後漢・三国時代の異民族の内、南蛮に分類される南越[百越・交阯(交趾)・噉人国(烏滸蛮)・越裳国・黄支国・究不事人・夜郎蛮・葉調国]についてまとめています。
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交阯刺史部の蛮夷[南越(百越)]
南越の領域
南越の領域
南越
交阯(交趾)
後漢期の交趾刺史部
『礼記』王制篇に「南方の異民族を蛮と言い、額に入れ墨をして足を交差させて寝る」とあり、男女が同じ川で水浴びする風俗があるため、交阯(交趾)と言います。
交阯(交趾)の蛮夷と周辺異民族
噉人国(烏滸人・烏滸蛮)
交阯(交趾)の西に噉人国*1があり、長子を生むとその子を解体して食べますが、これを「宜弟」と言います。その味が旨ければ彼らの君主に贈り、君主は喜んでその父親に褒美を与えます。
また、美しい妻を娶ると兄に譲る風習があり、現在の烏滸人がこれにあたります。
万震の『南州異物志』に、
「烏滸は地名である。広州の南、交州の北にある。いつも道に出て旅人の様子を伺い、旅人を襲撃する。人間を捕らえてこれを食べることを利益とし、財貨は貪らなかった。合わせてその肉を塩辛にし、さらに頭蓋骨を取り出し、それを被って酒を飲んだ。人間の手足を貴重なものとして、老人に食べさせた」
とあります。
脚注
*1噉には「食らう」という意味があり、「人を食らう国」という意味となる。
越裳国
交阯(交趾)の南、現在のベトナム中部にあった国。
周の成王に白雉(白い雉)を献上しました。
海南島の蛮夷
海南島の蛮夷。
その渠帥は耳が長いことを貴び、みな耳に穴を開けてアクセサリーをつけ、肩に3寸(約6.9cm)ほど垂らしています。
前漢・武帝期に珠崖郡と儋耳郡が設置されましたが、郡を設置してから約65年が経った前漢・元帝の初元3年(紀元前6年)に廃止されました。
黄支国
日南郡の南、現在のインドのマドラスの南西、またはインドネシアのソロモン諸島の北西部。
王莽が輔政(国政を補佐する)ようになっていた前漢・平帝の元始2年(2年)、日南郡の南の黄支国がやって来て犀牛(犀)を献上しました。
黄支国の人々は禽獣(鳥獣)のようであり、長幼の別がなく、項の上で髻を結って裸足で歩き、衣服は布に頭を通しただけのものを着用していました。
究不事人
日南郡の国境外。
後漢・粛宗(文帝)の元和元年(84年)、日南郡の国境外(徼外)の究不事人(蛮夷)が生きた犀と白雉(白い雉)を献上しました。
夜郎蛮
九真郡の国境外。
後漢・安帝の永初元年(107年)、九真郡の国境外(徼外)の夜郎蛮(夜郎蛮夷)が土地を挙げて服属しました。
葉調国
日南郡の国境外。
葉調国の王・便が使者を派遣して貢献し、順帝は便に金印紫綬を下賜しました。
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交阯刺史部の蛮夷の歴史
交阯刺史部の蛮夷と中国の関係
【西周】成王期
- 交阯(交趾)の南に越裳国*2があります。
周公(周公旦)が摂政となった6年間は、礼を制定して楽を作ったので、天下は平和でした。
ある時、越裳国*2の使者が3頭の象を率いてやって来て、何度も通訳を介しながら白雉(白い雉)を献上し、
「道は遙かに遠く、山や川は険阻で深遠なため、使者の往来がありません。そのため通訳を重ねて朝貢しました」
と言いました。
周の成王がその白雉(白い雉)を周公に与えようとすると、周公は、
「徳を加えなければ、君子はその礼物を受けないものであり、政治を施行しなければ、君子はその人を臣下とはしないものです。どうして私がこの贈り物を受け取れましょうか」
と言いました。この様子を見た使者が、
「私は我が国の老人(黄耉)より命令を受けましたが、『天に烈風や雷雨がなくなって久しい。思うに中国に聖人がいるのだろう。すぐに朝貢せねばなるまい』とのことでした」
