後漢(ごかん)・三国時代の異民族の内、南蛮(なんばん)に分類される武陵蛮(ぶりょうばん)(荊蛮(けいばん)・五渓蛮(ごけいばん)・澧中蛮(れいちゅうばん)・零陽蛮(れいようばん)・五里蛮(ごりばん)・漊中蛮(ろうちゅうばん)・零陵蛮(れいりょうばん)・長沙蛮(ちょうさばん))についてまとめています。

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武陵蛮(荊蛮・五渓蛮)

武陵蛮(荊蛮・五渓蛮)の領域

武陵蛮(荊蛮・五渓蛮)

武陵蛮(ぶりょうばん)(荊蛮(けいばん)・五渓蛮(ごけいばん))

武陵蛮(荊蛮・五渓蛮)の紀元

昔、高辛氏(こうしんし)(帝嚳(ていこく))の時代、犬戎(けんじゅう)に侵略されたことを憂慮(ゆうりょ)した帝嚳(ていこく)は犬戎(けんじゅう)征伐の軍を起こしましたが、勝つことができませんでした。

そこで帝嚳(ていこく)は、


「犬戎(けんじゅう)の呉将軍(ごしょうぐん)の首を得る者がおれば、黄金千鎰(いつ)と邑(ゆう)1万家を褒賞(ほうしょう)とし、また末の娘を妻として与えよう」


と約束して、天下に勇士を募(つの)ります。

ですが、帝嚳(ていこく)がこの命令を下した後になって、帝嚳(ていこく)の飼い犬である槃瓠(ばんこ)*1が人の頭を銜(くわ)えて宮門にやって来ました。これを怪(あや)しんだ群臣が確認してみたところ、槃瓠(ばんこ)*1が銜(くわ)えているのはなんと、呉将軍(ごしょうぐん)の首でした。

帝嚳(ていこく)は大いに喜び、議論してその功績に報(むく)いようとしましたが、犬である槃瓠(ばんこ)*1に娘を娶(めと)らせることもできず、封爵(ほうしゃく)を与えることもできないことから、功績に報(むく)いる適当な方法が見つかりませんでした。


そのことを知った帝嚳(ていこく)の娘は「帝皇(ていこう)が命令を下(くだ)したならば、信義に違(たが)うことをしてはならない」と思い、そこで槃瓠(ばんこ)*1の元に嫁(とつ)ぐことを求めました。

これを受け、帝嚳(ていこく)がやむを得ず槃瓠(ばんこ)*1に娘を娶(めあわ)せると、槃瓠(ばんこ)*1は娘を背中に乗せて南山(なんざん)*2に入り、人間が足を踏み入れたことのない極(きわ)めて険阻(けんそ)な場所の、石室の中に住み着きました。

その結果、娘は衣裳(いしょう)を脱ぎ去って髪は僕鑑(ぼくかん)の髻(もとどり)をし、獨力(どくりょく)の衣(ころも)を着て生活するようになったので、帝嚳(ていこく)は娘を思い悲しみ、使者を遣(つか)わして探し求めさせましたが、空が暗くなる程(ほど)の暴風雨に遭遇(そうぐう)し、使者は進むことができませんでした。

それから3年が経つと、娘は6人の男子と6人の女子を生み、槃瓠(ばんこ)*1の死後、その子らは自(みずか)ら進んでお互いに夫婦となりました。

子らは木の皮を織(お)り紡(つむ)ぎ、草の実で染(そ)めた5色の衣服を好み、衣服にはみな尾の形を模(も)したものが取り付けられていました。


後に娘が帰郷して帝嚳(ていこく)に事情を話すと、帝嚳(ていこく)は彼女の子供たちを迎えさせました。

子供たちの衣裳(いしょう)は斑(まだら)で綾(あや)があり(班蘭)、その言葉は意味が通じず*3、好んで山谷に入り広々とした平野を好まなかったので、帝嚳(ていこく)は彼らの希望に沿(そ)って名山と広い沢(さわ)を下賜(かし)しました。

その後、子供たちは次第に栄(さか)え、自分たちのことを「蛮夷(ばんい)」と名乗りました。彼らは外見は愚(おろ)かそうに見えても内面は狡猾(こうかつ)であり、土地に安住して古い慣習を重んじていました。

亡(な)き父(槃瓠(ばんこ)*1)に功績があり、母は帝嚳(ていこく)の娘であることから、彼らは農業や商売をしても関所や橋の通行手形や租税(そぜい)を免除されていました。

それぞれの邑(むら)には君長(くんちょう)がいてみな印綬(いんじゅ)を賜(たまわ)り、冠(かんむり)の素材には獺(かわうそ)の皮を用(もち)いていました。

その渠帥(きょすい)を精夫(せいふ)と言い、お互いに「姎徒(おうと)」と呼び合っていました。彼らの子孫が、現在の荊州(けいしゅう)・長沙郡(ちょうさぐん)の「武陵蛮(ぶりょうばん)」です。

