後漢・三国時代の異民族の内、南蛮に分類される板楯蛮(板楯蛮夷)についてまとめています。
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板楯蛮(板楯蛮夷)
板楯蛮(板楯蛮夷)の領域
板楯蛮(板楯蛮夷)
板楯蛮(板楯蛮夷)とは
戦国時代・秦の昭襄王の時代に「秦・蜀・巴・漢の境界を荒らした白虎」を射殺した夷人の後裔。益州・巴郡・閬中県に流れる渝水の沿岸に居住していました。
昭襄王に特権を与えられ、前漢の高祖(劉邦)の時代以降、板楯蛮(板楯蛮夷)と呼ばれるようになります。
前漢・後漢の征伐に従って先鋒となり、その勇猛さから「神兵」と呼ばれましたが、桓帝・霊帝期には度々反乱を起こすようになりました。
板楯蛮(板楯蛮夷)の紀元
秦の昭襄王の時に1頭の白虎がおり、常に虎の群れを従えて、しばしば秦・蜀・巴・漢の境界を荒らして千余人を傷つけました。
そこで昭王(昭襄王)は、重ねて国中に募集をかけ、虎を殺せる者がいるならば、1万家の邑と金百鎰を褒賞として与えることを約束します。
この時、巴郡・閬中県の夷人の中に白竹の弩を作るのに巧みな者がおり、楼に登って白虎を射殺しました。*1
昭王(昭襄王)はこれを褒め称えましたが、その者が夷人であることから封地を加えることを望みませんでした。
そこで昭王(昭襄王)は、
- 夷人の戸ごとに田1頃に対して租税をかけず、
- 10人の妻がいても算賦(人頭税)をかけず、
- 人を傷つけた者は罪を論じてしかるべき判決を下し、
- 人を殺した者は倓銭*2で死罪を贖う
ことができるようにし、
「秦が夷を犯したら黄龍1双を納め、夷が秦を犯したら清酒1鍾を納める」
と石に刻んで盟約します。夷人はこれに満足しました。
脚注
*1『華陽国志』巴志に「巴夷の廖仲たちがこれを射殺した」とある。
*2何承天の『纂文』に「倓は蛮夷が罪を贖うためのお金である」とある。
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板楯蛮(板楯蛮夷)の歴史
板楯蛮(板楯蛮夷)と中国の関係
【前漢】高祖(劉邦)期
板楯蛮(板楯蛮夷)の誕生
高祖(劉邦)が漢王となると、夷人を徴発(徴兵)して漢中から引き返し、三秦(関中)を討伐しました。
秦の地がすでに定まった後、夷人を巴中に帰還させ、その渠帥である、
- 羅
- 朴(樸)
- 督
- 鄂
- 度
- 夕
- 龔
の7姓については租税を免除し、その他の戸(姓)については40毎年賨銭を口(1人)ごとに40銭ずつを納めさせることにします。
彼らは代々、板楯蛮(板楯蛮夷)と号しました。
巴渝舞
益州・巴郡・閬中県に渝水が流れており、板楯蛮(板楯蛮夷)の人の多くが川の沿岸に居住していました。
彼らはみな勇猛で、当初は漢の先鋒となって、しばしば敵陣を陥落させました。
その習俗は歌舞を好み、高祖(劉邦)はこれを見て、「これは(周の)武王が(殷の)紂王を伐った時の歌である」と言い、そこで楽人に命じて習わせました。これがいわゆる「巴渝舞」です。
このように、板楯蛮(板楯蛮夷)は代々漢に服従していました。
【後漢】桓帝期
後漢の時代になると、郡守(太守)は常に板楯蛮(板楯蛮夷)を率いて征伐に赴きました。
後漢・桓帝の時代、板楯蛮(板楯蛮夷)がしばしば反乱を起こしましたが、益州・蜀郡出身の巴郡太守・趙温が恩信により板楯蛮(板楯蛮夷)を降伏させました。
【後漢】霊帝期
後漢・霊帝の光和2年(179年)、益州・巴郡の板楯蛮(板楯蛮夷)が再び反乱を起こし、三蜀(蜀郡・広漢郡・犍為郡)と漢中郡の諸郡に侵略しました。
霊帝は御史中丞の䔥瑗(蕭瑗)を派遣し、益州の兵を率いてこれを討伐させましたが、数年が経っても勝つことができませんでした。
そこで霊帝は、大軍を差し向けようと益州の上計吏に尋ね、征伐の方策を検討したところ、漢中郡の上計吏・程包は、
「板楯蛮(板楯蛮夷)の忠誠と功績は計り知れません。彼らは困窮して謀叛を企てたのであり、有能な牧や太守を選任すれば、板楯蛮(板楯蛮夷)は自ずから落ち着き、征伐して手を煩わせる必要もなくなります」
と進言します。
程包の進言・全文
タップ(クリック)すると開きます。
板楯蛮(板楯蛮夷)の7姓はその昔、白虎を射殺して功績を立て、租税を免除されて義人となりました。その人となりは勇猛であり、兵戦に優れております。
