後漢ごかん・三国時代の異民族の内、南蛮なんばんに分類される南越なんえつ百越ひゃくえつ交阯こうし交趾こうし)・噉人国たんじんこく烏滸蛮うこばん)・越裳国えっしょうこく黄支国こうしこく究不事人きゅうふじじん夜郎蛮やろうばん葉調国ようちょうこく]についてまとめています。

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交阯刺史部の蛮夷[南越(百越)]

南越の領域

南越なんえつの領域

南越・烏滸蛮

南越なんえつ

交阯こうし交趾こうし

交趾・交阯(交州)の領郡

後漢ごかん期の交趾刺史部こうしししぶ


礼記らいき王制篇おうせいへんに「南方の異民族をばんと言い、ひたいずみをして足を交差させて寝る」とあり、男女が同じ川で水びする風俗があるため、交阯こうし交趾こうし)と言います。

交阯(交趾)の蛮夷と周辺異民族

噉人国たんじんこく烏滸人うこじん烏滸蛮うこばん

交阯こうし交趾こうし)の西に噉人国たんじんこく*1があり、長子を生むとその子を解体して食べますが、これを「宜弟ぎてい」と言います。その味がうまければ彼らの君主におくり、君主は喜んでその父親に褒美を与えます。

また、美しい妻をめとると兄にゆずる風習があり、現在の烏滸うこ人がこれにあたります。


万震ばんしん南州異物志なんしゅういぶつしに、


烏滸うこは地名である。広州こうしゅうの南、交州こうしゅうの北にある。いつも道に出て旅人の様子をうかがい、旅人を襲撃する。人間をらえてこれを食べることを利益とし、財貨はむさぼらなかった。合わせてその肉を塩辛にし、さらに頭蓋骨ずがいこつを取り出し、それをかぶって酒を飲んだ。人間の手足を貴重なものとして、老人に食べさせた」


とあります。

脚注

*1たんには「らう」という意味があり、「人をらう国」という意味となる。

越裳国えっしょうこく

交阯こうし交趾こうし)の南、現在のベトナム中部にあった国。

しゅう成王せいおう白雉はくち(白いきじ)を献上しました。

海南島かいなんとう蛮夷ばんい

海南島かいなんとう蛮夷ばんい

その渠帥きょすいは耳が長いことをとうとび、みな耳に穴を開けてアクセサリーをつけ、肩に3寸(約6.9cm)ほどらしています。

前漢ぜんかん武帝ぶてい期に珠崖郡しゅがいぐん儋耳郡たんじぐんが設置されましたが、郡を設置してから約65年がった前漢ぜんかん元帝げんてい初元しょげん3年(紀元前6年)に廃止されました。

黄支国こうしこく

日南郡じつなんぐんの南、現在のインドのマドラスの南西、またはインドネシアのソロモン諸島の北西部。

王莽おうもう輔政ほせい(国政を補佐する)ようになっていた前漢ぜんかん平帝へいてい元始げんし2年(2年)、日南郡じつなんぐんの南の黄支国こうしこくがやって来て犀牛さいぎゅうさい)を献上しました。

黄支国こうしこくの人々は禽獣きんじゅう鳥獣ちょうじゅう)のようであり、長幼の別がなく、うなじの上でもとどりって裸足はだしで歩き、衣服は布に頭を通しただけのものを着用していました。

究不事人きゅうふじじん

日南郡じつなんぐんの国境外。

後漢ごかん粛宗しゅくそう文帝ぶんてい)の元和げんわ元年(84年)、日南郡じつなんぐんの国境外(徼外きょうがい)の究不事人きゅうふじじん蛮夷ばんい)が生きたさい白雉はくち(白いきじ)を献上しました。

夜郎蛮やろうばん

九真郡きゅうしんぐんの国境外。

後漢ごかん安帝あんてい永初えいしょ元年(107年)、九真郡きゅうしんぐんの国境外(徼外きょうがい)の夜郎蛮やろうばん夜郎蛮夷やろうばんい)が土地をげて服属しました。

