後漢(ごかん)・三国時代の異民族の内、南蛮(なんばん)に分類される南越(なんえつ)[百越(ひゃくえつ)・交阯(こうし)(交趾(こうし))・噉人国(たんじんこく)(烏滸蛮(うこばん))・越裳国(えっしょうこく)・黄支国(こうしこく)・究不事人(きゅうふじじん)・夜郎蛮(やろうばん)・葉調国(ようちょうこく)]についてまとめています。

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交阯刺史部の蛮夷[南越(百越)]

南越の領域

南越(なんえつ)の領域

南越・烏滸蛮

南越(なんえつ)

交阯(こうし)(交趾(こうし))

交趾・交阯(交州)の領郡

後漢(ごかん)期の交趾刺史部(こうしししぶ)


『礼記(らいき)』王制篇(おうせいへん)に「南方の異民族を蛮(ばん)と言い、額(ひたい)に入(い)れ墨(ずみ)をして足を交差させて寝る」とあり、男女が同じ川で水浴(あ)びする風俗があるため、交阯(こうし)(交趾(こうし))と言います。

交阯(交趾)の蛮夷と周辺異民族

噉人国(たんじんこく)(烏滸人(うこじん)・烏滸蛮(うこばん))

交阯(こうし)(交趾(こうし))の西に噉人国(たんじんこく)*1があり、長子を生むとその子を解体して食べますが、これを「宜弟(ぎてい)」と言います。その味が旨(うま)ければ彼らの君主に贈(おく)り、君主は喜んでその父親に褒美を与えます。

また、美しい妻を娶(めと)ると兄に譲(ゆず)る風習があり、現在の烏滸(うこ)人がこれにあたります。


万震(ばんしん)の『南州異物志(なんしゅういぶつし)』に、


「烏滸(うこ)は地名である。広州(こうしゅう)の南、交州(こうしゅう)の北にある。いつも道に出て旅人の様子を伺(うかが)い、旅人を襲撃する。人間を捕(と)らえてこれを食べることを利益とし、財貨は貪(むさぼ)らなかった。合わせてその肉を塩辛にし、さらに頭蓋骨(ずがいこつ)を取り出し、それを被(かぶ)って酒を飲んだ。人間の手足を貴重なものとして、老人に食べさせた」


とあります。

脚注

*1噉(たん)には「食(く)らう」という意味があり、「人を食(く)らう国」という意味となる。

越裳国(えっしょうこく)

交阯(こうし)(交趾(こうし))の南、現在のベトナム中部にあった国。

周(しゅう)の成王(せいおう)に白雉(はくち)(白い雉(きじ))を献上しました。

海南島(かいなんとう)の蛮夷(ばんい)

海南島(かいなんとう)の蛮夷(ばんい)。

その渠帥(きょすい)は耳が長いことを貴(とうと)び、みな耳に穴を開けてアクセサリーをつけ、肩に3寸(約6.9cm)ほど垂(た)らしています。

前漢(ぜんかん)・武帝(ぶてい)期に珠崖郡(しゅがいぐん)と儋耳郡(たんじぐん)が設置されましたが、郡を設置してから約65年が経(た)った前漢(ぜんかん)・元帝(げんてい)の初元(しょげん)3年(紀元前6年)に廃止されました。

黄支国(こうしこく)

日南郡(じつなんぐん)の南、現在のインドのマドラスの南西、またはインドネシアのソロモン諸島の北西部。

王莽(おうもう)が輔政(ほせい)(国政を補佐する)ようになっていた前漢(ぜんかん)・平帝(へいてい)の元始(げんし)2年(2年)、日南郡(じつなんぐん)の南の黄支国(こうしこく)がやって来て犀牛(さいぎゅう)(犀(さい))を献上しました。

黄支国(こうしこく)の人々は禽獣(きんじゅう)(鳥獣(ちょうじゅう))のようであり、長幼の別がなく、項(うなじ)の上で髻(もとどり)を結(ゆ)って裸足(はだし)で歩き、衣服は布に頭を通しただけのものを着用していました。

究不事人(きゅうふじじん)

日南郡(じつなんぐん)の国境外。

後漢(ごかん)・粛宗(しゅくそう)(文帝(ぶんてい))の元和(げんわ)元年(84年)、日南郡(じつなんぐん)の国境外(徼外(きょうがい))の究不事人(きゅうふじじん)(蛮夷(ばんい))が生きた犀(さい)と白雉(はくち)(白い雉(きじ))を献上しました。

夜郎蛮(やろうばん)

九真郡(きゅうしんぐん)の国境外。

後漢(ごかん)・安帝(あんてい)の永初(えいしょ)元年(107年)、九真郡(きゅうしんぐん)の国境外(徼外(きょうがい))の夜郎蛮(やろうばん)(夜郎蛮夷(やろうばんい))が土地を挙(あ)げて服属しました。

葉調国(ようちょうこく)

