふうぞくつうに名前が登場する。

張昭ちょうしょうがまだ孫策そんさくに仕える前のこと。当時、豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん主簿しゅぼであった応劭おうしょうが、「さかのぼった時代の主君のものであってもそのいみな(実名)をもちいることは避けるべきだ」との議論を出した。

この時、張昭ちょうしょうは自分の意見を文章にあらわしたが、その中で「定王ていおうの時代には、王孫満おうそんまんなる者がいて大夫たいふとなっている。これは臣下の名が主君の名と同じであった例である」と、応劭おうしょうの議論を否定する例にげている。


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【三国志人物伝】総索引