葉調国ようちょうこく

日南郡じつなんぐんの国境外。

葉調国ようちょうこくおう便べんが使者を派遣して貢献し、順帝じゅんてい便べん金印紫綬きんいんしじゅ下賜かししました。


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交阯刺史部の蛮夷の歴史

交阯刺史部の蛮夷と中国の関係

西周せいしゅう成王せいおう

  • 交阯こうし交趾こうし)の南に越裳国えっしょうこく*2があります。

周公しゅうこう周公旦しゅうこうたん)が摂政せっしょうとなった6年間は、礼を制定してがくを作ったので、天下は平和でした。

ある時、越裳国えっしょうこく*2の使者が3頭の象をひきいてやって来て、何度も通訳を介しながら白雉はくち(白いきじ)を献上し、


「道ははるかに遠く、山や川は険阻で深遠なため、使者の往来がありません。そのため通訳を重ねて朝貢しました」


と言いました。

しゅう成王せいおうがその白雉はくち(白いきじ)を周公しゅうこうに与えようとすると、周公しゅうこうは、


「徳を加えなければ、君子はその礼物を受けないものであり、政治を施行しなければ、君子はその人を臣下とはしないものです。どうして私がこの贈り物を受け取れましょうか」


と言いました。この様子を見た使者が、


「私は我が国の老人(黄耉こうこう)より命令を受けましたが、『天に烈風や雷雨がなくなって久しい。思うに中国に聖人がいるのだろう。すぐに朝貢せねばなるまい』とのことでした」


と請願したので、周公しゅうこう白雉はくち(白いきじ)を成王せいおうおくり、「先王の神霊がもたらしたもの」と称して宗廟そうびょうそなえました。

ですが、やがてしゅうの徳がおとろえると、次第に関係がえてしまいました。

脚注

*2現在のベトナム中部。

戦国せんごく時代〜しん

  • が覇を唱えるようになると、百越ひゃくえつ(南方にいた越族えつぞくの総称)が朝貢するようになりました。

しんが天下を併合すると、蛮夷ばんい威服いふくおどして従わせること)し、初めて嶺南れいなん地方を開き、

    • 南海郡なんかいぐん
    • 桂林郡けいりんぐん
    • 象郡しょうぐん

を設置しました。

前漢ぜんかん南越国なんえつこく

  • かん前漢ぜんかん)がおこると、尉佗いたが自立して南越王なんえつおうとなり、国を5世代に伝えました。

前漢ぜんかん武帝ぶてい

  • 前漢ぜんかん武帝ぶてい元鼎げんてい5年(紀元前112年)に至って、ついに武帝ぶてい南越国なんえつこくを滅ぼし、9郡を設置して交阯刺史こうしししを置きました。

珠崖郡しゅがいぐん儋耳郡たんじぐんの2郡は海上の島(海南島かいなんとう)にあり、その広さは東西が千里(約430km)、南北が5百里(約215km)でした。その渠帥きょすいは耳が長いことをとうとび、みな耳に穴を開けてアクセサリーをつけ、肩に3寸(約6.9cm)ほどらしています。

  • 前漢ぜんかん武帝ぶていの末年、会稽郡かいけいぐん出身の珠崖太守しゅがいたいしゅ孫幸そんこうが、幅の広い布をばんから徴発して朝廷に献上すると、ばん賦役ふえきえられず、ついに珠崖郡しゅがいぐんを攻撃して孫幸そんこうを殺害してしまいました。孫幸そんこうの子・孫豹そんほうは、善人をひきいて再びばんを破り、みずから郡の職務を代行して残党を討伐し、何年もかけてようやくこれを平定します。

その後、孫豹そんほうが朝廷に太守たいしゅ印綬いんじゅを返還し、上書して詳しい事情を報告すると、すぐに制詔せいしょうが下されて、孫豹そんほうは正式に珠崖太守しゅがいたいしゅに任命されました。以降、盛大に威信のある政治が行われ、毎年、服従を誓約したばんからの報告が届くようになります。

ですが、中国(前漢ぜんかん)はその珍しい贈り物をむさぼり、次第にばんあなどるようになったため、数年に1度は反乱が起こりました。

郡を設置してから約65年がった前漢ぜんかん元帝げんてい初元しょげん3年(紀元前6年)に、珠崖郡しゅがいぐんは廃止されました。

前漢ぜんかん平帝へいてい

  • 王莽おうもう輔政ほせい(国政を補佐)するようになっていた前漢ぜんかん平帝へいてい元始げんし2年(2年)、日南郡じつなんぐんの南の黄支国こうしこく*3がやって来て犀牛さいぎゅうさい)を献上しました。