日南郡(じつなんぐん)の国境外。

葉調国(ようちょうこく)の王(おう)・便(べん)が使者を派遣して貢献し、順帝(じゅんてい)は便(べん)に金印紫綬(きんいんしじゅ)を下賜(かし)しました。


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交阯刺史部の蛮夷の歴史

交阯刺史部の蛮夷と中国の関係

【西周(せいしゅう)】成王(せいおう)期

  • 交阯(こうし)(交趾(こうし))の南に越裳国(えっしょうこく)*2があります。

周公(しゅうこう)(周公旦(しゅうこうたん))が摂政(せっしょう)となった6年間は、礼を制定して楽(がく)を作ったので、天下は平和でした。

ある時、越裳国(えっしょうこく)*2の使者が3頭の象を率(ひき)いてやって来て、何度も通訳を介しながら白雉(はくち)(白い雉(きじ))を献上し、


「道は遙(はる)かに遠く、山や川は険阻で深遠なため、使者の往来がありません。そのため通訳を重ねて朝貢しました」


と言いました。

周(しゅう)の成王(せいおう)がその白雉(はくち)(白い雉(きじ))を周公(しゅうこう)に与えようとすると、周公(しゅうこう)は、


「徳を加えなければ、君子はその礼物を受けないものであり、政治を施行しなければ、君子はその人を臣下とはしないものです。どうして私がこの贈り物を受け取れましょうか」


と言いました。この様子を見た使者が、


「私は我が国の老人(黄耉(こうこう))より命令を受けましたが、『天に烈風や雷雨がなくなって久しい。思うに中国に聖人がいるのだろう。すぐに朝貢せねばなるまい』とのことでした」


と請願したので、周公(しゅうこう)は白雉(はくち)(白い雉(きじ))を成王(せいおう)に贈(おく)り、「先王の神霊がもたらしたもの」と称して宗廟(そうびょう)に供(そな)えました。

ですが、やがて周(しゅう)の徳が衰(おとろ)えると、次第に関係が途(と)絶(だ)えてしまいました。

脚注

*2現在のベトナム中部。

【戦国(せんごく)時代〜秦(しん)】

  • 楚(そ)が覇を唱えるようになると、百越(ひゃくえつ)(南方にいた越族(えつぞく)の総称)が朝貢するようになりました。

秦(しん)が天下を併合すると、蛮夷(ばんい)を威服(いふく)(脅(おど)して従わせること)し、初めて嶺南(れいなん)地方を開き、

    • 南海郡(なんかいぐん)
    • 桂林郡(けいりんぐん)
    • 象郡(しょうぐん)

を設置しました。

【前漢(ぜんかん)・南越国(なんえつこく)】

  • 漢(かん)(前漢(ぜんかん))が興(おこ)ると、尉佗(いた)が自立して南越王(なんえつおう)となり、国を5世代に伝えました。

【前漢(ぜんかん)】武帝(ぶてい)期

  • 前漢(ぜんかん)・武帝(ぶてい)の元鼎(げんてい)5年(紀元前112年)に至って、ついに武帝(ぶてい)は南越国(なんえつこく)を滅ぼし、9郡を設置して交阯刺史(こうししし)を置きました。

珠崖郡(しゅがいぐん)と儋耳郡(たんじぐん)の2郡は海上の島(海南島(かいなんとう))にあり、その広さは東西が千里(約430km)、南北が5百里(約215km)でした。その渠帥(きょすい)は耳が長いことを貴(とうと)び、みな耳に穴を開けてアクセサリーをつけ、肩に3寸(約6.9cm)ほど垂(た)らしています。

  • 前漢(ぜんかん)・武帝(ぶてい)の末年、会稽郡(かいけいぐん)出身の珠崖太守(しゅがいたいしゅ)・孫幸(そんこう)が、幅の広い布を蛮(ばん)から徴発して朝廷に献上すると、蛮(ばん)は賦役(ふえき)に堪(た)えられず、ついに珠崖郡(しゅがいぐん)を攻撃して孫幸(そんこう)を殺害してしまいました。孫幸(そんこう)の子・孫豹(そんほう)は、善人を率(ひき)いて再び蛮(ばん)を破り、自(みずか)ら郡の職務を代行して残党を討伐し、何年もかけてようやくこれを平定します。

その後、孫豹(そんほう)が朝廷に太守(たいしゅ)の印綬(いんじゅ)を返還し、上書して詳しい事情を報告すると、すぐに制詔(せいしょう)が下されて、孫豹(そんほう)は正式に珠崖太守(しゅがいたいしゅ)に任命されました。以降、盛大に威信のある政治が行われ、毎年、服従を誓約した蛮(ばん)からの報告が届くようになります。

ですが、中国(前漢(ぜんかん))はその珍しい贈り物を貪(むさぼ)り、次第に蛮(ばん)を侮(あなど)るようになったため、数年に1度は反乱が起こりました。

郡を設置してから約65年が経(た)った前漢(ぜんかん)・元帝(げんてい)の初元(しょげん)3年(紀元前6年)に、珠崖郡(しゅがいぐん)は廃止されました。

【前漢(ぜんかん)】平帝(へいてい)期

  • 王莽(おうもう)が輔政(ほせい)(国政を補佐)するようになっていた前漢(ぜんかん)・平帝(へいてい)の元始(げんし)2年(2年)、日南郡(じつなんぐん)の南の黄支国(こうしこく)*3がやって来て犀牛(さいぎゅう)(犀(さい))を献上しました。

およそ交阯刺史(こうししし)が統治する地域は、郡県を置いているとはいえ、各(おの)々(おの)言語が異なり、通訳を何度も重ねてやっと言葉を通じさせることができました。

