後漢ごかん・三国時代の異民族の内、南蛮なんばんに分類される武陵蛮ぶりょうばん荊蛮けいばん五渓蛮ごけいばん澧中蛮れいちゅうばん零陽蛮れいようばん五里蛮ごりばん漊中蛮ろうちゅうばん零陵蛮れいりょうばん長沙蛮ちょうさばん)についてまとめています。

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武陵蛮(荊蛮・五渓蛮)

武陵蛮(荊蛮・五渓蛮)の領域

武陵蛮(荊蛮・五渓蛮)

武陵蛮ぶりょうばん荊蛮けいばん五渓蛮ごけいばん

武陵蛮(荊蛮・五渓蛮)の紀元

昔、高辛氏こうしんし帝嚳ていこく)の時代、犬戎けんじゅうに侵略されたことを憂慮ゆうりょした帝嚳ていこく犬戎けんじゅう征伐の軍を起こしましたが、勝つことができませんでした。

そこで帝嚳ていこくは、


犬戎けんじゅう呉将軍ごしょうぐんの首を得る者がおれば、黄金千いつゆう1万家を褒賞ほうしょうとし、また末の娘を妻として与えよう」


と約束して、天下に勇士をつのります。

ですが、帝嚳ていこくがこの命令を下した後になって、帝嚳ていこくの飼い犬である槃瓠ばんこ*1が人の頭をくわえて宮門にやって来ました。これをあやしんだ群臣が確認してみたところ、槃瓠ばんこ*1くわえているのはなんと、呉将軍ごしょうぐんの首でした。

帝嚳ていこくは大いに喜び、議論してその功績にむくいようとしましたが、犬である槃瓠ばんこ*1に娘をめとらせることもできず、封爵ほうしゃくを与えることもできないことから、功績にむくいる適当な方法が見つかりませんでした。


そのことを知った帝嚳ていこくの娘は「帝皇ていこうが命令をくだしたならば、信義にたがうことをしてはならない」と思い、そこで槃瓠ばんこ*1の元にとつぐことを求めました。

これを受け、帝嚳ていこくがやむを得ず槃瓠ばんこ*1に娘をめあわせると、槃瓠ばんこ*1は娘を背中に乗せて南山なんざん*2に入り、人間が足を踏み入れたことのないきわめて険阻けんそな場所の、石室の中に住み着きました。

その結果、娘は衣裳いしょうを脱ぎ去って髪は僕鑑ぼくかんもとどりをし、獨力どくりょくころもを着て生活するようになったので、帝嚳ていこくは娘を思い悲しみ、使者をつかわして探し求めさせましたが、空が暗くなるほどの暴風雨に遭遇そうぐうし、使者は進むことができませんでした。

それから3年が経つと、娘は6人の男子と6人の女子を生み、槃瓠ばんこ*1の死後、その子らはみずから進んでお互いに夫婦となりました。

子らは木の皮をつむぎ、草の実でめた5色の衣服を好み、衣服にはみな尾の形をしたものが取り付けられていました。


後に娘が帰郷して帝嚳ていこくに事情を話すと、帝嚳ていこくは彼女の子供たちを迎えさせました。

子供たちの衣裳いしょうまだらあやがあり(班蘭)、その言葉は意味が通じず*3、好んで山谷に入り広々とした平野を好まなかったので、帝嚳ていこくは彼らの希望に沿って名山と広いさわ下賜かししました。

その後、子供たちは次第にさかえ、自分たちのことを「蛮夷ばんい」と名乗りました。彼らは外見はおろかそうに見えても内面は狡猾こうかつであり、土地に安住して古い慣習を重んじていました。