およそ交阯刺史こうしししが統治する地域は、郡県を置いているとはいえ、おのおの言語が異なり、通訳を何度も重ねてやっと言葉を通じさせることができました。

黄支国こうしこく*3の人々は禽獣きんじゅう鳥獣ちょうじゅう)のようであり、長幼の別がなく、うなじの上でもとどりって裸足で歩き、衣服は布に頭を通しただけのものを着用していました。

  • のちに多くの中国の罪人を流刑るけいにして、その地域の間に雑居させたことで、ようやく言語を理解するようになり、次第に礼によって教化されました。
脚注

*3現在のインドのマドラスの南西、あるいはインドネシアのソロモン諸島の北西部に存在した。

後漢ごかん光武帝こうぶてい

  • 光武帝こうぶていかん後漢ごかん)を中興ちゅうこうすると、益州えきしゅう漢中郡かんちゅうぐん出身の錫光せきこう交阯太守こうしたいしゅとなり、荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん宛県えんけん出身の任延じんえん九真太守きゅうしんたいしゅとなりました。

そこで彼らは、その民に耕作を教え、かんむり履物はきものを製作し、学校を建設し、ばんを礼儀に導きました。また、初めて制度としての媒酌人ばいしゃくにんもうけたことで、ばんはようやく婚姻の作法を知るようになりました。

  • 建武けんぶ12年(36年)、後漢ごかんの教化をしたい、種族の人間をひきいて服属して来た九真郡きゅうしんぐんの国境外(徼外きょうがい)の蛮人ばんじん蛮里ばんり)・張遊ちょうゆう張游ちょうゆう)を帰漢里君きかんりくんに封じました。
  • 建武けんぶ13年(37年)、南越なんえつの国境外(徼外きょうがい)の蛮夷ばんいが、白雉はくち(白いきじ)と白菟はくと(白いうさぎ)を献上しました。
  • 建武けんぶ16年(40年)に至ると、交阯郡こうしぐんの女子・徵側ちょうそく*4とその妹・徵貳ちょうじが反乱を起こして郡を攻撃しました。この時、交阯太守こうしたいしゅ蘇定そていは法によって徵側ちょうそく*4を正そうとしましたが、徵側ちょうそく*4は怒って、結局反乱を起こしました。

こうして九真郡きゅうしんぐん日南郡じつなんぐん合浦郡がっぽぐん蛮人ばんじん蛮里ばんり)はみな徵側ちょうそく*4に呼応しておよそ65城を攻略し、自立しておうとなりましたが、交阯刺史こうしししと諸郡の太守たいしゅたちはかろうじてみずからを守るだけしかできませんでした。

そこで光武帝こうぶていは、長沙郡ちょうさぐん合浦郡がっぽぐん交阯郡こうしぐんみことのりを下して車と船を用意させて道や橋を修理し、また障害となる渓谷を開通して食糧をたくわえさせると、建武けんぶ18年(42年)、伏波将軍ふくはしょうぐん馬援ばえん楼船将軍ろうせんしょうぐん段志だんしを派遣して、長沙郡ちょうさぐん桂陽郡けいようぐん零陵郡れいりょうぐん蒼梧郡そうごぐんの兵、1万人余りを徴発して徵側ちょうそく*4を討伐させます。

翌年の建武けんぶ19年(43年)夏4月、馬援ばえん交阯郡こうしぐんで敵を破り、徵側ちょうそく*4徵貳ちょうじが斬られると、残りの者たちはすべて降伏して離散しました。

その後馬援ばえんらは、さらに進軍して九真郡きゅうしんぐんぞく都陽とようらを攻撃して降伏させ、その渠帥きょすい3百人余りを零陵郡れいりょうぐんに移したことによって、嶺南れいなんの反乱はことごとく平定されました。

脚注

*4麊泠県びれいけん(ベトナム永福省永寧の北)出身の雒将らくしょうの娘。硃珪県しゅえんけん(ベトナム河西省の南東部)出身の詩索しさくの妻となったが、とても勇敢であった。

後漢ごかん文帝ぶんてい

  • 後漢ごかん粛宗しゅくそう文帝ぶんてい)の元和げんわ元年(84年)、日南郡じつなんぐんの国境外(徼外きょうがい)の究不事人きゅうふじじん蛮夷ばんい*5が生きたさい白雉はくち(白いきじ)を献上しました。
脚注