黄支国(こうしこく)*3の人々は禽獣(きんじゅう)(鳥獣(ちょうじゅう))のようであり、長幼の別がなく、項(うなじ)の上で髻(もとどり)を結(ゆ)って裸足で歩き、衣服は布に頭を通しただけのものを着用していました。

  • 後(のち)に多くの中国の罪人を流刑(るけい)にして、その地域の間に雑居させたことで、ようやく言語を理解するようになり、次第に礼によって教化されました。
脚注

*3現在のインドのマドラスの南西、或(ある)いはインドネシアのソロモン諸島の北西部に存在した。

【後漢(ごかん)】光武帝(こうぶてい)期

  • 光武帝(こうぶてい)が漢(かん)(後漢(ごかん))を中興(ちゅうこう)すると、益州(えきしゅう)・漢中郡(かんちゅうぐん)出身の錫光(せきこう)が交阯太守(こうしたいしゅ)となり、荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・宛県(えんけん)出身の任延(じんえん)が九真太守(きゅうしんたいしゅ)となりました。

そこで彼らは、その民に耕作を教え、冠(かんむり)と履物(はきもの)を製作し、学校を建設し、蛮(ばん)を礼儀に導きました。また、初めて制度としての媒酌人(ばいしゃくにん)を設(もう)けたことで、蛮(ばん)はようやく婚姻の作法を知るようになりました。

  • 建武(けんぶ)12年(36年)、後漢(ごかん)の教化を慕(した)い、種族の人間を率(ひき)いて服属して来た九真郡(きゅうしんぐん)の国境外(徼外(きょうがい))の蛮人(ばんじん)(蛮里(ばんり))・張遊(ちょうゆう)(張游(ちょうゆう))を帰漢里君(きかんりくん)に封じました。
  • 建武(けんぶ)13年(37年)、南越(なんえつ)の国境外(徼外(きょうがい))の蛮夷(ばんい)が、白雉(はくち)(白い雉(きじ))と白菟(はくと)(白い兎(うさぎ))を献上しました。
  • 建武(けんぶ)16年(40年)に至ると、交阯郡(こうしぐん)の女子・徵側(ちょうそく)*4とその妹・徵貳(ちょうじ)が反乱を起こして郡を攻撃しました。この時、交阯太守(こうしたいしゅ)の蘇定(そてい)は法によって徵側(ちょうそく)*4を正そうとしましたが、徵側(ちょうそく)*4は怒って、結局反乱を起こしました。

こうして九真郡(きゅうしんぐん)・日南郡(じつなんぐん)・合浦郡(がっぽぐん)の蛮人(ばんじん)(蛮里(ばんり))はみな徵側(ちょうそく)*4に呼応しておよそ65城を攻略し、自立して王(おう)となりましたが、交阯刺史(こうししし)と諸郡の太守(たいしゅ)たちはかろうじて自(みずか)らを守るだけしかできませんでした。

そこで光武帝(こうぶてい)は、長沙郡(ちょうさぐん)・合浦郡(がっぽぐん)・交阯郡(こうしぐん)に詔(みことのり)を下して車と船を用意させて道や橋を修理し、また障害となる渓谷を開通して食糧を蓄(たくわ)えさせると、建武(けんぶ)18年(42年)、伏波将軍(ふくはしょうぐん)・馬援(ばえん)と楼船将軍(ろうせんしょうぐん)・段志(だんし)を派遣して、長沙郡(ちょうさぐん)・桂陽郡(けいようぐん)・零陵郡(れいりょうぐん)・蒼梧郡(そうごぐん)の兵、1万人余りを徴発して徵側(ちょうそく)*4を討伐させます。

翌年の建武(けんぶ)19年(43年)夏4月、馬援(ばえん)は交阯郡(こうしぐん)で敵を破り、徵側(ちょうそく)*4・徵貳(ちょうじ)が斬られると、残りの者たちはすべて降伏して離散しました。

その後馬援(ばえん)らは、さらに進軍して九真郡(きゅうしんぐん)の賊(ぞく)・都陽(とよう)らを攻撃して降伏させ、その渠帥(きょすい)3百人余りを零陵郡(れいりょうぐん)に移したことによって、嶺南(れいなん)の反乱は悉(ことごと)く平定されました。

脚注

*4麊泠県(びれいけん)(ベトナム永福省永寧の北)出身の雒将(らくしょう)の娘。硃珪県(しゅえんけん)(ベトナム河西省の南東部)出身の詩索(しさく)の妻となったが、とても勇敢であった。

【後漢(ごかん)】文帝(ぶんてい)期

  • 後漢(ごかん)・粛宗(しゅくそう)(文帝(ぶんてい))の元和(げんわ)元年(84年)、日南郡(じつなんぐん)の国境外(徼外(きょうがい))の究不事人(きゅうふじじん)(蛮夷(ばんい))*5が生きた犀(さい)と白雉(はくち)(白い雉(きじ))を献上しました。
脚注

