後漢・三国時代の地方官、特に県令以下の官職がどのように機能していたのか。その支配構造についてまとめています。
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後漢・三国時代の行政区分
中央が官吏を派遣する最小単位を県と言い、いくつかの県をまとめた行政区分を郡、いくつかの郡をまとめた行政区分を州と言います。
県(けん)
県とは、県城(都郷)を中心として、その周辺に点在する郷または聚と呼ばれる城郭都市、街道沿いに設置された「旅人が宿泊するための宿舎」である亭を含む行政区分のことを言います。
県には、
- 県の長官である県令または県長
- 県令を補佐する県丞
- 盗賊を取り締まる県尉
が派遣されました。
県令の管轄範囲のイメージ図
つまり県令または県長は、1つの県城だけでなく、管轄範囲内(県内)の郷・聚・亭のすべての民を統治します。
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県・郷・聚の構造
県・郷・聚の構造
里(り)
後漢では10戸の家を什、5戸の家を伍としてグループをつくり、家同士でお互いに監視させていました。10〜15の什・伍が集まった100戸程度の集落を里と言います。
里には、
- 里の民を統制する里魁(里正)
が置かれました。
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【後漢・三国時代の官職28】亭長・里魁(里正)・その他の地方官
郷(きょう)・聚(しゅう)
いくつかの里が集まった集落を郷と言います。
郷には、
- 民への賦役と徴税を管理する有秩(郡が任命)または嗇夫(県が任命)
- 民を教育する三老
- 郷の治安を維持する游徼
- 民が納める賦税を徴収する郷佐
が置かれました。
また、県内には聚という集落も存在しますが、聚については詳しく解明されておらず、おそらく郷の小規模なものだと思われます。
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県城(けんじょう)
県の管轄地域の中心となる大きな郷(都郷)には、県令または県長が執務する庁舎が置かれ、県城となります。
亭(てい)
県の内外には10里(約4km)に1つの間隔で、街道沿いに「旅人が宿泊するための宿舎」である亭と「悪事を働く者の取り締まり」をする郵が置かれています。
亭には、
- 亭を管理し、盗賊の発生を防止する亭長
- 罪人を取り締まる郵佐
が置かれました。
漢代の遺跡調査によると、一般的な県城の周囲は1,000m〜3,000m、大きな県城の周囲で3,000m〜5,000mと考えられており、曹操が銅雀台を築いて本拠地とした鄴県でも、周囲8,200m(東西2,400m・南北1,700m)でした。
10里(約4km)ごとに亭が置かれていたとすると、亭の多くは城外の街道沿いに置かれていたことが推測できます。
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郡(ぐん)
郡とはいくつかの県をまとめた行政区分のことを言います。
郡には、
- 郡の長官である太守
- 太守を補佐する郡丞
が派遣されました。
太守は管轄する郡内の県を統治し、反乱に際しては軍を率いて賊を討伐します。
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州(しゅう)
州とはいくつかの郡をまとめた行政区分のことを言います。
州には、
- 州内の郡を視察・監督する刺史または牧
が派遣されました。
刺史(州刺史)
もともと州は刺史が監察する郡をまとめた行政区分であり、刺史が州を統治しているわけではありません。
また、刺史は基本的に軍権を持ちませんが、大きな反乱が起きた際には将軍号を与えられて州内の太守を統率し、軍を率いて賊を討伐することもあります。
牧(州牧)
中平5年(188年)に刺史に代わって一部の州に置かれ始めた牧(州牧)は、刺史の権限に加えて軍の監察をする監軍使者の権限を与えられました。
権限を強化された牧(州牧)は、その後群雄割拠の情勢に突入したことも相まって、次第に行政権も行使するようになります。
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後漢・三国時代の支配構造
はじめに
『続漢書』百官志等によって州・郡・県・郷・里・亭には上記のような官職が置かれていたことが分かりますが、特に県以下の官職がどのように関わっていたのかは、はっきりと分かりません。
ここでは、西川利文氏の論文「漢代における郡県の構造についてー尹湾漢墓簡牘を手がかりとしてー」を基に、県以下の支配構造についてまとめてみたいと思います。
尹湾漢墓簡牘とは
1993年に発掘された、現:江蘇省・連雲港市・東海県・尹湾村の6基の漢墓群の、6号墓から出土した簡牘(文字を書き記した木や竹の札)のことです。
6号墓に埋葬された人物は師饒・字は君兄という東海郡の功曹などを勤めた人物で、その埋葬時期は前漢の第11代皇帝・成帝の元延3年(紀元前10年)ということが分かっています。
尹湾漢墓簡牘には、
- 集簿
東海郡の全体構成 - 東海郡属県郷吏員定簿
東海郡所属の各県の官員構成 - 長吏遷除簿
中央から派遣された県の官僚の経歴 - 東海郡吏員考績簿
中央から派遣された県の官僚の動向
の4種類の木牘があり、尹湾漢墓簡牘からは前漢後半期の地方行政組織の実態を知ることができますので、後漢当時の地方行政組織を知る上で参考になるでしょう。
県以下の支配構造
後漢の地方官の支配構造について、郡の長官である太守が郡内の諸県を統治し、刺史が州ごとに諸郡の太守を視察・監督していたことは確定しています。
では、県以下の官職は、それぞれどのように機能していたのでしょうか。
県に属する官吏
県は中央から派遣された2〜5名の官僚と、その他大勢の地元採用の属吏で構成されています。
県(県城)に派遣された官僚
- 県令または県長:1名
- 県丞:1名
- 県尉:1名〜2名
- 獄丞:郡治所(太守が赴任する県)に1名
県令の属吏一覧表
任地 | 属吏 |
---|---|
県城(都郷) |
|
郷・聚 |
|
亭 |
|
不明 |
|
県以下の支配構造
『続漢書』百官志や『漢書』百官公卿表、『風俗通義』、西川利文氏の論文の内容をまとめると、県以下の支配構造は次のようなものであったことが分かります。
- 県内の重要な郷には、郡から有秩が派遣されていた。
- 有秩または嗇夫が置かれず、三老を長とする郷にもあった。
- 郡治所(太守が赴任する県)には獄丞が1名置かれ、属吏に獄史・牢監がいる。
- 游徼、亭長は有秩・嗇夫に属するのではなく、県尉に属する。
以上を図にすると、下図のようになります。
後漢・三国時代の地方官の支配構造
尹湾漢墓簡牘を読み解くことによって漢代の地方官は、県令に県尉が、有秩・嗇夫に游徼・亭長がそれぞれ属するのではなく、
- 太守 ー 有秩 ー 三老
- 太守 ー 県令 ー 嗇夫 ー 三老
- 太守 ー 県令 ー 三老
の政治系統と、
- 太守 ー(都尉)ー 県尉 ー 游徼 ー 亭長 ー 郵佐
の警察・軍事系統の2つの統治系統があったことが分かりました。