脚注

*1帝嚳(ていこく)の飼い犬の名前。その体毛には5色の模様があり、その子孫が五渓蛮(ごけいばん)であると言う。

*2唐(とう)の辰州(しんしゅう)・蘆渓県(ろけいけん)(後漢(ごかん)期の荊州(けいしゅう)・武陵郡(ぶりょうぐん)・沅陵県(げんりょうけん)の南西)の西に武山(ぶざん)がある。黄閔(こうびん)の『武陵記(ぶりょうき)』に「山の高さはほぼ1万仞(じん)(約1,580m)、山の中腹に槃瓠(ばんこ)*1の石室があり、数万人を収容できる。中に石の寝台があり、これは槃瓠(ばんこ)*1の足跡(そくせき)である。今考えて見るに、山の洞窟の前には石羊(せきよう)・石獣(せきじゅう)があり、奇異な古跡が非常に多い。石窟(せきくつ)を望見してみると、大きさは3間の部屋のようであり、遠くにある1つの石を見ると犬の形に似ている。蛮(ばん)の人々は『これが槃瓠(ばんこ)*1の像である』と伝えている」とある。

*3原文:語言侏離。侏離(しゅり)とは、異民族の言葉を卑(いや)しめていう言葉。また、音声が聞こえるだけで、その意味がまったく通じないこと。

槃瓠(ばんこ)

高辛氏(こうしんし)(帝嚳(ていこく))に老婦がおり、王室に居住していましたが、その老婦が耳の病気を患(わずら)い、耳から繭(まゆ)ほどの大きさのものを掻(か)き出しました。

婦人がそれを瓠(ひさご)(瓢簞(ひょうたん))の中に盛り、槃(たらい)(平らな鉢(はち))で覆(おお)うと、それはたちまち変化して5色の文様をもつ犬となりました。そこでその犬は、槃瓠(ばんこ)*1と名づけられました。


干宝(かんぽう)(干寶(かんぽう))の『晋紀(しんき)』に、

「武陵郡(ぶりょうぐん)・長沙郡(ちょうさぐん)・廬江郡(ろこうぐん)の夷(い)は、槃瓠(ばんこ)*1の後裔(こうえい)である。五渓(ごけい)の中に雑居している。槃瓠(ばんこ)*1は山の険阻(けんそ)な場所に住み、いつも危害をなした。夷(い)たちは魚肉を混(ま)ぜ合わせて供物(くもつ)を捧(ささ)げ、槽(おけ)を叩(たた)いて叫び、槃瓠(ばんこ)*1を祭った。俗称を『赤髀横裙(せきひおうくん)(太股(ふともも)を丸出しにして短いスカートを履(は)く)』と言う」

とあります。

武陵蛮の定義

『後漢書(ごかんじょ)』南蛮(なんばん)西南夷列伝(せいなんいれつでん)の初めに、荊州(けいしゅう)南部の蛮(ばん)についての記述があります。

荊州(けいしゅう)南部の蛮(ばん)は、槃瓠(ばんこ)*1の子らが五渓(ごけい)(5つの渓谷(けいこく))に封ぜられたのを初めとし、彼らは総称して「武陵蛮(ぶりょうばん)」「五渓蛮(ごけいばん)」「荊蛮(けいばん)」「蛮荊(ばんけい)」などと呼ばれますが、当サイトでは「武陵蛮(ぶりょうばん)」で統一します。

『後漢書(ごかんじょ)』南蛮(なんばん)西南夷列伝(せいなんいれつでん)には、

  • 澧中蛮(れいちゅうばん)
  • 零陽蛮(れいようばん)
  • 五里蛮(ごりばん)
  • 漊中蛮(ろうちゅうばん)
  • 零陵蛮(れいりょうばん)
  • 長沙蛮(ちょうさばん)
  • 武陵蛮(ぶりょうばん)

などの個々の名称が見られますが、これらは居住する場所によって名称が分かれているもので、みな槃瓠(ばんこ)*1の後裔(こうえい)であり、同一の種族であると考えて良いでしょう。

脚注

*1帝嚳(ていこく)の飼い犬の名前。その体毛には5色の模様があり、その子孫が五渓蛮(ごけいばん)であると言う。


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武陵蛮(荊蛮・五渓蛮)の歴史

武陵蛮(荊蛮・五渓蛮)と中国の関係

唐尭(とうぎょう)・虞舜(ぐしゅん)期

蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))は、唐尭(とうぎょう)・虞舜(ぐしゅん)の時代に盟約を結び、要服(ようふく)*4となりましたが、夏(か)・商(しょう)の時代になると次第に辺境を荒らすようになり、周(しゅう)の治世になると、蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))の勢力は益々盛(さか)んになります。

