後漢(ごかん)・三国時代の異民族の内、東夷(とうい)に分類される高句麗(こうくり)(高句驪(こうくり)・句麗(くり))についてまとめています。
「正史」の記事一覧(8 / 29ページ目)
士燮兄弟による交州支配と孫権の交州進出
交趾刺史(こうししし)・朱符(しゅふ)の死から士燮(ししょう)兄弟の台頭、その後の交州(こうしゅう)の混乱と、交州(こうしゅう)が孫権(そんけん)配下の歩騭(ほしつ)によって平定されるまでをまとめています。
劉備が龐統を軍師中郎将に抜擢する
建安(けんあん)15年(210年)、荊州(けいしゅう)の治政を握(にぎ)るようになった劉備(りゅうび)が、周瑜(しゅうゆ)の功曹(こうそう)であった龐統(ほうとう)を軍師中郎将(ぐんしちゅうろうしょう)に抜擢(ばってき)・・・
呉下の阿蒙にあらず。士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし
ことわざ「呉下の阿蒙(あもう)にあらず」と「士別れて三日、即ち更に刮目(かつもく)して相(あい)待(たい)すべし」の由来となった魯粛(ろしゅく)と呂蒙(りょもう)のやりとりと、ことわざの意味についてまとめています。
【周瑜の死】周瑜から魯粛への継承と孫権の蜀(益州)侵攻
建安(けんあん)15年(210年)、孫権(そんけん)配下の南郡太守(なんぐんたいしゅ)・周瑜(しゅうゆ)の死と周瑜(しゅうゆ)から魯粛(ろしゅく)への継承、孫権(そんけん)の蜀(しょく)(益州(えきしゅう))侵攻について・・・