き父(槃瓠ばんこ*1)に功績があり、母は帝嚳ていこくの娘であることから、彼らは農業や商売をしても関所や橋の通行手形や租税そぜいを免除されていました。

それぞれのむらには君長くんちょうがいてみな印綬いんじゅたまわり、かんむりの素材にはかわうその皮をもちいていました。

その渠帥きょすい精夫せいふと言い、お互いに「姎徒おうと」と呼び合っていました。彼らの子孫が、現在の荊州けいしゅう長沙郡ちょうさぐんの「武陵蛮ぶりょうばん」です。

脚注

*1帝嚳ていこくの飼い犬の名前。その体毛には5色の模様があり、その子孫が五渓蛮ごけいばんであると言う。

*2とう辰州しんしゅう蘆渓県ろけいけん後漢ごかん期の荊州けいしゅう武陵郡ぶりょうぐん沅陵県げんりょうけんの南西)の西に武山ぶざんがある。黄閔こうびん武陵記ぶりょうきに「山の高さはほぼ1万じん(約1,580m)、山の中腹に槃瓠ばんこ*1の石室があり、数万人を収容できる。中に石の寝台があり、これは槃瓠ばんこ*1足跡そくせきである。今考えて見るに、山の洞窟の前には石羊せきよう石獣せきじゅうがあり、奇異な古跡が非常に多い。石窟せきくつを望見してみると、大きさは3間の部屋のようであり、遠くにある1つの石を見ると犬の形に似ている。ばんの人々は『これが槃瓠ばんこ*1の像である』と伝えている」とある。

*3原文:語言侏離。侏離しゅりとは、異民族の言葉をいやしめていう言葉。また、音声が聞こえるだけで、その意味がまったく通じないこと。

槃瓠(ばんこ)

高辛氏こうしんし帝嚳ていこく)に老婦がおり、王室に居住していましたが、その老婦が耳の病気をわずらい、耳からまゆほどの大きさのものをき出しました。

婦人がそれをひさご瓢簞ひょうたん)の中に盛り、たらい(平らなはち)でおおうと、それはたちまち変化して5色の文様をもつ犬となりました。そこでその犬は、槃瓠ばんこ*1と名づけられました。


干宝かんぽう干寶かんぽう)の晋紀しんきに、

武陵郡ぶりょうぐん長沙郡ちょうさぐん廬江郡ろこうぐんは、槃瓠ばんこ*1後裔こうえいである。五渓ごけいの中に雑居している。槃瓠ばんこ*1は山の険阻けんそな場所に住み、いつも危害をなした。たちは魚肉をぜ合わせて供物くもつささげ、おけたたいて叫び、槃瓠ばんこ*1を祭った。俗称を『赤髀横裙せきひおうくん太股ふとももを丸出しにして短いスカートをく)』と言う」

とあります。

武陵蛮の定義

後漢書ごかんじょ南蛮なんばん西南夷列伝せいなんいれつでんの初めに、荊州けいしゅう南部のばんについての記述があります。

荊州けいしゅう南部のばんは、槃瓠ばんこ*1の子らが五渓ごけい(5つの渓谷けいこく)に封ぜられたのを初めとし、彼らは総称して「武陵蛮ぶりょうばん」「五渓蛮ごけいばん」「荊蛮けいばん」「蛮荊ばんけい」などと呼ばれますが、当サイトでは「武陵蛮ぶりょうばん」で統一します。

後漢書ごかんじょ南蛮なんばん西南夷列伝せいなんいれつでんには、

  • 澧中蛮れいちゅうばん
  • 零陽蛮れいようばん
  • 五里蛮ごりばん
  • 漊中蛮ろうちゅうばん
  • 零陵蛮れいりょうばん
  • 長沙蛮ちょうさばん
  • 武陵蛮ぶりょうばん

などの個々の名称が見られますが、これらは居住する場所によって名称が分かれているもので、みな槃瓠ばんこ*1後裔こうえいであり、同一の種族であると考えて良いでしょう。

脚注

*1帝嚳ていこくの飼い犬の名前。その体毛には5色の模様があり、その子孫が五渓蛮ごけいばんであると言う。


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武陵蛮(荊蛮・五渓蛮)の歴史

武陵蛮(荊蛮・五渓蛮)と中国の関係

唐尭とうぎょう虞舜ぐしゅん

ばん武陵蛮ぶりょうばん)は、唐尭とうぎょう虞舜ぐしゅんの時代に盟約を結び、要服ようふく*4となりましたが、しょうの時代になると次第に辺境を荒らすようになり、しゅうの治世になると、ばん武陵蛮ぶりょうばん)の勢力は益々さかんになります。

