後漢・三国時代の異民族の内、西南夷に分類される夜郎国ついてまとめています。
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夜郎国
夜郎国
夜郎国の紀元
その昔、女子が遁水(遯水)*8で体を洗っていたところ、足の間に3節の大竹が流れ込んできました。その中から叫び声を聞いた女子が竹を割ってみると、その中に1人の男児が現れたので、連れて帰って育てることにします。
男児が成長すると、才知や武芸を備え、独立して夜郎侯となり、竹を姓とし、竹王と名乗りました。
脚注
*8『漢書』地理上に「夜郎県に遁水(遯水)があり、東の広鬱県に至る」とあり、『華陽国志』南中志に「遁水(遯水)は鬱林郡に通じ、三郎祠があり、すべて霊験がある」とある。
豆知識
『華陽国志』南中志
- 竹王が破れた竹を捨てた場所には、竹林ができ上がった。今の竹王祠がこれである。
- 竹王はかつて人を従えて大石の上に休息し、羹(肉・野菜を入れた熱い吸い物)を作るように命じたが、従者は「水がありません」と申し上げた。すると竹王は、剣で石を撃って水を出した。今の竹王水がこれである。
夜郎国と中国の関係
【楚】頃襄王期
戦国時代・楚の頃襄王(在位:紀元前298年〜紀元前263年)の時、将の荘豪を派遣して沅水から夜郎国を討伐させました。
軍が且蘭に至ると、船を岸に繋いで歩兵で戦い、夜郎国を滅ぼした後、荘豪はその地に留まって滇池で王となります。且蘭には、先の戦いで船を繋いだ牂柯(船を繋ぎ止める杭)があることから、その地名を牂柯(牂牁)と改めました。
牂柯(牂牁)の地は雨が多く、その風俗は巫鬼(巫術)の禁忌を好み、家畜は少なく、桑を植えて蚕を飼育することもなかったので、牂柯郡(牂牁郡)は最も貧しい郡でした。
牂柯郡(牂牁郡)・句町県に桄桹(桄榔)の木があり、それによって麺を作ることができたので、民はこれを頼みとしました。*9
脚注
*9『臨海異物志』に「桄桹(桄榔)の木の外皮には毛があり、栟櫚(棕櫚)に似てまばらに生えている。その木は堅く、鋘鋤を作れば鉄のように鋭く、石を当てて研ぐとさらに鋭くなるが、芯に当てると破損してしまう。皮の中には搗いた米のかけらに似たものがあり、また麦の粉にも似ており、餅餌を作るのに適している」とある。
【前漢】武帝期
前漢・武帝の元鼎6年(紀元前111年)、武帝が南夷を平定して益州・牂柯郡(牂牁郡)を設置すると、夜郎侯は武帝の軍を迎えて降伏し、王の印綬を賜りましたが、後に殺されてしまいました。
夷獠(西南夷の総称)の人々はみな、竹王(夜郎侯)が「人から生まれた存在ではない」ことから特別に尊重し、竹王(夜郎侯)のために後嗣(後継ぎ)を立てようとしました。
牂柯太守の呉覇がこの要望を奏上したところ、武帝は竹王(夜郎侯)の3人の子を侯に封じ、子らが亡くなると、父と合わせて祀りました。
現在の益州・牂柯郡(牂牁郡)・夜郎県にある「竹王三郎神」がこれにあたります。
【新末〜後漢】公孫述 / 光武帝期
成・公孫述(在位:25年〜36年)の頃、大姓の龍氏・傅氏・尹氏・董氏は、郡の功曹の謝暹と共に境界を守って後漢のために働き、使者を派遣して番禺江から貢ぎ物を奉じました。
光武帝はこれを褒め称え、それぞれに褒賞を与えました。
【後漢】桓帝期
桓帝の時、牂柯郡(牂牁郡)出身の尹珍は「自分は最果ての地(荒裔)に生まれたために礼儀を知らないのだ」と思い、豫州(予州)・汝南郡出身の許愼と応奉から経書や図緯(予言書)を学び、官は荆州刺史にまで昇りました。
夜郎国と中国の関係年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
B.C.298年 〜 B.C.263年 |
■楚の頃襄王期
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B.C.111年 |
■前漢・武帝の元鼎6年
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25年 〜 36年 |
■新末〜後漢・公孫述 / 光武帝期
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146年 〜 168年 |
■後漢・桓帝期
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