*5李賢(りけん)注に「究不事人(きゅうふじじん)は蛮夷(ばんい)の別称である」とある。

【後漢(ごかん)】和帝(わてい)期

  • 後漢(ごかん)・和帝(わてい)の永元(えいげん)12年(100年)夏4月、日南郡(じつなんぐん)・象林県(しょうりんけん)の蛮夷(ばんい)2千人余りが民に略奪を働いて官庁を焼き払いましたが、郡県がこれを討伐し、その渠帥(きょすい)を斬って残党を降伏させました。この時、象林県(しょうりんけん)に将兵と長史(ちょうし)を配置して備(そな)えを固めます。

【後漢(ごかん)】安帝(あんてい)期

  • 後漢(ごかん)・安帝(あんてい)の永初(えいしょ)元年(107年)、九真郡(きゅうしんぐん)の国境外(徼外(きょうがい))の夜郎蛮(やろうばん)(夜郎蛮夷(やろうばんい))が土地を挙(あ)げて服属し、1,840里(約791.2km)を開拓しました。
  • 元初(げんしょ)2年(115年)、蒼梧郡(そうごぐん)の蛮夷(ばんい)が反乱を起こし、翌年の元初(げんしょ)3年(116年)には鬱林郡(うつりんぐん)・合浦郡(がっぽぐん)の蛮人(ばんじん)と漢人(かんじん)数千人を誘って蒼梧郡(そうごぐん)を攻撃します。

これに鄧太后(とうたいこう)が詔(みことのり)を下し、侍御史(じぎょし)の任逴(じんたく)を派遣して賊(ぞく)を赦免(しゃめん)させると、賊(ぞく)はみな降伏して離散しました。

  • 延光(えんこう)元年(122年)、九真郡(きゅうしんぐん)の国境外(徼外(きょうがい))の蛮(ばん)が貢献して服属し、延光(えんこう)3年(124年)には、日南郡(じつなんぐん)の国境外(徼外(きょうがい))の蛮(ばん)が再びやって来て服属しました。

【後漢(ごかん)】順帝(じゅんてい)期

  • 後漢(ごかん)・順帝(じゅんてい)の永建(えいけん)6年(131年)、日南郡(じつなんぐん)の国境外(徼外(きょうがい))の葉調国(ようちょうこく)の王(おう)・便(べん)が使者を派遣して貢献し、順帝(じゅんてい)は便(べん)に金印紫綬(きんいんしじゅ)を下賜(かし)しました。
  • 永和(えいわ)2年(137年)、日南郡(じつなんぐん)・象林県(しょうりんけん)の国境外(徼外(きょうがい))の蛮夷(ばんい)・区憐(おうれん)ら数千人が象林県(しょうりんけん)を攻め、官庁を焼いて長吏(ちょうり)を殺害しました。

これに交阯刺史(こうししし)の樊演(はんえん)は、交阯郡(こうしぐん)と九真郡(きゅうしんぐん)の兵1万人余りを徴発して象林県(しょうりんけん)を救援させようとしますが、兵士たちは遠方への軍役を嫌ってついに反乱を起こし、それぞれの役所を攻撃します。2郡は反乱を起こした者たちを撃破しましたが、賊(ぞく)の勢いは益(ます)々(ます)盛(さか)んになりました。

この時使者として日南郡(じつなんぐん)にいた侍御史(じぎょし)の賈昌(かしょう)は、すぐに州郡と共に賊(ぞく)を討伐しましたが、賊(ぞく)を撃ち破ることはできず、逆に攻め込まれて1年余り包囲を受け、兵糧が乏(とぼ)しくなっていきました。

翌年の永和(えいわ)3年(138年)、これを憂慮(ゆうりょ)した順帝(じゅんてい)は公卿(こうけい)・百官と四府(しふ)*6の掾(えん)・属(ぞく)(属官)を召集してその方略を問(と)うたところ、「大将を派遣して荊州(けいしゅう)・楊州(ようしゅう)・兗州(えんしゅう)・豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))の4万人を徴発し、象林県(しょうりんけん)に向かわせる」という意見が優勢となります。

すると大将軍(だいしょうぐん)・従事中郎(じゅうじちゅうろう)の李固(りこ)は、「この意見に反対する7つの理由を挙(あ)げ、元の幷州刺史(へいしゅうしし)で長沙郡(ちょうさぐん)出身の祝良(しゅくりょう)と南陽郡(なんようぐん)出身の張喬(ちょうきょう)を刺史(しし)・太守(たいしゅ)として交阯刺史部(こうしししぶ)に派遣するべき」と主張しました。

李固の進言・全文
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1.

もし荊州(けいしゅう)・楊州(ようしゅう)が無事であれば、徴発するのも良いでしょう。ですが今、その2州には盗賊が結集しており、また武陵郡(ぶりょうぐん)・南郡(なんぐん)の蛮夷(ばんい)による反乱もまだ平定されていないため、すでに長沙郡(ちょうさぐん)・桂陽郡(けいようぐん)は数度の徴発を受けており、もしまた騒動が起これば、必ずや更(さら)なる災いを生みます。これが不可の第1です。

2.

また、兗州(えんしゅう)・豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))の人々が突然徴発され、遠く万里の彼方(かなた)に赴(おもむ)くことになれば、いつ帰還できるかも分かりません。詔書(しょうしょ)で迫(せま)って催促(さいそく)すれば、きっと離反して逃亡するでしょう。これが不可の第2です。

3.