脚注

*4京畿けいきを中心としてその周囲500里(約215km)ごとに分けた五つの地域(五服ごふく)の1つ。京畿けいきに近い順に甸服でんふく侯服こうふく綏服すいふく要服ようふく荒服こうふくという。

しゅう宣王せんおう

宣王せんおうしゅう中興ちゅうこうすると、方叔ほうしゅくに命じて南の蛮族ばんぞく蛮方ばんぽう)を討伐させました(南伐蠻方)。詩人しじんが「蛮荊ばんけいおそれて降伏した(蠻荆來威)」とうのがこれにあたります。

また詩経しきょう小雅しょうが采芑篇さいきへん*5に「蠢動しゅんどうする荊蛮けいばんは大国をかたきとなした」とあり、ばん武陵蛮ぶりょうばん)はとても多く、中華の諸国(諸夏)に対抗したことは明らかです。

脚注

*5詩経しきょう小雅しょうが采芑篇さいきへんじょに「采芑さいきしゅう宣王せんおうが南征したことを歌った詩である」とある。

しゅう平王へいおう

しゅう平王へいおう洛邑らくゆう東遷とうせんすると、ばん武陵蛮ぶりょうばん)はついに中原ちゅうげん(上國)に侵略しました。これにしん文侯ぶんこうが輔政し、さい共侯きょうこうひきいてこれを撃破しました。

武王ぶおう

武王ぶおうの時に至って、ばん武陵蛮ぶりょうばん)は羅子らしと共に軍を破り、の将・屈瑕くつかを自害に追い込みました。

荘王そうおう恭王きょうおう共王きょうおう)期

荘王そうおうが即位した当初、民はえて兵は弱かったので、再びばん武陵蛮ぶりょうばん)の侵略を受けるようになりましたが、その後軍がを振るうようになると、ついにに服従し、鄢陵えんりょうの戦いでは恭王きょうおう共王きょうおう)と共にしんと戦いました。

悼王とうおう

呉起ごき悼王とうおうしょう宰相さいしょう)となると、南のばん武陵蛮ぶりょうばん)・越裳えつしょうを併合し、ついに洞庭湖どうていこ蒼梧そうごを領有しました。

しん昭王しょうおう

しん昭王しょうおう白起はくきを討伐させ、蛮夷ばんいの地を攻め取り、初めて黔中郡けんちゅうぐんを置き、かんおこると武陵郡ぶりょうぐんに改めました。

ばん武陵蛮ぶりょうばん)には毎年、大人たいじん(首長)には布1匹を、小口しょうこう(細民)には2じょうを納めさせ、これを賨布そうふと言います。

ばん武陵蛮ぶりょうばん)は、時には盗みを働くとは言え、郡国の憂患となるほどではありませんでした。

後漢ごかん光武帝こうぶてい

光武帝こうぶていかん中興ちゅうこうした当時、武陵郡ぶりょうぐん蛮夷ばんい武陵蛮ぶりょうばん)の勢力は特にさかんになっていました。

後漢ごかん光武帝こうぶてい建武けんぶ23年(47年)、精夫せいふ相単程しょうたんていらがその険隘けんあいけわしくせまいこと)な地形を頼って、大いに郡県に侵攻します。

光武帝こうぶてい武威将軍ぶいしょうぐん劉尚りゅうしょうを派遣して、荊州けいしゅう南郡なんぐん長沙郡ちょうさぐん武陵郡ぶりょうぐんの兵1万人余りを徴発ちょうはつし、船に乗って沅水げんすいさかのぼり、武渓ぶけい沅水げんすいの支流)に入って相単程しょうたんていらを攻撃させました。

この時、劉尚りゅうしょうは敵を軽んじてけわしい場所に入りましたが、山は深く水流が速いため、思うように川をさかのぼることができませんでした。

蛮氏ばんし武陵蛮ぶりょうばん)たちは、劉尚りゅうしょうが兵糧も少ないまま遠くまで侵入し、さらに道に詳しくないことを知り、要害に集結して守りを固めます。

兵糧が尽きた劉尚りゅうしょうが軍を引き返すと、ばん武陵蛮ぶりょうばん)は敵の退路を断って攻撃を仕掛けたので、劉尚りゅうしょう軍は大敗し、そのことごとくが戦死しました。


