後漢・三国時代の異民族の内、西南夷に分類される滇国についてまとめています。
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滇国
滇国
滇国の紀元
滇王は、戦国時代・楚の頃襄王の将・荘蹻(荘豪)の後裔です。
滇国と中国の関係
【前漢】武帝期
前漢・武帝の元封2年(紀元前109年)、滇国を平定した武帝は、その地を益州郡とし、牂柯郡(牂牁郡)と越巂郡からそれぞれ数県を分割して益州郡に編入。数年後には昆明の地を併合し、みな益州郡に所属させました。
益州郡には周囲2百里(約86km)の池があり、その水源は深くて広く、下流は浅くて狭いので、まるで逆流しているかのようでした。そのためこれを「滇池」と言います。
水辺の土地は平坦で広々としており、鸚鵡や孔雀が多く現れ、塩池や田漁(狩と漁)の豊穣さと金銀・畜産の富があります。
人々の風俗は贅沢で、官についた者はみな何世代にもわたって繁栄しました。
【新】王莽期
王莽の政治が乱れると、益州郡夷の棟蠶・若豆たちが兵を起こして郡守(太守)を殺害し、越巂姑復夷の大牟もまた反乱を起こし、吏人を殺害・略奪しました。
これに王莽は、寧始将軍の廉丹を派遣し、巴蜀の吏人と武器や穀物を輸送する輜重隊の兵卒10万人余りを徴発(徴兵)してこれらを攻撃しますが、吏士は飢餓と疫病に苦しみ、何年かけても勝てないまま帰還しました。
そこで王莽は、広漢郡出身の文斉を益州太守に任命し、溜池を造成して灌漑して2千余頃の田地を開墾すると、兵馬を激励して要塞を修築し、群夷たちを降伏させて和睦しました。
【後漢】光武帝期
後漢・光武帝の建武18年(42年)、夷人たちの渠帥・棟蚕(棟蠶)は、
- 益州・越巂郡・姑復県
- 益州・永昌郡・楪楡県
- 益州・益州郡・梇棟県
- 益州・益州郡・連然県
- 益州・益州郡・滇池県
- 益州・益州郡・建伶県
の昆明の諸種族と共に反乱を起こして長吏を殺害しました。益州太守の繁勝はこれと戦うも敗れ、退いて益州郡・犍為属国・朱提県(硃提県)に立て籠もりました。
建武19年(43年)、武威将軍の劉尚らを派遣して、広漢郡、犍為郡、蜀郡から徴発(徴兵)した1万3千人を率いて棟蚕(棟蠶)らを攻撃します。劉尚らの軍が瀘水(若水)を渡って益州郡に入ると、大軍が来ると聞いた群夷たちはみな塁を棄てて逃走し、劉尚はひ弱な者たちと穀物・家畜を獲ました。
建武20年(44年)、劉尚らは数ヶ月にわたって連戦して棟蚕(棟蠶)らを撃ち破ると、翌年の建武21年(45年)正月、追撃して益州・永昌郡・不韋県で渠帥の棟蚕(棟蠶)を斬り、斬首・捕虜7千余人、生口(奴隷)5,700人、馬3千頭、牛・羊3万余頭を得て、西南夷たちは悉く平定されました。
【後漢】章帝期
後漢・粛宗(章帝)の元和年間(84年〜86年)、益州・蜀郡出身の王追が益州太守となると、彼の政治による教化はとても優れており、滇池県の河の中から神馬4頭が現れ、甘露が降り、白烏が現れました。また王追は初めて学校を建て、少しずつその風俗を改めました。
【後漢】霊帝期
後漢・霊帝の熹平5年(176年)、諸夷が反乱を起こして益州太守の雍陟を捕らえると、朝廷は御史中丞の朱亀(硃龜)を派遣して討伐させましたが、勝つことができませんでした。
朝廷では「益州郡が辺境(邊外)にあって蛮夷が反乱を好むことから、軍を疲弊させてまで遠方の戦役に臨むよりは、郡を放棄した方が良い」という意見が出されましたが、巴郡出身の太尉椽・李顒はあくまでも討伐することを献策しました。
そこで朝廷は、李顒を益州太守に任命して板楯蛮を徴発(徴兵)すると、益州刺史の龐芝と共に諸夷を撃破してこれを平定し、捕らえられていた雍陟の身柄を確保しました。
李顒が亡くなると、夷人たちはまた反乱を起こしたので、益州・広漢郡出身の景毅を益州太守に任命してこれを討伐し、平定しました。
景毅が初めて郡に到着した時、米1斛の値段が1万銭という高値となっていましたが、景毅が仁恩を施した結果、わずか数年で米1斛の値段は数十銭に下がりました。
滇国と中国の関係年表
西暦 |
出来事 |
B.C.109年 |
■前漢・武帝の元封2年
- 武帝が滇国を平定し、その地を益州郡とする。
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8年
〜
23年
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■新・王莽期
- 益州郡夷の棟蠶・若豆らが郡守(太守)を殺害する。
- 越巂姑復夷の大牟もまた反乱を起こし、吏人を殺害・略奪する。
- 王莽が寧始将軍の廉丹にこれを討伐させるが、数年かけても勝てず帰還する。
- 広漢郡出身の文斉を益州太守に任命する。
- 益州太守・文斉が群夷たちを降伏させて和睦する。
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42年 |
■後漢・光武帝の建武18年
- 夷人たちの渠帥・棟蚕(棟蠶)が諸種族と共に反乱を起こし、長吏を殺害する。
- これを討伐に向かった益州太守の繁勝が敗れ、退いて益州郡・犍為属国・朱提県(硃提県)に立て籠もる。
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43年 |
■後漢・光武帝の建武19年
- 武威将軍の劉尚らを派遣して棟蚕(棟蠶)らを攻撃する。
- 劉尚らの軍が瀘水(若水)を渡って益州郡に入ると、群夷たちはみな逃走する。
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44年 |
■後漢・光武帝の建武20年
- 劉尚らは数ヶ月にわたって連戦して棟蚕(棟蠶)らを撃ち破る。
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45年 |
■後漢・光武帝の建武21年正月
- 劉尚らが棟蚕(棟蠶)らを追撃して渠帥の棟蚕(棟蠶)を斬り、夷人たちは悉く平定される。
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84年
〜
86年 |
■後漢・章帝の元和年間
- 益州・蜀郡出身の王追が益州太守となる。
- 王追が初めて学校を建て、少しずつその風俗を改める。
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176年 |
■後漢・霊帝の熹平5年
- 諸夷が反乱を起こして益州太守の雍陟を捕らえる。
- 御史中丞の朱亀(硃龜)にこれを討伐させるが、勝てず。
- 巴郡出身の太尉椽・李顒を益州太守に任命する。
- 板楯蛮を徴発して益州刺史・龐芝と共に諸夷を撃破・平定し、捕らえられていた雍陟の身柄を確保する。
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不明 |
- 李顒が亡くなると、。また夷人たちが反乱を起こす。
- 益州・広漢郡出身の景毅を益州太守に任命して討伐し、これを平定する。
- 景毅が初めて郡に到着した時、米1斛の値段が1万銭という高値となっていたが、景毅が仁恩を施した結果、わずか数年で米1斛の値段が数十銭に下がる。
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【後漢・三国時代の異民族】目次