南州(なんしゅう)(交阯刺史部(こうしししぶ))の気候や風土は暑く、加えて熱病を起こす瘴気(しょうき)があり、10人中4、5人は必ず死に至るでしょう。これが不可の第3です。

4.

遠く万里の彼方(かなた)に赴(おもむ)いて士卒は疲弊(ひへい)し、嶺南(れいなん)に至る頃には、もう戦うことができないでしょう。これが不可の第4です。

5.

日南郡(じつなんぐん)まで9千里(約3,870km)離れていますので、1日30里(約12.9km)を行軍するとすれば、300日でようやく到着します。

兵卒1人につき食糧を5升(しょう)(約1ℓ)として計算すると、米60万斛(こく)(約1,200万ℓ)が必要となります。

これは将吏や驢馬(ろば)の食糧を計算に入れておらず、ただ甲(よろい)を背負って出向くだけで、費用はこれ程になります。これが不可の第5です。

6.

たとえ軍が目的地に到着しても、きっと死亡する者が多く、敵を防ぐには充分ではなくなって、またさらに徴発しなければならなくなるでしょう。まるで心臓や腹を切り裂(さ)いて四肢(しし)を補(おぎな)うようなものです。これが不可の第6です。

7.

九真郡(きゅうしんぐん)と日南郡(じつなんぐん)は千里(約430km)の隔(へだ)たりがあり、その吏民を徴発しても、なお堪(た)えられません。どうして4州の住民を苦しめ、万里の艱難(かんなん)に赴(おもむ)かせようというのでしょうかっ!これが不可の第7です。


前の中郎将(ちゅうろうしょう)・尹就(いんしゅう)は、益州(えきしゅう)で反乱を起こした羌族(きょうぞく)を討ちましたが、益州(えきしゅう)の諺(ことわざ)に「虜(りょ)(羌族(きょうぞく)?)が来るのはまだ良いが、尹就(いんしゅう)が来たら我らを殺すだろう*7」と言われました。

後に尹就(いんしゅう)は召(め)し還(かえ)され、兵を刺史(しし)の張喬(ちょうきょう)に預けましたが、張喬(ちょうきょう)はその将吏を率(ひき)いることにより、わずかな日数の間に虜(りょ)(羌族(きょうぞく)?)のことごとくを撃ち破りました。これは、将(しょう)を出動させることが無益であり、州郡に任せるべきであることの証拠です。

どうか改めて勇略と仁恵を備え、将帥(しょうすい)の任務に堪(た)え得(う)る者を選んで刺史(しし)・太守(たいしゅ)とし、共に交阯刺史部(こうしししぶ)に派遣するべきです。

今や日南郡(じつなんぐん)は兵が尽きて食糧もなく、守ることも戦うこともできません。しばらく日南郡(じつなんぐん)の吏民を北の交阯郡(こうしぐん)に移して落ち着かせ、事態が静まった後で帰らせるべきです。

また蛮夷(ばんい)を募(つの)って互いに攻撃させ、金帛(きんぱく)を輸送してそれを軍資金とするべきです。反間工作をして蛮夷(ばんい)の渠帥(きょすい)を拉致(らち)する者がいれば、爵位と土地を褒賞として認めましょう。

元の幷州刺史(へいしゅうしし)で長沙郡(ちょうさぐん)出身の祝良(しゅくりょう)は、勇敢で決断力のある性格です。また南陽郡(なんようぐん)出身の張喬(ちょうきょう)は、以前益州(えきしゅう)において異民族を破った功績があり、いずれも任用すべきです。

昔、太宗(たいそう)(前漢(ぜんかん)の文帝(ぶんてい))は魏尚(ぎしょう)に雲中太守(うんちゅうたいしゅ)の職を加え、哀帝(あいてい)は龔舎(きょうしゃ)を太山太守(たいざんたいしゅ)に任命しました。

どうか直(ただ)ちに祝良(しゅくりょう)らを拝(はい)して、現在の任地から直接赴任(ふにん)させてください。

脚注

*7原文:虜來尙可,尹來殺我。


四府(しふ)*6は悉(ことごと)く李固(りこ)の議案に従い、直(ただ)ちに祝良(しゅくりょう)を拝(はい)して九真太守(きゅうしんたいしゅ)とし、張喬(ちょうきょう)を交阯刺史(こうししし)とします。

そして、任地に着いた張喬(ちょうきょう)が恩信を広く示して労(いたわ)り誘うと、賊(ぞく)はみな降伏して離散し、祝良(しゅくりょう)のために官府を建てました。

また、祝良(しゅくりょう)が車1台で賊(ぞく)の中に入って方策を設(もう)け、威信をもって招(まね)いたところ、降伏する者は数万人にのぼり、これにより嶺外(れいがい)はまた平穏となりました。

  • 建康(けんこう)元年(144年)、日南郡(じつなんぐん)の蛮夷(ばんい)千人余りが再び県邑(けんゆう)を焼き、九真郡(きゅうしんぐん)を煽動(せんどう)して共に結託しましたが、揚州(ようしゅう)・九江郡(きゅうこうぐん)出身の交阯刺史(こうししし)・夏方(かほう)は恩信を広く示して招(まね)き誘い、賊(ぞく)をみな降伏させました。