脚注

*4京畿(けいき)を中心としてその周囲500里(約215km)ごとに分けた五つの地域(五服(ごふく))の1つ。京畿(けいき)に近い順に甸服(でんふく)・侯服(こうふく)・綏服(すいふく)・要服(ようふく)・荒服(こうふく)という。

【周(しゅう)】宣王(せんおう)期

宣王(せんおう)が周(しゅう)を中興(ちゅうこう)すると、方叔(ほうしゅく)に命じて南の蛮族(ばんぞく)(蛮方(ばんぽう))を討伐させました(南伐蠻方)。詩人(しじん)が「蛮荊(ばんけい)は威(い)を畏(おそ)れて降伏した(蠻荆來威)」と謂(い)うのがこれにあたります。

また『詩経(しきょう)』小雅(しょうが)・采芑篇(さいきへん)*5に「蠢動(しゅんどう)する荊蛮(けいばん)は大国を仇(かたき)となした」とあり、蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))はとても多く、中華の諸国(諸夏)に対抗したことは明らかです。

脚注

*5『詩経(しきょう)』小雅(しょうが)・采芑篇(さいきへん)の序(じょ)に「采芑(さいき)は周(しゅう)の宣王(せんおう)が南征したことを歌った詩である」とある。

【周(しゅう)】平王(へいおう)期

周(しゅう)の平王(へいおう)が洛邑(らくゆう)に東遷(とうせん)すると、蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))はついに中原(ちゅうげん)(上國)に侵略しました。これに晋(しん)の文侯(ぶんこう)が輔政し、蔡(さい)の共侯(きょうこう)を率(ひき)いてこれを撃破しました。

【楚(そ)】武王(ぶおう)期

楚(そ)の武王(ぶおう)の時に至って、蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))は羅子(らし)と共に楚(そ)軍を破り、楚(そ)の将・屈瑕(くつか)を自害に追い込みました。

【楚(そ)】荘王(そうおう)・恭王(きょうおう)(共王(きょうおう))期

楚(そ)の荘王(そうおう)が即位した当初、民は飢(う)えて兵は弱かったので、再び蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))の侵略を受けるようになりましたが、その後楚(そ)軍が威(い)を振るうようになると、ついに楚(そ)に服従し、鄢陵(えんりょう)の戦いでは楚(そ)の恭王(きょうおう)(共王(きょうおう))と共に晋(しん)と戦いました。

【楚(そ)】悼王(とうおう)期

呉起(ごき)が楚(そ)の悼王(とうおう)の相(しょう)(宰相(さいしょう))となると、南の蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))・越裳(えつしょう)を併合し、ついに洞庭湖(どうていこ)と蒼梧(そうご)を領有しました。

【秦(しん)】昭王(しょうおう)期

秦(しん)の昭王(しょうおう)は白起(はくき)に楚(そ)を討伐させ、蛮夷(ばんい)の地を攻め取り、初めて黔中郡(けんちゅうぐん)を置き、漢(かん)が興(おこ)ると武陵郡(ぶりょうぐん)に改めました。

蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))には毎年、大人(たいじん)(首長)には布1匹を、小口(しょうこう)(細民)には2丈(じょう)を納めさせ、これを賨布(そうふ)と言います。

蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))は、時には盗みを働くとは言え、郡国の憂患となる程(ほど)ではありませんでした。

【後漢(ごかん)】光武帝(こうぶてい)期

光武帝(こうぶてい)が漢(かん)を中興(ちゅうこう)した当時、武陵郡(ぶりょうぐん)の蛮夷(ばんい)(武陵蛮(ぶりょうばん))の勢力は特に盛(さか)んになっていました。

後漢(ごかん)・光武帝(こうぶてい)の建武(けんぶ)23年(47年)、精夫(せいふ)の相単程(しょうたんてい)らがその険隘(けんあい)(険(けわ)しく狭(せま)いこと)な地形を頼って、大いに郡県に侵攻します。

光武帝(こうぶてい)は武威将軍(ぶいしょうぐん)の劉尚(りゅうしょう)を派遣して、荊州(けいしゅう)の南郡(なんぐん)、長沙郡(ちょうさぐん)、武陵郡(ぶりょうぐん)の兵1万人余りを徴発(ちょうはつ)し、船に乗って沅水(げんすい)を遡(さかのぼ)り、武渓(ぶけい)(沅水(げんすい)の支流)に入って相単程(しょうたんてい)らを攻撃させました。

この時、劉尚(りゅうしょう)は敵を軽んじて険(けわ)しい場所に入りましたが、山は深く水流が速いため、思うように川を遡(さかのぼ)ることができませんでした。

蛮氏(ばんし)(武陵蛮(ぶりょうばん))たちは、劉尚(りゅうしょう)が兵糧も少ないまま遠くまで侵入し、さらに道に詳しくないことを知り、要害に集結して守りを固めます。