*5李賢りけん注に「究不事人きゅうふじじん蛮夷ばんいの別称である」とある。

後漢ごかん和帝わてい

  • 後漢ごかん和帝わてい永元えいげん12年(100年)夏4月、日南郡じつなんぐん象林県しょうりんけん蛮夷ばんい2千人余りが民に略奪を働いて官庁を焼き払いましたが、郡県がこれを討伐し、その渠帥きょすいを斬って残党を降伏させました。この時、象林県しょうりんけんに将兵と長史ちょうしを配置してそなえを固めます。

後漢ごかん安帝あんてい

  • 後漢ごかん安帝あんてい永初えいしょ元年(107年)、九真郡きゅうしんぐんの国境外(徼外きょうがい)の夜郎蛮やろうばん夜郎蛮夷やろうばんい)が土地をげて服属し、1,840里(約791.2km)を開拓しました。
  • 元初げんしょ2年(115年)、蒼梧郡そうごぐん蛮夷ばんいが反乱を起こし、翌年の元初げんしょ3年(116年)には鬱林郡うつりんぐん合浦郡がっぽぐん蛮人ばんじん漢人かんじん数千人を誘って蒼梧郡そうごぐんを攻撃します。

これに鄧太后とうたいこうみことのりを下し、侍御史じぎょし任逴じんたくを派遣してぞく赦免しゃめんさせると、ぞくはみな降伏して離散しました。

  • 延光えんこう元年(122年)、九真郡きゅうしんぐんの国境外(徼外きょうがい)のばんが貢献して服属し、延光えんこう3年(124年)には、日南郡じつなんぐんの国境外(徼外きょうがい)のばんが再びやって来て服属しました。

後漢ごかん順帝じゅんてい

  • 後漢ごかん順帝じゅんてい永建えいけん6年(131年)、日南郡じつなんぐんの国境外(徼外きょうがい)の葉調国ようちょうこくおう便べんが使者を派遣して貢献し、順帝じゅんてい便べん金印紫綬きんいんしじゅ下賜かししました。
  • 永和えいわ2年(137年)、日南郡じつなんぐん象林県しょうりんけんの国境外(徼外きょうがい)の蛮夷ばんい区憐おうれんら数千人が象林県しょうりんけんを攻め、官庁を焼いて長吏ちょうりを殺害しました。

これに交阯刺史こうししし樊演はんえんは、交阯郡こうしぐん九真郡きゅうしんぐんの兵1万人余りを徴発して象林県しょうりんけんを救援させようとしますが、兵士たちは遠方への軍役を嫌ってついに反乱を起こし、それぞれの役所を攻撃します。2郡は反乱を起こした者たちを撃破しましたが、ぞくの勢いはますますさかんになりました。

この時使者として日南郡じつなんぐんにいた侍御史じぎょし賈昌かしょうは、すぐに州郡と共にぞくを討伐しましたが、ぞくを撃ち破ることはできず、逆に攻め込まれて1年余り包囲を受け、兵糧がとぼしくなっていきました。

翌年の永和えいわ3年(138年)、これを憂慮ゆうりょした順帝じゅんてい公卿こうけい・百官と四府しふ*6えんぞく(属官)を召集してその方略をうたところ、「大将を派遣して荊州けいしゅう楊州ようしゅう兗州えんしゅう豫州よしゅう予州よしゅう)の4万人を徴発し、象林県しょうりんけんに向かわせる」という意見が優勢となります。

すると大将軍だいしょうぐん従事中郎じゅうじちゅうろう李固りこは、「この意見に反対する7つの理由をげ、元の幷州刺史へいしゅうしし長沙郡ちょうさぐん出身の祝良しゅくりょう南陽郡なんようぐん出身の張喬ちょうきょう刺史しし太守たいしゅとして交阯刺史部こうしししぶに派遣するべき」と主張しました。

李固の進言・全文
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1.

もし荊州けいしゅう楊州ようしゅうが無事であれば、徴発するのも良いでしょう。ですが今、その2州には盗賊が結集しており、また武陵郡ぶりょうぐん南郡なんぐん蛮夷ばんいによる反乱もまだ平定されていないため、すでに長沙郡ちょうさぐん桂陽郡けいようぐんは数度の徴発を受けており、もしまた騒動が起これば、必ずやさらなる災いを生みます。これが不可の第1です。

2.

また、兗州えんしゅう豫州よしゅう予州よしゅう)の人々が突然徴発され、遠く万里の彼方かなたおもむくことになれば、いつ帰還できるかも分かりません。詔書しょうしょせまって催促さいそくすれば、きっと離反して逃亡するでしょう。これが不可の第2です。

3.