と請願したので、周公は白雉(白い雉)を成王に贈り、「先王の神霊がもたらしたもの」と称して宗廟に供えました。
ですが、やがて周の徳が衰えると、次第に関係が途絶えてしまいました。
脚注
*2現在のベトナム中部。
【戦国時代〜秦】
- 楚が覇を唱えるようになると、百越(南方にいた越族の総称)が朝貢するようになりました。
秦が天下を併合すると、蛮夷を威服(脅して従わせること)し、初めて嶺南地方を開き、
-
- 南海郡
- 桂林郡
- 象郡
を設置しました。
【前漢・南越国】
- 漢(前漢)が興ると、尉佗が自立して南越王となり、国を5世代に伝えました。
【前漢】武帝期
- 前漢・武帝の元鼎5年(紀元前112年)に至って、ついに武帝は南越国を滅ぼし、9郡を設置して交阯刺史を置きました。
珠崖郡と儋耳郡の2郡は海上の島(海南島)にあり、その広さは東西が千里(約430km)、南北が5百里(約215km)でした。その渠帥は耳が長いことを貴び、みな耳に穴を開けてアクセサリーをつけ、肩に3寸(約6.9cm)ほど垂らしています。
- 前漢・武帝の末年、会稽郡出身の珠崖太守・孫幸が、幅の広い布を蛮から徴発して朝廷に献上すると、蛮は賦役に堪えられず、ついに珠崖郡を攻撃して孫幸を殺害してしまいました。孫幸の子・孫豹は、善人を率いて再び蛮を破り、自ら郡の職務を代行して残党を討伐し、何年もかけてようやくこれを平定します。
その後、孫豹が朝廷に太守の印綬を返還し、上書して詳しい事情を報告すると、すぐに制詔が下されて、孫豹は正式に珠崖太守に任命されました。以降、盛大に威信のある政治が行われ、毎年、服従を誓約した蛮からの報告が届くようになります。
ですが、中国(前漢)はその珍しい贈り物を貪り、次第に蛮を侮るようになったため、数年に1度は反乱が起こりました。
郡を設置してから約65年が経った前漢・元帝の初元3年(紀元前6年)に、珠崖郡は廃止されました。
【前漢】平帝期
- 王莽が輔政(国政を補佐)するようになっていた前漢・平帝の元始2年(2年)、日南郡の南の黄支国*3がやって来て犀牛(犀)を献上しました。
およそ交阯刺史が統治する地域は、郡県を置いているとはいえ、各々言語が異なり、通訳を何度も重ねてやっと言葉を通じさせることができました。
黄支国*3の人々は禽獣(鳥獣)のようであり、長幼の別がなく、項の上で髻を結って裸足で歩き、衣服は布に頭を通しただけのものを着用していました。
- 後に多くの中国の罪人を流刑にして、その地域の間に雑居させたことで、ようやく言語を理解するようになり、次第に礼によって教化されました。
脚注
*3現在のインドのマドラスの南西、或いはインドネシアのソロモン諸島の北西部に存在した。
【後漢】光武帝期
- 光武帝が漢(後漢)を中興すると、益州・漢中郡出身の錫光が交阯太守となり、荊州・南陽郡・宛県出身の任延が九真太守となりました。
そこで彼らは、その民に耕作を教え、冠と履物を製作し、学校を建設し、蛮を礼儀に導きました。また、初めて制度としての媒酌人を設けたことで、蛮はようやく婚姻の作法を知るようになりました。
- 建武12年(36年)、後漢の教化を慕い、種族の人間を率いて服属して来た九真郡の国境外(徼外)の蛮人(蛮里)・張遊(張游)を帰漢里君に封じました。
- 建武13年(37年)、南越の国境外(徼外)の蛮夷が、白雉(白い雉)と白菟(白い兎)を献上しました。
- 建武16年(40年)に至ると、交阯郡の女子・徵側*4とその妹・徵貳が反乱を起こして郡を攻撃しました。この時、交阯太守の蘇定は法によって徵側*4を正そうとしましたが、徵側*4は怒って、結局反乱を起こしました。
こうして九真郡・日南郡・合浦郡の蛮人(蛮里)はみな徵側*4に呼応しておよそ65城を攻略し、自立して王となりましたが、交阯刺史と諸郡の太守たちはかろうじて自らを守るだけしかできませんでした。