建武けんぶ24年(48年)、相単程しょうたんていらが荊州けいしゅう武陵郡ぶりょうぐん臨沅県りんげんけんに侵攻すると、光武帝こうぶてい謁者えっしゃ李嵩りすう中山太守ちゅうざんたいしゅ馬成ばせいを派遣してこれを攻撃させましたが、勝つことはできませんでした。

翌年[建武けんぶ25年(49年)]春、伏波将軍ふくはしょうぐん馬援ばえん中郎将ちゅうろうしょう劉匡りゅうきょう馬武ばぶ孫永そんえいらが臨沅県りんげんけんで敵を撃破すると、相単程しょうたんていらはえ苦しんで降伏を願い出ます。

たまたま馬援ばえんが病死していたので、謁者えっしゃ宗均そうきん宋均そうきん)は相単程しょうたんていらを許してことごとく降伏を受けれました。

これにより後漢ごかん吏司りしが置かれ、ついにばん武陵蛮ぶりょうばん)は平定されました。

後漢ごかん章帝しょうてい

後漢ごかん粛宗しゅくそう章帝しょうてい)の建初けんしょ元年(76年)、荊州けいしゅう武陵郡ぶりょうぐん澧中蛮れいちゅうばん陳従ちんじゅうらがそむいて零陽蛮れいようばんの領域に侵入しましたが、この年の冬、零陽蛮れいようばん五里蛮ごりばん精夫せいふは、郡(後漢ごかん)のためにこれを撃破し、陳従ちんじゅうらはみな降伏しました。


建初けんしょ3年(78年)冬、漊中蛮ろうちゅうばん覃児健たんじけん覃兒健たんじけん)らが再び反乱を起こし、荊州けいしゅう武陵郡ぶりょうぐん零陽県れいようけん作唐県さくとうけん孱陵県せんりょうけんの領域に侵入して火をかけました。

翌年[建初けんしょ4年(79年)]春、荊州けいしゅうの7郡と豫州よしゅう予州よしゅう)の汝南郡じょなんぐん潁川郡えいせんぐん弛刑徒しけいと(刑をゆるめられた罪人)と吏士りし・5千人余りを徴発ちょうはつして零陽県れいようけんを守備させ、充県しょうけん五里蛮ごりばん精夫せいふで反乱に加わらなかった者・4千人をつのって、澧中蛮れいちゅうばんぞくを攻撃させました。

建初けんしょ5年(80年)春、覃児健たんじけん覃兒健たんじけん)らが降伏を申し出てきたもののこれを許さず、郡は兵を進めて宏下こうかで戦い、これを大いに破って覃児健たんじけん覃兒健たんじけん)の首を斬りました。

敗残兵たちは陣営をてて漊中ろうちゅうに逃げ帰り、再び使者を派遣して降伏を願い出て来たので、郡はこれを受諾し、武陵郡ぶりょうぐんの屯兵を解散して、功績に応じて褒賞を下賜かししました。

後漢ごかん和帝わてい

後漢ごかん和帝わてい永元えいげん4年(92年)冬、漊中蛮ろうちゅうばん澧中蛮れいちゅうばん潭戎たんじゅうらが反乱を起こし、郵亭ゆうていを焼き払って吏民を殺害し略奪を行いましたが、郡兵が撃破してこれを降伏させました。

後漢ごかん安帝あんてい

後漢ごかん安帝あんてい元初げんしょ2年(115年)、澧中蛮れいちゅうばんは郡県の課した徭税ようぜい労役ろうえき)が公平さを欠いていることに怨恨えんこんいだき、充県しょうけんもろもろばん武陵蛮ぶりょうばん)2千人余りと結託して城を攻め、長吏ちょうりを殺害しました。

これに郡県は五里蛮ごりばんと6つのていの兵(六亭兵)をつのって追撃すると、敵を撃破して離散・降伏させ、五里蛮ごりばんと6つのてい渠帥きょすいに功績に応じて金帛きんぱく下賜かししました。