南州なんしゅう交阯刺史部こうしししぶ)の気候や風土は暑く、加えて熱病を起こす瘴気しょうきがあり、10人中4、5人は必ず死に至るでしょう。これが不可の第3です。

4.

遠く万里の彼方かなたおもむいて士卒は疲弊ひへいし、嶺南れいなんに至る頃には、もう戦うことができないでしょう。これが不可の第4です。

5.

日南郡じつなんぐんまで9千里(約3,870km)離れていますので、1日30里(約12.9km)を行軍するとすれば、300日でようやく到着します。

兵卒1人につき食糧を5しょう(約1ℓ)として計算すると、米60万こく(約1,200万ℓ)が必要となります。

これは将吏や驢馬ろばの食糧を計算に入れておらず、ただよろいを背負って出向くだけで、費用はこれ程になります。これが不可の第5です。

6.

たとえ軍が目的地に到着しても、きっと死亡する者が多く、敵を防ぐには充分ではなくなって、またさらに徴発しなければならなくなるでしょう。まるで心臓や腹を切りいて四肢ししおぎなうようなものです。これが不可の第6です。

7.

九真郡きゅうしんぐん日南郡じつなんぐんは千里(約430km)のへだたりがあり、その吏民を徴発しても、なおえられません。どうして4州の住民を苦しめ、万里の艱難かんなんおもむかせようというのでしょうかっ!これが不可の第7です。


前の中郎将ちゅうろうしょう尹就いんしゅうは、益州えきしゅうで反乱を起こした羌族きょうぞくを討ちましたが、益州えきしゅうことわざに「りょ羌族きょうぞく?)が来るのはまだ良いが、尹就いんしゅうが来たら我らを殺すだろう*7」と言われました。

後に尹就いんしゅうかえされ、兵を刺史しし張喬ちょうきょうに預けましたが、張喬ちょうきょうはその将吏をひきいることにより、わずかな日数の間にりょ羌族きょうぞく?)のことごとくを撃ち破りました。これは、しょうを出動させることが無益であり、州郡に任せるべきであることの証拠です。

どうか改めて勇略と仁恵を備え、将帥しょうすいの任務にる者を選んで刺史しし太守たいしゅとし、共に交阯刺史部こうしししぶに派遣するべきです。

今や日南郡じつなんぐんは兵が尽きて食糧もなく、守ることも戦うこともできません。しばらく日南郡じつなんぐんの吏民を北の交阯郡こうしぐんに移して落ち着かせ、事態が静まった後で帰らせるべきです。

また蛮夷ばんいつのって互いに攻撃させ、金帛きんぱくを輸送してそれを軍資金とするべきです。反間工作をして蛮夷ばんい渠帥きょすい拉致らちする者がいれば、爵位と土地を褒賞として認めましょう。

元の幷州刺史へいしゅうしし長沙郡ちょうさぐん出身の祝良しゅくりょうは、勇敢で決断力のある性格です。また南陽郡なんようぐん出身の張喬ちょうきょうは、以前益州えきしゅうにおいて異民族を破った功績があり、いずれも任用すべきです。

昔、太宗たいそう前漢ぜんかん文帝ぶんてい)は魏尚ぎしょう雲中太守うんちゅうたいしゅの職を加え、哀帝あいてい龔舎きょうしゃ太山太守たいざんたいしゅに任命しました。

どうかただちに祝良しゅくりょうらをはいして、現在の任地から直接赴任ふにんさせてください。

脚注

*7原文:虜來尙可,尹來殺我。


四府しふ*6ことごと李固りこの議案に従い、ただちに祝良しゅくりょうはいして九真太守きゅうしんたいしゅとし、張喬ちょうきょう交阯刺史こうしししとします。

そして、任地に着いた張喬ちょうきょうが恩信を広く示していたわり誘うと、ぞくはみな降伏して離散し、祝良しゅくりょうのために官府を建てました。

また、祝良しゅくりょうが車1台でぞくの中に入って方策をもうけ、威信をもってまねいたところ、降伏する者は数万人にのぼり、これにより嶺外れいがいはまた平穏となりました。

  • 建康けんこう元年(144年)、日南郡じつなんぐん蛮夷ばんい千人余りが再び県邑けんゆうを焼き、九真郡きゅうしんぐん煽動せんどうして共に結託しましたが、揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん出身の交阯刺史こうししし夏方かほうは恩信を広く示してまねき誘い、ぞくをみな降伏させました。