兵糧が尽きた劉尚(りゅうしょう)が軍を引き返すと、蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))は敵の退路を断って攻撃を仕掛けたので、劉尚(りゅうしょう)軍は大敗し、その悉(ことごと)くが戦死しました。


建武(けんぶ)24年(48年)、相単程(しょうたんてい)らが荊州(けいしゅう)・武陵郡(ぶりょうぐん)・臨沅県(りんげんけん)に侵攻すると、光武帝(こうぶてい)は謁者(えっしゃ)の李嵩(りすう)、中山太守(ちゅうざんたいしゅ)の馬成(ばせい)を派遣してこれを攻撃させましたが、勝つことはできませんでした。

翌年[建武(けんぶ)25年(49年)]春、伏波将軍(ふくはしょうぐん)の馬援(ばえん)、中郎将(ちゅうろうしょう)の劉匡(りゅうきょう)・馬武(ばぶ)・孫永(そんえい)らが臨沅県(りんげんけん)で敵を撃破すると、相単程(しょうたんてい)らは飢(う)え苦しんで降伏を願い出ます。

たまたま馬援(ばえん)が病死していたので、謁者(えっしゃ)の宗均(そうきん)(宋均(そうきん))は相単程(しょうたんてい)らを許して悉(ことごと)く降伏を受け容(い)れました。

これにより後漢(ごかん)の吏司(りし)が置かれ、ついに蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))は平定されました。

【後漢(ごかん)】章帝(しょうてい)期

後漢(ごかん)・粛宗(しゅくそう)(章帝(しょうてい))の建初(けんしょ)元年(76年)、荊州(けいしゅう)・武陵郡(ぶりょうぐん)の澧中蛮(れいちゅうばん)・陳従(ちんじゅう)らが叛(そむ)いて零陽蛮(れいようばん)の領域に侵入しましたが、この年の冬、零陽蛮(れいようばん)と五里蛮(ごりばん)の精夫(せいふ)は、郡(後漢(ごかん))のためにこれを撃破し、陳従(ちんじゅう)らはみな降伏しました。


建初(けんしょ)3年(78年)冬、漊中蛮(ろうちゅうばん)の覃児健(たんじけん)(覃兒健(たんじけん))らが再び反乱を起こし、荊州(けいしゅう)・武陵郡(ぶりょうぐん)・零陽県(れいようけん)・作唐県(さくとうけん)・孱陵県(せんりょうけん)の領域に侵入して火をかけました。

翌年[建初(けんしょ)4年(79年)]春、荊州(けいしゅう)の7郡と豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))の汝南郡(じょなんぐん)、潁川郡(えいせんぐん)の弛刑徒(しけいと)(刑を弛(ゆる)められた罪人)と吏士(りし)・5千人余りを徴発(ちょうはつ)して零陽県(れいようけん)を守備させ、充県(しょうけん)の五里蛮(ごりばん)の精夫(せいふ)で反乱に加わらなかった者・4千人を募(つの)って、澧中蛮(れいちゅうばん)の賊(ぞく)を攻撃させました。

建初(けんしょ)5年(80年)春、覃児健(たんじけん)(覃兒健(たんじけん))らが降伏を申し出てきたもののこれを許さず、郡は兵を進めて宏下(こうか)で戦い、これを大いに破って覃児健(たんじけん)(覃兒健(たんじけん))の首を斬りました。

敗残兵たちは陣営を棄(す)てて漊中(ろうちゅう)に逃げ帰り、再び使者を派遣して降伏を願い出て来たので、郡はこれを受諾し、武陵郡(ぶりょうぐん)の屯兵を解散して、功績に応じて褒賞を下賜(かし)しました。

【後漢(ごかん)】和帝(わてい)期

後漢(ごかん)・和帝(わてい)の永元(えいげん)4年(92年)冬、漊中蛮(ろうちゅうばん)と澧中蛮(れいちゅうばん)の潭戎(たんじゅう)らが反乱を起こし、郵亭(ゆうてい)を焼き払って吏民を殺害し略奪を行いましたが、郡兵が撃破してこれを降伏させました。

【後漢(ごかん)】安帝(あんてい)期

後漢(ごかん)・安帝(あんてい)の元初(げんしょ)2年(115年)、澧中蛮(れいちゅうばん)は郡県の課した徭税(ようぜい)(労役(ろうえき))が公平さを欠いていることに怨恨(えんこん)を懐(いだ)き、充県(しょうけん)の諸(もろ)々(もろ)の蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))2千人余りと結託して城を攻め、長吏(ちょうり)を殺害しました。

これに郡県は五里蛮(ごりばん)と6つの亭(てい)の兵(六亭兵)を募(つの)って追撃すると、敵を撃破して離散・降伏させ、五里蛮(ごりばん)と6つの亭(てい)の渠帥(きょすい)に功績に応じて金帛(きんぱく)を下賜(かし)しました。


