後漢〜三国時代においてそれぞれ軍事の最高職とされる大司馬・太尉・大将軍。ですが、この3つの官職にはどのような違いがあるのでしょうか。
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目次
大司馬・太尉・大将軍の起源
大司馬
大司馬の起源は西周(紀元前1046年頃〜紀元前256年)まで遡り、軍政全般を取り仕切る官職として設置されていました。
- 大司馬:○
- 太尉:×
- 大将軍:×
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太尉
秦(紀元前778年〜紀元前206年)の時代になると、大司馬は太尉と名前を変えます。
太尉は前漢(紀元前206年〜8年)にも引き継がれましたが、建元2年(紀元前139年)に第7代皇帝・武帝によって廃止されました。
- 大司馬:×
- 太尉:○
- 大将軍:×
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大将軍
大将軍は、前漢のはじめに全軍の総指令官として任命されます。
また、廃止される前の太尉・大将軍も、非常置の官職で同時に任命された例はなく、どちらも自ら軍を率いて出征する将軍の最高位という存在でした。
- 大司馬:×
- 太尉:×
- 大将軍:○
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つまり、前漢初期までの大司馬・太尉・大将軍は、名称を変えながらそれぞれ単独で軍事のトップを担っていたことが分かります。
その後、大司馬・太尉・大将軍は設置と廃止をくり返し、その度に地位や役割も変化していきました。
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後漢の大司馬・太尉・大将軍
大司馬から太尉へ
光武帝が後漢を興すと、まず大将軍の呉漢を大司馬に、景丹を驃騎大将軍に任命しました。
この時点での大司馬は大将軍の上位互換と言える存在ですが、その後将軍と軍の解体が進み、大司馬が軍を率いることはなくなりました。
そして建武27年(51年)、光武帝は大司馬・大司徒・大司空から「大」の字を除くことにしましたが、すでに司馬という官職があったことから大司馬を太尉とし、太尉・司徒・司空の3職が常置されて三公となります。
官職 | 職責 |
---|---|
大司馬 | 廃止。太尉に名称変更。 |
太尉 | 三公の1つ。出征せず。 |
大将軍 | – |
大将軍
大将軍はもともと謀反(反乱)を征伐する将軍職の最上位に位置し、反乱が鎮圧されると任を解かれる非常置の官職でした。
外戚と大将軍
後漢・和帝の時代になると、外戚の影響力が増大して国政を取り仕切るようになります。
そして、和帝の時代には匈奴征伐で功績があった外戚・竇憲が、安帝の時代には西羌征伐で功績があった外戚・鄧騭が大将軍に任命され、大将軍は三公の上位に位置する上公となりました。
その後、外戚・耿宝が大将軍として洛陽に常駐するようになると、大将軍は権力を握った外戚が任命され、首都を防衛し、国政を取り仕切る宰相へと変化していきます。
そして、順帝、沖帝、質帝、桓帝と4代に渡って専横を極めた大将軍・梁冀が失脚すると、梁冀の排斥に協力した宦官たちが大将軍に変わって権力を握るようになりました。
宦官の台頭
霊帝が即位すると、宦官との争いに敗れた大将軍・竇武は自害に追い込まれ、しばらく大将軍は任命されなくなります。
そして光和7年(184年)、黄巾の乱の勃発に際して何皇后の兄・何進が大将軍に任命され、宦官を信任する霊帝の親政の下で、洛陽の防衛と各地の反乱鎮圧を統帥する総司令官的存在となりました。
この時の何進は、幼い天子を傀儡としていた時期ほどではないにせよ、霊帝に後継者の選定に気を遣わせるほどの影響力を持っています。
中平6年(189年)に霊帝が崩御すると、(異母妹・何皇后の子)少帝を即位させた何進は、太傅・袁隗と共に録尚書事を加えられて国政を取り仕切る大きな権限を得ますが、宦官の誅殺に失敗して逆に殺害されてしまいました。
官職 | 職責 |
---|---|
大司馬 | – |
太尉 | 三公の1つ。出征せず。 |
大将軍 | 外戚が就任。宰相。首都防衛。 |
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大司馬・太尉・大将軍の関係
献帝期
劉虞が大司馬に任命される
永漢元年(189年)9月、献帝を擁立した董卓は、光武帝以降廃止されていた大司馬を復活させ、太尉と幽州牧を兼ねていた劉虞を大司馬に任命して自ら太尉に就任しました。
ここに、光武帝以降「太尉 = 元の大司馬」であったものが、後漢において初めて2つの独立した官職に別れました。
これは、相国に就くためのステップとして太尉になりたかった董卓の思惑によるもので、結局、同年11月に相国に就任した董卓がすべての軍権を掌握することになります。
この時なぜ董卓が(何進が殺害されて以降空位となっていた)大将軍ではなく、わざわざ大司馬を復活させたのかは分かりません。
おそらく皇族である劉虞への配慮か、大将軍の職責が前述の耿宝以降、洛陽の防衛に主眼が置かれていたため、大将軍には国内の反乱、幽州牧を兼任する劉虞には大司馬として国外(異民族)の反乱に備える意味があったのかもしれません。
有名無実化した大司馬・大将軍
その後、興平2年(195年)5月に李傕が大司馬を自称。建安元年(196年)8月には献帝が洛陽入りを助けた張楊を大司馬に、韓暹を大将軍に(同時に楊奉を車騎将軍に)任命します。
ですが、この時すでに後漢王朝は各地に群雄が割拠する状態となっており、大司馬・大将軍共に実体を伴わない名目だけの官職となっていました。
袁紹が腹を立てる
建安元年(196年)9月、曹操によって豫州・潁川郡・許県に迎えられた献帝が、曹操を大将軍に任命します。
すると「席次が曹操の下位になること」を恥じた袁紹が立腹していたため、曹操は大将軍の位を袁紹に譲りました。
このことから、後漢が衰退して官位や将軍職に実質的な権力が失われていても、その序列による権威は失われていなかったことが分かります。
逆に、実利を重んじる曹操にとっては大将軍など大した価値もなく、大将軍の位を譲ることで袁紹が満足するのならそれで良いと考えていたと言えるでしょう。
大司馬・太尉・大将軍の違い
このように前漢から後漢にかけて、大司馬・太尉・大将軍が同時に存在したのは、献帝の時代の、196年〜198年の約2年間だけということが分かりました。
では、それぞれ軍事の最高職とされる大司馬・太尉・大将軍には、どのような違いがあるのでしょうか。
太尉
太尉は各方面軍の評価や賞罰を行い、司徒・司空との協議によって国政を運営する、いわゆる文官です。
大司馬・大将軍
大司馬と大将軍は、ともに軍の最高司令官である武官で、大司馬と大将軍が同時に置かれる時には常に大将軍の上位に置かれていました。
ですが、大司馬と大将軍が同時に置かれた献帝期の約2年間は、戦乱によって国家機能が麻痺していた時期であり、大司馬と大将軍に明確な職責の違いはなく、実体を伴わない名目だけの官職となっていたと言えるでしょう。
大司馬・太尉・大将軍の関係は、
- 太尉 = 防衛大臣(閣僚)
- 大司馬 = 元帥(軍人)
- 大将軍 = 大将(軍人)
と現在の役職に例えると理解しやすいかもしれません。