この時、梁太后りょうたいこう臨朝りんちょうして夏方かほうの功績を称賛し、桂陽太守けいようたいしゅに昇進させました。

脚注

*6大将軍府だいしょうぐんふ大尉府たいいふ司徒府しとふ司空府しくうふの総称。

後漢ごかん桓帝かんてい

  • 後漢ごかん桓帝かんてい永寿えいじゅ2年(156年)、交阯刺史部こうしししぶ九真郡きゅうしんぐん居風県きょふうけん県令けんれいは、その強欲さと暴虐さに際限がなかったので、県人の朱達しゅたつ硃達しゅたつ)らと蛮夷ばんいはお互いに集まって県令けんれいを攻め殺します。その群衆は4、5千人にのぼり、その後九真郡きゅうしんぐんに進攻すると、九真太守きゅうしんたいしゅ兒式げいしょく児式げいしょく)は戦死しました。

これに桓帝かんていは、みことのりを下して[兒式げいしょく児式げいしょく)の遺族に]銭60万を下賜かしし、兒式げいしょく児式げいしょく)の子2人をろうに取り立てると、九真都尉きゅうしんとい魏朗ぎろうにこれを討伐させ、2千級を斬首しましたが、ぞく渠帥きょすいはそれでもなお日南郡じつなんぐんに駐屯し、その勢いはますますさかんとなりました。

  • 延熹えんき3年(160年)、桓帝かんていみことのりを下して、もう1度夏方かほう交阯刺史こうしししに任命しました。日南郡じつなんぐんに駐屯するぞくたちはこれを聞くと、夏方かほうは以前からその威信と恩恵の評判が顕著けんちょだったので、2万人余りが共に連れ立って夏方かほうもとに出頭して降伏しました。

後漢ごかん霊帝れいてい

  • 後漢ごかん霊帝れいてい建寧けんねい3年(170年)、鬱林太守うつりんたいしゅ谷永こくえいは恩信により烏滸うこの人10余万人をまねくだして服属させ、みなにかんむりおびさずけて7県を開設しました。
  • 熹平きへい2年(173年)冬12月、日南郡じつなんぐんの国境外(徼外きょうがい)の国が通訳を重ねて貢献して来ました。
  • 光和こうわ元年(178年)、交阯郡こうしぐん合浦郡がっぽぐん烏滸蛮うこばんが反乱を起こし、九真郡きゅうしんぐん日南郡じつなんぐんの人々をまねき誘い、数万人を集めて郡県を攻め落としましたが、光和こうわ4年(181年)、交阯刺史こうししし朱儁しゅしゅんがこれを撃破しました。
  • 光和こうわ6年(183年)、日南郡じつなんぐんの国境外(徼外きょうがい)の国がまた来訪して貢献しました。

交阯刺史部の蛮夷と中国の関係年表

西暦 出来事
不明
  • 越裳国えっしょうこく*2の使者がしゅう成王せいおう白雉はくち(白いきじ)を献上する。
  • が覇を唱えるようになると、百越ひゃくえつ(南方にいた越族えつぞくの総称)が朝貢するようになる。
B.C.221年

しん始皇帝しこうていの26年

  • しんが天下を併合すると、嶺南れいなん地方に南海郡なんかいぐん桂林郡けいりんぐん象郡しょうぐんを設置する。
B.C.206年

前漢ぜんかん高祖こうそ劉邦りゅうほう)の元年

  • 尉佗いた趙佗ちょうた)が自立して南越王なんえつおうとなる。
B.C.112年

前漢ぜんかん武帝ぶてい元鼎げんてい5年

  • 武帝ぶてい南越国なんえつこくを滅ぼし、交阯刺史こうしししを置く。
B.C.6年

前漢ぜんかん元帝げんてい初元しょげん3年

  • 珠崖郡しゅがいぐん海南島かいなんとう)が廃止される。
2年

前漢ぜんかん平帝へいてい元始げんし2年

  • 日南郡じつなんぐんの南の黄支国こうしこく*3がやって来て犀牛さいぎゅうさい)を献上する。
  • のち交阯刺史部こうしししぶを罪人の流刑るけい地にして蛮夷ばんいと雑居させる。
25年

後漢ごかん光武帝こうぶてい建武けんぶ元年

  • 交阯刺史部こうしししぶの民(蛮夷ばんい)に耕作を教え、かんむり履物はきものを製作し、学校を建設し、礼儀に導く。
  • 蛮夷ばんいが婚姻の作法を知る。
36年