この時、梁太后(りょうたいこう)が臨朝(りんちょう)して夏方(かほう)の功績を称賛し、桂陽太守(けいようたいしゅ)に昇進させました。

脚注

*6大将軍府(だいしょうぐんふ)・大尉府(たいいふ)・司徒府(しとふ)・司空府(しくうふ)の総称。

【後漢(ごかん)】桓帝(かんてい)期

  • 後漢(ごかん)・桓帝(かんてい)の永寿(えいじゅ)2年(156年)、交阯刺史部(こうしししぶ)・九真郡(きゅうしんぐん)・居風県(きょふうけん)の県令(けんれい)は、その強欲さと暴虐さに際限がなかったので、県人の朱達(しゅたつ)(硃達(しゅたつ))らと蛮夷(ばんい)はお互いに集まって県令(けんれい)を攻め殺します。その群衆は4、5千人にのぼり、その後九真郡(きゅうしんぐん)に進攻すると、九真太守(きゅうしんたいしゅ)の兒式(げいしょく)(児式(げいしょく))は戦死しました。

これに桓帝(かんてい)は、詔(みことのり)を下して[兒式(げいしょく)(児式(げいしょく))の遺族に]銭60万を下賜(かし)し、兒式(げいしょく)(児式(げいしょく))の子2人を郎(ろう)に取り立てると、九真都尉(きゅうしんとい)の魏朗(ぎろう)にこれを討伐させ、2千級を斬首しましたが、賊(ぞく)の渠帥(きょすい)はそれでもなお日南郡(じつなんぐん)に駐屯し、その勢いは益(ます)々(ます)盛(さか)んとなりました。

  • 延熹(えんき)3年(160年)、桓帝(かんてい)は詔(みことのり)を下して、もう1度夏方(かほう)を交阯刺史(こうししし)に任命しました。日南郡(じつなんぐん)に駐屯する賊(ぞく)たちはこれを聞くと、夏方(かほう)は以前からその威信と恩恵の評判が顕著(けんちょ)だったので、2万人余りが共に連れ立って夏方(かほう)の下(もと)に出頭して降伏しました。

【後漢(ごかん)】霊帝(れいてい)期

  • 後漢(ごかん)・霊帝(れいてい)の建寧(けんねい)3年(170年)、鬱林太守(うつりんたいしゅ)の谷永(こくえい)は恩信により烏滸(うこ)の人10余万人を招(まね)き降(くだ)して服属させ、みなに冠(かんむり)と帯(おび)を授(さず)けて7県を開設しました。
  • 熹平(きへい)2年(173年)冬12月、日南郡(じつなんぐん)の国境外(徼外(きょうがい))の国が通訳を重ねて貢献して来ました。
  • 光和(こうわ)元年(178年)、交阯郡(こうしぐん)と合浦郡(がっぽぐん)の烏滸蛮(うこばん)が反乱を起こし、九真郡(きゅうしんぐん)と日南郡(じつなんぐん)の人々を招(まね)き誘い、数万人を集めて郡県を攻め落としましたが、光和(こうわ)4年(181年)、交阯刺史(こうししし)の朱儁(しゅしゅん)がこれを撃破しました。
  • 光和(こうわ)6年(183年)、日南郡(じつなんぐん)の国境外(徼外(きょうがい))の国がまた来訪して貢献しました。

交阯刺史部の蛮夷と中国の関係年表

西暦 出来事
不明
  • 越裳国(えっしょうこく)*2の使者が周(しゅう)の成王(せいおう)に白雉(はくち)(白い雉(きじ))を献上する。
  • 楚(そ)が覇を唱えるようになると、百越(ひゃくえつ)(南方にいた越族(えつぞく)の総称)が朝貢するようになる。
B.C.221年

■秦(しん)・始皇帝(しこうてい)の26年

  • 秦(しん)が天下を併合すると、嶺南(れいなん)地方に南海郡(なんかいぐん)・桂林郡(けいりんぐん)・象郡(しょうぐんを設置する。
B.C.206年

■前漢(ぜんかん)・高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう))の元年

  • 尉佗(いた)(趙佗(ちょうた))が自立して南越王(なんえつおう)となる。
B.C.112年

■前漢(ぜんかん)・武帝(ぶてい)の元鼎(げんてい)5年

  • 武帝(ぶてい)が南越国(なんえつこく)を滅ぼし、交阯刺史(こうししし)を置く。
B.C.6年

■前漢(ぜんかん)・元帝(げんてい)の初元(しょげん)3年

  • 珠崖郡(しゅがいぐん)(海南島(かいなんとう))が廃止される。
2年

■前漢(ぜんかん)・平帝(へいてい)の元始(げんし)2年

  • 日南郡(じつなんぐん)の南の黄支国(こうしこく)*3がやって来て犀牛(さいぎゅう)(犀(さい))を献上する。
  • 後(のち)に交阯刺史部(こうしししぶ)を罪人の流刑(るけい)地にして蛮夷(ばんい)と雑居させる。
25年

■後漢(ごかん)・光武帝(こうぶてい)の建武(けんぶ)元年

  • 交阯刺史部(こうしししぶ)の民(蛮夷(ばんい))に耕作を教え、冠(かんむり)と履物(はきもの)を製作し、学校を建設し、礼儀に導く。
  • 蛮夷(ばんい)が婚姻の作法を知る。
36年