そこで光武帝は、長沙郡・合浦郡・交阯郡に詔を下して車と船を用意させて道や橋を修理し、また障害となる渓谷を開通して食糧を蓄えさせると、建武18年(42年)、伏波将軍・馬援と楼船将軍・段志を派遣して、長沙郡・桂陽郡・零陵郡・蒼梧郡の兵、1万人余りを徴発して徵側*4を討伐させます。
翌年の建武19年(43年)夏4月、馬援は交阯郡で敵を破り、徵側*4・徵貳が斬られると、残りの者たちはすべて降伏して離散しました。
その後馬援らは、さらに進軍して九真郡の賊・都陽らを攻撃して降伏させ、その渠帥3百人余りを零陵郡に移したことによって、嶺南の反乱は悉く平定されました。
脚注
*4麊泠県(ベトナム永福省永寧の北)出身の雒将の娘。硃珪県(ベトナム河西省の南東部)出身の詩索の妻となったが、とても勇敢であった。
【後漢】文帝期
- 後漢・粛宗(文帝)の元和元年(84年)、日南郡の国境外(徼外)の究不事人(蛮夷)*5が生きた犀と白雉(白い雉)を献上しました。
脚注
*5李賢注に「究不事人は蛮夷の別称である」とある。
【後漢】和帝期
- 後漢・和帝の永元12年(100年)夏4月、日南郡・象林県の蛮夷2千人余りが民に略奪を働いて官庁を焼き払いましたが、郡県がこれを討伐し、その渠帥を斬って残党を降伏させました。この時、象林県に将兵と長史を配置して備えを固めます。
【後漢】安帝期
- 後漢・安帝の永初元年(107年)、九真郡の国境外(徼外)の夜郎蛮(夜郎蛮夷)が土地を挙げて服属し、1,840里(約791.2km)を開拓しました。
- 元初2年(115年)、蒼梧郡の蛮夷が反乱を起こし、翌年の元初3年(116年)には鬱林郡・合浦郡の蛮人と漢人数千人を誘って蒼梧郡を攻撃します。
これに鄧太后が詔を下し、侍御史の任逴を派遣して賊を赦免させると、賊はみな降伏して離散しました。
- 延光元年(122年)、九真郡の国境外(徼外)の蛮が貢献して服属し、延光3年(124年)には、日南郡の国境外(徼外)の蛮が再びやって来て服属しました。
【後漢】順帝期
- 後漢・順帝の永建6年(131年)、日南郡の国境外(徼外)の葉調国の王・便が使者を派遣して貢献し、順帝は便に金印紫綬を下賜しました。
- 永和2年(137年)、日南郡・象林県の国境外(徼外)の蛮夷・区憐ら数千人が象林県を攻め、官庁を焼いて長吏を殺害しました。
これに交阯刺史の樊演は、交阯郡と九真郡の兵1万人余りを徴発して象林県を救援させようとしますが、兵士たちは遠方への軍役を嫌ってついに反乱を起こし、それぞれの役所を攻撃します。2郡は反乱を起こした者たちを撃破しましたが、賊の勢いは益々盛んになりました。
この時使者として日南郡にいた侍御史の賈昌は、すぐに州郡と共に賊を討伐しましたが、賊を撃ち破ることはできず、逆に攻め込まれて1年余り包囲を受け、兵糧が乏しくなっていきました。
翌年の永和3年(138年)、これを憂慮した順帝は公卿・百官と四府*6の掾・属(属官)を召集してその方略を問うたところ、「大将を派遣して荊州・楊州・兗州・豫州(予州)の4万人を徴発し、象林県に向かわせる」という意見が優勢となります。
すると大将軍・従事中郎の李固は、「この意見に反対する7つの理由を挙げ、元の幷州刺史で長沙郡出身の祝良と南陽郡出身の張喬を刺史・太守として交阯刺史部に派遣するべき」と主張しました。
李固の進言・全文
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1.
もし荊州・楊州が無事であれば、徴発するのも良いでしょう。ですが今、その2州には盗賊が結集しており、また武陵郡・南郡の蛮夷による反乱もまだ平定されていないため、すでに長沙郡・桂陽郡は数度の徴発を受けており、もしまた騒動が起これば、必ずや更なる災いを生みます。これが不可の第1です。
2.
また、兗州・豫州(予州)の人々が突然徴発され、遠く万里の彼方に赴くことになれば、いつ帰還できるかも分かりません。詔書で迫って催促すれば、きっと離反して逃亡するでしょう。これが不可の第2です。
3.