翌年[元初(げんしょ)3年(116年)]秋、漊中蛮(ろうちゅうばん)と澧中蛮(れいちゅうばん)の4千人が盗賊となり、零陵蛮(れいりょうばん)の羊孫(ようそん)、陳湯(ちんとう)ら千人余りが赤い頭巾(赤幘(せきさく))を着けて将軍(しょうぐん)と称し、官庁を焼いて民に略奪を働いたので、州郡は後漢(ごかん)に従う蛮(ばん)(善蛮)を募(つの)り、これを討伐して平定しました。

【後漢(ごかん)】順帝(じゅんてい)期

後漢(ごかん)・順帝(じゅんてい)の永和(えいわ)元年(136年)、武陵太守(ぶりょうたいしゅ)が、


「蛮夷(ばんい)が服従したので、漢人(かんじん)と同じように租税(そぜい)と賦役(ふえき)を増やすべきです」


と上書しました。

この上書について議論した者たちがみな賛成する中、尚書令(しょうしょれい)の虞詡(ぐく)だけはこれに反対しましたが、順帝(じゅんてい)は虞詡(ぐく)の言葉に従いませんでした。

虞詡の上奏・全文
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古(いにしえ)より聖王は異俗(いぞく)の者たちを臣下にしませんでしたが、それは徳を及ぼせず威(い)を加えられないからではありません。蛮夷(ばんい)の獣(けもの)の如き性根(しょうね)は欲張りで貪(むさぼ)ってばかりであり、礼によって服従させることが難しいことを知っていたからです。

だからこそ繋(つな)ぎとめて蛮夷(ばんい)を安(やす)んじ労(いたわ)り、懐(なつ)いてくれば受け容(い)れて逆らわず、反乱を起こせば打ち棄(す)てて追いませんでした。

先帝が旧典に定めた貢税(こうぜい)(物品で納める税)の額には、れっきとした根拠があります。

今、みだりに貢税(こうぜい)(物品で納める税)を増やせば、きっと怨(うら)んで反乱を起こすでしょう。増税による所得でその損失を補(おぎな)うことはできません。必ずや後悔することになります。


この年の冬、澧中蛮(れいちゅうばん)と漊中蛮(ろうちゅうばん)が「布を納(おさ)めることは旧来の約束にない」として争い、ついに郷吏(きょうり)を殺害して種族を挙(あ)げて反乱を起こしました。

翌年[永和(えいわ)2年(137年)]春、さらに蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))2万人が充県(しょうけん)を包囲し、8千人が荊州(けいしゅう)・南郡(なんぐん)・夷道県(いどうけん)を攻撃しましたが、武陵太守(ぶりょうたいしゅ)・李進(りしん)を派遣して蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))を討伐させ、数百級を斬首すると、残りの者はみな降伏しました。

李進(りしん)は善良な役人を選んで蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))の気持ちを和(やわ)らげます。

李進(りしん)が郡に在任すること9年、梁太后(りょうたいこう)が臨朝すると、詔(みことのり)を下して李進(りしん)に秩禄(ちつろく)・二千石(にせんせき)を加増し、銭20万を下賜(かし)しました。

【後漢(ごかん)】桓帝(かんてい)期

後漢(ごかん)・桓帝(かんてい)の元嘉(げんか)元年(151年)秋、武陵蛮(ぶりょうばん)の詹山(せんざん)ら4千人余りが反乱を起こし、県令(けんれい)を拘束(こうそく)して深山(しんざん)に集結しましたが、永興(えいこう)元年(153年)に至り、武陵太守(ぶりょうたいしゅ)の応奉(おうほう)が恩信をもって招(まね)き誘うと、悉(ことごと)く降伏して解散しました。

永寿(えいじゅ)3年(157年)11月、長沙蛮(ちょうさばん)が反乱を起こして荊州(けいしゅう)・長沙郡(ちょうさぐん)・益陽県(えきようけん)に駐屯しました。

延熹(えんき)3年(160年)秋に至るとその数は1万人を超え、郡の境界を越えて略奪を働いて長吏(ちょうり)を殺傷し、零陵蛮(れいりょうばん)も長沙郡(ちょうさぐん)に入ります。

冬に至ると、武陵蛮(ぶりょうばん)・6千人余りが荊州(けいしゅう)・南郡(なんぐん)・江陵県(こうりょうけん)に侵攻し、荆州刺史(けいしゅうしし)の劉度(りゅうど)、謁者(えっしゃ)の馬睦(ばぼく)、南郡太守(なんぐんたいしゅ)の李粛(りしゅく)らはみな逃走しました。

