後漢ではその多くが廃止されていましたが、番外編として太師・太傅・太保(三師)と、少師・少傅・少保(三少)についてまとめています。
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目次
太師・太傅・太保の職責
太師・太傅・太保の3職は、天子を善導することを職務とする、いわゆる天子の教育係です。
この3職を三師と言い、この3職の中での序列は、太師・太傅・太保の順で太師が最上位となります。また、周代にはこの3職が三公とされていました。
この三師の職責について、『続漢書』百官志の劉昭注には、次のようにあります。
太師(たいし)
天子に道の教訓を教える。
天子が古の聖人の懿徳(立派な行い)に無関心で、君主と民のあるべき姿について無知で、礼儀作法に無頓着で、『詩経』や『尚書』を尊重せず、学業に身が入らないのは太師の責任である。
太傅(たいふ)
天子に道徳上の本分を教える。
天子が庶民に恩愛を施さず、大臣たちを礼遇せず、裁判に臨まず、官僚たちをまとめず、葬儀に哀悼の意を表さず、祭祀に敬虔な態度を示さず、物忌み(服喪など)に自己を律せず、諸事に不信を示すのは太傅の責任である。
太保(たいほ)
天子に身体の保ち方を教える。
天子が玉座に端座せず、学業を受けるに慎まず、物事を論理的に語れず、声音が適切でなく、公的な場所での身の処し方に秩序がなく、仕草に節度がないのは太保の責任である。
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少師・少傅・少保の職責
少師・少傅・少保の3職を三少と言い、天子ではなく太子(皇太子)に仕える官職です。
この三少の職責について、おなじく『続漢書』百官志の劉昭注には、次のようにあります。
少師(しょうし)
天子が学業の目的から逸脱し、近習たちが師を欺いて諸侯に応接し、大臣に対して品の良い雅やかな言葉遣いや道理にかなった表現を知らず、人の意見に耳を貸さず、言葉が足りず、見識が乏しくその見識を広げようとしないのは少師の責任である。
少傅(しょうふ)
天子がその振る舞いに秩序がなく、衣服・冠・帯が華美に過ぎ、身の回りの品々が奢侈に過ぎ、衣服の好みが極端で身分にそぐわず、感情表現が公正さに欠け、人に物などを与えたり取り上げる行為に節度がないのは少傅の責任である。
少保(しょうほ)
天子が私生活を楽しむことに夢中になり、怠惰で享楽に溺れ、決まった時間に食事を摂らずに暴飲暴食し、決まった時間に起床・就寝をせず、趣味の品々を極端に偏重するのは少保の責任である。
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後漢における三師と三少
後漢における三師
漢においては、前漢の高祖(劉邦)の時代に一時的に太傅が置かれましたが、しばらくして廃止されました。
その後、前漢末期に儒教を重視するようになると、太傅に加えて太師・太保が置かれ、いわゆる三師が揃います。
後漢では太師・太保は廃止され、新しい天子が即位すると、三公の上位に位置する上公として太傅が任命されました。
また、多くの場合太傅は録尚書事を兼ね、天子の教育と共に国政全般を取り仕切るようになりました。
後漢における三少
後漢では少師・少傅・少保は廃止され、皇太子専属の官職として太子太傅と太子少傅が置かれるようになりました。
後漢では太傅を除いて廃止されていた三師ですが、洛陽に入って権力を握った董卓が例外的に太師に就きました。
ですがこの時太保は置かれていなかったため、これは三師の復活を意味するものではなく、董卓が当時最高位であった太傅のさらに上位に登ったとアピールするためのものだったと言えるでしょう。
また、後に陶謙たちが朱儁を太師に推戴したことからも、廃止されていたとは言え太師が当時の人々の意識の中で意味のある官職(地位)として考えられていたことが窺えます。