打倒董卓を掲げて集結した十八路諸侯ですが、その目的を果たすことなく解散して、互いに争いを始めました。その頃、長安の董卓は…。
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董卓の暴走
画像出典元:珍蔵懐旧版四大名著連環画「三国演義」
前回は、劉表を攻めた孫堅が戦死したところまででしたよね。
うん。それで孫策さんが孫堅さんの遺体と捕虜の黄祖さんを交換して和睦したんでしたよねっ!
蒯良が「黄祖を見捨てて江東を攻めろ」と言ったりして、なかなか熱かったよね。
そうですね。
今回は、舞台が変わって長安の董卓のお話になります。
そうかっ!董卓まだいたんだ(笑)
すっかり忘れてた…。
ご確認
この記事は『三国志演義』に基づいてお話ししています。正史『三国志』における董卓の暴走については、こちらをご覧ください。
また、王允と貂蝉の連環の計については、『三国志演義』の創作になります。
ここまでのあらすじ
確かに【025】以降は、元十八路諸侯同士の戦いのお話が続いていましたから、少しおさらいをしておきましょう。
曹操の檄文により、打倒董卓の旗印の下、十八路諸侯が集結します。
董卓配下の華雄と呂布を相手に苦戦する十八路諸侯ですが、劉備・関羽・張飛の活躍で、華雄を討ち取り呂布を敗走させることができました。
一方、十八路諸侯の中でも孫堅の武勇を特に恐れていた董卓は、自分の娘を孫堅の息子に嫁がせて孫堅を配下に加えようとしますが、見事に失敗してしまいます。
旗色が悪くなった董卓は、ついに洛陽の都を焼き払い、長安に都を遷しました。
その後、焼け野原となった洛陽で孫堅が伝国璽を手に入れたことにより、十八路諸侯は仲間割れを始めて解散。伝国璽をめぐって争うようになったのでした。
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以上は「三国志演義教室」の【018】〜【028】の内容になります。
位人臣を極める
恐れていた孫堅が死に、息子の孫策もまだ若いことを知った董卓は、安心して好き放題を始めます。
董卓はまず、自ら尚父を号し、自分のお供の者を天子(皇帝)のお供の者と同じ恰好にさせ、弟の董旻を左将軍・鄠侯に封じ、甥の董璜を待中として近衛兵の司令官にするなど、董氏の一族は老いも若きもみな諸侯に封じました。
また董卓は、長安城から250里のところに、25万人の人夫を使って郿塢の砦を築かせます。
この郿塢の砦は、城壁の高さや厚さはすべて長安城と同じという堅固なもので、20年分の食料と美女800人、数え切れないほどの黄金・宝玉・真珠・絹織物を貯め込んで、董卓の家族もみな郿塢に住みました。
ちなみに尚父とは、周の功臣・太公望の尊称です。
魚釣りで有名な人ですねっ!
自分も同じくらいの手柄を立てたと言いたいのか?負け戦で逃げてきたくせに、調子乗ってるな(笑)
相手が勝手に仲間割れを始めた上に、一番恐かった孫堅さんが死んじゃったんだから、笑いが止まらないでしょうね。
まさにそんな感じでしょうねっ!
董卓の残虐な行い
北地郡の捕虜を虐殺する
董卓の傍若無人ぶりは、これだけに留まりませんよっ!
董卓は月に1、2回、郿塢と長安城を行き来していたのですが、長安城を出る時は、大臣たちに横門(長安城の門の1つ)の外まで見送らせました。
その道すがら、大臣たちと宴会をしていた時のこと。
董卓は涼州・北地郡で降参した捕虜 数百人を連れてこさせると、その捕虜たちの手足を切ったり、目をくり抜いたり、舌を切り取ったりして大きな鍋で煮させました。
彼らの叫び声は天に響き渡り、大臣たちは持っていた箸を落として目をそむけましたが、董卓は平然と談笑しながら飲み食いを続けました。
ひどい…。
梁冀もひどかったけど、董卓はそれ以上だな。
張温を処刑する
また、次のようなお話もあります。
董卓が大臣たちを招いて大きな宴会を開いたときのこと。宴会の席に呂布がずかずかと入って来て、董卓に何やら耳打ちします。
すると董卓は、呂布に命じて司空の張温を捕らえさせ、宴会の席から引きずり出すと、しばらくして侍従が赤い漆塗りのお盆に張温の首を乗せてやって来ました。
董卓は、
「驚くには及ばぬ。張温めは袁術と結んで儂を亡き者にせんと謀っておったのだ。お前たちが恐れることはない」
と笑っていましたが、宴会に参加した者たちは言葉を返すことができませんでした。
うわっ…。これって『三国志演義』の創作ですよね、ひどすぎる…。
宴会の席に張温の首を持ち出した話は創作ですが、捕虜を虐殺した話は『魏書』董卓伝という歴史書にも記載されていますね。
マジかぁ…。
確か織田信長も敵のドクロを肴に酒を飲んでたよね。史実だったとしても驚かないよ(笑)
ちなみに歴史書での張温は、董卓に袁術と内通した罪を着せられて、笞で殴り殺されています。
どっちにしても、惨い殺され方をしたことは本当なんですね…。
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貂蝉と司徒・王允の秘策
画像出典元:珍蔵懐旧版四大名著連環画「三国演義」
歌い女・貂蝉(ちょうせん)
さて、ここで新しい重要人物が登場します。
司徒の王允は屋敷に帰ると董卓が開いた宴会での出来事を思い出し、落ち着かずに裏庭を歩き回っては、天を仰いで涙をこぼしました。
ちょうどその時、牡丹を植えた亭(屋根のついた休憩所)の辺りで誰かがため息をもらす気配を感じた王允は、足音をしのばせてその人物の正体を探りに行きました。
すると、そこでため息をもらしていたのは、司徒府の歌い女・貂蝉でした。
ではここで、『三国志演義』に描かれた貂蝉の特徴と略歴を確認してみましょう。
貂蝉の特長と略歴
貂蝉。年齢は二八(16歳)。
幼少の頃から司徒府の使用人となって歌や舞を仕込まれ、芸に加えてその容姿も人並み優れていたので、王允は実の娘のようにかわいがっていました。
わぁっ!『三国志演義』で、初めての女性ですねっ!