この時、李粛(りしゅく)の主簿(しゅぼ)・胡爽(こそう)が馬の首を掴(つか)んで、


「蛮夷(ばんい)は郡に警備がいないのを見て、その間隙(かんげき)に乗じて侵攻したのです。明府(あなた)は国の大臣であり、統治する城は千里(約430km)に連(つら)なり、旗旄(きぼう)を挙(あ)げ太鼓を打ち鳴らせば、その声に応じる者は10万人はいるでしょう。なぜその重責を放棄して、逃亡者となられるのですかっ!」


と諫(いさ)めると、李粛(りしゅく)は刃(やいば)を抜いて胡爽(こそう)に向け、


「小役人(掾(えん))よ、直(ただ)ちに去れっ!太守(わたし)は今、急いでいるのだ。考えている暇などない」


と言いましたが、それでも胡爽(こそう)は馬に抱(だ)きついて固く諫(いさ)めたので、李粛(りしゅく)はとうとう胡爽(こそう)を殺して逃走しました。

このことを聞いた桓帝(かんてい)は、李粛(りしゅく)を徵(め)し出して棄市(きし)(晒(さら)し首)とし、劉度(りゅうど)と馬睦(ばぼく)は死一等を減じ、胡爽(こそう)の村里(門閭(もんりょ))の租税(そぜい)を免除して、家族の1人を郎(ろう)としました。


その後、右校令(ゆうこうれい)の度尚(どしょう)を荆州刺史(けいしゅうしし)に任命して長沙郡(ちょうさぐん)の賊(ぞく)を平定させ、武陵蛮(ぶりょうばん)には車騎将軍(しゃきしょうぐん)の馮緄(ふうこん)を派遣して討伐させると、みな降伏し離散しました。

軍が帰還すると、賊(ぞく)が再び荊州(けいしゅう)・桂陽郡(けいようぐん)を攻撃し、桂陽太守(けいようたいしゅ)の廖析(りょうき)(瘳析(りょうき))は逃走しました。

すると武陵蛮(ぶりょうばん)もまた改めて武陵郡(ぶりょうぐん)を攻めましたが、武陵太守(ぶりょうたいしゅ)の陳奉(ちんほう)が吏人を率(ひき)いて撃ち破り、斬首した者は3千級余り、2千人余りを降伏させました。

【後漢(ごかん)】霊帝(れいてい)期

後漢(ごかん)・霊帝(れいてい)の中平(ちゅうへい)3年(186年)に至ると、武陵蛮(ぶりょうばん)がまた叛(そむ)き、武陵郡(ぶりょうぐん)の境界を荒らしましたが、州郡がこれを撃破しました。

武陵蛮と中国の関係年表

西暦 出来事
先史

■唐尭(とうぎょう)・虞舜(ぐしゅん)時代

  • 唐尭(とうぎょう)・虞舜(ぐしゅん)の時代に盟約を結び、要服(ようふく)*4となる。
前2070年
〜
前1046年

■夏(か)・商(しょう)時代

  • 蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))が次第に辺境を荒らすようになる。
前1047年
〜
前829年

■周(しゅう)・厲王(れいおう)までの時代

  • 蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))の勢力が益々盛(さか)んになる。
前827年

■周(しゅう)・宣王(せんおう)の宣王(せんおう)元年

  • 方叔(ほうしゅく)の討伐を受けて降伏する。
前770年

■周(しゅう)・平王(へいおう)の平王(へいおう)元年

  • 蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))が中原(ちゅうげん)に侵略するが、晋(しん)の文侯(ぶんこう)に撃破される。
前699年

■楚(そ)・武王(ぶおう)の武王(ぶおう)42年春

  • 蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))が羅子(らし)と共に楚(そ)軍を破り、楚(そ)の将・屈瑕(くつか)を自害に追い込む。
前613年

■楚(そ)・荘王(そうおう)の荘王(そうおう)元年

  • 蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))が楚(そ)に侵略する。
前575年

■楚(そ)・共王(きょうおう)の共王(きょうおう)16年

  • 鄢陵(えんりょう)の戦いで楚(そ)の恭王(きょうおう)(共王(きょうおう))と共に晋(しん)と戦う。
前402年
〜
前381年

■楚(そ)の悼王(とうおう)期

  • 呉起(ごき)が楚(そ)の悼王(とうおう)の相(しょう)(宰相(さいしょう))となると、南の蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))・越裳(えつしょう)を併合し、ついに洞庭湖(どうていこ)と蒼梧(そうご)を領有した。
前307
〜
前251

■秦(しん)・昭王(しょうおう)期

  • 秦(しん)の昭王(しょうおう)が白起(はくき)に楚(そ)を討伐させ、蛮夷(ばんい)の地を攻め取って黔中郡(けんちゅうぐん)を置いた。
  • 蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))に対して毎年、賨布(そうふ)が課された。
25年