後漢ごかん光武帝こうぶてい建武けんぶ12年

  • 九真郡きゅうしんぐんの国境外の蛮人ばんじん張遊ちょうゆうが種族の人間をひきいて服属する。
  • 張遊ちょうゆう帰漢里君きかんりくんに封じる。
37年

後漢ごかん光武帝こうぶてい建武けんぶ13年

  • 南越なんえつの国境外の蛮夷ばんいが、白雉はくち白菟はくとを献上する。
40年

後漢ごかん光武帝こうぶてい建武けんぶ16年

  • 交阯郡こうしぐんの女子・徵側ちょうそく*4とその妹・徵貳ちょうじが反乱を起こす。
  • 九真郡きゅうしんぐん日南郡じつなんぐん合浦郡がっぽぐん蛮人ばんじんがみな徵側ちょうそく*4に呼応する。
  • 徵側ちょうそく*4が自立しておうとなる。
42年

後漢ごかん光武帝こうぶてい建武けんぶ18年

  • 伏波将軍ふくはしょうぐん馬援ばえん楼船将軍ろうせんしょうぐん段志だんし徵側ちょうそく*4を討伐させる。
43年

後漢ごかん光武帝こうぶてい建武けんぶ19年夏4月

  • 馬援ばえん交阯郡こうしぐんで敵を破り、徵側ちょうそく*4徵貳ちょうじを斬る。
  • 残りの者たちはすべて降伏して離散する。
  • 馬援ばえんらが九真郡きゅうしんぐんぞく都陽とようらを攻撃して降伏させ、嶺南れいなんの反乱をことごとく平定する。
84年

後漢ごかん文帝ぶんてい元和げんわ元年

  • 日南郡じつなんぐんの国境外の究不事人きゅうふじじん蛮夷ばんい*5が生きたさい白雉はくちを献上する。
100年

後漢ごかん和帝わてい永元えいげん12年夏4月

  • 日南郡じつなんぐん象林県しょうりんけん蛮夷ばんい2千人余りが民に略奪を働いて官庁を焼き払う。
  • 郡県がこれを討伐し、その渠帥きょすいを斬って残党を降伏させる。
  • 象林県しょうりんけんに将兵と長史ちょうしを配置してそなえを固める。
100年

後漢ごかん和帝わてい永元えいげん12年夏4月

  • 日南郡じつなんぐん象林県しょうりんけん蛮夷ばんい2千人余りが民に略奪を働いて官庁を焼き払う。
  • 郡県がこれを討伐し、その渠帥きょすいを斬って残党を降伏させる。
  • 象林県しょうりんけんに将兵と長史ちょうしを配置してそなえを固める。
100年

後漢ごかん和帝わてい永元えいげん12年夏4月

  • 日南郡じつなんぐん象林県しょうりんけん蛮夷ばんい2千人余りが民に略奪を働いて官庁を焼き払う。
  • 郡県がこれを討伐し、その渠帥きょすいを斬って残党を降伏させる。
  • 象林県しょうりんけんに将兵と長史ちょうしを配置してそなえを固める。
107年

後漢ごかん安帝あんてい永初えいしょ元年

  • 九真郡きゅうしんぐんの国境外の夜郎蛮やろうばんが土地をげて服属し、1,840里(約791.2km)を開拓する。
115年

後漢ごかん安帝あんてい元初げんしょ2年

  • 蒼梧郡そうごぐん蛮夷ばんいが反乱を起こす。
116年

後漢ごかん安帝あんてい元初げんしょ3年

  • 蒼梧郡そうごぐん蛮夷ばんい鬱林郡うつりんぐん合浦郡がっぽぐん蛮人ばんじん漢人かんじん数千人を誘って蒼梧郡そうごぐんを攻撃する。
  • 鄧太后とうたいこう侍御史じぎょし任逴じんたくを派遣してぞく赦免しゃめんさせると、ぞくはみな降伏して離散する。
122年

後漢ごかん安帝あんてい延光えんこう元年

  • 九真郡きゅうしんぐんの国境外のばんが貢献して服属する。
131年

後漢ごかん順帝じゅんてい永建えいけん6年

  • 日南郡じつなんぐんの国境外の葉調国ようちょうこくおう便べんが使者を派遣して貢献する。
  • 順帝じゅんてい葉調国ようちょうこくおう便べん金印紫綬きんいんしじゅ下賜かしする。
137年