翌年[元初げんしょ3年(116年)]秋、漊中蛮ろうちゅうばん澧中蛮れいちゅうばんの4千人が盗賊となり、零陵蛮れいりょうばん羊孫ようそん陳湯ちんとうら千人余りが赤い頭巾(赤幘せきさく)を着けて将軍しょうぐんと称し、官庁を焼いて民に略奪を働いたので、州郡は後漢ごかんに従うばん(善蛮)をつのり、これを討伐して平定しました。

後漢ごかん順帝じゅんてい

後漢ごかん順帝じゅんてい永和えいわ元年(136年)、武陵太守ぶりょうたいしゅが、


蛮夷ばんいが服従したので、漢人かんじんと同じように租税そぜい賦役ふえきを増やすべきです」


と上書しました。

この上書について議論した者たちがみな賛成する中、尚書令しょうしょれい虞詡ぐくだけはこれに反対しましたが、順帝じゅんてい虞詡ぐくの言葉に従いませんでした。

虞詡の上奏・全文
タップ(クリック)すると開きます。

いにしえより聖王は異俗いぞくの者たちを臣下にしませんでしたが、それは徳を及ぼせずを加えられないからではありません。蛮夷ばんいけものの如き性根しょうねは欲張りでむさぼってばかりであり、礼によって服従させることが難しいことを知っていたからです。

だからこそつなぎとめて蛮夷ばんいやすんじいたわり、なついてくれば受けれて逆らわず、反乱を起こせば打ちてて追いませんでした。

先帝が旧典に定めた貢税こうぜい(物品で納める税)の額には、れっきとした根拠があります。

今、みだりに貢税こうぜい(物品で納める税)を増やせば、きっとうらんで反乱を起こすでしょう。増税による所得でその損失をおぎなうことはできません。必ずや後悔することになります。


この年の冬、澧中蛮れいちゅうばん漊中蛮ろうちゅうばんが「布をおさめることは旧来の約束にない」として争い、ついに郷吏きょうりを殺害して種族をげて反乱を起こしました。

翌年[永和えいわ2年(137年)]春、さらにばん武陵蛮ぶりょうばん)2万人が充県しょうけんを包囲し、8千人が荊州けいしゅう南郡なんぐん夷道県いどうけんを攻撃しましたが、武陵太守ぶりょうたいしゅ李進りしんを派遣してばん武陵蛮ぶりょうばん)を討伐させ、数百級を斬首すると、残りの者はみな降伏しました。

李進りしんは善良な役人を選んでばん武陵蛮ぶりょうばん)の気持ちをやわらげます。

李進りしんが郡に在任すること9年、梁太后りょうたいこうが臨朝すると、みことのりを下して李進りしん秩禄ちつろく二千石にせんせきを加増し、銭20万を下賜かししました。

後漢ごかん桓帝かんてい

後漢ごかん桓帝かんてい元嘉げんか元年(151年)秋、武陵蛮ぶりょうばん詹山せんざんら4千人余りが反乱を起こし、県令けんれい拘束こうそくして深山しんざんに集結しましたが、永興えいこう元年(153年)に至り、武陵太守ぶりょうたいしゅ応奉おうほうが恩信をもってまねき誘うと、ことごとく降伏して解散しました。

永寿えいじゅ3年(157年)11月、長沙蛮ちょうさばんが反乱を起こして荊州けいしゅう長沙郡ちょうさぐん益陽県えきようけんに駐屯しました。

延熹えんき3年(160年)秋に至るとその数は1万人を超え、郡の境界を越えて略奪を働いて長吏ちょうりを殺傷し、零陵蛮れいりょうばん長沙郡ちょうさぐんに入ります。

冬に至ると、武陵蛮ぶりょうばん・6千人余りが荊州けいしゅう南郡なんぐん江陵県こうりょうけんに侵攻し、荆州刺史けいしゅうしし劉度りゅうど謁者えっしゃ馬睦ばぼく南郡太守なんぐんたいしゅ李粛りしゅくらはみな逃走しました。

