後漢時代に諸侯王に封建された王国の属官・属吏と、殷王と周王の後裔が封建された宋衛国についてまとめています。
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王国(おうこく)
王国とは
王国とは、王(諸侯王)に封ぜられた皇子(皇族)に与えられた郡のことで、後漢では劉姓を持つ皇族のみが諸侯王に封ぜられました。
ちなみに、列侯に封ぜられた者に与えられた県のことを侯国と言います。
王国の変遷
前漢初期
諸侯王に与えられた封土は広大で、王国には太傅、丞相、御史大夫、ならびに様々な卿が置かれました。
王国に置かれた百官は朝廷と同様であり、天子(皇帝)はただ丞相を任命するだけで、その他の諸官は諸侯王が任命します。
つまり諸侯王は、文字通り漢の領内に独立した小さな国を与えられたに等しいものでした。
前漢景帝期
前漢第6代皇帝・景帝の時代になると、各地の王国が強大化して、朝廷の命令に従わない王国が現れます。
これを憂慮した景帝が、口実をつけて諸侯王の領地を削減する方向に舵を切ると、これを不満とする各地の諸侯王たちが反乱を起こしました。呉楚七国の乱です。
呉楚七国の乱が平定されると、景帝は諸侯王から王国の諸官の任命権を剥奪し、諸侯王が直接民を統治できないようにしました。
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王国の官吏
以下は『続漢書』百官志を基に作成しています。【】内は【定員・官秩・品秩】で、[]内はそれぞれの王朝での情報になります。
以下、赤字の官職名は宦官の専任です。
諸侯王
諸侯王
【1名・-・-】
[後漢=○・魏=?・蜀=?・呉=?]
王(諸侯王)に封ぜられた皇子(皇族)には、与えられた王国に対する支配権はありません。
諸侯王は、封建されると封地に社稷を立て、宮殿を建造します。
また、諸侯王の嫡妻(正室・正妻)を妃と言い、側妾(側室)の上限は40人とされていました。
朝廷から派遣された以下の官吏が王国を統治し、諸侯王は王国の民から徴収される租税を受け取ります。
王国に派遣された官吏
傅
【1名・二千石・-】
[後漢=○・魏=?・蜀=?・呉=?]
諸侯王を正しい方向に教え導きます。
諸侯王は傅を臣下として扱わず、師匠に対するように礼遇しました。
相(王国相)
【1名・二千石・-】
[後漢=○・魏=?・蜀=?・呉=?]
元の王国の丞相。
職務は郡の太守と同じで、諸侯王の代わりに王国を統治します。
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属官
長史
【1名・六百石・-】
[後漢=○・魏=?・蜀=?・呉=?]
相(王国相)の次官。
郎中令
【1名・千石・-】
[後漢=○・魏=?・蜀=?・呉=?]
朝廷の光禄勲に当たり、諸侯王の大夫・郎中を統率して宮殿の門に宿衛します。
また王国の少府が廃止された際に、その職務はすべて郎中令に統合されました。
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治書
【1名・比六百石・-】
[後漢=○・魏=?・蜀=?・呉=?]
元の王国の尚書。
文書や詔、様々な事柄に関する命令を官吏と民衆に伝達します。
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大夫
【定員なし・比六百石・-】
[後漢=○・魏=?・蜀=?・呉=?]
諸侯王の使者を務めます。
天子(皇帝)に璧を奉献して正月を祝賀し、他の王国に使者として出向きます。
謁者
【16名*・比四百石・-】
[後漢=○・魏=?・蜀=?・呉=?]
祭祀を執り行う際に、諸侯王に長冠をつけます。
元の定員は16名でしたが、後に減らされました。
礼楽長
【16名・比四百石・-】
[後漢=○・魏=?・蜀=?・呉=?]
楽人(楽器の演奏者)を統率します。
衛士長
【1名?・比四百石・-】
[後漢=○・魏=?・蜀=?・呉=?]
衛士(護衛の兵)を統率します。
醫工長(医工長)
【1名?・比四百石・-】
[後漢=○・魏=?・蜀=?・呉=?]
医者と薬を取り仕切ります。
永巷長
【1名?・比四百石・-】
[後漢=○・魏=?・蜀=?・呉=?]
宦官の専任。
宮城内で職務に従事する婢使(女性の召使い)を統率します。
祠祀長
【1名?・比四百石・-】
[後漢=○・魏=?・蜀=?・呉=?]
祭祀を取り仕切ります。
郎中
【定員なし・二百石・-】
[後漢=○・魏=?・蜀=?・呉=?]
孝廉で推挙された将来の官僚候補生。
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公国(宋衛国)
公国とは
漢王朝では、古の殷王室・周王室を漢室と合わせて「三統」とし、殷王と周王の後裔を封建して各々の祭祀を守らせました。
彼らが封ぜられた県のことを公国と言います。公国は、後漢の領内に宋国と衛国の2つしかありません。
衛公(えいこう)
建武2年(26年)、世祖(光武帝)は周の後裔にあたる姫常を周承休公に封建し、建武13年(37年)、姫常の爵位を改めて衛公としました。
衛公の封地は、兗州・東郡・衛国(衛公国)になります。
『漢書』外戚恩澤侯表には「建武5年(29年)に姫常の子・姫武が周承休公を継承し、建武13年(37年)に衛公に封建された」とあります。
宋公(そうこう)
建武5年(29年)、世祖(光武帝)は殷の後裔にあたる孔安を殷紹嘉公に封建し、建武13年(37年)、孔安の爵位を改めて宋公としました。
宋公の封地は、豫州・汝南郡・宋国(宋公国)になります。
宋公と衛公の席次は三公の上位とされ、『五経通義』には「殷王と周王の後裔は勤務評定を受けず、罪を犯して誅殺されることはあっても、血筋を断絶されることはない」とあります。
周王室の後裔については前漢・武帝期に確定されましたが、殷王室の後裔については確定することができなかったため、前漢・成帝期に孔子の子孫を後裔とみなして封建しました。