後漢ごかん順帝じゅんてい永和えいわ2年

  • 日南郡じつなんぐん象林県しょうりんけんの国境外の蛮夷ばんい区憐おうれんら数千人が象林県しょうりんけんを攻め、官庁を焼いて長吏ちょうりを殺害する。
  • 交阯刺史こうししし樊演はんえんが討伐に失敗し、ぞくの勢いがますますさかんになる。
  • 日南郡じつなんぐんにいた侍御史じぎょし賈昌かしょうが州郡と共にぞくを討伐するも、逆に包囲を受ける。
138年

後漢ごかん順帝じゅんてい永和えいわ3年

  • 大将軍だいしょうぐん従事中郎じゅうじちゅうろう李固りこの進言により、祝良しゅくりょう九真太守きゅうしんたいしゅに、張喬ちょうきょう交阯刺史こうしししとする。
  • 張喬ちょうきょう祝良しゅくりょうが恩信を広く示してぞくを降伏・離散させる。
144年

後漢ごかん順帝じゅんてい建康けんこう元年

  • 日南郡じつなんぐん蛮夷ばんい千人余りが再び県邑けんゆうを焼き、九真郡きゅうしんぐん煽動せんどうして共に結託する。
  • 交阯刺史こうししし夏方かほうが恩信を広く示してぞくを降伏させる。
  • 梁太后りょうたいこう臨朝りんちょうして夏方かほうの功績を称賛し、桂陽太守けいようたいしゅに昇進させる。
156年

後漢ごかん桓帝かんてい永寿えいじゅ2年

  • 交阯刺史部こうしししぶ九真郡きゅうしんぐん居風県きょふうけん朱達しゅたつ硃達しゅたつ)らが蛮夷ばんいと共に県令けんれいを攻め殺す。
  • 朱達しゅたつ硃達しゅたつ)と蛮夷ばんいら4、5千人が九真郡きゅうしんぐんに進攻し、九真太守きゅうしんたいしゅ兒式げいしょく児式げいしょく)が戦死する。
  • 桓帝かんていみことのりを下して[兒式げいしょく児式げいしょく)の遺族に]銭60万を下賜かしし、兒式げいしょく児式げいしょく)の子2人をろうに取り立てる。
  • 九真都尉きゅうしんとい魏朗ぎろうぞくを討伐させ、2千級を斬首するが、ぞく渠帥きょすいはなお日南郡じつなんぐんに駐屯し、その勢いはますますさかんとなる。
160年

後漢ごかん桓帝かんてい延熹えんき3年

  • 桓帝かんていみことのりを下して、もう1度夏方かほう交阯刺史こうしししに任命する。
  • 日南郡じつなんぐんに駐屯するぞく・2万人余りが共に連れ立って夏方かほうもとに出頭し、降伏する。
170年

後漢ごかん霊帝れいてい建寧けんねい3年

  • 鬱林太守うつりんたいしゅ谷永こくえいが恩信により烏滸人うこじん10余万人をまねくだして服属させ、かんむりおびさずけて7県を開設する。
173年

後漢ごかん霊帝れいてい熹平きへい2年冬12月

  • 日南郡じつなんぐんの国境外の国が通訳を重ねて貢献に来る。
178年

後漢ごかん霊帝れいてい光和こうわ元年

  • 交阯郡こうしぐん合浦郡がっぽぐん烏滸蛮うこばんが反乱を起こし、九真郡きゅうしんぐん日南郡じつなんぐんの数万人を集めて郡県を攻め落とす。
181年

後漢ごかん霊帝れいてい光和こうわ4年

  • 交阯刺史こうししし朱儁しゅしゅん烏滸蛮うこばんを撃破する。
183年

後漢ごかん霊帝れいてい光和こうわ6年

  • 日南郡じつなんぐんの国境外の国がまた来訪して貢献する。
脚注

*2現在のベトナム中部。

*3現在のインドのマドラスの南西、あるいはインドネシアのソロモン諸島の北西部に存在した。

*4麊泠県びれいけん(ベトナム永福省永寧の北)出身の雒将らくしょうの娘。硃珪県しゅえんけん(ベトナム河西省の南東部)出身の詩索しさくの妻となったが、とても勇敢であった。

*5李賢りけん注に「究不事人きゅうふじじん蛮夷ばんいの別称である」とある。


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