南州(交阯刺史部)の気候や風土は暑く、加えて熱病を起こす瘴気があり、10人中4、5人は必ず死に至るでしょう。これが不可の第3です。
4.
遠く万里の彼方に赴いて士卒は疲弊し、嶺南に至る頃には、もう戦うことができないでしょう。これが不可の第4です。
5.
日南郡まで9千里(約3,870km)離れていますので、1日30里(約12.9km)を行軍するとすれば、300日でようやく到着します。
兵卒1人につき食糧を5升(約1ℓ)として計算すると、米60万斛(約1,200万ℓ)が必要となります。
これは将吏や驢馬の食糧を計算に入れておらず、ただ甲を背負って出向くだけで、費用はこれ程になります。これが不可の第5です。
6.
たとえ軍が目的地に到着しても、きっと死亡する者が多く、敵を防ぐには充分ではなくなって、またさらに徴発しなければならなくなるでしょう。まるで心臓や腹を切り裂いて四肢を補うようなものです。これが不可の第6です。
7.
九真郡と日南郡は千里(約430km)の隔たりがあり、その吏民を徴発しても、なお堪えられません。どうして4州の住民を苦しめ、万里の艱難に赴かせようというのでしょうかっ!これが不可の第7です。
前の中郎将・尹就は、益州で反乱を起こした羌族を討ちましたが、益州の諺に「虜(羌族?)が来るのはまだ良いが、尹就が来たら我らを殺すだろう*7」と言われました。
後に尹就は召し還され、兵を刺史の張喬に預けましたが、張喬はその将吏を率いることにより、わずかな日数の間に虜(羌族?)のことごとくを撃ち破りました。これは、将を出動させることが無益であり、州郡に任せるべきであることの証拠です。
どうか改めて勇略と仁恵を備え、将帥の任務に堪え得る者を選んで刺史・太守とし、共に交阯刺史部に派遣するべきです。
今や日南郡は兵が尽きて食糧もなく、守ることも戦うこともできません。しばらく日南郡の吏民を北の交阯郡に移して落ち着かせ、事態が静まった後で帰らせるべきです。
また蛮夷を募って互いに攻撃させ、金帛を輸送してそれを軍資金とするべきです。反間工作をして蛮夷の渠帥を拉致する者がいれば、爵位と土地を褒賞として認めましょう。
元の幷州刺史で長沙郡出身の祝良は、勇敢で決断力のある性格です。また南陽郡出身の張喬は、以前益州において異民族を破った功績があり、いずれも任用すべきです。
昔、太宗(前漢の文帝)は魏尚に雲中太守の職を加え、哀帝は龔舎を太山太守に任命しました。
どうか直ちに祝良らを拝して、現在の任地から直接赴任させてください。
脚注
*7原文:虜來尙可,尹來殺我。
四府*6は悉く李固の議案に従い、直ちに祝良を拝して九真太守とし、張喬を交阯刺史とします。
そして、任地に着いた張喬が恩信を広く示して労り誘うと、賊はみな降伏して離散し、祝良のために官府を建てました。
また、祝良が車1台で賊の中に入って方策を設け、威信をもって招いたところ、降伏する者は数万人にのぼり、これにより嶺外はまた平穏となりました。
- 建康元年(144年)、日南郡の蛮夷千人余りが再び県邑を焼き、九真郡を煽動して共に結託しましたが、揚州・九江郡出身の交阯刺史・夏方は恩信を広く示して招き誘い、賊をみな降伏させました。
この時、梁太后が臨朝して夏方の功績を称賛し、桂陽太守に昇進させました。
脚注
*6大将軍府・大尉府・司徒府・司空府の総称。
【後漢】桓帝期
- 後漢・桓帝の永寿2年(156年)、交阯刺史部・九真郡・居風県の県令は、その強欲さと暴虐さに際限がなかったので、県人の朱達(硃達)らと蛮夷はお互いに集まって県令を攻め殺します。その群衆は4、5千人にのぼり、その後九真郡に進攻すると、九真太守の兒式(児式)は戦死しました。
これに桓帝は、詔を下して[兒式(児式)の遺族に]銭60万を下賜し、兒式(児式)の子2人を郎に取り立てると、九真都尉の魏朗にこれを討伐させ、2千級を斬首しましたが、賊の渠帥はそれでもなお日南郡に駐屯し、その勢いは益々盛んとなりました。
- 延熹3年(160年)、桓帝は詔を下して、もう1度夏方を交阯刺史に任命しました。日南郡に駐屯する賊たちはこれを聞くと、夏方は以前からその威信と恩恵の評判が顕著だったので、2万人余りが共に連れ立って夏方の下に出頭して降伏しました。
【後漢】霊帝期
- 後漢・霊帝の建寧3年(170年)、鬱林太守の谷永は恩信により烏滸の人10余万人を招き降して服属させ、みなに冠と帯を授けて7県を開設しました。