この時、李粛りしゅく主簿しゅぼ胡爽こそうが馬の首をつかんで、


蛮夷ばんいは郡に警備がいないのを見て、その間隙かんげきに乗じて侵攻したのです。明府あなたは国の大臣であり、統治する城は千里(約430km)につらなり、旗旄きぼうげ太鼓を打ち鳴らせば、その声に応じる者は10万人はいるでしょう。なぜその重責を放棄して、逃亡者となられるのですかっ!」


いさめると、李粛りしゅくやいばを抜いて胡爽こそうに向け、


「小役人(えん)よ、ただちに去れっ!太守わたしは今、急いでいるのだ。考えている暇などない」


と言いましたが、それでも胡爽こそうは馬にきついて固くいさめたので、李粛りしゅくはとうとう胡爽こそうを殺して逃走しました。

このことを聞いた桓帝かんていは、李粛りしゅくし出して棄市きしさらし首)とし、劉度りゅうど馬睦ばぼくは死一等を減じ、胡爽こそうの村里(門閭もんりょ)の租税そぜいを免除して、家族の1人をろうとしました。


その後、右校令ゆうこうれい度尚どしょう荆州刺史けいしゅうししに任命して長沙郡ちょうさぐんぞくを平定させ、武陵蛮ぶりょうばんには車騎将軍しゃきしょうぐん馮緄ふうこんを派遣して討伐させると、みな降伏し離散しました。

軍が帰還すると、ぞくが再び荊州けいしゅう桂陽郡けいようぐんを攻撃し、桂陽太守けいようたいしゅ廖析りょうき瘳析りょうき)は逃走しました。

すると武陵蛮ぶりょうばんもまた改めて武陵郡ぶりょうぐんを攻めましたが、武陵太守ぶりょうたいしゅ陳奉ちんほうが吏人をひきいて撃ち破り、斬首した者は3千級余り、2千人余りを降伏させました。

後漢ごかん霊帝れいてい

後漢ごかん霊帝れいてい中平ちゅうへい3年(186年)に至ると、武陵蛮ぶりょうばんがまたそむき、武陵郡ぶりょうぐんの境界を荒らしましたが、州郡がこれを撃破しました。

高句麗と中国の関係年表

西暦 出来事
先史

唐尭とうぎょう虞舜ぐしゅん時代

  • 唐尭とうぎょう虞舜ぐしゅんの時代に盟約を結び、要服ようふく*4となる。
前2070年

前1046年

しょう時代

  • ばん武陵蛮ぶりょうばん)が次第に辺境を荒らすようになる。
前1047年

前829年

しゅう厲王れいおうまでの時代

  • ばん武陵蛮ぶりょうばん)の勢力が益々さかんになる。
前827年

しゅう宣王せんおう宣王せんおう元年

  • 方叔ほうしゅくの討伐を受けて降伏する。
前770年

しゅう平王へいおう平王へいおう元年

  • ばん武陵蛮ぶりょうばん)が中原ちゅうげんに侵略するが、しん文侯ぶんこうに撃破される。
前699年

武王ぶおう武王ぶおう42年春

  • ばん武陵蛮ぶりょうばん)が羅子らしと共に軍を破り、の将・屈瑕くつかを自害に追い込む。
前613年

荘王そうおう荘王そうおう元年

  • ばん武陵蛮ぶりょうばん)がに侵略する。
前575年

共王きょうおう共王きょうおう16年

  • 鄢陵えんりょうの戦いで恭王きょうおう共王きょうおう)と共にしんと戦う。
前402年

前381年

悼王とうおう

  • 呉起ごき悼王とうおうしょう宰相さいしょう)となると、南のばん武陵蛮ぶりょうばん)・越裳えつしょうを併合し、ついに洞庭湖どうていこ蒼梧そうごを領有した。
前307

前251

しん昭王しょうおう

  • しん昭王しょうおう白起はくきを討伐させ、蛮夷ばんいの地を攻め取って黔中郡けんちゅうぐんを置いた。
  • ばん武陵蛮ぶりょうばん)に対して毎年、賨布そうふが課された。
25年