■後漢(ごかん)・光武帝(こうぶてい)の建武(けんぶ)元年

  • 武陵郡(ぶりょうぐん)の蛮夷(ばんい)(武陵蛮(ぶりょうばん))の勢力が特に盛(さか)んとなる。
47年

■後漢(ごかん)・光武帝(こうぶてい)の建武(けんぶ)23年

  • 精夫(せいふ)の相単程(しょうたんてい)らが大いに郡県に侵攻する。
  • 光武帝(こうぶてい)が討伐に派遣した劉尚(りゅうしょう)が大敗し、その悉(ことごと)くが戦死する。
48年

■後漢(ごかん)・光武帝(こうぶてい)の建武(けんぶ)24年

  • 相単程(しょうたんてい)らが荊州(けいしゅう)・武陵郡(ぶりょうぐん)・臨沅県(りんげんけん)に侵攻する。
  • 光武帝(こうぶてい)が謁者(えっしゃ)の李嵩(りすう)、中山太守(ちゅうざんたいしゅ)の馬成(ばせい)に討伐を命じるが、勝てなかった。
49年

■後漢(ごかん)・光武帝(こうぶてい)の建武(けんぶ)25年

  • 伏波将軍(ふくはしょうぐん)の馬援(ばえん)、中郎将(ちゅうろうしょう)の劉匡(りゅうきょう)・馬武(ばぶ)・孫永(そんえい)らが臨沅県(りんげんけん)で敵を撃破する。
  • 相単程(しょうたんてい)らが飢(う)え苦しんで降伏を願い出る。
  • 謁者(えっしゃ)の宗均(そうきん)(宋均(そうきん))が相単程(しょうたんてい)らを許して悉(ことごと)く降伏を受け容(い)れる。
  • 後漢(ごかん)の吏司(りし)が置かれ、蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))が平定される。
76年

■後漢(ごかん)・章帝(しょうてい)の建初(けんしょ)元年

  • 荊州(けいしゅう)・武陵郡(ぶりょうぐん)の澧中蛮(れいちゅうばん)・陳従(ちんじゅう)らが叛(そむ)いて零陽蛮(れいようばん)の領域に侵入する。
  • 冬、零陽蛮(れいようばん)と五里蛮(ごりばん)の精夫(せいふ)が、郡(後漢(ごかん))のためにこれを撃破し、陳従(ちんじゅう)らはみな降伏する。
78年

■後漢(ごかん)・章帝(しょうてい)の建初(けんしょ)3年

  • 冬、漊中蛮(ろうちゅうばん)の覃児健(たんじけん)(覃兒健(たんじけん))らが再び反乱を起こし、荊州(けいしゅう)・武陵郡(ぶりょうぐん)・零陽県(れいようけん)・作唐県(さくとうけん)・孱陵県(せんりょうけん)の領域に侵入して火をかける。
79年

■後漢(ごかん)・章帝(しょうてい)の建初(けんしょ)4年

  • 春、荊州(けいしゅう)の7郡と豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))の汝南郡(じょなんぐん)、潁川郡(えいせんぐん)の弛刑徒(しけいと)(刑を弛(ゆる)められた罪人)と吏士(りし)・5千人余りを徴発(ちょうはつ)して零陽県(れいようけん)を守備させ、充県(しょうけん)の五里蛮(ごりばん)の精夫(せいふ)で反乱に加わらなかった者・4千人を募(つの)って、澧中蛮(れいちゅうばん)の賊(ぞく)を攻撃させる。
80年

■後漢(ごかん)・章帝(しょうてい)の建初(けんしょ)5年

  • 春、覃児健(たんじけん)(覃兒健(たんじけん))らが降伏を申し出たが、許さなかった。
  • 郡は兵を進めて宏下(こうか)で戦い、大いに破って覃児健(たんじけん)(覃兒健(たんじけん))の首を斬る。
  • 敗残兵たちが陣営を棄(す)てて漊中(ろうちゅう)に逃げ帰り、再び降伏を願い出る。
  • 郡はこれを受諾し、武陵郡(ぶりょうぐん)の屯兵を解散して、功績に応じて褒賞を下賜(かし)する。
92年

■後漢(ごかん)・和帝(わてい)の永元(えいげん)4年

  • 冬、漊中蛮(ろうちゅうばん)と澧中蛮(れいちゅうばん)の潭戎(たんじゅう)らが反乱を起こし、郵亭(ゆうてい)を焼き払って吏民を殺害し略奪を行う。
  • 郡兵がこれを撃破して降伏させる。
115年

■後漢(ごかん)・安帝(あんてい)の元初(げんしょ)2年

  • 澧中蛮(れいちゅうばん)が郡県の課した徭税(ようぜい)(労役(ろうえき))に怨恨(えんこん)を懐(いだ)き、充県(しょうけん)の諸(もろ)々(もろ)の蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))2千人余りと結託して城を攻め、長吏(ちょうり)を殺害する。
  • 郡県が五里蛮(ごりばん)と6つの亭(てい)の兵(六亭兵)を募(つの)って敵を撃破し、離散・降伏させる。
  • 五里蛮(ごりばん)と6つの亭(てい)の渠帥(きょすい)に功績に応じて金帛(きんぱく)を下賜(かし)する。
116年