- 熹平2年(173年)冬12月、日南郡の国境外(徼外)の国が通訳を重ねて貢献して来ました。
- 光和元年(178年)、交阯郡と合浦郡の烏滸蛮が反乱を起こし、九真郡と日南郡の人々を招き誘い、数万人を集めて郡県を攻め落としましたが、光和4年(181年)、交阯刺史の朱儁がこれを撃破しました。
- 光和6年(183年)、日南郡の国境外(徼外)の国がまた来訪して貢献しました。
交阯刺史部の蛮夷と中国の関係年表
西暦 |
出来事 |
不明 |
- 越裳国*2の使者が周の成王に白雉(白い雉)を献上する。
- 楚が覇を唱えるようになると、百越(南方にいた越族の総称)が朝貢するようになる。
|
B.C.221年 |
■秦・始皇帝の26年
- 秦が天下を併合すると、嶺南地方に南海郡・桂林郡・象郡を設置する。
|
B.C.206年 |
■前漢・高祖(劉邦)の元年
- 尉佗(趙佗)が自立して南越王となる。
|
B.C.112年 |
■前漢・武帝の元鼎5年
- 武帝が南越国を滅ぼし、交阯刺史を置く。
|
B.C.6年 |
■前漢・元帝の初元3年
- 珠崖郡(海南島)が廃止される。
|
2年 |
■前漢・平帝の元始2年
- 日南郡の南の黄支国*3がやって来て犀牛(犀)を献上する。
- 後に交阯刺史部を罪人の流刑地にして蛮夷と雑居させる。
|
25年 |
■後漢・光武帝の建武元年
- 交阯刺史部の民(蛮夷)に耕作を教え、冠と履物を製作し、学校を建設し、礼儀に導く。
- 蛮夷が婚姻の作法を知る。
|
36年 |
■後漢・光武帝の建武12年
- 九真郡の国境外の蛮人・張遊が種族の人間を率いて服属する。
- 張遊を帰漢里君に封じる。
|
37年 |
■後漢・光武帝の建武13年
- 南越の国境外の蛮夷が、白雉と白菟を献上する。
|
40年 |
■後漢・光武帝の建武16年
- 交阯郡の女子・徵側*4とその妹・徵貳が反乱を起こす。
- 九真郡・日南郡・合浦郡の蛮人がみな徵側*4に呼応する。
- 徵側*4が自立して王となる。
|
42年 |
■後漢・光武帝の建武18年
- 伏波将軍・馬援と楼船将軍・段志に徵側*4を討伐させる。
|
43年 |
■後漢・光武帝の建武19年夏4月
- 馬援が交阯郡で敵を破り、徵側*4と徵貳を斬る。
- 残りの者たちはすべて降伏して離散する。
- 馬援らが九真郡の賊・都陽らを攻撃して降伏させ、嶺南の反乱を悉く平定する。
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84年 |
■後漢・文帝の元和元年
- 日南郡の国境外の究不事人(蛮夷)*5が生きた犀と白雉を献上する。
|
100年 |
■後漢・和帝の永元12年夏4月
- 日南郡・象林県の蛮夷2千人余りが民に略奪を働いて官庁を焼き払う。
- 郡県がこれを討伐し、その渠帥を斬って残党を降伏させる。
- 象林県に将兵と長史を配置して備えを固める。
|
100年 |
■後漢・和帝の永元12年夏4月
- 日南郡・象林県の蛮夷2千人余りが民に略奪を働いて官庁を焼き払う。
- 郡県がこれを討伐し、その渠帥を斬って残党を降伏させる。
- 象林県に将兵と長史を配置して備えを固める。
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100年 |
■後漢・和帝の永元12年夏4月
- 日南郡・象林県の蛮夷2千人余りが民に略奪を働いて官庁を焼き払う。
- 郡県がこれを討伐し、その渠帥を斬って残党を降伏させる。
- 象林県に将兵と長史を配置して備えを固める。
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107年 |
■後漢・安帝の永初元年
- 九真郡の国境外の夜郎蛮が土地を挙げて服属し、1,840里(約791.2km)を開拓する。
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115年 |
■後漢・安帝の元初2年
- 蒼梧郡の蛮夷が反乱を起こす。
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116年 |
■後漢・安帝の元初3年
- 蒼梧郡の蛮夷が鬱林郡・合浦郡の蛮人と漢人数千人を誘って蒼梧郡を攻撃する。
- 鄧太后が侍御史の任逴を派遣して賊を赦免させると、賊はみな降伏して離散する。