後漢ごかん光武帝こうぶてい建武けんぶ元年

  • 武陵郡ぶりょうぐん蛮夷ばんい武陵蛮ぶりょうばん)の勢力が特にさかんとなる。
47年

後漢ごかん光武帝こうぶてい建武けんぶ23年

  • 精夫せいふ相単程しょうたんていらが大いに郡県に侵攻する。
  • 光武帝こうぶていが討伐に派遣した劉尚りゅうしょうが大敗し、そのことごとくが戦死する。
48年

後漢ごかん光武帝こうぶてい建武けんぶ24年

  • 相単程しょうたんていらが荊州けいしゅう武陵郡ぶりょうぐん臨沅県りんげんけんに侵攻する。
  • 光武帝こうぶてい謁者えっしゃ李嵩りすう中山太守ちゅうざんたいしゅ馬成ばせいに討伐を命じるが、勝てなかった。
49年

後漢ごかん光武帝こうぶてい建武けんぶ25年

  • 伏波将軍ふくはしょうぐん馬援ばえん中郎将ちゅうろうしょう劉匡りゅうきょう馬武ばぶ孫永そんえいらが臨沅県りんげんけんで敵を撃破する。
  • 相単程しょうたんていらがえ苦しんで降伏を願い出る。
  • 謁者えっしゃ宗均そうきん宋均そうきん)が相単程しょうたんていらを許してことごとく降伏を受けれる。
  • 後漢ごかん吏司りしが置かれ、ばん武陵蛮ぶりょうばん)が平定される。
76年

後漢ごかん章帝しょうてい建初けんしょ元年

  • 荊州けいしゅう武陵郡ぶりょうぐん澧中蛮れいちゅうばん陳従ちんじゅうらがそむいて零陽蛮れいようばんの領域に侵入する。
  • 冬、零陽蛮れいようばん五里蛮ごりばん精夫せいふが、郡(後漢ごかん)のためにこれを撃破し、陳従ちんじゅうらはみな降伏する。
78年

後漢ごかん章帝しょうてい建初けんしょ3年

  • 冬、漊中蛮ろうちゅうばん覃児健たんじけん覃兒健たんじけん)らが再び反乱を起こし、荊州けいしゅう武陵郡ぶりょうぐん零陽県れいようけん作唐県さくとうけん孱陵県せんりょうけんの領域に侵入して火をかける。
79年

後漢ごかん章帝しょうてい建初けんしょ4年

  • 春、荊州けいしゅうの7郡と豫州よしゅう予州よしゅう)の汝南郡じょなんぐん潁川郡えいせんぐん弛刑徒しけいと(刑をゆるめられた罪人)と吏士りし・5千人余りを徴発ちょうはつして零陽県れいようけんを守備させ、充県しょうけん五里蛮ごりばん精夫せいふで反乱に加わらなかった者・4千人をつのって、澧中蛮れいちゅうばんぞくを攻撃させる。
80年

後漢ごかん章帝しょうてい建初けんしょ5年

  • 春、覃児健たんじけん覃兒健たんじけん)らが降伏を申し出たが、許さなかった。
  • 郡は兵を進めて宏下こうかで戦い、大いに破って覃児健たんじけん覃兒健たんじけん)の首を斬る。
  • 敗残兵たちが陣営をてて漊中ろうちゅうに逃げ帰り、再び降伏を願い出る。
  • 郡はこれを受諾し、武陵郡ぶりょうぐんの屯兵を解散して、功績に応じて褒賞を下賜かしする。
92年

後漢ごかん和帝わてい永元えいげん4年

  • 冬、漊中蛮ろうちゅうばん澧中蛮れいちゅうばん潭戎たんじゅうらが反乱を起こし、郵亭ゆうていを焼き払って吏民を殺害し略奪を行う。
  • 郡兵がこれを撃破して降伏させる。
115年

後漢ごかん安帝あんてい元初げんしょ2年

  • 澧中蛮れいちゅうばんが郡県の課した徭税ようぜい労役ろうえき)に怨恨えんこんいだき、充県しょうけんもろもろばん武陵蛮ぶりょうばん)2千人余りと結託して城を攻め、長吏ちょうりを殺害する。
  • 郡県が五里蛮ごりばんと6つのていの兵(六亭兵)をつのって敵を撃破し、離散・降伏させる。
  • 五里蛮ごりばんと6つのてい渠帥きょすいに功績に応じて金帛きんぱく下賜かしする。
116年