■後漢(ごかん)・安帝(あんてい)の元初(げんしょ)3年

  • 秋、漊中蛮(ろうちゅうばん)と澧中蛮(れいちゅうばん)の4千人が盗賊となる。
  • 零陵蛮(れいりょうばん)の羊孫(ようそん)、陳湯(ちんとう)ら千人余りが赤い頭巾(赤幘(せきさく))を着けて将軍(しょうぐん)と称し、官庁を焼いて民に略奪を働く。
  • 州郡が後漢(ごかん)に従う蛮(ばん)(善蛮)を募(つの)り、これを討伐して平定する。
136年

■後漢(ごかん)・順帝(じゅんてい)の永和(えいわ)元年

  • 武陵太守(ぶりょうたいしゅ)の上書を採用して蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))の租税(そぜい)と賦役(ふえき)を増やす。
  • 冬、澧中蛮(れいちゅうばん)と漊中蛮(ろうちゅうばん)が種族を挙(あ)げて反乱を起こす。
137年

■後漢(ごかん)・順帝(じゅんてい)の永和(えいわ)2年

  • 春、さらに蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))2万人が充県(しょうけん)を包囲し、8千人が荊州(けいしゅう)・南郡(なんぐん)・夷道県(いどうけん)を攻撃する。
  • 武陵太守(ぶりょうたいしゅ)・李進(りしん)がこれを討伐して数百級を斬首し、残りの者はみな降伏する。
  • 李進(りしん)が善良な役人を選んで蛮(ばん)(武陵蛮(ぶりょうばん))の気持ちを和(やわ)らげる。
151年

■後漢(ごかん)・桓帝(かんてい)の元嘉(げんか)元年

  • 秋、武陵蛮(ぶりょうばん)の詹山(せんざん)ら4千人余りが反乱を起こし、県令(けんれい)を拘束(こうそく)して深山(しんざん)に集結する。
153年

■後漢(ごかん)・桓帝(かんてい)の永興(えいこう)元年

  • 武陵太守(ぶりょうたいしゅ)の応奉(おうほう)が恩信をもって招(まね)き誘い、詹山(せんざん)らを降伏させる。
157年

■後漢(ごかん)・桓帝(かんてい)の永寿(えいじゅ)3年

  • 11月、長沙蛮(ちょうさばん)が反乱を起こして荊州(けいしゅう)・長沙郡(ちょうさぐん)・益陽県(えきようけん)に駐屯する。
160年

■後漢(ごかん)・桓帝(かんてい)の延熹(えんき)3年

  • 秋、益陽県(えきようけん)の長沙蛮(ちょうさばん)が1万人を超え、略奪を働いて長吏(ちょうり)を殺傷する。
  • 零陵蛮(れいりょうばん)も長沙郡(ちょうさぐん)に侵入する。
  • 冬、武陵蛮(ぶりょうばん)・6千人余りが荊州(けいしゅう)・南郡(なんぐん)・江陵県(こうりょうけん)に侵攻し、荆州刺史(けいしゅうしし)の劉度(りゅうど)、謁者(えっしゃ)の馬睦(ばぼく)、南郡太守(なんぐんたいしゅ)の李粛(りしゅく)らはみな逃走する。
  • 右校令(ゆうこうれい)の度尚(どしょう)が荆州刺史(けいしゅうしし)に任命される。
  • 度尚(どしょう)が長沙郡(ちょうさぐん)の賊(ぞく)を平定する。
  • 車騎将軍(しゃきしょうぐん)の馮緄(ふうこん)が武陵蛮(ぶりょうばん)を討伐して降伏させる。
  • 賊(ぞく)が再び荊州(けいしゅう)・桂陽郡(けいようぐん)を攻撃し、桂陽太守(けいようたいしゅ)の廖析(りょうき)(瘳析(りょうき))が逃走する。
  • 武陵蛮(ぶりょうばん)が改めて武陵郡(ぶりょうぐん)を攻めるが、武陵太守(ぶりょうたいしゅ)の陳奉(ちんほう)がこれを撃ち破り、降伏させる。
186年

■後漢(ごかん)・霊帝(れいてい)の中平(ちゅうへい)3年

  • 武陵蛮(ぶりょうばん)が叛(そむ)き、武陵郡(ぶりょうぐん)の境界を荒らしたが、州郡がこれを撃破した。
脚注

*4京畿(けいき)を中心としてその周囲500里(約215km)ごとに分けた五つの地域(五服(ごふく))の1つ。京畿(けいき)に近い順に甸服(でんふく)・侯服(こうふく)・綏服(すいふく)・要服(ようふく)・荒服(こうふく)という。


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