まあ、董太后や何皇后も女性だけどな(笑)
そっか…。
まあ、主要人物では初めての女性ですねっ!
ちなみに二八とは、28歳ではなくて、16歳のことを指す言葉です。
貂蝉がため息をついているのを見た王允は、「この女郎っ!男のことでも思っているなっ!」と貂蝉を叱りつけます。
王允に気づいた貂蝉は驚いて、「どうしてそのような大胆なことをいたしましょう…」と跪きました。
「色事でもなくば、このような夜更けにため息をつくはずがなかろうっ!」
王允がさらに問い詰めると貂蝉は、「どうか私の心からの言葉をお聞き下さいませ」と言って話し始めました。
「私はご主人さま(王允)にお引き立ていただき、たとえこの身を粉々にいたしましても、返すことができないほどのご恩を受けております。
近頃ご主人さまがお悩みになっておられますのは、きっと国家の重大事だろうと思いながらも、私のような者がお尋ねするわけにもまいりませんでした。
そのような折、今夜は特に落ち着きのないご様子でしたので、思わずため息をもらしてしまったのです。
もし私の身にかないますことならば、何度死んでも恨みとは思いませぬ」
これを聞いた王允は何やら思いつき、
「思ってもみなかった…。漢の天下がお前の手の中にあろうとはっ!」
と言って、持っていた杖で地面を叩きました。
何この人、感じ悪い…。
今こんなこと言ったら大問題になるね(笑)
王允の秘策
さて、ある秘策を思いついた王允は、貂蝉を奥座敷に招き入れます。
貂蝉を連れて奥座敷に入った王允は、他の使用人を1人残らず下がらせると、貂蝉を前に頭を地面につけて平伏しました。
これを見た貂蝉は、「ご主人さま、どうしてこのようなことをなさるのですっ!?」と慌てて平伏します。
「貂蝉よ、漢の天下の民草を憐れと思ってくれ…」王允はひざまづいたまま、涙をあふれさせながら話し始めます。
「人民は逆さに吊るされんばかり。君臣共に極めて危険な状態にある。お前の他にこれを救える者はいないだろう。
逆賊・董卓は今にも天子の位を奪わんと謀っておるが、朝廷の文武百官たちにも手の施しようもない有り様…。
董卓には武勇に優れた呂布という義理の息子がいるが、董卓も呂布も無類の女好きなのだ。そこで連環の計を思いついたのだが、
まずお前を呂布の嫁にやると約束しておいて董卓に献上する。お前はうまく2人を仲違いさせるように仕向け、呂布をそそのかして董卓を殺させるのだっ!
国家の再興はお前の働きにかかっておる。やってはくれぬか…?」
王允の涙ながらの願いを聞いた貂蝉は、
「私は何度死ぬことも恨みとは思わないと申し上げました。この上は今すぐこの身を あやつ にお与え下さいませ。それからは、私に考えがございます」
と言って誓いを立てました。
王允はもう一度頭を地面につけて貂蝉に感謝しました。
16歳の女の子にとっては、死ぬことよりもつらいことだよね…。
でも意外と簡単にオッケーしちゃうんだな。
実はこの貂蝉、『三国志演義』の創作上の登場人物なんです。
この場面は、原典の『三国志演義』ではあっさりとした描写になっていますが、後世の三国志作品では、貂蝉が自身の運命を受け入れるまでの心理描写が丁寧になされていたり、貂蝉が自身の野心のために2人に近づく悪女のように描かれていたりと、作品によって様々な演出がなされています。
作家さんたちの腕の見せどころですねっ!
打倒董卓を掲げて集まった十八路諸侯が解散して互いに争うようになると、董卓はより一層権力を私物化し、その行いは残虐性を増していきました。
ここに至ってついに司徒の王允は、絶世の美女である司徒府の歌い女・貂蝉を使って董卓を殺害する計略を思いつきます。
外部から董卓を倒そうとした動きは失敗に終わってしまいましたが、この朝廷の内部で動き始めた董卓殺害の謀は、はたしてうまくいくのでしょうか?
次回は、王允の描いた連環の計が、ついに実行に移されます。
次回
【030】連環の計①|呂布に貂蝉の輿入れを約束し、董卓に献上する