後漢・三国時代の異民族の内、南蛮に分類される巴郡南郡蛮(潳山蛮・沔中蛮・巫蛮・江夏蛮)についてまとめています。
スポンサーリンク
巴郡南郡蛮
巴郡南郡蛮とは
巴郡南郡蛮
巴郡南郡蛮とは、武落鍾離山*1の5姓を祖先とし、益州・巴郡と荊州・南郡周辺に居住した蛮夷。その一部(潳山蛮)は後に荊州・江夏郡の境界に移住させられ、沔中蛮と呼ばれました。
脚注
*1位置不明。現在の武落鍾離山は荊州・南郡・佷山県の辺りにある。
巴郡南郡蛮の紀元
巴郡と南郡の蛮(巴郡・南郡蛮)には元々、
- 巴氏
- 樊氏
- 瞫氏
- 相氏
- 鄭氏
の5姓があり、みな武落鍾離山の出身です。*2
その山に赤と黒の2つの穴があり、巴氏の子は赤い穴から生まれ、その他の4姓の子たちはみな黒い穴から生まれました。
彼らは君長がいないまま鬼神に仕えていましたが、ある時、みなで洞穴(石穴)に向かって剣を投げ、命中させた者を君主に奉じることを約束します。その結果、巴氏の子・務相だけが洞穴(石穴)に命中させることができたので、みな称賛しました。
また、それぞれ土船に乗り、浮かび続けることができた者を君主とすることを約束したところ、巴氏以外の姓の者たちは悉く沈み、務相だけが浮かび続けることができました。
これにより、5姓の者たちは一致して務相を君長に立て、これを「廩君」と呼びました。
廩君が土船に乗り、夷水から塩陽(鹽陽)にやって来た時のこと。*3
塩水(鹽水)の神女が廩君に、
「この地は広大で、魚や塩を産出します。どうかここに留まって、共に住んでください」
と言いましたが、廩君は承知しませんでした。
その日の暮れ、塩神(鹽神)がやって来て宿を取り、朝になるとたちまち虫に変化して諸々の虫たちと共に群れをなして飛び、日光を覆い遮りました。これにより、天地は真っ暗になってしまいます。
そのまま10日余りが経ち、廩君は機会を窺って塩神(鹽神)を射殺したところ、天は明るく開かれました。*4
その後廩君は夷城に君臨し、(巴氏以外の)4姓はみな廩君の臣下となります。
廩君が亡くなると、その魂魄は白虎となりました。
巴氏は虎が人の血を飲むことから、(白虎のために)人を(犠牲として)捧げ祀りました。
脚注
*2『代本』(『世本』)に「廩君の先祖は、元々巫誕の出身である」とある。(巫誕は人名?地名?詳細不明)
*3『荊州図副』に「(荊州・南郡・)夷陵県の西に温泉がある。古老たちが伝えるところによると、「この温泉は元々塩を産出し、現在でも塩気がある」という。県の西にある山(一独山?)には洞穴(石穴)があり、その中には俗に陰陽石という2つの大きな石が1丈(約2.31cm)ばかり離れて並んでおり、陰石は常に湿っていて、陽石は常に乾いている」とある。
*2盛弘之の『荊州記』に「昔、廩君が夷水に浮かび、陽石の上で塩神(鹽神)を射た」とある。考えて見ると、現在(盛弘之は劉宋の人)の施州・清江県の川は別名を塩水(鹽水)と言い、水源は清江県の西の都亭山にある」とある。
*2『水経』巻37・夷水に「夷水は別に巴郡・魚復県から流れ出ている」とあり、酈道元の『水経注』に「水の色は澄んでいて、10丈(約231cm)の深さまで透き通っており、砂と小石がきれいに分かれている。蜀の人はそれに因んで清江と名づけた」とある。