永初年間(107年〜113年)に羌が漢川に入り、郡県が破壊されましたが、板楯蛮(板楯蛮夷)の救援を得たことで、羌は殆ど敗死して尽きました。そのため彼らは神兵と呼ばれたのです。
以降、羌人は板楯蛮(板楯蛮夷)を畏れはばかり、羌人の間で南に侵入しないように言い伝えられ、建和2年(148年)に羌はまた大いに侵入しましたが、この時も板楯蛮(板楯蛮夷)に頼って何度も羌を撃ち破りました。
前の車騎将軍・馮緄が荊州・武陵郡を南征伐した際も、丹陽聚*3の精兵の力があったとは言え、板楯蛮(板楯蛮夷)のお陰で功を成すことができたのです。
近頃では、益州・益州郡の太守・李顒もまた板楯蛮(板楯蛮夷)を率いて反乱を平定しました。板楯蛮(板楯蛮夷)の忠誠と功績はこれらの通りであり、元より彼らに悪心などありません。
長吏や郷亭の要求する更賦は極めて重く、下僕として使役し鞭打つことは奴隷以上であり、また妻を他人に嫁がせたり子を売る者もいて、自ら首を斬る者までいる程です。州郡に恨みを陳述しても牧や太守は彼らの不満を収めようとせず、朝廷は遙か遠く、自ら訴え出ることもできません。
板楯蛮(板楯蛮夷)は天に向かって怨みを叫ぶしかなく、胸を叩いて進退に窮し、賦役に思い悩んで苦しんで酷刑に困窮しております。そのため村落がお互いに集まり、反乱を起こすに至ったのです。反乱の首謀者が僭称して謀叛を企てたのではありません。
今はただ有能な牧や太守を選任すれば、板楯蛮(板楯蛮夷)は自ずから落ち着き、征伐して手を煩わせる必要もなくなります。
脚注
*3『後漢書』南蛮西南夷列伝・李賢注に「(荊州・)南郡・枝江県に丹陽聚がある」とある。
霊帝は程包の言葉に従い、巴郡太守の曹謙を派遣して板楯蛮(板楯蛮夷)を赦免したところ、たちまちみな降伏しました。
中平5年(188年)に益州・巴郡の黄巾賊が蜂起すると、板楯蛮(板楯蛮夷)もこれに乗じて再び反乱を起こし、城邑に侵略しましたが、西園上軍別部司馬の趙瑾を派遣して討伐し、これを平定させました。
板楯蛮(板楯蛮夷)と中国の関係年表
西暦 |
出来事 |
B.C.306年
〜
B.C.251年 |
■秦の昭襄王期
- 1頭の白虎が虎の群れを従えて、しばしば秦・蜀・巴・漢の境界を荒らす。
- 昭王(昭襄王)が虎を殺した者に「1万家の邑と金百鎰」を与えることを約束する。
- 巴郡・閬中県の夷人が楼に登って白虎を射殺す。
- 昭王(昭襄王)が夷人に特権を与える。
|
B.C.206 |
■前漢・高祖(劉邦)期
- 高祖(劉邦)が漢王となると、夷人を徴発して漢中から引き返し、三秦(関中)を討伐する。
- 高祖(劉邦)が夷人を巴中に帰還させ、7姓の渠帥の租税を免除する。
- この頃から、彼らを板楯蛮(板楯蛮夷)と称するようになる。
- 高祖(劉邦)が板楯蛮(板楯蛮夷)の歌舞「巴渝舞」を楽人に習わせる。
|
25年
〜
145年 |
- 後漢の時代になると、郡守(太守)は常に板楯蛮(板楯蛮夷)を率いて征伐に赴いた。
|
146年
〜
168年 |
■後漢・桓帝期
- 板楯蛮(板楯蛮夷)がしばしば反乱を起こす。
- 巴郡太守・趙温が恩信により板楯蛮(板楯蛮夷)を降伏させる。
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179年 |
■後漢・霊帝の光和2年
- 益州・巴郡の板楯蛮(板楯蛮夷)が再び反乱を起こし、三蜀(蜀郡・広漢郡・犍為郡)と漢中郡の諸郡に侵略する。
- 霊帝が御史中丞の䔥瑗(蕭瑗)に討伐させるが、数年経っても勝てず。
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不明 |
- 漢中郡の上計吏・程包の進言に従って板楯蛮(板楯蛮夷)を赦免し、降伏しました。
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188年 |
■後漢・霊帝の中平5年
- 益州・巴郡の黄巾賊が蜂起する。
- 板楯蛮(板楯蛮夷)が再び反乱を起こす。
- 西園上軍別部司馬の趙瑾がこれを討伐して平定する。
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【後漢・三国時代の異民族】目次