後漢ごかん安帝あんてい元初げんしょ3年

  • 秋、漊中蛮ろうちゅうばん澧中蛮れいちゅうばんの4千人が盗賊となる。
  • 零陵蛮れいりょうばん羊孫ようそん陳湯ちんとうら千人余りが赤い頭巾(赤幘せきさく)を着けて将軍しょうぐんと称し、官庁を焼いて民に略奪を働く。
  • 州郡が後漢ごかんに従うばん(善蛮)をつのり、これを討伐して平定する。
136年

後漢ごかん順帝じゅんてい永和えいわ元年

  • 武陵太守ぶりょうたいしゅの上書を採用してばん武陵蛮ぶりょうばん)の租税そぜい賦役ふえきを増やす。
  • 冬、澧中蛮れいちゅうばん漊中蛮ろうちゅうばんが種族をげて反乱を起こす。
137年

後漢ごかん順帝じゅんてい永和えいわ2年

  • 春、さらにばん武陵蛮ぶりょうばん)2万人が充県しょうけんを包囲し、8千人が荊州けいしゅう南郡なんぐん夷道県いどうけんを攻撃する。
  • 武陵太守ぶりょうたいしゅ李進りしんがこれを討伐して数百級を斬首し、残りの者はみな降伏する。
  • 李進りしんが善良な役人を選んでばん武陵蛮ぶりょうばん)の気持ちをやわらげる。
151年

後漢ごかん桓帝かんてい元嘉げんか元年

  • 秋、武陵蛮ぶりょうばん詹山せんざんら4千人余りが反乱を起こし、県令けんれい拘束こうそくして深山しんざんに集結する。
153年

後漢ごかん桓帝かんてい永興えいこう元年

  • 武陵太守ぶりょうたいしゅ応奉おうほうが恩信をもってまねき誘い、詹山せんざんらを降伏させる。
157年

後漢ごかん桓帝かんてい永寿えいじゅ3年

  • 11月、長沙蛮ちょうさばんが反乱を起こして荊州けいしゅう長沙郡ちょうさぐん益陽県えきようけんに駐屯する。
160年

後漢ごかん桓帝かんてい延熹えんき3年

  • 秋、益陽県えきようけん長沙蛮ちょうさばんが1万人を超え、略奪を働いて長吏ちょうりを殺傷する。
  • 零陵蛮れいりょうばん長沙郡ちょうさぐんに侵入する。
  • 冬、武陵蛮ぶりょうばん・6千人余りが荊州けいしゅう南郡なんぐん江陵県こうりょうけんに侵攻し、荆州刺史けいしゅうしし劉度りゅうど謁者えっしゃ馬睦ばぼく南郡太守なんぐんたいしゅ李粛りしゅくらはみな逃走する。
  • 右校令ゆうこうれい度尚どしょう荆州刺史けいしゅうししに任命される。
  • 度尚どしょう長沙郡ちょうさぐんぞくを平定する。
  • 車騎将軍しゃきしょうぐん馮緄ふうこん武陵蛮ぶりょうばんを討伐して降伏させる。
  • ぞくが再び荊州けいしゅう桂陽郡けいようぐんを攻撃し、桂陽太守けいようたいしゅ廖析りょうき瘳析りょうき)が逃走する。
  • 武陵蛮ぶりょうばんが改めて武陵郡ぶりょうぐんを攻めるが、武陵太守ぶりょうたいしゅ陳奉ちんほうがこれを撃ち破り、降伏させる。
186年

後漢ごかん霊帝れいてい中平ちゅうへい3年

  • 武陵蛮ぶりょうばんそむき、武陵郡ぶりょうぐんの境界を荒らしたが、州郡がこれを撃破した。
脚注

*4京畿けいきを中心としてその周囲500里(約215km)ごとに分けた五つの地域(五服ごふく)の1つ。京畿けいきに近い順に甸服でんふく侯服こうふく綏服すいふく要服ようふく荒服こうふくという。


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