*4『代本』(『世本』)に「廩君が人を遣って塩神(鹽神)に青縷(青い糸)を贈り、『これをお気に召して身に着けてくださるならば、ここであなたと共に生きましょう。もしお気に召さなければ、あなたの元を去りましょう』と伝えさせたところ、塩神(鹽神)は青縷(青い糸)を身に着けた。そこで廩君は陽石の上に立ち、青縷(青い糸)をねらって矢を射たところ、矢は塩神(鹽神)に命中した。塩神(鹽神)は死に、天は大いに開いた」とある。
スポンサーリンク
巴郡南郡蛮の歴史
巴郡南郡蛮と中国の関係
【秦】恵王(恵文王)期
秦の恵王(恵文王)が巴中を併合すると、巴氏を蛮夷(巴郡南郡蛮)の君長として代々秦の王族の娘を娶らせ、その民には「不更*5」と同等の爵位を与え、罪があれば爵位と引き替えに免罪することができるようにしました。
またその君長は、毎年賦税として2,016銭、3年に1度は義賦として1,800銭を納め、その民は戸ごとに幏布*68丈2尺、鶏羽*730鍭を納めました。
脚注
*5二十等爵の1つで4級にあたる。(「士」の中で最上位)
*6南郡蛮夷の特産の布。
*7鶏の羽がついた矢。
関連記事
【前漢】高祖(劉邦)期
漢が興ると、南郡太守の靳強(靳彊)は、蛮夷(巴郡南郡蛮)に対して秦の時代の統治の仕方を踏襲するように請願して認められました。
【前漢】光武帝期
前漢・光武帝の建武23年(47年)、南郡の潳山蛮の雷遷らが反乱を起こし、民に略奪を働きました。
これに光武帝は、武威将軍の劉尚に1万人余りを率いさせて雷遷らを撃ち破らせると、その種族7千余人を荊州・江夏郡の境界に移住させます。これが今の沔中蛮です。
【後漢】和帝期
後漢・和帝の永元13年(101年)、巫蛮*8の許聖らが「郡の徴税の仕方が不均等であること」に怨恨を懐き、ついに聚(集落)を占拠して反乱を起こしました。
翌年の永元14年(102年)夏、和帝は使者を派遣して、荊州諸郡の兵1万人余りを率いさせ、これを討伐します。ですが、許聖らは険阻で狭い地形を頼みにしていたので、久しく撃ち破ることができませんでした。
そこで諸軍は、益州・巴郡・魚復県など複数の路を通って許聖らを攻めると、蛮たちは離散して敗走しました。諸軍は蛮の渠帥を斬り、勝ちに乗じてこれを追撃し、許聖らを大いに撃ち破ります。
その後、諸軍は許聖らの降伏を受け容れ、その悉くをまた荊州・江夏郡に移住させました。
脚注
*8荊州・南郡・巫県の蛮。
【後漢】霊帝期
後漢・霊帝の建寧2年(169年)、江夏蛮*9が反乱を起こすと、州郡はこれを討伐して平定しました。
光和3年(180年)、再び江夏蛮*9が揚州・廬江郡の賊・黄穰と結んで反乱を起こしました。
その数は10万人余りにのぼり、4県を攻め落として数年にわたって勢力を維持していましたが、中平2年(185年)、廬江太守の陸康が討伐してこれを破り、残党は悉く降伏して離散しました。
脚注
*9荊州・江夏郡の蛮。
巴郡南郡蛮と中国の関係年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
B.C.316年 |
■秦の恵文王9年
|
47年 |
■前漢・光武帝の建武23年
|
101年 |
■後漢・和帝の永元13年
|
102年 |
■後漢・和帝の永元14年夏
|
不明 |
|
169年 |
■後漢・霊帝の建寧2年
|
180年 |
■後漢・霊帝の光和3年
|
185年 |
■後漢・霊帝の中平2年
|
脚注
*8荊州・南郡・巫県の蛮。
*9荊州・江夏郡の蛮。
スポンサーリンク