古代中国において採用された3つの統治方法「封建制・郡県制・郡国制」の違いについてまとめています。
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目次
封建制
封建制とは
周王朝は、王族や功臣を諸侯に封じて領土の一部と民の支配権を与える代わりに、貢納や軍役の義務を負わせる統治方法をとっていました。
この領土を諸侯に分け与え、君主が諸侯を従える統治制度のことを封建制と言います。
ですが、周王朝が衰退すると、周王朝から領土を与えられていた諸侯がそれぞれ独立し、春秋戦国時代と呼ばれる戦乱の時代に突入しました。
封建制のメリット
- 諸侯による領土支配を認めた統治方法のため、諸侯を従属させやすく、君主(宗主国)の国力が諸侯をある程度上回っていれば、統一国家をつくりやすい。
封建制のデメリット
- 諸侯に領土の支配権を与えているため、諸侯の国力が増大しやすい。
- 君主(宗主国)の国力が衰えると、反乱が起こりやすい。
日本においては、古来より天皇(朝廷)が各地に派遣した国司や、鎌倉幕府・室町幕府が派遣した守護や守護代が地方を統治していました。
ですが幕府の力が弱まると、守護や守護代、または下克上により彼らを倒した家臣らが戦国大名となって、地方を直接支配するようになります。
そして、その後天下を統一した豊臣秀吉や徳川幕府(江戸幕府)は、いち早く戦乱を収拾させるため、戦国大名を解体するのではなく、藩(中国における諸侯)として従属させ、地方の支配権を認める封建制(幕藩体制)を採用しました。
また江戸幕府は、参勤交代制度によって諸藩の財政に多大な負担を強いることで、彼らの国力の増大を防ぎました。
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郡県制
郡県制とは
春秋戦国時代の戦乱を制して中華を統一した秦の始皇帝は、周の封建制を廃止し、全国を36(後に48)の郡に、さらに郡をいくつかの県に分割して、それぞれに中央から官吏を派遣して統治させました。
この領土すべてを皇帝の直轄領とし、中央集権化した統治制度のことを郡県制と言います。
ですが、始皇帝による急激な中央集権化政策は各地で反乱を誘発し、秦王朝は短命に終わりました。
郡県制のメリット
- 全国に皇帝直属の官吏を派遣して統治するため、支配を徹底できる。
郡県制のデメリット
- 諸侯の権益を奪うため従属させることが難しく、統一国家をつくりにくい。
- 皇帝(君主)に圧倒的な国力が必要。
- 郡県制に移行した直後は、権益を失った諸侯の反乱が起こりやすい。
日本の明治維新における版籍奉還・廃藩置県が、日本における封建制から郡県制(府県制)への移行期にあたります。
明治政府は、西南戦争をはじめとする士族の反乱を鎮圧し、府県制への移行を成し遂げました。
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郡国制
郡国制とは
前漢を興した高祖(劉邦)は始皇帝の失敗に学び、中央から官吏を派遣する直轄領を残しながらも、皇族や功臣を諸侯王に封じる統治方法をとります。
この封建制と郡県制を併用する統治制度のことを郡国制と言います。
郡国制のメリット
- 一部の諸侯による領土支配を認めた統治方法のため、諸侯を従属させやすく、君主(宗主国)の国力が諸侯をある程度上回っていれば、統一国家をつくりやすい。
- 重要な領土は皇帝の直轄領とすることで、宗主国の国力を保ちやすい。
郡国制のデメリット
- 一部諸侯に領土の支配権を与えているため、諸侯の国力が増大しやすい。
諸侯王の弱体化政策
呉楚七国の乱
その後、高祖(劉邦)は異姓の諸侯王を粛清し、劉姓の皇族のみを諸侯王に封じて政権の安定を図りました。
ですが、次第に増大する諸侯王の勢力を危険視した景帝が、諸侯王の領土を削減する政策を実施すると、それに反発した諸侯が反乱を起こします。これを「呉楚七国の乱」と言います。
「呉楚七国の乱」の後、諸侯王の領土には中央から官吏が派遣され、諸侯王の特権は「与えられた領土から徴収される租税を得る」だけとなりました。
これにより、諸侯王は与えられた領土の支配権を奪われ、形式的には郡国制を維持しながらも、実質的には領土すべてに皇帝直属の官吏を派遣する郡県制に移行したことになります。
推恩の令
当初、諸侯王に与えられた領土(封土)は、諸侯王の嫡子にのみ相続することが許されていました。この制度の下では諸侯王が代を重ねても、その封土は維持されていきます。
元朔2年(紀元前127年)、武帝は「諸侯王に嫡子以外の子弟にも封土を相続させることを許す」推恩の令を発布します。
これにより諸侯王の封土は代を重ねるごとに細分化され、諸侯王の国力を弱体化することに成功しました。