■後漢(ごかん)・光武帝(こうぶてい)の建武(けんぶ)12年

  • 九真郡(きゅうしんぐん)の国境外の蛮人(ばんじん)・張遊(ちょうゆう)が種族の人間を率(ひき)いて服属する。
  • 張遊(ちょうゆう)を帰漢里君(きかんりくん)に封じる。
37年

■後漢(ごかん)・光武帝(こうぶてい)の建武(けんぶ)13年

  • 南越(なんえつ)の国境外の蛮夷(ばんい)が、白雉(はくち)と白菟(はくと)を献上する。
40年

■後漢(ごかん)・光武帝(こうぶてい)の建武(けんぶ)16年

  • 交阯郡(こうしぐん)の女子・徵側(ちょうそく)*4とその妹・徵貳(ちょうじ)が反乱を起こす。
  • 九真郡(きゅうしんぐん)・日南郡(じつなんぐん)・合浦郡(がっぽぐん)の蛮人(ばんじん)がみな徵側(ちょうそく)*4に呼応する。
  • 徵側(ちょうそく)*4が自立して王(おう)となる。
42年

■後漢(ごかん)・光武帝(こうぶてい)の建武(けんぶ)18年

  • 伏波将軍(ふくはしょうぐん)・馬援(ばえん)と楼船将軍(ろうせんしょうぐん)・段志(だんし)に徵側(ちょうそく)*4を討伐させる。
43年

■後漢(ごかん)・光武帝(こうぶてい)の建武(けんぶ)19年夏4月

  • 馬援(ばえん)が交阯郡(こうしぐん)で敵を破り、徵側(ちょうそく)*4と徵貳(ちょうじ)を斬る。
  • 残りの者たちはすべて降伏して離散する。
  • 馬援(ばえん)らが九真郡(きゅうしんぐん)の賊(ぞく)・都陽(とよう)らを攻撃して降伏させ、嶺南(れいなん)の反乱を悉(ことごと)く平定する。
84年

■後漢(ごかん)・文帝(ぶんてい)の元和(げんわ)元年

  • 日南郡(じつなんぐん)の国境外の究不事人(きゅうふじじん)(蛮夷(ばんい))*5が生きた犀(さい)と白雉(はくち)を献上する。
100年

■後漢(ごかん)・和帝(わてい)の永元(えいげん)12年夏4月

  • 日南郡(じつなんぐん)・象林県(しょうりんけん)の蛮夷(ばんい)2千人余りが民に略奪を働いて官庁を焼き払う。
  • 郡県がこれを討伐し、その渠帥(きょすい)を斬って残党を降伏させる。
  • 象林県(しょうりんけん)に将兵と長史(ちょうし)を配置して備(そな)えを固める。
100年

■後漢(ごかん)・和帝(わてい)の永元(えいげん)12年夏4月

  • 日南郡(じつなんぐん)・象林県(しょうりんけん)の蛮夷(ばんい)2千人余りが民に略奪を働いて官庁を焼き払う。
  • 郡県がこれを討伐し、その渠帥(きょすい)を斬って残党を降伏させる。
  • 象林県(しょうりんけん)に将兵と長史(ちょうし)を配置して備(そな)えを固める。
100年

■後漢(ごかん)・和帝(わてい)の永元(えいげん)12年夏4月

  • 日南郡(じつなんぐん)・象林県(しょうりんけん)の蛮夷(ばんい)2千人余りが民に略奪を働いて官庁を焼き払う。
  • 郡県がこれを討伐し、その渠帥(きょすい)を斬って残党を降伏させる。
  • 象林県(しょうりんけん)に将兵と長史(ちょうし)を配置して備(そな)えを固める。
107年

■後漢(ごかん)・安帝(あんてい)の永初(えいしょ)元年

  • 九真郡(きゅうしんぐん)の国境外の夜郎蛮(やろうばん)が土地を挙(あ)げて服属し、1,840里(約791.2km)を開拓する。
115年

■後漢(ごかん)・安帝(あんてい)の元初(げんしょ)2年

  • 蒼梧郡(そうごぐん)の蛮夷(ばんい)が反乱を起こす。
116年

■後漢(ごかん)・安帝(あんてい)の元初(げんしょ)3年

  • 蒼梧郡(そうごぐん)の蛮夷(ばんい)が鬱林郡(うつりんぐん)・合浦郡(がっぽぐん)の蛮人(ばんじん)と漢人(かんじん)数千人を誘って蒼梧郡(そうごぐん)を攻撃する。
  • 鄧太后(とうたいこう)が侍御史(じぎょし)の任逴(じんたく)を派遣して賊(ぞく)を赦免(しゃめん)させると、賊(ぞく)はみな降伏して離散する。
122年

■後漢(ごかん)・安帝(あんてい)の延光(えんこう)元年

  • 九真郡(きゅうしんぐん)の国境外の蛮(ばん)が貢献して服属する。
131年

■後漢(ごかん)・順帝(じゅんてい)の永建(えいけん)6年

  • 日南郡(じつなんぐん)の国境外の葉調国(ようちょうこく)の王(おう)・便(べん)が使者を派遣して貢献する。
  • 順帝(じゅんてい)が葉調国(ようちょうこく)の王(おう)・便(べん)に金印紫綬(きんいんしじゅ)を下賜(かし)する。
137年