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122年 |
■後漢・安帝の延光元年
- 九真郡の国境外の蛮が貢献して服属する。
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131年 |
■後漢・順帝の永建6年
- 日南郡の国境外の葉調国の王・便が使者を派遣して貢献する。
- 順帝が葉調国の王・便に金印紫綬を下賜する。
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137年 |
■後漢・順帝の永和2年
- 日南郡・象林県の国境外の蛮夷・区憐ら数千人が象林県を攻め、官庁を焼いて長吏を殺害する。
- 交阯刺史の樊演が討伐に失敗し、賊の勢いが益々盛んになる。
- 日南郡にいた侍御史の賈昌が州郡と共に賊を討伐するも、逆に包囲を受ける。
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138年 |
■後漢・順帝の永和3年
- 大将軍・従事中郎の李固の進言により、祝良を九真太守に、張喬を交阯刺史とする。
- 張喬と祝良が恩信を広く示して賊を降伏・離散させる。
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144年 |
■後漢・順帝の建康元年
- 日南郡の蛮夷千人余りが再び県邑を焼き、九真郡を煽動して共に結託する。
- 交阯刺史・夏方が恩信を広く示して賊を降伏させる。
- 梁太后が臨朝して夏方の功績を称賛し、桂陽太守に昇進させる。
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156年 |
■後漢・桓帝の永寿2年
- 交阯刺史部・九真郡・居風県の朱達(硃達)らが蛮夷と共に県令を攻め殺す。
- 朱達(硃達)と蛮夷ら4、5千人が九真郡に進攻し、九真太守の兒式(児式)が戦死する。
- 桓帝が詔を下して[兒式(児式)の遺族に]銭60万を下賜し、兒式(児式)の子2人を郎に取り立てる。
- 九真都尉の魏朗に賊を討伐させ、2千級を斬首するが、賊の渠帥はなお日南郡に駐屯し、その勢いは益々盛んとなる。
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160年 |
■後漢・桓帝の延熹3年
- 桓帝が詔を下して、もう1度夏方を交阯刺史に任命する。
- 日南郡に駐屯する賊・2万人余りが共に連れ立って夏方の下に出頭し、降伏する。
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170年 |
■後漢・霊帝の建寧3年
- 鬱林太守の谷永が恩信により烏滸人10余万人を招き降して服属させ、冠と帯を授けて7県を開設する。
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173年 |
■後漢・霊帝の熹平2年冬12月
- 日南郡の国境外の国が通訳を重ねて貢献に来る。
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178年 |
■後漢・霊帝の光和元年
- 交阯郡と合浦郡の烏滸蛮が反乱を起こし、九真郡と日南郡の数万人を集めて郡県を攻め落とす。
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181年 |
■後漢・霊帝の光和4年
- 交阯刺史の朱儁が烏滸蛮を撃破する。
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183年 |
■後漢・霊帝の光和6年
- 日南郡の国境外の国がまた来訪して貢献する。
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脚注
*2現在のベトナム中部。
*3現在のインドのマドラスの南西、或いはインドネシアのソロモン諸島の北西部に存在した。
*4麊泠県(ベトナム永福省永寧の北)出身の雒将の娘。硃珪県(ベトナム河西省の南東部)出身の詩索の妻となったが、とても勇敢であった。
*5李賢注に「究不事人は蛮夷の別称である」とある。
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【後漢・三国時代の異民族】目次