■後漢(ごかん)・順帝(じゅんてい)の永和(えいわ)2年

  • 日南郡(じつなんぐん)・象林県(しょうりんけん)の国境外の蛮夷(ばんい)・区憐(おうれん)ら数千人が象林県(しょうりんけん)を攻め、官庁を焼いて長吏(ちょうり)を殺害する。
  • 交阯刺史(こうししし)の樊演(はんえん)が討伐に失敗し、賊(ぞく)の勢いが益(ます)々(ます)盛(さか)んになる。
  • 日南郡(じつなんぐん)にいた侍御史(じぎょし)の賈昌(かしょう)が州郡と共に賊(ぞく)を討伐するも、逆に包囲を受ける。
138年

■後漢(ごかん)・順帝(じゅんてい)の永和(えいわ)3年

  • 大将軍(だいしょうぐん)・従事中郎(じゅうじちゅうろう)の李固(りこ)の進言により、祝良(しゅくりょう)を九真太守(きゅうしんたいしゅ)に、張喬(ちょうきょう)を交阯刺史(こうししし)とする。
  • 張喬(ちょうきょう)と祝良(しゅくりょう)が恩信を広く示して賊(ぞく)を降伏・離散させる。
144年

■後漢(ごかん)・順帝(じゅんてい)の建康(けんこう)元年

  • 日南郡(じつなんぐん)の蛮夷(ばんい)千人余りが再び県邑(けんゆう)を焼き、九真郡(きゅうしんぐん)を煽動(せんどう)して共に結託する。
  • 交阯刺史(こうししし)・夏方(かほう)が恩信を広く示して賊(ぞく)を降伏させる。
  • 梁太后(りょうたいこう)が臨朝(りんちょう)して夏方(かほう)の功績を称賛し、桂陽太守(けいようたいしゅ)に昇進させる。
156年

■後漢(ごかん)・桓帝(かんてい)の永寿(えいじゅ)2年

  • 交阯刺史部(こうしししぶ)・九真郡(きゅうしんぐん)・居風県(きょふうけん)の朱達(しゅたつ)(硃達(しゅたつ))らが蛮夷(ばんい)と共に県令(けんれい)を攻め殺す。
  • 朱達(しゅたつ)(硃達(しゅたつ))と蛮夷(ばんい)ら4、5千人が九真郡(きゅうしんぐん)に進攻し、九真太守(きゅうしんたいしゅ)の兒式(げいしょく)(児式(げいしょく))が戦死する。
  • 桓帝(かんてい)が詔(みことのり)を下して[兒式(げいしょく)(児式(げいしょく))の遺族に]銭60万を下賜(かし)し、兒式(げいしょく)(児式(げいしょく))の子2人を郎(ろう)に取り立てる。
  • 九真都尉(きゅうしんとい)の魏朗(ぎろう)に賊(ぞく)を討伐させ、2千級を斬首するが、賊(ぞく)の渠帥(きょすい)はなお日南郡(じつなんぐん)に駐屯し、その勢いは益(ます)々(ます)盛(さか)んとなる。
160年

■後漢(ごかん)・桓帝(かんてい)の延熹(えんき)3年

  • 桓帝(かんてい)が詔(みことのり)を下して、もう1度夏方(かほう)を交阯刺史(こうししし)に任命する。
  • 日南郡(じつなんぐん)に駐屯する賊(ぞく)・2万人余りが共に連れ立って夏方(かほう)の下(もと)に出頭し、降伏する。
170年

■後漢(ごかん)・霊帝(れいてい)の建寧(けんねい)3年

  • 鬱林太守(うつりんたいしゅ)の谷永(こくえい)が恩信により烏滸人(うこじん)10余万人を招(まね)き降(くだ)して服属させ、冠(かんむり)と帯(おび)を授(さず)けて7県を開設する。
173年

■後漢(ごかん)・霊帝(れいてい)の熹平(きへい)2年冬12月

  • 日南郡(じつなんぐん)の国境外の国が通訳を重ねて貢献に来る。
178年

■後漢(ごかん)・霊帝(れいてい)の光和(こうわ)元年

  • 交阯郡(こうしぐん)と合浦郡(がっぽぐん)の烏滸蛮(うこばん)が反乱を起こし、九真郡(きゅうしんぐん)と日南郡(じつなんぐん)の数万人を集めて郡県を攻め落とす。
181年

■後漢(ごかん)・霊帝(れいてい)の光和(こうわ)4年

  • 交阯刺史(こうししし)の朱儁(しゅしゅん)が烏滸蛮(うこばん)を撃破する。
183年

■後漢(ごかん)・霊帝(れいてい)の光和(こうわ)6年

  • 日南郡(じつなんぐん)の国境外の国がまた来訪して貢献する。
脚注

*2現在のベトナム中部。

*3現在のインドのマドラスの南西、或(ある)いはインドネシアのソロモン諸島の北西部に存在した。

*4麊泠県(びれいけん)(ベトナム永福省永寧の北)出身の雒将(らくしょう)の娘。硃珪県(しゅえんけん)(ベトナム河西省の南東部)出身の詩索(しさく)の妻となったが、とても勇敢であった。

*5李賢(りけん)注に「究不事人(きゅうふじじん)は蛮夷(ばんい)の別称である」とある。


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